それはあの日の夢 〜After〜 後

「……寒いね?」
 麻衣を見つめるナルの目が静かに瞬く。
 寒さに震える体を縮めながら、麻衣は笑って見せた。
 ナルは口を開くと嫌味か叱責しか言わない。それでも特別無口ではないから、今は何か物思いでもしているのかもしれない。
「……寝る?」
 麻衣が聞いてみると、苦笑のような雰囲気が返ってきた。何も言わないが、その表情は否定なのだろう。
 なぜかほっとして、麻衣は微笑んだ。自分だけ先走っているようなのが恥ずかしかったのかもしれない。
 しばらくは、どちらも何も言わなかった。
 眠らない以上、することは決まっている。寒い中意味のない軽口を叩き合うほど二人はひまではなかったし、意味のある論議を交わすほど勤勉にはなれなかった。
 二人の関係を変える決定的な言葉を言えない以上、することなど始めから他にない。他に、この時間に思っていることを伝えるすべなどない。
 寒いからもっとそばへ寄っていいかという言葉が麻衣の頭には何度となくちらついたが、声に出すことはできなかった。言えば、それが始まりになってしまうことがわかっていたからかもしれない。
 この一月、いやもうずっといつからなのか誰にもわからないほど長い間、踏み出すことができずにいた一歩は、限りなく重い。手を伸ばしても拒まれることはないだろう、身を寄せても抱きかえしてくれるだろう、キスをしても深い応えを返してくれるだろう、 そんなことは麻衣だけでなく二人ともが了解しているに違いなかった。
 それでも、二人は口をつぐみ続けた。
 シングルベッドは二人で寝るには狭く、端と端に寄って距離を取るにも限界がある。寒さに少し身動きをするだけで丸めた膝がふれあうのに、懸命に間を保とうとするのは奇妙だった。
 何度目かに膝がふれた。
 ここまできて何をためらっているのだろう、そう思うとおかしくて、麻衣はやっと笑い、まっすぐナルを見た。
「……バカみたいだね?」
「……同意を求めるな」
「そう思わない?」
「不本意だが、思うな」
 そう言ったナルが同世代の顔になって身近で、うれしくておかしくて顔が上気してしまったから、麻衣は体を丸めて笑った。
(怖い? ……怖いのかもしれない)
 でも、抱きしめてほしいと真剣に思う。今を逃したら、またずっと気にし続けてそれでもナルが遠すぎて、困り果てるのだろうと思う。
「……ナル」
 ささやくように呼んだ麻衣に、うながされたようにナルは手を伸ばした。
 笑顔が消えて緊張に顔を強張らせた麻衣の胸を、ナルはふいにパジャマの上からつかむ。そのまま手のひらで押すように強く握りこんだ。
 いきなり的を得た攻めを受けて、麻衣は息をつまらせてぎゅっと目を閉じた。予想もしていなかった強い快感が体を突き抜ける。
 どうしていいのかわからず麻衣が混乱しそうになった時、彼女を一瞬で追い込んだ手が離れた。
 逃げたくなるほどの快感なんて、麻衣は知らなかった。それが続くことを考えて怖くて、目を開けられずにただ次の行為を待った。本当に逃げようとは思わなかった。
 だが浅く何度か呼吸しても、ナルからのリアクションがない。そっと目を開け、麻衣は泣きたくなった。
「ナル」
 麻衣の方に顔を向けたナルはぴくりとも動かない。おそらくはただ麻衣を見つめて、彼女の怯えを見て、それ以上のことができなくなっている。
 行為のすべてが暴力としか思えない、とナルは以前麻衣に言った。そのナルに暴力じゃない、と言ったのは麻衣だ。だが、通じない。そう簡単に彼の心に残った傷を消せるわけがない。
 レイプにあったのと同じ傷を持っている彼が、人に無理強いをできるわけがない。
 ひどく重いものでもあるかのように、ナルはその唇を動かした。
「……やっぱりわからないな」
「何が?」
「やり方」
 そういうことを照れもなく口に出せるあたりの臆面のなさは、やはりナルなのだが。
「ま……ち、がっては……いないかと思いますが」
「へえ」
 言葉を絞り出しながら、麻衣は自分が赤くなっていくのを感じる。確かにまず間違ってはいないだろうが、それを言うのはやってくれと言うようなものである。
 だがナルは何を言うでもなく、自分の額に腕をあてて黙ってしまった。
 沈黙に、寒さが染み込んでくる。一月前にも感じた距離が、悲しい。麻衣は泣きたい気分で口を開く。
「……寒い」
「……そうだな」
 今さらそれがどうしたと言外に言って、ナルは目元を隠した腕をわずかにずらして麻衣を見る。
「近く、行っていい?」
「これ以上?」
「まだ、距離が、あるでしょ?」
「……どうぞ、ご自由に」
 返事を聞いて、二枚の布団の下を這うようにして麻衣は人の体温のもとへにじり寄る。けして体温が高いとは言えないナルだが、ふれれば外気とは比べ物にならないほどあたたかい。
 麻衣は、顔を隠す彼のひじにつかまるようにして頬を寄せた。
 思い切ってみれば、これほどにも簡単なことだ。悲しいほどの距離を感じながら身をすくめていることに比べれば、怖さなど何程のことだろうと麻衣はやっと思う。 彼の傷を知った時でなく、この部屋へ来る決心をつけた時でなく、彼の温度を感じている今にして、やっと思う。
 当たり前の行為や優しさや、そんなものを期待してどうするというのだろう。目の前にある関係は、向き合って解決していく以外にないのだ。
 もしも前に進みたいと思うなら。
 今、先へ進みたいと思うから。
「眠るか?」
 今度はナルが聞いてくるのに、麻衣は小さく横に首を振る。
「酔狂だな」
「そう?」
 胸の動悸を抑え、麻衣は寒さのせいでなく震える手をナルの胸にのせる。手のひらから鼓動が伝わってくるのは、麻衣の気のせいではないだろう。生きている人間が、今向き合っている。その怖さが、また麻衣の胸を突く。
 麻衣の緊張をだろうか他の何かをだろうか、目元を隠す腕の下から見えるナルの唇がふと皮肉げに笑い、彼の胸に添えられた細い手に手を重ねた。冷え切った手はひどく冷たい。
 視線を合わせずに互いを探り合う、長い沈黙の時間。二人の緊張と欲とが、ふれあった手を通じて互いに伝わっていく。
 胸をふさぐような重い沈黙の果てに、ため息をつくように声を出したのはナルだった。
「……傷つけたく、ない」
 初めてもらされる本気の言葉に、麻衣は震える。
「……うん」
 空いた手で目元を覆ったまま、それきりナルはまた沈黙してしまう。
「大丈夫だよ。あたしは平気、丈夫にできてるから。……気持ちも。ちょっとやそっとじゃどうにかなったりしないんだから」
 ナルの胸の上にあてていた手を裏返して、重ねられた彼の手をにぎり、麻衣はうつむいて言葉を続ける。軽く言おうとしても、言葉がつまってしかたなかった。
「だいたい何だよ。さんざんむちゃくちゃなことやっといて、今さらこのくらいのことで罪悪感もたれちゃたまらないよ。今までのナルのやってきたことの方が、よっぽどひどいんだからね? 言っとくけど。的外れなこと言わないでよ」
 寒い、と呟きながらそれを言い訳にして麻衣は体を寄せる。もっと近くへ、体全部がふれていられるくらい近くへ。
「全然違うんだよ。無理矢理されるのとそうじゃないのとは、ナルが思ってるのと望んでそうするのとは、違うんだからね」
「……望んでるのか?」
 嫌味に聞いてきたナルの口元は、かすかに笑っている。
 上目づかいにそれを見て、麻衣はふくれた。
「そお見えないんですか。鈍いよね」
「誰のことだか」
「ナル以外に誰がいるんだよ」
「麻衣が、と言っているんだが」
「負け犬の遠吠え」
「そうは思わないな」
 言ったナルが、つないでいた手を枕に押し付け、体勢を逆転させる。
「やりかねないから言ってるんだ」
 麻衣はナルを見上げ、瞬いた。
「ナルが? あたしを? 傷つけたいの?」
「お前は何を聞いてたんだ」
 言葉を話すその息がふれる距離で、ナルは不快そうに眉をひそめる。麻衣は目だけで笑って見せた。
「じゃあ大丈夫」
「根拠のない安心をするな」
「ないわけじゃないもん。大丈夫。だから、あたしもどうしていいかよくわからないから、ナルのやりたいようにやってみてよ」
 ことさら無頓着に言ってみせた麻衣に、ナルは鼻白む様子を見せる。本気で抱きたいから強く求めてしまう、それなのに傷つける方法しか知らない、彼の困惑を麻衣は知らない。
 それでも、もし知っていても彼女の言葉は変わらなかっただろう。変わらなかっただろう彼女の気持ちを、彼もまた知らない。
 知らないままに、二人は互いに手を伸ばして抱き合った。
 方法も分からずに、やみくもに熱を確かめるように体をさぐりあう。大きく硬い男の体を、細く柔らかい女の体を。それがまったく未知のものであるかのように、二人は互いの体を知らない。その差異を、二人が違う性の持ち主であるということを、二人が男女であるということを。
 ナルの手が、遠慮がちに上着の裾を分けて素肌の上へすべりこんでくる。素肌に人の手がふれ、その戸惑いがナルの背中に回した麻衣の腕の動きを鈍くする。
 微妙に視線をそらしたまま顔を強張らせた麻衣のうなじを、唇が甘く噛む。不可思議な柔らかさに、溶かされていくような錯覚におちいって麻衣はそっと目を閉じた。
 どこまでも優しいナルの愛撫に、まぶたの裏の闇の中で、麻衣は悲しいような気持ちになる。唇のたどる熱が、柔らかな感触が、そっと胸のふくらみをつぶす手のひらが、麻衣を果てのない闇へ落としていく。
 それはまるで、ナルの心の暗さみたいに。
 あまりに優しすぎる仕草が、悲しくさせる。
 情熱でなく、衝動でなく、欲望でなく、許された範囲をなぞるように抱く仕草が切なくさせる。
 望んで知ったことではないだろうが、ナルは当たり前のように刺激に弱い部分を承知していた。ゆっくりとした動きでも確実に敏感な部分にふれてくる指に、麻衣は体をすくめた。
 パジャマを脱がせることもないまま、裾から入れられた大きな手が胸をつかむ。ボタンを一つだけ外して大きくくつろげられた胸元に、唇が降りてくる。
 先端に舌先がふれた時、麻衣は大きく体を縮めて息を吸い込んだ。
「……麻衣?」
 問う声に、麻衣はひっそりとまぶたを開ける。
「どしたの?」
「別に」
「全然痛くないよ?」
「ならいい」
 麻衣は、一度ゆっくりと瞬く。
「……大丈夫だから。そんな風にしてて、痛いわけがないから。平気なんだからね?」
 言った麻衣の唇に、静かに唇が降りてきた。
 綿のように軽いキスだった。
 麻衣は口を覆う。
 されてみてから気づく。それが、初めてのキスだった。
「……キスがそれほど珍しいのか?」
「うん、すっごく、珍しい」
「体にふれることより驚かれるとは、予想だにいたしませんで」
「だって、初めてだったんだもん……」
 麻衣としては衝撃の告白に近い気分でそう告げたのだが、ナルの表情は微塵も変わらない。その告白では彼女の驚きようの十分な理由にならないという風情に、麻衣も困惑する。
 価値観の差、というものだろう。
「へえ」
 感想はそれだけで済ませ、ナルは再び麻衣の唇をふさぐ。今度は深く、唇を全部奪うように甘噛みして、思わず応えるように開いた麻衣の口の中に舌を入れてくる。
 次第に熱を持ってくる動きに翻弄されて、麻衣は具体的に何をされているのか、はっきりと分からないままキスに応える。呼吸の音が耳につく。意識が吸い取られていくような快感。それ以上に遠慮なく求め合うお互いが嬉しくて、何も考えられなかった。
 小さな音を残して唇が離れて呼吸が解放される時になって、麻衣はやっと何をされていたのか思い当たった。
 崩れるように、顔が笑みを作る。
「……嬉しい」
 困惑に、ナルの顔もまた動く。
「よく分からない」
「そうかなー? すごく嬉しい」
「キスが?」
 呆れたような口調にひるまず、視線だけそらして麻衣はうなずいた。
「うん、それから他のことも」
 これに対する感想は、一言もなかった。視線をそらしていたから、麻衣にはナルの表情がどうであったかもわからない。
 ただ、先ほどよりずっと強く、指が体にふれてきたのを感じた。片手が胸を、片手はパジャマのズボンの中にもぐりこむ。脚の付け根をたどり、焦らしてくる指に、麻衣はナルの背中にそっとすがりつく。彼の行為を求めるように。
 耳元に来ていたナルの唇が、笑った気配を感じた。抱き合ってから初めて、彼が笑ったことを知った。
「……酔狂だな」
 それは彼女の言葉への遅い返事だったかもしれないし、彼女の行動への感想だったかもしれない。どっちでも麻衣には同じことだ。
 酔狂ではなく真剣なんだ、と心の内でひっそり答えて、麻衣は小さく口をとがらせる。その唇を、ナルが再びふさぐ。
 キスで注意を奪っておきながら遠慮なく体の中に侵入してくるナルの指に、麻衣は無意識に逃げるように動く。そうしながらもナルの背中に回した腕には、どんどん力がこもっていく。
 逃げていく寒さを、二人ともが感じていた。

END.

 初参加冬コミの無料配布に書いた話。その前に出した「白い祈り」という本の中の「それはあの日の夢」という話の続編というか付け足しで、 「あなたの手のひらの」から続く『なんとなく結婚しちゃった』設定の初H編になります。

 ナルX麻衣としては変則パターンだとは思うんですが、私はこの設定がかなり気に入っていて、 実はナルX麻衣を最初に妄想したときに考えていたのはどっちかというとこの設定だったりします。
 書いたときには自分の妄想の甘さ加減に大笑いしたもんですが、今読むと別段なんてことないあたり、 どんどん妄想レベルが上昇していること疑いなし^^;

(09.7.30 付けたし)
 前作を読んでない人にあまりにも不親切だったので、少しだけ書き足しました。
 本編の方も再録したいとずっと思っているのですが、これ含めて5本書いて、1番最初の始まりの話だけがどーしても気に入らず、再録に踏み切れないという……(汗)。
 うーん。できればそう遠くないうちに……。

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