動き始めた空 9

 愛する人に抱きしめられて、あたたかさを知った。
 走らずとも、戦わずとも、間違いなくそこにあって何もかもを許容するもの。
 人がしばしば口にする愛の言葉の意味を彼女は知り、その重さを知った。
 危険ととなり合わせの生活を捨て、安全な生活を築いていくこと。それはかつて考えてみたこともないほど彼女から遠いものだった。しかし、今は違う。彼が彼女に与えた平穏は想像もしなかったほどの幸せだった。
 だがそれは同時に、あまりにも脆かった。

 その重さ半分背負ってやるから、と彼は言った。
 何を当たり前のことを、と彼女は怒鳴り飛ばした。
 お前さんと一緒にいるのに理由は要らないだろ、と彼は言った。
 そうだね、と彼女は答えた。
 共に死線をくぐりぬけ。
 苛烈な道を走りぬけ。
 やがてかたわらを振り向き、彼女たちは独りでいることをやめた。
 そして――『それ』を知った。
 閉じたまぶたの向こう側に、幸せと寄り添うようにしていつでもあるもの。
 喪うことの恐怖を。

 

 グンゼウムたちと戦ってガウリイが負傷したのはすでに3日前、いや夜が明けていれば4日前になるのだろうか。
 あの時、同様にグンゼウムを追っていたアメリアたちが騒ぎを耳にして駆けつけ、ガウリイは事なきを得た。アメリアたちがいなければ、今ごろどうなっていたかは分からない。
 リナはベッドの上で身体を丸める。
 強く拳を握る。
『あなたに極上の夢を』
 ゼロスの掴み所がない声が、強く頭に響いた。
(あれは魔性の物)
 そう唱えて誘惑に抗う。
 ぐらぐらと煮え立つように揺れる心は、厳しく押さえつける。
 だが、あの――血の色。
 色を失くした彼の顔。
(もう2度ともう2度と……)
 見たくないのだ。
 なのに、今彼は遠く離れている。グンゼウムたちから逃げるために。
 リナが、戦いを避けることをよしとしなかったから。
「もう2度と……」
(たとえばあたしが、彼から離れたら?)
 そうすれば、少なくとも一時の平安は得られる。
 しかし、ガウリイはそれを黙って受け入れはしないだろう。保護者と言い身体を張って守った女を放り出して、自分だけ安全な場所に行くことを彼は喜ぶだろうか? 答えは、考えるまでもなく、否だ。
 彼のためと言うならば、リナは彼の意思を尊重しなければならない。
 そして彼の意思とは、リナの命を守ることだ。
 となれば、彼を守る道は1つ。リナも共に安全な場所へ行くこと。
 たとえば家を持ち、子供を作り、毎日湯気と笑いに囲まれて過ごす。剣は壁飾りとなり、魔法はただ生活の知恵となる。
 だが、そんな日々の中で穏やかに笑っている自分を想像する時、リナは眩暈のようなものを感じるのだ。
(まだ見てないものがいっぱいあるのに)
(食べてないものがいっぱいあるのに)
(知りたいことが、試したいことが、行きたい場所が、いっぱいあるのに)
 果たして、その想像が現実となった時、自分の瞳は心から笑っているのだろうか?
 後悔し、何かを求め、くすぶってはいまいか。
 愛し守りたいと思ったはずの人を、憎んではいまいか。
 そんな可能性を考えて、身体がすぅっと冷える。
(でも、このままもしガウリイが死んでしまったら)
 それこそ、自分は自分を憎悪するかもしれない。
 リナは拳を握り、ベッドの縁を叩いた。
 彼女の目を覆う暗闇には、一筋の光も見えない。

 

 それからどれほどの時間が経ったのだろうか。
 魔道書を読むこともできず、他に暇をつぶす方法もない。ひたすら食べて寝て体力を温存するくらいしかすることがない。果てなく深い海の底で貝のように身体を丸めていたリナは、ノックの音で我に返った。
「誰?」
 ショートソードを引き寄せながら身体を起こす。
 昨夜との相似性に、強い既視感を覚えた。
「リナか? よ、オレだ」
 リナはショートソードの柄を握る手に力を入れる。
「……ゼロスだったら、問答無用で殺す」
「え……いや、オレだが」
 戸惑ったような声が答える。
 さらに、高い女の声が続いた。
「ガウリイさん、『オレだが』じゃ分からないんじゃないですかぁ? 警戒されてますよ」
「じゃーどう言えばいいんだ?」
「ちゃんと名乗るとかっ」
「リナにかぁ? 何か恥ずかしくないか、それ」
「そんなこと言ってる場合なのぉ? リナさーん、そういうわけでガウリイさんとテレージアなんだけどぉ」
 リナはすでに立ち上がっていた。
 もちろん、部屋の鍵を開けるために。
「……無事でよかったわ」
 言いながら扉を開く。廊下からの風がながれこんでくるのと、ガウリイのものらしき手がリナの頭を叩いたのは同時だった。
「まー無事だと思ってたけどな」
「リナさんですもんねぇ」
「……あ、そぉ」
 偽者の対応とはえらい違いである。
 考えてみればこれがガウリイだったか、とリナは気恥ずかしい思いで頭をかいた。
 そんなリナに何を感じたのか、テレージアは少し語調を変えた。
「あ、じゃあ私もう1部屋取ってくるね。前と同じで、私が1人部屋使わせてもらっていいんだよね?」
「あ、ええ……んと、それともあたしと一緒にする? その方が安心でしょ」
「ううん、大丈夫。となりのベッドだろーととなりの部屋だろーと、襲われる時は襲われるんだし」
「肝が据わってきたわね」
「少しはね」
 そう言って、テレージアは小さく笑った。
「それに、リナさんにはホント迷惑かけちゃってるから。せめてもの、罪滅ぼし」
「罪滅ぼしって何が……」
 思い当たって、リナは顔を熱くする。
「な、何を余計な気遣ってんのよあなたはっ! そんなことより自分の心配しなさいよっ!」
「まったまたぁ。イシキしてたくせにぃ」
「テレェェジア?」
「そんな真っ赤な顔ですごんでも怖くないもぉん」
「ほほぅ」
「まぁ、これこそイヤよイヤよも好きのうち、ってやつね」
「なるほどぉ……そこまで言うなら、怖い目に合わせてあげましょぉかっ!」
「うきゃぁぁぁっ!」
 ついに暴れだしたリナを、心得ているガウリイが羽交い絞めにして止める。
「そのくらいにしとけって」
「放してよガウリイっ! 1発殴らせろー!」
「行っていいぞ、テレージア。ありがとな」
 それに対する返事はなかった。おそらく、テレージアは笑って手でも振ったのだろう。
 リナはといえば、あまりにさらっと言われたテレージアへの礼の言葉に、完全に脱力していた。恥ずかしさが許容量を超えたのである。ガウリイの落ち着きが小憎らしい。
「うにゅぅぅぅぅぅぅ……」
 リナは照れ隠しに自分を拘束する腕から乱暴に逃れ、何も言わずに部屋の中へ戻った。
「……今、何時よ」
 やっと聞いたのは、そんなことだ。
「昼過ぎだな。昼メシ食ったか?」
「ううん」
「じゃ、後でテレージアと食いに行こうぜ。下の食堂はいまいち美味そうじゃなかったが、来る途中でいい感じの店を見かけたんだ」
 リナはその店を知らない。
 この町に着いたのが夜だったこともあるが、たとえ昼だったとしても見つけることはできなかっただろう。音や雰囲気から食堂があることには気付くことができる。しかし、通りがかっただけではそこがどんな感じの店かまでは分からない。道行く人をつかまえつつ、宿屋にたどりつくのが精一杯だった。
「ん、そうね」
 答えたが、その声音は少し強ばっていたかもしれない。
 ガウリイはベッドにどっかりと腰を下ろしたようだった。かちゃかちゃと聞こえる金属音はリナにも馴染んだものだ。鎧を外しているのだろう。
 手伝ってやることもできないので、リナは黙ってとなりに座った。
 しばらく沈黙が流れた。
「なぁ……リナ」
「ん?」
「脂そっちになかったか? 昨夜見当たらなくてさ」
「ああ、あるかもね」
 毎日使う日用品などは、日に日に分類がいい加減になっている。どうせ同じ部屋に泊まるのだから、どちらが持っていても構わない。そう思うと、荷物をまとめる時、手に取った方がつい自分の荷物に入れてしまうのだ。
 防具の手入れをしたいのだろうと、リナは荷物を探るため立ち上がる。部屋の隅にある荷物のところへ行こうとし、直前にあった机のことを忘れてみぞおちに一撃を食らった。
「あだっ」
「うわ、リナすまん! 見てればよかった」
「いーわよ別に……」
 腹をさすりながら脂を探し当てた。ベッドの脇まで戻ってガウリイにそれを差し出す。
 帰りは行き過ぎてベッドにぶつかるようなことをせずに済んだ。人の気配があるので、距離を測りやすい。
「そーいやさっきゼロスがどうとか言ってたが、ゼロスに会ったのか?」
 何気なく発された言葉にリナは体を強ばらせた。
「……まぁね」
「ふぅん」
 それっきり、ガウリイは何も言わない。
 何があったのどーしたのとうるさく言われることを半ば覚悟していたリナは、拍子抜けした。
 別れている間に何があったかくらいは、とりあえず把握しておきたがるのが人情だろう。リナが含みのありそうな態度を見せたならなおさらだ。
「……聞かないの?」
「え?」
「何であいつと会ったのか、とか。さっきどうしてあんな風に言ったのか、とか。あるじゃない、いろいろ」
「えぇと……聞いてほしいのか?」
「いやどっちかとゆーと聞かなかったことにしてほしいけど……」
「んじゃ、聞かん」
 プレートをみがく、きゅっきゅっという音だけが響く。
 しばらくして、苦笑混じりの声が言った。
「お前さんが話した方がいいって思ったら、話すだろうさ。その必要はないって思ったんなら、話さないだろうし。オレにはそーゆー判断はつかないしな。疑問に思ったから聞いてみたけど、あんまり話したくなさそうだから」
「……そう」
「リナが聞いてほしいなら、いくらでも聞くぞ。寝ないように、努力するし」
「いーのよ、聞いてくれなくて」
 リナはひっそりと笑った。
 言えるだろうか? この男に向かって。
 『逃げようか』などと。
「――あとひとつ、付け加えるなら」
 ガウリイの大きな手が、髪をかき回した。
「お前さんは1人で何とかするって分かってる。だからオレが横から口出しする理由はない。こないだから何を悩んでるのかは知らない。ただ」
 と、彼は言葉を切ってさらに少し声を静かにした。
「どんな結論を出しても、オレはお前の味方だからな。それが保護者だろ」
 リナは膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
 彼は、あの闇の誘惑者とは違う。やめよう、とは言わない。
 その先がいくら闇に包まれた道であろうと、血に染まっていようと、どちらかの命が失われようと。リナの進みたい道を進めと、言う。
「……いつまで」
「何が?」
「いつまで、保護者してるつもりなのよ」
「もちろんずっとだが」
「ずっとっていつ」
 困ったような雰囲気が伝わってきた。
「いつって言われてもなぁ……ずっとは、ずっとだ」
「そんな先のこと、どうして分かるの」
「いや全然分からんが」
「じゃあ軽々しくずっとなんて言わない方がいいわ。いつまで一緒にいられるかも分からないんだから」
「そう言われても……やっぱり、ずっとだ」
 リナは押し黙る。
 怒りたいような、安堵したような、何ともいえない気持ちがした。
「お前さんは頭がいいから先のことまで考えちまうのかもしれんが、まぁいーじゃないか、そう思うんだから」
「でも……あなたでも、明日のことくらい考えるでしょ?」
「そりゃそうだが」
「あたしはこんな状態で……明日には死んでるかもしれない。あなたも、こないだみたいにあたしをかばって、死ぬかもしれない」
 リナはとなりの気配が変わるのを感じる。
「そういうことは、考えないわけ?」
「考えないと……思うか?」
「思わないわよ。だから聞いてるの」
 ふいに強い力で抱き寄せられた。
 その腕の中で何かが少し癒されるのを感じる。
 しかし、次の瞬間にはそれに気付く。
 彼は小さく震えていた。
 彼女のためではなく、彼自身のために抱きしめたのだ。しがみつくように、閉じ込めるように。
「ガウリイ」
「すまん」
 何かを切り捨てるように言って、彼はすぐに手を放した。
 それでも、リナの肩には直接感じた彼の震えがずっと残っているような気がした。
「……オレはさ、リナと一緒ならどこでどんな生活しててもいいんだ。魔族に追っかけられる暮らしでもいいし、地図もないような場所まで行ったっていいし、なんなら、どっかで2人きり静かに暮らすんだっていい」
 言って、彼は懐から何かを取り出したようだった。差し出され、リナは手でそれを探る。どうやら小さな布の包みらしい。本当に小さく、金貨を1枚だけそっと包んであるような按配だった。
「もし、もしもだが。お前がそうしたいと思ったら。あのな……」
 そこまで言ってから、彼は言葉に詰まった。
 そして、布包みをそっと戻した。
「いや。今それを言うのは、ずるいな。忘れてくれ」
 リナは呆然と彼を見上げる。その瞳があるとおぼしき方を。
 布包みの中には、彼女の間違いでなければ指輪が……入っていた。

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