予定表どおりの日々が続く。 手帳に書き込まれた予定は、変更を加えられることなく現実世界でトレースされる。時報どおりに合わせた時計が告げるまま行動し、新しく加わってくる用事も最低半日前には手帳に書き込まれるから、予定として消化されるに過ぎない。 それに特別退屈を感じているわけでもない。予定は守られるためにある。 面倒なく進んでいくことは、ナルにとってもっとも歓迎すべきことだった。 |
GENIUS | |
小原なずな |
手帳を開いていると、麻衣は近づいてこない。 なぜだろうと思っていつかナルが聞いてみたところ、彼女はこういう風に言っていた。 「仕事の邪魔されるの嫌でしょ」 パソコンを開いているときには平気でとなりに座り、あまつさえテレビをつけていることもあると指摘すると、 「論文書いたり本を読んだりしてるときには、あたしがいたって気にしないでしょ? 見えてないし、聞こえてないもの。でも、予定を見てるときはそうでもないんだよ。しかめっつらをしてため息ついてることが多いよ。やらなきゃいけないことの間でどのくらい好きな仕事ができるのか考えてるんでしょ。そういうときに邪魔すると、不機嫌だから怒るもの。あたしも嫌だから邪魔しない」 なるほどそういうものかとナルは納得し、彼女の知恵に感心してみたりする。 個人的に付き合い始めてから1年近く経つが、人付き合いが苦手なナルが彼女をうとましく思わずにいられるのは、ほぼこういった彼女の配慮にかかっている部分が大きかった。 彼女のことは彼の人生の予定表に元から記されていることではなかった。しかし日本へ行ったことも、兄が死んだことも予定表にはなかった。それについて彼はきちんと理屈を付けている。 つまり、どれも考える時間は充分にあったということだ。ふいに入ってきた予定であっても、調整することが可能であるだけの猶予はあった。人生の予定が狂わされても、また新たな方向性を定めればいいことだ。 面倒であったのは確かなのだが。 とにかく今彼には気遣うべき相手がいくらかいる。育ての両親、遠慮する必要はないが義理立てなければならない組織が1つ、いい顔をしておくべきパトロンが数人、これらをすべてかわした後に残っている時間が彼の仕事にあてがうことができる時間だ。 予定表は案外簡単に埋まっていく。 麻衣という生活への闖入者に対して割く時間はほとんど持ち合わせていないと言ってもよかったが、彼女はそのことに対する不満をそれほど口にすることはなく、笑顔で彼の家へ通っている。 手帳に書いてあったとおりに新宿の駅へ出ると、見上げるほどもある地図によりかかってぼんやりとしていた女性がめざとく彼を見つけて駆け寄ってきた。 普段別の場所で見慣れている相手を、こういった、用事で出てきた場所で見かけると奇妙に思う。たとえば微妙に現実と食い違った夢を見ているような心地とでもいうのだろうか。 しかしこれは現実だということははっきりしてるので、ナルはすぐにどうでもいい思考をやめた。 「時間ぴったり!」 麻衣が自分の腕時計を指さしてあきれたような顔をする。 「1分遅れるとか5分早く来るとか、そういうのってないの?」 「待ち合わせは3時。予定どおりだろう」 「電車の時間まで把握して予定立ててることは知ってますともさ。でもねぇ」 「行くぞ」 おしゃべりに付き合う気などさらさらないことを示すように、遠慮なくナルは歩き始める。 取り残された麻衣はさらにあきれたようなため息をつき、足を前へ投げ出すようななげやりな歩き方でついてきた。 「着いてから立ち話をする予定はないってか。1分1秒を大切にする姿勢、ご立派なことで!」 「麻衣は暇そうで何よりだ」 「暇じゃないよ? 1日中バイトして、時には上司さまに呼び出されて突然新宿まで出て来なきゃいけなくなる」 「暇だから出てこれるんだろう」 「ナルが仕事だって言ったから他のものほっぽって出てきたんでしょ!」 確かに急遽命令を出して彼女を連れだしたのはナルだ。もともと当然1人で行く予定であったのが、昨日になって先方から麻衣を連れてきてほしいとほのめかされた。幸い電話を受けたとき麻衣はオフィスにいたので、その場で付いてくるようにと命じたのだ。 ナルは肩をすくめて少し足を早める。テンポ的に、麻衣に合わせていたのでは予測時間とずれてしまうだろうと思えてきた。 もう! と声を上げて抗議し、麻衣も歩くテンポを速めた。 わずかに2人の距離が空いたときを狙うように、ナルはこぼす。 「暇な奴だ」 と、もう1度。 「仕事なんでしょ……?」 追いついてきた麻衣が不審げにする。 「もちろん、仕事だ」 「まぁ、ナルが個人的に誘ってくれたのであっても来たかもしれないけど」 ナルは答えない。彼には毎日会っている相手を個人的に誘うような暇も予定もない。 「ナルはあたしが個人的に誘ったって来やしないだろうけどさ」 当然だ、とナルは思う。その暇はない。 どうでもいい雑事を話している麻衣を放っておいて、頭の中ではこれから会う相手にする話をまとめはじめる。もとより彼の予定には歩いている間の仕事としてこのことが組み込まれいたのだ。 「どうせあたしのために時間を割く気なんか持ち合わせてないんでしょーよ」 珍しい文句を彼女は口にするが、ナルはほとんど聞いていなかった。 麻衣はため息をつく。 「あたしはほとんどナルのために生きてるみたいな毎日だってのにね」 ナルが聞いていないと判断して言った言葉なのかもしれなかった。しかし、ちょうどタイミングよく耳に入ってしまったのだ。ナルは特に深く考えず返答する。 「くだらない毎日だな」 「……あ、そう」 ぶすっと黙り込んだ麻衣に気付いているのかいないのか、ナルは早足で待ち合わせの場所のホテルに辿り着いてしまうまで一言も発しなかった。 こういう場合、彼の心中は2通り推察できる。 1つ、放っておけば麻衣は自然に怒るのをやめるだろうと期待している。 2つ、失言だと思っていない。 両者を分ける判断は、簡単に付けられる。ちょっと目をのぞき込んでみればいいのだ。 そこに何らかの表情が浮かんでいたら、前者。ちょっとした後悔でもいい、不愉快さでもいい。どっちにしろ麻衣の様子を気にしていることには違いないからだ。 考え事をしているようなら、後者。自分が何を言ったかも分かっていない。 (2つ目の方、だね) 歩く動作にまぎらわせてちらりとうかがったナルの顔に、麻衣はそっとため息を落とした。 (仕事中のナルの頭には、何をしたって割り込めない) 分かってはいてもくやしい。 これからホテルに入って仕事の話をすれば、ナルの脳は加速度をつけて異次元にワープしてしまうのだろう。容易に想像がつくから苛立たしい。 ホテルには、今イギリスから来ている、とある大学の経営者が滞在している。直接超心理学に関わっているわけではないし、ケンブリッジ大学にゆかりの人間というわけでもないのだが、日本に来たとなればナルはあいさつをしないわけにいかないらしい。早い話がパトロンの1人なのである。 そういう場合普通は助手であるリンが同行するのが道理だし、当然最初はその予定だったようである。ナルのレポートにたびたび名前を見せるESP能力者にパトロンが興味を示し、オフィスのアルバイトと知るや会ってみたいと笑いながら言った。それが数日前の話である。急遽、否も応もなく麻衣は新宿まで駆り出されてくることになった。 はっきり言って嫌なのだ、と立派なホテルのエントランスに踏み込みながら麻衣は思う。 (なぜならそのパトロンという方は……) ロビーの肘掛け椅子に陣取って紅茶をすすっていた白人男性が、麻衣らを見て嬉しそうに立ち上がった。 『お久しぶりです、デイビス博士!』 当然外国語をしゃべるのである。 氏は、イギリス人らしい神経質そうな眉と鋭い目を持った壮年の男だった。背は低かったが、痩躯で整った顔をしている。彼は軽く手を上げて麻衣らを迎えると、椅子をすすめて元のようにゆったりと腰かけた。 『時間どおりですな』 氏の向かい側にナルが掛けたので、麻衣は迷って椅子を少しナル側に寄せてとなりに座った。 『お久しぶりです。彼女がミスタニヤマです。マイ、彼はミスターブライトン』 『お会いできて光栄です、ミスタニヤマ』 『こ、こちらこそ』 『英語がお上手だ』 明らかにお世辞、あるいは嫌味だと分かったので、麻衣は顔を熱くして苦い笑いを浮かべた。 このホテルは外国からの客を迎えるのに恥ずかしくない作りを意識されており、バーなどの設備も欧米国に習って洗練されている。派手派手しくシャンデリアを下げたりすることはないのだが、さりげないソファなどの調度品や生花などに心が配られているのが一見しても分かる。 テラスとしても機能しているこのロビーは、一面のガラス窓から射し込む光を損ねない籐づくりの椅子とテーブルが快かった。 仕事でなくナルと来たのであればこれ以上ないほどはしゃいだのだろうけど、と麻衣は思いながら目の前の気むずかしそうな男に曖昧に微笑みかける。反応は期待していなかったのだが、案に相違してブライトン氏は薄い笑みを浮かべてそれに応えた。 『報告書を見ましたよ』 『何か問題でも?』 あるわけがないといういつも通りの調子でナルが答える。いつぞや「猫をかぶればもっと金が取れるかもしれない」などということをうそぶいていた彼の言葉を、まったく裏切らない態度である。 ブライトン氏は世間話を切って捨てるナルを意に介する様子もなく、話を続けた。 ここまで来ると麻衣には何ひとつ理解することができない。お人形よろしく座って話を聞いているだけである。 内容もさることながら、専門用語が聞き取れないのである。もしも日本語で話されていれば、麻衣とて心霊調査員の端くれなのだからまったく理解できないということはないのだろうが。 『資料ですか。今、ここで?』 ふいにナルが渋い顔をした。 『ええ、ぜひ』 対照的にブライトン氏は涼しい顔である。 日本のオフィスにはナルより偉い人間は存在しない。立場的に言えば、滝川らなどのイレギュラーズは客分であるわけだから対等のはずだが、実際にはナルが偉い。それは実績でも肩書きでもなく、単純に彼の能力の問題である。ナルより優秀な人間など、そうはいない。ナルの視点から言えば、1人も存在しないことになっている。 そのナルが、こちらは単純に立場的な問題で押し込まれている。大変珍しい光景に麻衣は初めてこの場に付れてこられたことを幸運だと思った。 『わかりました。では、ファックスさせます』 『よろしく。私も彼女と話がしてみたいしね』 突然話を振られて麻衣は焦った。ナルも眉をひそめる。 『ご覧の通り彼女は英語が不自由ですが』 『留意するよ。だからこそ2人きりで話してみたかったんだ。ゆっくりね』 不穏である。それに気付かないナルではあるまい。しかし彼は1秒弱ブライトン氏を見つめると、さっと立ち上がってフロントの方へ行ってしまった。 この状況では麻衣よりも仕事が優先ということだろう。分かっていたことではあるが麻衣は気が気ではなくなった。自分の態度はナルの面子に直結している。 『さて』 ナルの姿が遠くなり、耳が届かないと思われる距離まで行ってしまうと、ブライトン氏はおもむろに膝の上で指を組んだ。 まるで受験生を目の前にした面接官のようだ、と麻衣は思った。値踏みする視線には否応なしに人を緊張させるものがある。 『彼はすぐ戻ってくるだろうから、率直に、簡単に聞くことにするよ。悪く思わないでほしいが』 『ナルに……ごめんなさい、デイビス博士に聞かれたくない話なんですか?』 『博士に、というよりデイビス氏に聞かれたくないと言った方が正しいね』 麻衣は首をかしげる。 『プライベートの話ということだよ。プライベートの意味くらいは分かるだろう?』 『……はい』 この言葉だけでも、彼が麻衣に対して含むところを持っていることは明らかだった。 質の違う緊張が麻衣を包む。 『あなたは彼の恋人なのかな?』 『はい!?』 『霊能者としての力がどの程度かはともかく、英語も充分に扱えない人間を一般事務に使っていると聞いてね。妙な感じだ、と思っていたんだよ。しかもこうして会ってみれば、あなたの方でも彼に対して物怖じする様子がない。あのデイビス氏と2人きりでいてね』 『それは……そんなこととは関係なく』 『時間がないのでね、あなたの英語をゆっくり解読するつもりはないんだ。シンプルに答えてもらえるかな』 『……その通りだと思っています。恋人なんだと。けど』 言葉の続きは、ブライトン氏の仕草によってさえぎられた。 『立場はわきまえておいてくれ』 『はい!?』 『彼を邪魔するな、ということだよ。簡単な言葉で話しているつもりだがね』 『意味は分かります』 『なら無意味に聞き返さないように』 反論しようと口を開き、麻衣は理路整然と対抗するための言葉が圧倒的に足りないことに口をむなしく開閉させる。ブライトン氏は、侮蔑に近い見下した視線を彼女に投げてきた。 『私はね、お嬢さん。彼をこの上なく認めているんだ。そして投資しているんだよ。彼の才能と、頭脳と、将来にね』 『分かります』 『彼は天才だ。私はそう思う。天才は洗練されなければならない。凡庸ならぬ人々や知性や、理論によってね。時間はいくらあっても足りないくらいだ。余計なことにかまければかまけるだけ、彼の天才がすり減っていく』 『それは……』 『彼は天才だよ』 氏は繰り返した。 『女性によって身を持ち崩した天才が今までどれだけいたことか。少しばかり息抜きをするのは構わない。少しばかりなら、だ。入れ込むのは困る。相手に図々しくなられても困る』 『……』 『分かるだろう? あなたがどうやって彼に接しているかは知らないが、覚悟はしているのか。彼の才能をさまたげるかもしれない責任を分かっているのか。自覚しているのか』 『私は』 やっと、氏は言葉を止めて麻衣の反応を待った。 中身でも関係の質でもなく、表から見える付属物だけで評価されることがひどく悔しいものだと、麻衣は改めて思い知らされた。英語ができない。肩書きがない。有能でもない。 (でも……) 『ナルは普通の人間だと思っています。天才なんていう化け物じゃない』 ブライトン氏との会見の間中、英語が自在に使えないことを差し引いても麻衣はおとなしかった。 それはそれで話が楽に進んでいいのだが、とナルは早々に話を切り上げるよう努力を怠らなかった。とにかく研究の時間を食いつぶすものはなんであれ面倒なのである。それがたとえ当の研究に必要なものであろうとも。 ホテルを辞した後はオフィスに寄らずまっすぐ自宅に帰ったのだが、それでも時計の短針はすでに半分よりずっと左側へ傾いていた。 気が付かないうちに麻衣が付いてきていたことを思い出したのは、マンションの部屋で彼女に紅茶を注文したときであった。 (いたのか) と思いながらナルはキッチンへ向かう麻衣の後ろ姿を見る。 当然新宿からずっととなりにいて、時折は話しかけてきたはずだが、まったく耳に入っていなかった。もしかしたら無意識のうちに返事をしていたかもしれないが、頭の中は今日ブライトン氏に話してきた次回の論文のことで飽和状態になっていたのである。 大体、論文の話をしていながらすぐにその場で作業にかかることができないというのは、ナルにとっては拷問のようなものである。新宿からマンションまで約1時間、帰ったら何をするかだけを考え続けていた。 これが真砂子か綾子あたりなら、ナルが返事をしないことに苛立って文句をつけてくるのだろうが、麻衣は慣れているはずである。いつも程度を越えてうるさくはしてこないし、その日もそうであったと思う。 「はい、お茶」 「ああ。……どうも」 一応形ばかりでも礼を口にしたのは、それでも多少は罪悪感があったからなのか。 麻衣は少し意外そうに眉を上げて目元をやわらげた。 そのまま、彼女がソファのとなり、定位置に座る気配がする。ナルはひたすら資料を繰っていた。 「となりにいたら邪魔?」 「静かにしていてくれれば、別に」 「しゃべったら、邪魔?」 「邪魔」 あっそう、と麻衣はソファの背によりかかる。 いつもと寸分変わらないと言っていい問答だ。しかし、麻衣の気分は違ったようだった。 唐突に、彼女は背を起こした。 「邪魔したい」 「なら帰れ」 「邪魔したいって言ってるの。帰らない」 「わがままに付き合ってる暇はない」 「あたしは付き合ってるよ? たまにはナルも付き合って」 無茶な言い分に、ナルは不愉快になって彼女の強情な目をにらむ。 「お前は勝手にしてるだけだろう。押しつけるな」 「わがままだよ。分かってるよ。でも、そうしたいの」 麻衣はひるまなかった。 なぜ突然そうなるのか、ナルは理解に苦しんですぐにその思索を投げ出した。心霊現象に関わりのないことで頭を悩ませることは好まない。そう言ってるのだから、そういうことなのだろう。理由と結果など知らない。慮ってやる必要もない。 相手をすることも、ナルはすぐに放棄した。 「帰らないからね」 「そう」 「しゃべるし」 「勝手にすれば」 実際、麻衣は勝手にした。 資料に没頭するナルのとなりで1人返事のないおしゃべりを続ける。ブライトン氏の印象、ナルの仕事の話、まるで堰を切ったように話し出す。 「ナルは自分を天才だと思う?」 その問いに、彼は初めて麻衣の方を見た。 「天才なら、あたしが横でしゃべってようが、何しようが関係ないよね。天才なら!」 「何が言いたい?」 「すごい集中力だと思うよ。すごい情熱だと思うよ。すごいと思ってるよ。でも、周りの人間のことを無視して自分のやりたいことをやるのがそんなに偉いの? 人の好意に甘えてわがまま許してもらうのがそんなに偉いの? そこまでして守ってあげなきゃいけないもの!?」 「何を怒ってるんだ?」 「ナルの態度!」 「何もしてない。八つ当たりするな」 「八つ当たりかもね。今怒鳴り散らしてるのはね! でも、言ってることは本気だよ」 「迷惑だ。早く帰ってくれ」 「やだ、って言ってるでしょ!」 麻衣の目がこらえきれないように潤んだ。 「たまにはあたしのために時間を割いてよ。どうでもいいものみたいに扱わないで」 「実際どうでもいいし」 彼女の表情が変わった。はっとしたように。 言い過ぎたことをナルは知った。しかし言ってしまったものは取り返しがつかない。彼は怒声を浴びせられることに平静ではいられなかった。 「どうでもいいの? ここにいるのは、あたしじゃなくても構わない?」 「構わないも何も、帰れと言ってるんだが」 数秒間、にらみあうようにお互いの目を見つめていた。しばしして、麻衣は立ち上がった。 そのまま身を翻す。彼女が帰ろうとしているのだとすぐ予想はついたが、仕事を投げ出して追いかけるほどの情熱は、ナルには持てなかった。当然の結果として、1分後には玄関でドアが開閉する音がした。 ナルは、ため息を1つついた。 (どうでもいいか?) どうでもいいわけではないな、と自嘲気味にナルは思った。 あおられての失言を自嘲したのではない。仕事を目の前にしながらどうでもいいとは思えない自分を、嘲笑したのである。 仕事に頭を戻すのに、2分ほどはかかった。 また2人きりで会う気があるのかどうか分からない、とナルは思っていたのだが、予想を裏切って麻衣は10分ほどで部屋に帰ってきた。 ガチャリ、と重たいドアが開く音がした。この部屋で金属製のドアを使っているのは玄関だけだから、すぐに玄関のドアが開いたのだと分かった。合い鍵を持っているのは麻衣とリンの2人である。リンが夜になってからインターホンも押さずに入ってくるわけがないから、すぐに麻衣だと分かった。 「帰ったんじゃなかったのか」 部屋に入ってきた麻衣に言うと、近所のコンビニの袋を下げて帰ってきた彼女は不可解な温度をした目でナルを見た。 「残念でした。帰らないって言ったでしょ」 (別段残念なわけではないが) 今回ばかりは自分が折れるべきかと思っていたので、むしろありがたい。 ナルは謝らずに済んだことに安堵したので、それ以上何も言わずまた資料を手に取った。頭の中で論文の構成ができつつある。 「あきらめてないよ」 麻衣の細身の体が、資料の束を避けてテーブルの上に乗った。 資料と向き合っているナルのちょうどななめ前に座ったことになる。テーブルを腰掛け代わりにする習慣があるとは知らなかったので、ちらりとだけ目をやる。麻衣はどこか真摯な目で彼を見つめていた。 「どうでもいいなんて、嘘でしょ?」 実際言葉の綾というものであったが、ナルは何も言わない。 「そんなこと、言わせないんだから」 その言葉は、悲痛、にも響いた。 ナルが資料に線を引き始めるそばで、缶ジュースの類のプルトップを開ける音がした。 「何をしてるんだ」 「アルコールを摂取してるんです。見てのとおり」 まったく見てのとおり、麻衣はコンビニで売っている安物のカクテルを仰いでいた。彼女は酒に弱いと言うほど弱いわけではないが、酒飲みでもない。付き合いの飲み会で普通に口にする程度だと知っていたのでナルは少々眉をひそめた。 大きく一口飲んだ程度だと思う、彼女はすぐに缶を口から離してテーブルの上に置いた。 「酒を買いに行っていたわけか」 「そ。乱暴な発言を反省しててくれたら飲まなくてもいいと思ったけど。飲まなきゃやってられるか」 「飲み過ぎには注意するんだな」 特にとがめだてする必要があるわけでもない。 ナルは線を引き終えた紙をながめ、ペンでテーブルを叩いて内容を吟味した。 そのナルの真横に、何かがとさりと投げられた。目をやれば、ベージュのセーターが無造作に投げ捨てられている。 何事かと視線を動かして、ナルは唖然とした。麻衣はセーターの下に着ていたシャツのボタンに手を掛けているのである。止めているわけではない、外しているのだ。 「酔うには少し早いな」 「当たり前だい。酔ってないよ」 彼女の目はごく正常に見えたが、先ほどと同様、ひどく真摯な目をしていた。思い詰めている、と言えば正しいのだろうか、とナルは思う。 下まで外し終えると、麻衣は躊躇なくシャツも脱ぎ捨てた。セーターと似たベージュのブラジャーがあらわになり、また柔らかそうな肌がそのまま蛍光灯の下にさらされた。なめらかな腹が穏やかに上下しているのが、ナルの目にやけにはっきり見えた。 「無視できるものならしてみて」 その声で、ナルはようやく自分が呆然としていたことに気が付いた。 強く意識して視線を麻衣の半裸身から引き剥がし、手元の文字の上に固定する。 少しの時間の後、もう1枚、服が投げられた。確認は意識を抑え込んでしなかったが、大きさからしてスカートだったのだろう。スカートに隠している彼女の白い太股を思い出した。レースに彩られた下肢。柔らかい太股で懸命に隠した場所を押し広げる時、彼女がどんな声を上げるか知っていた。知りすぎていたから、幻覚はやけに鮮明だった。 もう1枚。ひどく軽い、ぱさりという音。さらに、もう1枚。 「ナル」 小さく呼ぶ声に反射的に顔を上げれば、アンダーウェア以外何も身につけてない、腕でかばってすらいない半裸の女が彼を見つめていた。甘く、目を潤ませて。 まろやかな胸の膨らみとその先の突起が、彼の理性を突き刺した。 無理に視線をそらした。見つめている彼女の視線が強く眼裏にこびりついていなかったら、彼はその場で頭を押さえていたかもしれない。 誘惑だと分かりきっている。挑発だと分かりきっているのだ。 素直に従えるわけがない。今すぐその乳房を噛んでやりたいと思っても。 文字列の上を視線がさまよった。見ていても、見えていない。つい先ほどまで麻衣を見る彼の視線がそうだったように。彼女の身体に発作のように欲情して、価値は入れ替わる。 躊躇しているのかしばしの間をおいて、最後の1枚が放り投げられた。 「……ナル」 見て、と言えずに込められた声が彼を呼ぶ。 けして見なかった。全裸の彼女を見てしまったら。この明るい下で見てしまったら。 しかし、彼女は自分で立ち上がって彼のすぐとなりに座った。腕と腕が絡められる。 初めて彼女が震えていたことを知った。考えてみれば当たり前である。灯りの下で自分の恋人に服を脱いで見せているのである。 現実感が強い波になってナルを襲ってきた。 自分の服という薄い布1枚を隔てて感じる柔らかな肉体。人間の視界は、自分のすぐとなりをも捕らえてしまう。視界の端に否応なく入り込んでくる白い肌。弾力があって柔らかく、あたたかく、これ以上さわり心地のいい生き物を他に知らない。そのなめらかさを指で舌で好きなだけ味わいたいという誘惑に、ナルは理性を総動員して抗った。 唇をつけてしまえば止められない。 「……欲情、した?」 細い指が脚の上に乗せられる。 その指へ目をやって、彼は自分が籠絡したことを知った。理性ではなく、本能が忠実に反応していた。 強ばった目元を、やっと手で隠した。 「……滑稽だな」 「そう? 嬉しいけどな」 「うまくいってよかったな」 「うん……そうだけど」 ことりと頭が肩にもたせかけられる。 「ただ、嬉しいの」 麻衣の手がナルの上着のボタンにかかり、肩口に甘く唇が落とされる。 顔に押し当てていた手を外して女の裸体を引き寄せると、彼女が彼に比べかなり小柄であったことがはっきり分かった。腕の中に囲ってしまえるこの身体にここまで幻惑されたのだと思うとやはりひどく滑稽な気がした。 普段は服に包まれているだけで意識せずにいられる甘い宝が、一糸まとわぬ姿になっただけでこれほど力を持って存在を主張する。彼を強い力で他のものから引き寄せる。 (目を背けているだけなんだ) 抱きしめられて安堵したようにため息をつく誘惑者の身体へ、口づけを贈る。首筋に、背中に。 それだけで吐息を漏らす無力な身体は、それでも彼の上着をはだけ、反対の左手で軽く彼の本能にふれた。 「……覚悟してるのか?」 麻衣は上気した顔を上げ、まじまじと彼を見る。その言葉が今彼女にもたらす意味をナルは知らない。ただ、それは最後の強がりだった。 「それ以上すると、手加減できない」 「……覚悟なら、してる。そうじゃなきゃこんなことできない」 そう、と呟いて左手を上から自分の左手で包み込む。自分の快感と欲情をあおる行為だと彼はもちろん知っていた。後戻りをする気はなくなった。普段なら彼女を気遣うのが第一の優先事項である。今度ばかりは、やめろと言われてもやめられる自信がない。 麻衣は抗わず、ナルの肩に顔をうずめて羞恥に耐えているようだった。ためらいがちに首筋をなめられる。ナルは左手に力を入れ、彼女の手と自分自身を包んだ。 ナルが重ねた手を通して麻衣に自身を刺激させようとしているのを悟ったのか、麻衣は左手を引くような動作を見せる。 「……やめるなら、今どうぞ。もう忠告はしない」 「姿勢が辛いから、反対の手にするだけ。やめない」 抜いた左手をナルの肩に回し、自分の身体をぎゅっと押しつけて、麻衣はナルの身体に沿わすように右手をそこへ差し伸べた。 「覚悟なら、してるんだから。みくびるな」 意地になってるな、と残ったどこか冷静な部分で思ったが、それでやめようとは思わなかった。いや、やめた方がいいと主張した理性を他のものが奥底へ押し込んだ。 空いている右手を密着した身体と身体の間に押し入れ、軽く距離を取らせる。抱擁につぶされていた乳房を掴んで揉みしだきながら中指で頂点をいじると、麻衣は快感に耐えるように下を向いた。麻衣の手で自分の身体をさわらせている間、反対の手はじらすこともせずまっすぐに彼女の性感帯を攻め続けた。 「ナル……ベッドに行こう」 恥ずかしそうに彼女が呟いた。 自分だけが素裸をさらしているのだから、もっともな話である。しかし彼は突然下肢のもっとも敏感な芯をつまみあげることで彼女を黙らせた。 「時間が惜しいので。仕事が終わってない」 きっ、と麻衣が顔を上げた。 「こういうときに仕事の話するかな」 「気に障ったなら失礼」 「障ったなんてもんじゃない。あたしじゃセックスの間も仕事忘れられない?」 別に、と答えようかどうしようか迷って見つめ返すと、麻衣はそれをどう理解したのか自分を責めていたナルの手を外させた。 自由になった身体は、ナルに対して垂直にソファの上へ横たえられる。 何をするつもりだ、と思ったのは一瞬で、すぐに彼女の意図を悟った。完全に取り返しのつかないところまで彼を追いやるつもりなのだ。 左手でガードしようかとも思ったが、体はほとんど独自の意志を持って彼女の唇に場所を明け渡した。柔らかい唇を、内心まちわびて期待していた。 ズボンを押し上げるふくらみへ、優しく噛みつく感触が伝わった。 布越しに舐められ、唇で挟まれ、おとなしく従っていたのは何分間だっただろうか。かなり長い間彼女の意地にかこつけて愛撫をさせ続けた。麻衣の小さな口からもれる息が弾んできて、ナルは自分の鼓動も相当に早くなっていることに気付く。 おもむろに麻衣の上半身を起きあがらせ、自分の膝の上に座らせた。 上着の前が完全にはだけているとはいえ一応すべての服を身につけている男。その膝に座る女性は無防備な裸体で彼の胴体の分だけ横に脚を開いて下肢をさらしている。 ――欲情。 「時間を」 「え?」 茫洋とした表情で乱れた息を弾ませ、麻衣は彼を見る。 「時間をかけられないが。少し痛いかも」 「……いいけど。避妊……」 「分かってる」 うん、と麻衣は曖昧にうなずいた。怖いのだろう。 はやる気持ちをなんとか抑えて、麻衣の身体を支える手と反対側で泉の奥に指を差し入れる。ろくな愛撫をしなくても続く緊張と行為の興奮でそこは割合に潤んでいて、彼の指を受け入れた。柔らかい抵抗を感じながら、彼は中指を埋めていく。 何度かゆっくりと抜き差しを繰り返すと、羞恥をあおる淫らな音と甘い声がもれた。 「脱がしてくれ」 小さく言うと、うなずいた麻衣はさしたる抵抗もなくズボンに手を掛けた。緊張も飽和状態に達しているのだろう。ブリーフをずらして彼を露出させてしまうまで、手を止めることもなかった。 体奥に差し込んだ手の親指で微妙に花芯を刺激すると、急速に蜜があふれて指に感じる抵抗は少なくなっていった。 まだ少し早い、と分かっていた。もうしばらく愛撫を続けた方が彼女のためにはいいのだろう、と。 それでも意志を離れつつあるナルの体は、麻衣を抱き上げて自分の胸に密着させ、そのまま下へゆっくり下ろしていった。 「あ……。い……つっ」 呻いたのは小さな声だったし、それほど待たずに麻衣はいいよと告げてきた。 多少は普段より負荷がかかっているのだろう。だが、ナルはその声を待って躊躇なく彼女の体を揺すった。しびれるような快感。 意地や緊張の失せた艶めく顔が、首を反らせて彼の視界を支配した。 ナルは、変更を余儀なくされた前日の予定をながめ、ため息をついた。本来進むべきところまで原稿の準備が進んでいない。その代わりにこれ以上ない快楽を得たのだから別に悲しむべきことではないのだろうが、予定が狂うのは気に入らない。 「仕事、まずい?」 バツが悪そうにのぞきこんでくる麻衣は、朝食の片づけを終えたようでナルのとなりに座った。 「これきりにしてほしいね」 「2度としません。ごめんなさい」 もう1度大きくため息をつき、ナルはながめていてもしょうがない過去の予定を閉じた。 テーブルの上に用意されていた紅茶を手に取る。 暇になったと見たのか、麻衣がまだ少し遠慮がちに問いかけてきた。 「ねぇ……ナルはさ、自分が天才だと思う?」 「さぁ。頭脳の出来がいい人間をそう言うなら、そうだろうけど」 「感覚としては? 天才だと思ってる?」 少し考え、ナルはためらいがちに首を振った。 「いや」 「そう?」 「幼稚な誘惑に負けるようでは、先は遠いな」 くすぐったそうに、あるいは嬉しそうに、麻衣はくすくすと笑った。 それで調子に乗ったのか、さらに質問を重ねてくる。 「ねぇ、あたしがどうでもいいなんて嘘でしょ?」 「どうかな」 「嘘でしょ?」 答えてもらえるとも思っていないようで、麻衣は無邪気に笑う。 それが嘘かどうか、ナルは黙って考える。 (あの時点では、それほど嘘というわけでもなかった) だが、今は? 長い視点で見れば? 「少なくとも……」 「え?」 「他の女に同じことをされても平気だったな」 たっぷり3秒の間を置いて、麻衣が子供のように抱きついてきた。 |
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ごめんなさい(><;)。反省してます。もう無理な日程はたてません〜(涙)。 あと30分で家を出ないと、飛行機に間に合わないので、これで!!(爆) 帰ったら後書きだけでも書き直します〜(汗)。 |