update: 00.05.03
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彼のとの夜はたいてい沈黙の中にある。
あたしは時々その沈黙の意味に迷う。
抱きたい……と、思われているのかもしれない。
彼はけしてそうとは言わない。
抱かれたい、とあたしは思っている。
他愛のない話を口に出しながら、瞳は黙っている。何かを隠している。心はきっと違うことを思っている。
あたしは空白で隠されたものを怖がっている。
バイトが終わった後、あたしはなんとなく離れがたくてナルのうちについてきてしまうことが多い。
ナルは仕事中にくだらない話で時間を取られたり耳をわずらわされるのが嫌いで、あたしも公私混同はしたくないから、就業中は心を鬼にして頭を切り換えるようにしている。でも一日が終わる頃には段々さびしくなってきて、家に帰るナルにくっついて歩いてしまって、いつの間にか家まで行ってしまう。
そういう時、ナルは何も言わない。途中で止めてくれてもいいのに、気のないあいづちだけ打ってあたしがおしゃべりするのを放っておく。ついていくのに任せている。
ナルの家のキッチンでお茶をいれていたあたしは、リビングの時計を見て、ちょっと困った。もう1時近い。
「また終電なくなっちゃったよ」
そんなに長居しているわけじゃない。バイトが終わる時間が遅いから、必然的にマンションに来るとかなりの時間になっているのだ。終電はすぐになくなって、あたしはよく泊まっていく。まがりなりにも付き合っている人の家に。
それはまずいんじゃない、といつも思ってる。でも思ってるだけで何もしない。
「また帰れないや」
あたしの声が聞こえてるだろうに、テーブルに向かって仕事をしている黒い頭は振り向かない。たまには帰れ、でもないし、好きなだけいろ、でもない。ナルの答えはいつも「
それに戸惑って、あたしは少しだけ困るのだ。
(――帰りたくないって、甘えたい)
(拒まれそうで怖い)
(あっさり受け入れられそうで、怖い)
本心を明かしてくれない人に弱みを見せるのは、あまりにも怖い。
「ごめん、今日も泊めてね」
仕方なく、あたしは戸惑いを隠して笑う。ナルの返事は、
「どうぞ」
で、それ以下でもそれ以上でもない。状況を考えれば「NO」はないだろう。「YES」は変わらないとして、「Sure!」なのか「Yeah」なのか、本当に答えるべきなのはそこだと思う。ナルはあたしの探りに対して沈黙している。
中身のない言葉。「
こっちを見ない瞳をうかがうことはできない。のぞきこんでも何も読めないけど。
最低限で済ませてしまう言葉は付け入る隙を与えない。言葉を重ねても本心なんか語らないだろうけど。
笑顔の奥で、あたしの心はしんと静まり返ってそんなことを思いめぐらせている。そうしながらナルの手元にカップを置いたけど、横に座るのは帰りたくないって甘えるのと同じに思えて怖かったから、少し離れて床に座った。
そのまま何も言わない。
ナルは書類にカツカツとペンを滑らせている。
邪魔なのかもしれない。
単に熱中してあたしを忘れてるのかもしれない。
抱えた膝に頬を当てて、彼の横顔を見つめる。横顔と言うよりは後ろ姿に近い。遠いその顔がとてつもなくきれいだから、あたしはとてもとても距離を感じる。壁を感じる。
彼はきっと今、感情を伴わない理論の波の中にいる。あたしとは違う世界にいる。ここにいる彼の体も冷たい目もあたしにあいづちを打つ声も、本当は全部「
その本心とは何なのだろう。
あたしがうっとうしいということか。でも、それなら彼は言うだろう。
あたしを抱きたい……ということか。だったら彼はけして表に出さないだろう。
いつもナルからの意志表示ってものはないから、あたしにはいまだに判断するための材料がない。ただ、彼はあたしを抱くから、それだけを安心材料にしてる。
こんな風に黙り込んでろくに話もしなくても、たぶん一緒に寝ることになってそういうことをするんだろう。欲望のはけ口と疑うにはあまりに優しく、ナルはあたしを抱くんだろう。
そしてあたしは何も分からなくて怖いまま、きっと黙って彼に抱かれる。
あたしは見つめる。あたしが知りたいものを何ひとつ映していない「
しばらくそうしていたら、ナルがふいに視線を寄越した。なんだか数秒、そのまま見つめ合う。本心が見えなくてこの上なく怖い、瞳の沈黙。
(『暇なら寝ろ』とか言わないで)
(『こっちに来い』って言って)
あたしは暇じゃないもん。あんたを見つめてるだけであたしの夜は精一杯だよ。あたしの毎日はいっぱいいっぱいだよ。
でもそんなこと言わない。
いろんなことがくやしくなるから、言わない。
ナルの反応を怖がるあたしが、言ってくれない人にそんな全力の愛の言葉を言うあたしが。ナルの目の、言葉の、表情の、「
――My mind is full of you. And you?
じっとあたしを見ていたナルが、口を開いた。
「暇なら、話せば」
あたしは瞬いた。その瞬きが視線の拘束を切ってしまったみたいに、ナルはテーブルに向き直った。
話? 一体何を話せっていうんだ。
(あたしの話聞くほど暇なら、少し寝ろ)
あたしは書類を書き始めてしまうナルの背中から、天井へと目を移す。動悸が高まっていく。
彼の言葉の上っ面に、何の意味があるのだろう? どうせナルはあたしの話を真面目に聞かない。うながしてまで話させるほど聞きたいとは思えない。
ナルは黙っている。口が動いてもそこから出てくるのはただの「
怖さによく似た緊張があたしの胸をしめつける。
だからあたしは表情を動かないようにしゃべりはじめる。この怖さで声が震えてしまわないような、心から遠いお話を。
「うーんと、じゃあねぇ。ナル、フランス語しゃべれる?」
「少し」
「しゃべれるんだ?」
「少しだ。第1外国語だった」
「あ、そっか。いーな、英語が母国語だと」
「そうか?」
「他ができなくても、とりあえず英語ができれば何とかなるじゃない」
「まあな」
案の定、ナルは振り向くこともペンを放すこともない。内容のないあたしの話に、うつろな彼のあいづち。
あたしは抱えた膝に頬を押しつけ、怖さを抑えて彼を見てる。
その「
真空のように張りつめていく2人の沈黙を。
「あたし、第2外国語にフランス語取ってるんだけどね」
「ふうん」
本当にどうでもいい話だ。
「英語だってまだ記号みたいにしか思えないのに、フランス語なんかなじみがない分上を行くんだよね。自分の気持ちをしゃべってるって気がしない」
「文章になるのか、そもそも?」
「なるよー……それなりには。少なくとも、言いたいことを単純に伝えるくらいはできるぞ」
「へぇ」
「今考えてることくらいなら、簡単だしね」
「ぜひ聞いてみたいね」
「じゃあ、フランス語で返事してくれる?」
「ああ」
あたしは唇を湿らす。
「――……
それきり沈黙になった。
ただ、ソファの背越しに見えるナルの肩が、動かなくなったような気がした。今までずっとペンを動かしているのが見えていたのに。
あたしは胸をキリキリと引き絞るような緊張に身をすくめている。
すごく有名なピアノの曲に、「
日本語訳は確か……「きみが欲しい」。
「言ったよ? 今考えてること」
「意味は分かってるんだろうな?」
「うん。でもやっぱり外国語で言うとそんなに照れないな。ほんとにそう思ってるのに」
あたしは少し笑ってみせる。それは、『軽い気持ちなんです』とポーズを取って防衛線を張っているみたいだ。
嘘の笑いは、ナルの沈黙の前にすぐ顔から消えていく。
「
「
ナルは髪をかきまぜた。
「
「
「どっちでも」
と、ナルは日本語で言ったので、日本語でしゃべって欲しいんだろう。あたしもこれ以上難しいことは言えないから、そこで話を切り上げた。
「ありがと。少し練習になった」
「それはよかった」
慇懃な口調に隠してナルが不愉快なのか困惑しているのか、やはりあたしには分からない。
だから、笑う。
「ナルと同じくらいしゃべれるじゃん、あたし」
「フランス語には興味がない」
「研究以外何にも興味ないくせに」
「その通りだな。だいたいこんな気取った言葉を覚えるつもりはない」
「そんなこと言ったらフランスの人に怒られるよ?」
「構わない。もともとイギリスとフランスは仲が悪い」
「そうなんだ?」
「歴史の授業を聞いていたか?」
少しだけ嫌そうな響きが混じる。言われてみれば、確かに授業で聞いたような気がした。ずっと前、高校の頃の話だ。
「英語の、『French』に名詞を続けた言葉がよく表しているな。たとえば……『French kiss』」
ナルの声は授業をするみたいに平坦だ。
「これの意味を?」
「あっ、それね、こないだ友達と話題になったの。彼女は、フレンチキスってその……ディープキスのことだって言うんだけど」
ナルがソファの背に腕をかけて振り返るから、あたしの心拍数は跳ね上がる。
こんな話題、さっきからどういうつもりだろう?
あたしは? ナルは? 挑発してるの? 誘ってるの?
少なくとも会話でコミュニケーションを取ってるんじゃないことは確かだ。こんな、心のこもらない会話。
「麻衣はどう思うって?」
「軽いキス、じゃないの?」
――……empty、silence、no meaning。
それなのにどうしてまだ言葉が続いていくんだろう。
彼が明らかに隠している、
彼がそんな無表情を装っているのは、なぜ。
震えそうな声を押し殺してあたしがしゃべっているのは、……なぜ。
「来い」
ナルの深い黒い目が、目線で自分の横を示した。
あたしは気付かれないように深く息を吸い込んだ。
無防備を演じながら立ち上がり、ソファを回って彼のとなりに行く。手のひら1つ分の間を空けて横に座る。
その動作の1つ1つをナルが見ている。
分かってる。あたしはこの沈黙が怖いんだ。期待と怖さがせめぎあって、これほどどきどきしているのだ。
「実演してくれるの?」
「知りたいなら」
「……知りたい」
ナルは少し肩をすくめ、あたしの腰に腕を回してごく紳士的に一番近くまで引き寄せた。体がぴったりくっつく距離。
あたしは間近になったナルの顔に指を沿わせる。ほんとにきれいな顔。作り物みたいな無表情。
ため息をついた時、ナルがあたしの頭を片手で抱えるようにして唇を合わせてきた。あたしは決まり事に従って目を閉じる。
腰に回した腕に力も込められなかったから、それで終わりなんだろうと思ってあたしは身を引こうとした。
でも逃げようとした途端に片手でもう1度きつく引き寄せられる。体を拘束されて動けなくなる。
あたしの緊張が限界まで高まる。
ナルが合わせる唇の角度を変え、舌を入れてくる。拒むつもりは全然ないけど、拒む自由もない。
ただ質問の答えを見ているだけなんだから。そう自分に嘘をついて、あたしは無抵抗に口を開く。
キスの教科書があるなら、ディープキスのところにはたぶんこう書いてあるだろう。お互いに舌をからめて吸い合うキス。あたしは教科書通りになぞっているだけ。口を開いて舌を出して、息が弾むまで吸い合う。たとえ耐えられないほどドキドキしていたって、腰砕けになりそうなほど甘いキスだったって、ただの授業なんだから。
嘘をつく。だって……。
唇が離れてうっすら目を開けたとき見た彼の瞳は、やっぱり「
望んでいるのはキスじゃないでしょう? まだ隠しごとしてる彼の瞳がそう言ってる。
「……ディープキスなんだ?」
囁く口調で言う。
「『French』を初めにつけるのはフランス人への揶揄で、野蛮だとか下品だとかいう意味なんだ」
「ディープキスって下品?」
「セックスを連想させるからじゃないか」
「ふぅん……。連想した?」
「今?」
「うん」
ナルは肩をすくめた。「Yes」とも「No」ともあたしには分からない。分からないようにしてるんだろう。
あたしはあたしの腰を支えるナルの手をほどかせた。
「確かに、そうかも。あたしすっごくドキドキしてる」
ほどかせた手を、自分の左胸に持っていく。そんな挑発的な行為にも彼の表情は静かだ。
「馬鹿、心臓はここじゃない」
ナルは手で胸の上をなぞるようにして、ふくらんだところの下あたりを押さえた。
それだけの動作に、あたしの体は跳ね上がりそうになる。でも、静かに答える。
「あれ、そうだっけ。……どう?」
「セーターの上からじゃ分からない」
当たり前の口調で言うから、あたしは震えそうになるのを隠したまま、当たり前の動作で素直にセーターとシャツを持ち上げる。
「下着が邪魔」
ナルがブラジャーのワイヤーを弾くので、あたしはセーターを押さえているのと反対の手でそれを下ろす。
「自分で脱がせばいいじゃん、もー」
両手で裸の胸を晒す。少し寒い。すごく怖い。
鋭いナルの視線が体を切ってしまいそうで、怖い。
ナルは、心拍なんか測ろうともしないで突然指が食い込むくらいにぎゅっと胸を掴んだ。
少し痛い。とんでもなく怖い。
「……そこじゃないって言ったくせに」
文句は唇をふさがれて途切れた。
ほら、嘘つき。
心臓がどこにあろうと、『French kiss』が何だろうと、どうでもよかったくせに。
そんなことを最後の強がりで思いながら、あたしはからめとられる。
空白の怖さから解放されて、やっと嘘をやめて思うさま彼を抱きしめながら。
何も言わずに。何も聞かずに。
キスをして。
心に1番近い『French kiss』をして。
END.
これを全年齢の本に載せた自分の神経を疑う(爆)。
オフ本「夢のしずく」からの再録です。
加藤いづみさんの同名の曲に着想を得て。
第二外国語でフランス語をやった乏しい知識を活用したんですが、ろくなことに使わない。先生ごめんなさい。