最強の男 5 - 過去

 となりのベッドは、今日も空だ。
 獣脂のランプひとつが照らす暗い部屋の中、ガウリイは黙々と汗を流していた。
 ストレッチから始めて、腹筋、背筋、腕立て、スクワット。その他細々としたトレーニングを、彼は教わった端から取り入れていった。スケジュールを組み立てるのは苦手だ。役に立つと聞いたことをどんどんリストに加えていって、順番にこなしていく。効果が実感できるものを多めにしたりはするが、基本的にまんべんなくやる。
 最初の内こそ体力が追いつかなかったが、今ではそんなこともない。仕事をしている時以外、彼は剣を磨くかトレーニングをするかで過ごしていた。
 となりのベッドの主は、今日も女のところらしい。出て行く時に、そんなようなことを言っていた。
「まぁた筋トレかよ、飽きねぇなあ、お前」
 男は、短く刈り上げた茶髪をがさがさとかいた。
 男も傭兵であり、毎日のトレーニングは欠かさない。しかし、ガウリイのそれは義務というよりほとんど趣味の域に入っていた。何しろ、せっかくの休日でもほとんど他のことをしないのである。
「飽きねぇなぁって……あんたがやれって言ったんだろーが」
「そこまでやれとは言ってねえよ」
 ガウリイは首をかしげた。
 死ぬ気で鍛えろ、と言われたように思うのだが、珍しく記憶力を発揮したつもりは『つもりだけ』だったのだろうか。
 実際、初めて会ってから彼が再びエルメキアを訪れるまでの数年間、ガウリイは死ぬ気で鍛えた。その間にいろいろなことがあった。それを忘れるために、トレーニングに打ち込んでいるのは都合がよかったとも言える。
 15歳を迎え、故郷を出奔した今、気が付けば彼は傭兵たちの中でも腕が立つ部類に入っていた。
 茶髪とも何度か手合わせをしたが、どうやら互角というところである。
「つまらねえ気まぐれを起こすんじゃなかったなあ」
 茶髪はしかめっ面で言い、荷物をまとめて立ち上がった。
 そのまま扉を出て行こうとするので、ガウリイは焦った。
「おい、どこ行くんだよ」
「野暮を聞くんじゃねえよ」
「またかぁ?」
 先ほどの茶髪を真似たように、ガウリイは呆れた声を上げた。
 ガウリイのトレーニング並みに、茶髪は女が好きである。宿で寝ることの方が珍しいくらいだ。稼ぎのほとんどを女につぎこんでいるとしか思えない。
「うるせえな」
「あんたさ、いつか女で身を滅ぼすぞ」
 これは、ガウリイ自身踏み込みすぎた発言かもしれないと思った。10も年上で、付き合いも浅い赤の他人に言う言葉ではない。そんな言葉がすらりと出てしまったのは、どこかで茶髪を兄のように慕っていた部分があったからなのだろう。
 茶髪はとりあえず足を止めた。
 ただし、その口から出てきたのは、いつものぶっきらぼうだが落ち着いた声ではなく、笑い声ですらなかった。
「うるせえんだよ! 女房面して口出すんじゃねぇ!」
 ガウリイが驚いている間に、扉は茶髪を飲み込んでばたりと閉まった。
 驚いたのは、怒鳴られたことよりその内容の方である。
「お、おい! 誰が女房なんだよ!」
 言い返しても、すでに茶髪の気配は遠ざかっている。聞こえてはいたと思うが、わざわざ戻って説明する気などないだろう。
 ガウリイは首を下に向けて、自分の体を見た。
 トレーニングを趣味にしているだけあって、そこらの傭兵たちにもそうそう引けは取らない体躯である。ちょうど腹筋の最中だったので、上着は脱いでいる。鍛えた筋肉がむきだしだった。
 確かに彼はまだ若くて、そういう趣味の人々が涎を垂らしそうな容姿の持ち主でもある。
 しかし。
「誰が女房なんだよ……」
 茶髪のように見境なしではないが、彼は普通に女が好きだった。
 思わず身震いが出た。
 もう余計なことは言うまい、と思った。
 それにしても毎回荷物までまとめていかなくてもいいのに、と先ほどのことを回想しながらガウリイは背筋のノルマを終えた。
 茶髪は1人で宿を出て行く時、それがたとえ傷薬の買出しであったとしても、必ず荷物をすべて持っていく。もっと言うなら、ガウリイと荷物を共に置いていかないのだ。信用していないのだろう。
 剣を持ちたい気分になって、ガウリイは階下に向かった。トレーニングメニューに、素振りを100回分ほど追加することにする。
 翌日、茶髪は宿に帰ってこなかった。
 翌々日になっても、帰ってこなかった。




 エルメキアを出て1ヶ月ほど、小さな依頼をこなしながら旅をしてきたガウリイは、セイルーン聖王国の中央寄りにいた。
 依頼料の4割ほどはガウリイが受け取っていたので、宿の支払いに困ることはなかった。しかし、何しろ彼はよく食べた。旅の必需品をそろえる時に借りた金を茶髪に返したこともある。当座の生活費に困り始めるのも遠いことではなかった。
 皮袋の中の硬貨とにらみあいをして、ガウリイは唸った。
 すぐにも仕事が必要だった。
 茶髪がよく顔を出していた傭兵たちの溜まり場へ顔を出してみることにする。幸いにも、場所は覚えていた。
 そこでは、むさくるしい男たちが昼間から酒をかっくらっている。
 明り取りが充分ではないのか、店内は薄暗い。酒と煙草と汗の臭いが複雑に絡み合い、獣臭い空気を作り出していた。
「よぉ、『切れた手の平』のお稚児ちゃんじゃねえか」
 そういえば、茶髪の手の平には大きな切り傷があった、とガウリイは思い出した。
 声をかけてきた男は、こめかみと唇の端に傷痕があった。ほとんど正方形だったであろう角顔が、傷のせいで歪んでいる。ごてごてとつけた筋肉でずんぐりとした、傭兵らしい男である。
「お稚児ちゃんじゃねえよ」
 言い返しながら、ガウリイは角顔のテーブルに近づいた。
「仕事を探してるんだ。何かないか?」
「あいつはどうした」
 ガウリイは肩をすくめた。
「置いてかれた」
 角顔は爆笑した。
「やっぱりお稚児ちゃんよりは女がいいか! あの野郎!」
「お稚児ちゃんじゃないっての」
 テーブルの端に手を突きながら、ガウリイは座っていいものかどうか迷う。見たことはある気がするが、どっちにしろ茶髪の知り合いであってガウリイの知り合いではない。角顔も、あえて座るよううながしはしなかった。
「なあ、仕事をもらえないか。このままじゃ遠からず行き倒れる予定なんだ」
 角顔は笑うのをやめ、商品を値踏みする目つきでガウリイの体を嘗め回した。
「腕は、お稚児ちゃん」
「お稚児ちゃんじゃねえ。悪くはないと思う」
「『切れた手の平』から1本取れるか」
「確か……5勝6敗、引き分けがいくつか」
「ヒュゥ」
 角顔は口笛を吹いた。
「それが本当なら大したもんだ」
「信用してない顔だなあ、あんた」
「他人ってのは、信用するためにいる生き物じゃねえんだよ。利用しあうためにいる、分かるか?」
「ふぅん」
 ガウリイは曖昧にあいづちを打った。
 体を鍛え、暗殺の脅威と戦った家での数年間は、彼から夢という夢を根こそぎ奪っていった。彼を殺しに来た傭兵を、斬ったこともある。自分が小さく思えて、もう勇者になりたいとは言えなくなっていた。
(生き残る)
 とにかく、がむしゃらに生き延びることがすべてだった。
「しかし、こんな餓鬼にねぇ」
 角顔が口元の傷を歪めると、背後のテーブルの男が振り向いた。どうやら話を聞いていたらしい。
「『切れた手の平』のお稚児ちゃんよ、俺たちゃ、慈善事業やってんじゃねえんでえ。お前さんを1晩買ってほしいって言うならなあ、考えないでもねえけえどなあ」
 この言葉には、周囲の男たちが一斉に笑った。下手をすると本気で寝室に連れ込まれそうな、下卑た笑いだった。
 ガウリイはしばらく考え、腰の剣を抜く。
 男たちは色めきたった。
「おいっ!」
「あ、いやいや違うぞ」
 あわてて手を振り、その剣をテーブルの上に置いた。
「あのな、オレが売れるもんは剣の腕だけだ。だから、試してくれ。オレは役に立つはずだ」
「なるほど」
 角顔は、周囲の男たちと顔を見合わせる。何やら通じ合うものがあったのか、1つうなずくと自分もまた剣を抜いた。
「お前さんの度胸は買う。だが、もしお前さんが本当に『切れた手の平』と互角の腕なら、斬り合いをしてもお互い面白いことにはならねえ。そうだろう」
 角顔もまた悪くない腕の持ち主のようだった。ガウリイは、少し迷った後黙ってうなずいた。
「じゃあ、ここでちょいと技比べをしようじゃねえか。何、平和的な見せもんさ」
 角顔は懐から銅貨を2枚取り出すと、机の上へ縦にして置いた。
 ちょうど、角顔の前に垂直になった状態である。
「仕掛けはねえぞ」
 言って立ち上がり、彼は銅貨の真上に剣を構える。
 しばし、沈黙が広がる。
 ハッという短い呼気と共に、彼は剣を振り上げ、下ろした。
 ――カラン、と小さな音がした。
 机の上に置かれた銅貨は、2枚のスライスになっていた。観衆からやんやの喝采が飛ぶ。
「よし、お稚児ちゃん。お前さんもやってみな」
「お稚児ちゃんじゃねえよ」
 しつこく文句を言いながら、ガウリイはテーブルの上をすべってきた銅貨を受け止める。
 角顔を真似て机の上に置き、剣を構える。
 剣を引くスピード、正確性、刃を真っ直ぐに下ろす精度。頭でシミュレートしてみるが、できないことはないような気がした。
 強いて言えば、狙いなれない大きさの的だ。机の上に置いてあるものを狙うこともあまりない。角顔のように勢いよく振り上げれば、見事に空振りということもありえる。
 ガウリイは、剣を少し上の方に構えなおした。ほんの握りこぶし2つ分ほどである。
 沈黙。意識が1点に集中する瞬間。
 ガウリイは剣を振り上げることなく、そのまま手前に引いた。
 あまりにも短く、派手さに欠ける動きだった。しかし、銅貨は割れた。いや、剃られたといった方が正しいか。
「な……っ」
 男たちがざわめく。
「あれだけの動作で……?」
「あーっ! ずれちまった!」
 ガウリイは1部を剃り下ろした銅貨を手に取った。
「もう1回! もう1回やらせてくれよ!」
「必要ねえよ」
 角顔はガウリイの手から銅貨を回収した。さりげなく、自分が斬った分も見えないように隠してしまう。角顔が斬った方とて、美しい切断面とは言いがたい。
「やるじゃねえか、お稚児ちゃんよ。いや……名前は」
「おっさんは?」
 角顔は苦笑した。
「ジャンだ。偽名だが」
「ガウリイ=ガブリエフ。本名だぞ」
「ガウリイか」
 ジャンはどっかりと椅子にかけなおし、ガウリイにも座るよう勧めた。
「お前さん、運がいい」
 ジャンは突然気安くなって、ガウリイに酒を1杯おごってくれた。
「昨日、2つ先の町で暴動が起こったらしい。争いごとは俺たちの飯の種さ。仕事が大量に回ってくるぞ」
「暴動で、何が仕事になるんだ?」
「おい、仕事すんのは初めてか」
「いや……ここに来るまで、モンスター退治とか旅の護衛とかやったけど」
「なるほど、旅してる時はそういうこともするな。だが、こっちが本来の仕事だ。ダース単位で買われる戦の駒、それが傭兵ってもんだ」
 ガウリイは頭をかいた。
「オレ、どっちかっていうとモンスター退治の方が得意そうなんだが」
「んな仕事はそうそう転がってねえよ。大体、よっぽどの腕がない限り単発じゃあ飯の種にならねえ」
「うーん」
「まあ、今晩までここをうろうろしてろ。首謀者の残党狩りレースだの、一緒になってはしゃいでる過激派のぶっつぶしだの、町の警備だのって、仕事が山と来る」
 ガウリイは驚いて、手にした酒をテーブルに戻した。
「人を……斬るのか」
「他に何をするんだ」
「飯のために、人を」
 ジャンは歪んだ顔で笑った。
「お坊っちゃんよ、あんたは何か勘違いをしてる」
 その呼び方は、昔茶髪からもされたことがあった。もしかすると茶髪も、ジャンと同じような意味でそう呼んだのかもしれない。
「あんたが何でこの稼業を選んだのかなんざ知らねえ。だが、人が斬れないってんならママのところへ帰んな。ここはお子様のいる場所じゃねえんだ。剣が上手です、まあすごいわね、じゃあ済まねえんだよ。自分の腕で食うってことを甘く見んな」
 ガウリイは眉を寄せた。
 人を斬ったことはある。自分の命を守るためだ。命を狙ってきた相手に、命を取ることで返す。命のやりとりだ。それでも嫌なことに変わりはないが、仕方ないとは思う。互いの命が等価だからだ。
 だが、ジャンの言っているのは戦うということではない。殺す、ということだ。
「……甘く見てるつもりはない。オレは、殺したくない」




 それからも仕事を探し回ったが、ろくな収穫はなかった。
 6日目、路銀が尽きて宿を追い出された。
 ガウリイは何を言っても結局、広い屋敷でぬくぬくと育ってきた子供なのだった。死にそうなほど空腹な時、どうすれば食事を得られるのか分からない。宿がない時、どこで夜露をしのげばいいのか分からない。
 町の片隅で浮民と一緒になって丸まってみたが、彼らにはテリトリーがあるらしくすぐに追い出された。実力で排除することはできたが、ガウリイはとぼとぼとその場を去った。
 結局、雨ざらしの広場で夜を明かした。
 8日目の夜、好色そうな中年男に声をかけられた。金貨5枚でどうだ、と言われ、ガウリイはその場を逃げ出した。体を売るのだけは、耐えられなかった。
 足を向けたのは、ジャンのいた酒場だった。
 カラン、とドアベルが鳴る。
 酒場の中には数人の男がいたが、ジャンの姿はなかった。酒場の親父だけがガウリイを覚えていたらしく、小さく眉を上げた。
「奴らなら、仕事に行ったぜ」
 ガウリイはうなずいた。
「仕事を探してる。何でもやる」
「人を斬れない傭兵に、仕事はねえよ」
「どんな仕事でも、やる。3日間食ってねえんだ」
 親父は黙って厨房に引っ込んだ。ガウリイは立ち去ることもできず、その場にぼんやり立っていた。
 次に親父が出てきた時、手にはぼろかすのようなパンと、シチューがあった。
「残り物だが、食え。特別につけといてやる」
 ガウリイはそれを受け取ると、カウンターに座った。
「がっつくなよ。胃の中が逆流するぞ」
 ガウリイは黙々とパンを噛んだ。固いパンだった。だが、味はさっぱり分からなかった。
 パンをシチューに浸し、やわらかくしてのどの奥に流し込んだ。吐き気がしたが、無視してどんどん頬張った。嘔吐感をこらえていたら、涙がにじんだ。見られないように拭って、ひたすら食べた。
 山盛りだったパンくずがほとんどなくなった頃、酒場にいた見知らぬ男がとなりに座った。
「坊主、仕事を探してるんだって」
 ガウリイは横目で男を見て、口いっぱいにパンを詰めたままうなずいた。
「その剣は飾りもんじゃないだろうな」
 口の中のパンを飲み込むと、ガウリイはゆっくりもう1度うなずいた。
「銅貨を1枚くれないか」
 男は不審そうな顔をしながら銅貨を出す。
 ガウリイは立ち上がり、銅貨を机の上に置いて腰から剣を抜いた。
 今度は銅貨の真上、指1本分もない位置に剣を構える。
 シュッというかすかな音と共に、銅貨は綺麗に半分になった。厚みに寸分の違いもない。切断面も滑らかで、文句のつけようがない試技だった。
「すげえじゃねえか!」
 男は、まっぷたつになった銅貨を手に取ってしげしげとながめた。
 ふとガウリイが振り向けば、呆然として見ていた酒場の親父が、はっと我に返った様子で口を閉じた。
「お前、この8日間でそこまでできるようになったのか」
「暇だったからな。それに、剣を振っていたかったんだ」
 いやはや、と親父は頭をかく。
「お前は、剣の天才かもしれんな」
 ガウリイは、下を向いて剣を納めた。
 何を守ることもできない剣の天才に、どんな意味があるのだろう。
 彼は、食うために人を殺すことを選んだのだ。
 最低のプライドだと思っていたものを、金に換えた。
 彼の思い描いた英雄像は、その瞬間真っ黒な泥で見ることでもできない有様になった。

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