麻衣が妊娠した。 その事実自体に、特筆すべき点はない。 定期的に(しかも避妊をせずに)肌を重ねていれば、いつかは起こる事態だと解っていたから、僕も麻衣も特に驚きはなかった。 少なくとも僕に関して言えば、少々予想より早かったな、とそう思っただけだ。 むしろ騒ぎ立てたのは周囲の人間たちで、これも予想の内に入っていたから、鬱陶しくはあったが特に珍しさを感じることもない。 入籍と引っ越しの手続きがあわただしく過ぎていくなかで、 当の本人が(何の根拠もなく)絶対に大丈夫だと主張し続けた悪阻が始まったのは、妊娠4週目のことだった。 |
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ニイラケイ |
病院の定期検診から戻った麻衣が、ある日突然言った。 「流産の危険があるから、しばらくセックスは禁止だって」 「知ってる」 諭すかのように言い含めんとした麻衣にそう返すと、彼女は一瞬驚き、すぐに不思議そうに眉を顰めた。 「・・・なんで知ってんの?」 「常識」 妊婦は安定期に入るまで激しい運動は禁物だ。 そんなこと、適度に知識のある人間なら誰でも知っているのではないだろうか。 けれど麻衣はしきりに首を傾げ、しばらくの間僕の方を胡散くさげに眺めては疑惑を隠しきれない溜息を投げてきた。 麻衣がこの部屋に越してきて、悪阻が始まって。ようやく満5週目が過ぎようとしている。 確かに、彼女の悪阻の症状はそれほど酷くないようで、決して日がな一日トイレに張り付いているわけではなかったが、 それでも、食事の用意はかなり無理をして続けているようで、時折炊飯器の前で真っ青な顔をしてはトイレに駆け込んでいた。 どんなに体調が悪くても、まるで何かの制約でも交わしたかのように、夕食の用意だけは欠かそうとしない麻衣に、 事務所に詰めて仕事をするから夕食はいらない、とは何故か言い出せず、多少遅くなろうと仕事を持ち帰ることになろうとも、 僕は家に戻るようになっていた。 「今日病院行ってきたんだけどね、たまには気分転換に外で食事したらどうかって、医師(せんせい)に言われたの」 自分で作った料理には一切手をつけず、食卓に両肘をついてこちらを見つめる麻衣は、親しい人間が見ればそうと解る程度には痩せたようだ。 (ここ最近、抱く機会がなかったから) だから気が付かなかった。 小さな言い訳が自分に対するものだと気付き、僕は心の中で僅かに苦笑する。 改めて麻衣の顔を見て、今さらにして妊婦の大変さを感じないでもない。ほんの一瞬、微かに頭を掠める程度の、あまりになおざりな思考に過ぎなかったけれど。 「よく考えてみたら、ここに越してきてから病院以外に出歩く機会もないしさ。運動不足も良くないんだって」 何故か上機嫌で話す彼女の話は、完全に右から左へ抜けている。 今日事務所を訪れた依頼者の話が、珍しく『当たり』かもしれない。 昼間から、そのことばかりが僕の頭の中を占めている。舌が味覚を感じるために使用する脳さえ、思考に向けていたかった。 だから、その後に続いた麻衣の台詞に、間を置かずに反応を返すことなどできるはずもなかった。 「ね、たまにはデートしよ?」 数拍挟んだあとのノーという答えに麻衣は膨れたが、始めから要求が受け入れられるとは思っていなかったようで、 「じゃあ、今度家事なんて全部放ったらかして、綾子たちと遊びに行っちゃおっと」などと僕に聞こえるように呟きながら立ち上がると、 まるで何事もなかったかのように、就寝の準備を始めた。 僕はいつもと同じ溜息を落とし、思考を纏めるために書斎へ向かった。 落ち着く室内の空気。 麻衣は紙と本だらけで埃くさいと言っては掃除したがっているが、何がどこに置いてあるのかが解ればそれで良い、と言う部屋だ。 だから、むしろ下手に掃除をして紙切れ一枚でも紛失されては堪らない。 麻衣もそのことが解っているのだろう、掃除をしたいと訴えはしても、勝手に触るようなことはない。 強要されることがないので、僕はこの部屋の掃除について彼女と討論する気もない。 結果、麻衣が渋々受け入れる形で書斎はこの家の中で唯一、無法地帯と化していた。 数十分の思考の波に心地よく漂っていると、背後の扉を叩く音がした。 「ナールー?入るよ〜」 振り返ると戸口に麻衣が立っていた。 寝間着に着替えた麻衣がひょこひょこと僕の隣へやってきて、大きな瞳でこちらを覗き込む。 いつの間に入浴を済ませたのか、頬が淡く上気し、髪は湿り気を帯びていた。 「ナル、お風呂」 「あとで」 「認めない!あとであとでって言っといて、絶対そのまま書斎で寝ちゃうんだから!」 「五月蝿い、喚くな。近所迷惑だ」 「ナルがさっさとお風呂に入ってくれて、ちゃんとベッドで寝てくれたら、あたしが喚く必要も無くなるんだけどなぁ」 「・・・・解った」 居心地の良い椅子から立ち上がり、浴室へ向かおうとする僕の腕を、麻衣が急に掴んだ。 「・・・? 麻衣?」 「背中流す?」 見上げてくる瞳に、邪気は見えない。媚びるでもない。ただ真っ直ぐに無邪気に。・・・残酷なほどに。 「要らない。先に寝てろ」 麻衣の額に掌を当てて軽く押しのけた。 背後から「寝ないでちゃんと待ってるからね」と声が聞こえたが、敢えて振り向くのはやめた。 寝室の扉を開けると、そこは闇に飲み込まれていた。 ベッドの上で何かが動く気配がして、小さな顔が闇の中に白く微かに浮かぶ。 「ナル?」 僕以外に誰が居るというのか。 全く心当たりがないわけではなかったが、わざわざそんな無駄なことに思考を費やすのが嫌になって、 僕は、麻衣の問いかけに答えないままベッドの上に座る。 寝転がっていた麻衣が、上半身だけ起きあがってこちらを見上げた。 「ナル、オヤスミ」 「・・・・そんな事を言うために起きてたのか?」 「そ。いじらしいでしょ?」 「へえ、それは知らなかった」 ルームランプの明かりをつけて、サイドテーブルの抽斗から眼鏡を探す。 「・・・・ね、明日ヒマ?」 「お前よりは忙しい」 「・・・・・・・デートして下さい」 「何故?」 「ナルと一緒に出掛けたいから。たまには恋人気分で」 「下らないな」 「わぁるかったねっ」 また機嫌を損ねた麻衣が、頬を膨らませてそっぽを向いた。 僕は麻衣を無視して眼鏡とともに見つけだした本へ手を伸ばす。 (・・・どうせ今夜も眠れない) 暫く後、隣から麻衣の寝息が聞こえてきた。 僕は、カモフラージュの役割しか果たせなかった役立たずな本を投げ捨て、自分も眠るように試みる。 僕も麻衣も、標準的な体型のランクから言えばおそらく華奢な部類に入るのだろう。 それ故か、ダブルベッドの面積は購入当初の予想より広く、麻衣に全く触れることなく眠ることも不可能ではない。 必要以上に肌が触れないように、適度な距離を置いて自分の身を横たえる。 向き合う形になるのは、本心から言えば極力避けたかったが、それを避けたからと言ってどうなる問題でもない。 眠れない夜に変わりはないのだから。 目の前に女が居る。触れることに慣れた身体がある。・・・触れることの出来ない身体がある。 キスをしたい、と思う。抱きしめたい、とも思う。 何よりも、「犯したい」と。 安心という名の毛布に包まれて眠る麻衣が、いっそ憎らしく思えるほどに。 その衣を引き裂けば、現れるであろう白い肩を知っている。 白い肢体に口づければ、淡く染まる肌を知っている。 知りすぎるほどに。 いっそ、知らないままだったら良かったのか。 何も知らない子供のままだったなら、きっと彼女をただ抱きしめて眠ることだってできただろう。 (・・・本当に?) できると断言するのか。 浅はかでえげつない妄想に苛まれて、自己憎悪に陥っているような自分が? 戸籍上『配偶者』となった女は、何も知らずにただ眠っている。 安心と幸福に包まれているかのような、安らかな寝顔。まるで世界の全てが、彼女の味方にでもなったような。 「・・・ん・・」 無意識のうちに寝心地の良い体勢を取ろうとしたのか、麻衣が小さく寝返りを打った。 僕の右側に横たわっている彼女は、自然、こちらに背を向ける形になる。 薄い寝間着を身につけただけの少女のような背中。 そのあどけない寝顔が見えなくなって、ほっとした自分に苛立つ。 代わりに視界に入る薄い肩や小さな背中に、新たな欲情を感じる自分に腹を立てた。 (・・・) 深い溜息と共にベッドを降りる。ギシリとベッドが鳴る。 その、予想以上の音の響きに、麻衣を起こしたのではないかと一度振り返りはしたが、 彼女は身じろいだだけで起きあがってくる気配はなかった。 寝室を出てキッチンへ向かう。 冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを取りだして、乾燥した喉を潤す。 毎晩のように繰り返す、無意味な行為。 一体何が満たされればこの睡眠不足にピリオドが打てるのか。 そんな解りきった問いかけさえ、自分の中で漂い淀み、渦を巻く。 堰き止め続けていた川は、ほんの小さな掛けがねを外しても、二度と修復できない最悪の結果を生んでしまうだろう。 例えそれが、腐りきった濁り水の川だったとしても。 飲み下した液体が、胸の奥を伝う感触。 断続的に感じる、空腹とは異なる堪えがたい飢え。 妊娠した、おめでたいと人は言う。 その言葉に偽りはない。それは自分でも解っている。 別に新しい命を拒否しているわけでもない。 納得して今の現状を呼び寄せたのだから、覚悟もなかったわけじゃない。 まだ実感として沸いてはこなくても、世間一般で言う『幸せ』を思わないわけでもない。 (ただ) この飢餓感を、耐えきれない乾きを、癒したいと思うだけだ。 水分でもなく食事でもなく、柔らかく暖かい肌で。もっと優しい吐息で。 今は手に入れられない、あの熱で。 ペットボトルを片手にリビングに出る。その向こうにある寝室に戻る気にはなれず、その足で書斎へ向かった。 真っ暗な部屋。微かな埃の匂い。 机のすぐ横、フローリングの床に直接座り込む。 マンション自体の空調設備がある程度充実しているせいなのか、酷く寒さを感じることはない。 落ち着きを取り戻し始めた感情とそれに伴う身体の変化に、僕はもう一度ボトルを仰ぐ。 食道を通りすぎていく冷水。冷えていく本能。戻りつつある理性。 求めているのは熱。・・・けれど叶わない。 机の上に放置していた書類を意味もなく捲る。 この状況下で別段楽しい行為でもなかったが、自分という動物を鎮めるにはいい手だった。 求めるものもなく、ただ捲り続けていた書類が一番下まで来てしまうと、 それ以上やることもなくなって、僕はもう一度水を胃に収める。 ふと横を見やると、いつの間に置いていったのか、 女性もののカーディガンが椅子の向こうにある本の山の上に無造作に載せられていた。 先ほど麻衣がここを訪れたときに置いていったのだろうか。 何気なく手を伸ばしてみる。 麻衣が普段から部屋着の上に羽織っているもので、寒い夜は大概身につけていた覚えがある。 確か薄いベージュだったような気はするが、この暗闇の中で色の判別は難しい。 (別に色なんてどうでも良い) 何色だったからどう、と言うわけでもない。 このカーディガンを引き寄せてみた理由さえ、自分でも理解できていないのだから。 書斎を選んだのは、麻衣の匂いがしないから。 麻衣自身には関わりのないところで、僕が感じている彼女の呪縛から、逃れるために。 書斎には麻衣の匂いがないはずだったのだ。少なくとも、昨日までは。 掛けがねが外れる音が、遠くで聞こえた。 押し寄せてくる波に、飲み込まれる自分を、遠くから眺めている自分がいた。 微かな埃の匂い。焼けるような喉。言葉にはならない感情の渦。 匂い。 積み重ねた本。小さく響く、自分の呼吸の音。 麻衣の。 暗闇。闇の向こうに扉。その向こうの、その向こうに。 ・・・抱きたい。 膨れた顔を、はにかんだような笑みを、艶めいた喘ぎを、流れ落ちた官能を、濡れた瞳を。 全て。 硬質な目覚ましの音に、不快感を拭いきれずに手を伸ばした。 あたりをつけて探してみても、あるはずの場所に目覚ましがない。 (・・・・あれぇ?) ぱたぱたと手を動かしていると、暖かい何かに指先があたる。 「うぅ・・・んぃ・・・?」 「さっさと起きろ」 「ナル?」 ナルが鳴り続ける目覚ましを綺麗な指で止めた。さっき指に当たったのはナルの腕だったらしい。 「おはよ〜・・・」 丁度触れたままの腕を掴んで、寝惚けた振りをしてナルに擦り寄ると、彼は一瞬眉を顰めてあたしの額を指で弾いた。 「早くしろ。出掛けるんだろう?」 何でもないことのように、当たり前のように、ナルが言った。 「・・・良いの?」 「早くしないと気が変わるかもしれないな」 「すぐ準備する!」 あたしは、大好きなベッドから飛び降りた。 部屋の中を忙しなく動き回る麻衣を眺めて、僕は溜息を落とす。 あれだけしつこく言うのだから、準備ぐらいしてあるのかと思っていたら、案の定これだ。 あれがない、これがない、と大きな独り言を呟きながら、麻衣はふと動きを止めた。 「ねぇ、何で急に気が変わったの?」 「さあな」 別にこれといった理由はない。敢えて言うならば、微かに感じる罪悪感なのかも知れない。 けれど、何に対する罪悪感か、と問われると返事に窮するのは必至なので、適当に口を濁しておく。 麻衣が自分のバッグを取りに寝室へ向かいかけ、突然振り返った。 一瞬だけ言い淀んだあと、麻衣は真っ直ぐにこちらを見た。純粋な残酷な、あの目で。 「ねぇ、・・・・夕べも寝れなかったんだね」 「・・・知ってたのか?」 「同じベッドに寝てて、気付かないと思った?」 「麻衣は鈍いからな」 「あのねぇ!」 「起こして悪かった」 「・・・そういうこと言ってるんじゃないよ」 麻衣が一つ深呼吸をする。妙に真剣な顔で。 「辛い?」 「さあ」 「・・・したい?」 「別に」 「ウソつき」 「訊いてどうするんだ? どうしようもないだろう」 「そんなこと無いと思うけど」 「へぇ、それは是非ご高説賜りたいな」 寝室へすいっと消えた麻衣が、すぐにバッグを片手に引き返してきた。 そのまま近寄ってきて耳元で囁かれた言葉に、僕は大仰な溜息を返した。 「ね、いい手だと思わない?」 「出来るものなら」 「出来るよ」 「へえ」 「出来るよ、ナルのためなら」 久しぶりに触れた麻衣の唇は、やけに懐かしい味がした。 |
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訳が分からないわ・・・、と思われた方。 大丈夫、それはあなたの読解力の問題ではありません。 書いてる私も訳解らないですから。←大問題だろ。 もー、へろへろです。まだ読み返してもいません。 がしかし、話の筋が通ってるかどうか確認する時間がありません(死滅) 既にこの時点で締め切り破ってます。・・・・・・・・ごめんなさい、なずなさん・・・・・・・(反省) ・・・折角ここまで探して来て下さったのに、こんなんですいませんでした・・・m(_ _)m 次は・・・次こそは!!!(エンドレス) あ、ちなみにですね、かなりぼやかして書いたので解りにくいかと存じますが、 途中、オリヴァー氏は一人で励んでます。それ故の『罪悪感』です。 ・・・・解る人だけ解って下さい・・・・・・・・(書き逃げ) |