告白はあたしから。 初めてのキスもあたしから。触れるのも抱きつくのも、小さな愛の囁きさえも。 ナルはいつも、それをちょっと迷惑そうに受け入れる。(勿論、彼の仕事及び趣味を邪魔していなければ、という条件付きだけど) ベッドに誘ったことは、まだ無い。流石にそれは恥ずかしくて出来ずにいる。 あたしは、一度もナルに好意(異性に対するそれ)を示して貰ったことがない。恋人と呼んで良いものかどうかもいまいち解らない。 ただ、とりあえず拒まれたことはないし、それなりの態度を返してくれることもある。 だから「恋人にしても良いかな」ぐらいかもしれない。 例えそうだったとしても、渋谷一也、基、オリバー・デイヴィス氏の普段の素行を知っている人間にしてみたら、 格別の扱いではあるのだけど。 彼は、自分に向けられる愛情を、あまり信じていない。 |
愛シテル。 | |
ニイラケイ |
渋谷サイキックリサーチは、日曜が定休日ではない。 むしろ、決まった休みなどこの事務所には存在しない。いつも所長の一存と所員の都合をミックスして休みが決まる。 だからこそ今日は珍しい、「日曜日の定休日」。 今回の大まかな理由は、助手であるリンの不在とアルバイト員の片割れである安原の試験休みと、 緊急依頼による所長殿の論文作成によるものだった。(某少女がごねた故であるという説も多分に存在するが) もう一人のアルバイト員、谷山麻衣はその日、所長ことナルに呼び出しを掛けられていた。 場所はナルとリンが在居するマンション。理由は不明。 おそらく色っぽい話ではないだろうとあらかじめ解っていた麻衣は、 何も入っていないであろう冷蔵庫を思い、ナルと自分の分の食材を買い込んでから、彼の住むマンションへ向かった。 一応キスまでは経験している異性の部屋に、ときめきの代わりにスーパーの袋をぶら下げて訪れる、虚しさと寂しさ。 『多分おそらくは恋人同士』という、不明瞭極まりない状況に飛び込んでから約一ヶ月。 99%に限りなく近い確率で研究か仕事、或いはそれらに関する話だと解ってはいても、 秘かに「もしかして」と思わずにいられないのが乙女ゴコロというもの。 (・・・我ながら懲りないよな、あたしも・・・) 数分後、彼女の淡い淡い期待は超心理学会の若き希望の星によって、敢えなく打ち砕かれるのだが。 「・・・ねぇ、何読んでんの?」 「説明しても仕方ないだろう、理解できるつもりか?」 部屋に入った途端に打ち砕かれた幻想が、ナルの言葉とともに麻衣に突き刺さる。 理解できるのか? でなく、できるつもりか? ときた。 どこまでも失敬な奴。かわいげの欠片もない。 顔が綺麗で頭が切れて、特殊と呼ばれても過言ではないほど有能で、しかも質の悪いことに自分の価値を知っている。 それ故に、自らを決して安売りしない。天上天下唯我独尊、天下無敵のナルシスト。 (そんなのに何故惚れたんだ、あたし・・・) リビングのそこかしこに散らばった辞書と見紛うばかりの洋書の山。 その山の中で、どうやらナルはなにかの資料を探しているらしい。 この部屋に麻衣が入ってきてから、ナルは一度たりとも麻衣の方へ視線を寄越そうとしない。 こちらから話しかけなければ、明日の夜になってもここに突っ立っていなければならなくなりそうだ。 麻衣は溜息とともにナルを呼ぶ。彼の生返事を受けて、麻衣は大きく息を吸った。 何事も気合いが肝心なのだ。特に、ナルと会話をしようと決意したときは。 「何であたしをここへ呼びつけたの? 仕事があるなら早く言いつけてよ。ぐだぐだしてたら日が暮れるでしょうが」 本の背表紙を叩いて注意を引きつけようと試みるが、不機嫌そうな顔をしただけで視線の向きは変わらなかった。 「ナル!」 ひときわ大きく声を張り上げると、やっとナルがそれらしい返事をした。 「お茶」 「・・・・・は?」 「お茶、と言った」 「お茶って・・・・・・」 ナルは本の隙間からちらりとこちらを見て、綺麗な形の柳眉を顰める。 「日本語くらいは使えると思っていたんだが?」 これ以上ないほど明らかな侮蔑の眼差しが向けられる。 ナルにとっては、麻衣がナルのためだけに折角の休日を潰してまでお茶を煎れることがごく当たり前のことのようだ。 「・・・あんた、もしかしてあたしをハウスキーパーのために呼んだんじゃないだろうな」 「お前にそれほど家事がこなせるとは思えないな」 そこで言葉を切って、ナルはもう一度念を押すように言った。 「お茶」 渋々ながらもお茶を煎れてリビングに戻ると、既にそこにはナルの姿はない。 どうやら目当ての資料を探し当て、自らの作業に没頭するためのスペースへ戻っていったらしい。 麻衣は、今日何度目かの溜息を押し殺して、書斎の扉をノックした。室内から返事はなかったが、「入るよ」と一声掛けて扉を開ける。 部屋に入った真正面に大きな机が壁に沿って置かれている。そして、そこに座るナルにはもう外界の音は聞こえない。 一度波に乗ってしまったら、もう何を言っても何をしても、自分の中でその作業にキリを付けるまで、彼は勤勉かつ勤労なマネキン人形と化す。 たった今麻衣が煎れたばかりのお茶の、温度と風味という部分は間違いなく無駄になるだろう。 それでも一応目に付きやすそうな場所を狙ってティーカップを置く。 もしも、突然現実に返ってきたナルがお茶を発見できなかった場合、すぐさま嫌味が飛び出すだろうことは、経験上よく解っているからだ。 先刻押し殺したはずの溜息が、最後まで堪えきれずにこぼれ落ちる。 麻衣はこの部屋に一歩足を踏み入れた瞬間から、今日という貴重な休日をナルのために全て費やす覚悟を決めた。 (・・・何だ、この惨状は) 書斎の中は文字通りの無法地帯となっていた。 紙屑から書類から資料なのかそうではないのかよく解らない本から、 ナルが自分で煎れたのであろう紅茶が底の方に微かに残っている、いつのものか判断が付きかねるティーカップから。 何もかもが床に棚の上に机の下に散乱して、一種の芸術とも呼べるほどの状況を生みだしている。 ろくに食事を摂取していない分だけ、生ゴミがないのが不幸中の幸いと言ったところか。 ナルの執筆中にこの家に来たのはこれが初めてだが、まさかいつも彼はこんな状態で仕事をしているのだろうか。 だとしたら、夏の時期には病気になりかねない。ただでさえ栄養素の足りていない身体で、換気もしていない部屋で。 今下手に周りを触ると気が散るだろうと、麻衣は入ってきたとき同様、無駄な物音を発てずに書斎を後にした。 片付けはナルに昼食を食べさせているときにしよう、と、心に誓って。 部屋は出たものの、今更ナルに「何故呼び出したのか」と問いただすことも出来ず、 かといって、あの部屋の状況を見てしまった今となっては、友達に電話して今からどこかへ遊びに出掛ける、というのも気が引ける。 どうせ声を掛けて書斎から引っぱり出してやらなければ、ナルのことだ。昼食はおろか、夕食だって採らないだろう。 買ってきた食材を無駄にするのも勿体ないし、先ほどちらりと覗いた洗面台兼脱衣所には、洗濯物が積み重なっていた。 (・・・先ずは洗濯からかな) ナルは自分で洗濯はしないらしい。彼が洗濯機に自分のシャツやらズボンやらを放り込んで、 洗剤と柔軟剤なんかを入れてスイッチを押す姿なんて、決して想像できるものではないけれど。 以前彼が生活していたホテルではそこの従業員が全て賄ってくれるわけだが、現在のナルはマンション暮らし。ホテルの頃の恩恵には預かれない身分だ。 では全てクリーニングにでも出しているのか。 それも違う。わざわざ出しに行かなければいけなかったり、誰かが取りに来るのを待たなければいけないクリーニングは、結構意外と面倒くさい。 そしてナルはそういう手間さえも惜しむタイプの人間だ。 結論から言うと、普段のナルの洗濯物は、保護者代わりでお目付役(むしろ世話役に近いと、仲間内では専らの噂だが)のリンが全て請け負っている。 事務所で何かの話をしているときに、麻衣はリン本人の口からそう聞いていた。 そのリンが居ない今、この家の王様は「彼が居ないから自分で」等と考えるほど、殊勝な意見の持ち主では勿論あり得ない。 現状を踏まえて再度頭を捻ると、これらの洗濯物は有料であるコインランドリーか、無料奉仕である麻衣が奮闘する、という選択肢に導かれるのだ。 答えは簡単。当然、タダに勝るものはない。 このマンションが洗濯機を備え付けていることと洗剤その他の道具が揃っていることを確認して、麻衣はまず寝室へ向かった。 どうせ交換なんてしていないだろうベッドカバーやシーツを力任せに全部引っ剥がす。有り難いことに今日は快晴、降水確率0%。 麻衣は上着の袖を捲り上げて、シーツを抱きかかえた。 何度目かの洗濯機を回して、その合間に書斎以外に掃除機も掛けて、昼御飯の準備も粗方終わった。 自分の仕事が満足行く程度に進行したことに気を良くして、麻衣が上機嫌で掃除機を棚にしまい込んでいると、 いつもよりやや青白い顔をしたナルが、書斎から不意に顔を出した。 ここ数日間、ナルはいつもこんな顔色をしている。 どうも論文の進行が芳しくないようだ、と麻衣の目から見ても解る。だからといって、彼の仕事に関して麻衣が口出しをすることは出来ない。 麻衣に出来ることは、こうして掃除や洗濯をして、ナルの健康がこれ以上損なわれないように、食事を作ること。 見守ることの辛さを感じないではないが、人にはそれぞれ出来ることが違うのだからそれで良いと、この頃の麻衣は悟りらしきものを開きかけている。 麻衣の横を無言で通りすぎようとしたナルを、「お昼どうする?」と引き留めると、素っ気なく「要らない」と返された。 「折角作ったのに、無駄になっちゃうじゃんか」 「麻衣が食べれば」 「駄目だよ、休憩入れて。書斎に落ちてる食器だけでも拾って洗わせてよね。カビるから」 ナルは鬱陶しそうな顔をしたものの、結局リビングのソファに腰を下ろして、近くに積み重ねてあった洋書を手に取った。 「今食べる?」 「ああ」 「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐ出すから」 キッチンに向かおうとした麻衣を、ナルが急に呼び止めた。 「何?」 ナルの声に従って麻衣が振り向くと、ナルはそれまで向けていた視線から麻衣を外した。 「・・・いや、いい」 「書斎片付けて良い?」 「書類と資料には触るな」 「了解」 昼食をテーブルに出してすぐ、ナルの許可を得て書斎へ向かう。 地面に落ちている紙や本の類には触れず、とにかく食器とゴミを掻き集めた。 あまりの埃っぽさに換気も考えたが、春風の悪戯で紙が飛ばないとも限らないので、それは諦めた。 とりあえず扉だけは大きく開け放って、ゴミ袋とティーカップを抱えてリビングに戻ると、 ナルは既に食事を終え、読書に入っていた。 「終わったよ、お待たせ」 「ああ」 相変わらず顔色の悪いナルの横顔に、麻衣は余計なお世話だ、と切り捨てられることを覚悟で控えめに訊ねた。 「ちょっと休んだら?」 「たったいま休憩はとった」 「そうじゃなくて、ちょっと寝た方が良いんじゃない? 顔、白いの通り越して青くなってる」 体調悪いの、自分が一番よく解ってるでしょ。 押しつけすぎると反発される恐れがあるので、麻衣は彼女なりの精一杯で、慎重な言葉選びをする。 「大したことない」 そう答えながらも書斎へ向かおうとしないところを見ると、どうやらナルの意志に反して、彼の身体は明らかに休息を渇望しているらしい。 「2時間くらい寝たら? ちゃんと起こしてあげるから」 「作業を途中で放り出すと、気になって寝れない」 「・・・神経質」 「麻衣の神経が太すぎるんだろう」 普段ならば間髪入れずに返ってくる嫌味が、応答一つに微かな空間を要している。 ナルが隠そうとしている彼の疲労が、ピークに近づいていることを麻衣は感じ取った。 いつも通りの嫌味に普段と同じく舌を出して、努めて明るくナルの肩をぽんと叩く。 「じゃ、とっておきの安眠をあげようじゃない」 「?」 ナルが読んでいた本から顔を上げた。 「子守歌、歌ったげる」 「・・・・要らない」 「なんで? 絶対眠れるって。保証付き」 「そんなあてにならない保証が、なんの役に立つんだ」 「もー、いちいち屁理屈こねてないで、さっさと動く! ほら!」 半ば無理矢理にナルを立たせ、彼を引きずって寝室へ移動させてから、 麻衣は先ほどベッドからシーツを剥がしたままだったことに気付いた。 「あ、ちょっと待ってて」 そういってぱたぱたとシーツを運んできた麻衣に、ナルがうんざりした顔で言う。 「もういい」 「シーツ無くても良いの?」 そういう事じゃない、と言いかけたナルの言葉をわざと遮って、麻衣がにっこり笑う。 「2時間したら起こすね」 「・・・眠れないと言っているだろう」 「だから、歌ってあげるってば。子守歌」 「余計に寝れない」 「贅沢!」 そっぽを向いたナルに、考え込むように小さく首を傾げた麻衣が、何かを思いついたようにナルの顔を見上げた。 「じゃあ、さ。添い寝してあげよっか?」 半分冗談半分本気で、麻衣が照れながら言うと、ナルが今までにない不快さで顔を強張らせた。 「相手を間違えるのも大概にしたらどうだ」 吐き捨てるようなナルの言葉に、麻衣の頭のなかは一瞬にして真っ白になった。 「・・・何言ってんの?」 身体中から力が抜けた。目眩がする。 この人は何を言ってるんだろう。 「付き合いきれない」 ナルの言葉が頭の中で大きく反響している。頭蓋がひび割れてしまいそうなほどの頭痛。 「ナル?」 どうしたの? 何を言ってるの? ・・・・ワカラナイ。 「ジーンの代用品(かわり)は、そろそろ卒業させて貰いたいものだな」 気が付いたとき、麻衣は自分が着ていたジャケットをナルに向かって投げつけていた。 「信じらんない! 何考えて生きてたら、そんな風に歪むわけ?」 急に感情を吐露した麻衣にナルは一瞬目を見張り、次いでその漆黒の闇のなかに怒りを表した。 何も言わずに、ただこちらを睨み据えるナルの目は、いつもの麻衣ならば一瞬以上怯んだだろう。 論文の進行が遅れ、おそらくは焦りと苛立ちをその身の内に無理矢理押さえつけているナル。 彼が彼自身の感情を上手くセーブできていないのかも知れないことも解っている。 でも、それでも許せなかった。 「信じらんない!」 「誰も信じて欲しいなどと言った覚えはない」 「頑固者! 偏屈! 最低!」 「だから?」 「だいっきらい!」 「で?」 そこでナルは口の端を吊り上げた。痛烈なほど綺麗な顔で皮肉に笑う。 「それが僕に何の関係があると?」 開いたままの扉。そこに凭れてこちらを睨むナルの目に、普段とは違う色があることを、麻衣は見抜けない。 冷静沈着な彼らしからぬ言動であることも、それよりも更に冷静さを失った麻衣には、見抜けなかった。 ただただ、彼が造りだすその笑顔に、見とれる自分を悔しいと思い、情けないと思う。 彼女の心を満たしているものが、疑われたことへの屈辱なのか、裏切られたという苦痛なのか、信頼さえされていなかった事への悲しみなのか、 それでも彼を愛している自分への侮蔑なのか、激情の波に身を委ね、頭に血が上った麻衣には解らなかった。 「・・・あたしのこと嫌いなんでしょ」 「どうとでも思えば」 否定の言葉が吐かれるなどとは、初めから思っていなかった。 けれど、もう言葉にせずにはいられない。 「じゃあ何でキスしたの? 拒めば良かったじゃない!」 最初から。 始まりさえなければ、終わりもなかったのに。 片恋で終わることを諦め予測していた想いだったのに。 何故期待など抱かせたのか。何故、あの時「好き」だと言った麻衣を受け入れたのか。 麻衣の悲痛なほどの叫びに、ナルは一言も答えない。 麻衣が嗚咽で言葉を紡げなくなってからたっぷり間を置いて、溜息を一つ。ナルが冷たく告げた。 「帰れ」 「・・・」 「まだ何か言い足りないのか」 「・・・足りない」 ナルが顎をしゃくった。 「どうぞ」 「嫌い」 「それはさっきも聞いた」 「嫌い」 「・・・帰れ」 麻衣は大きく息を吸う。いつもの、ナルとの会話を成立させるための気合いではない。 もっと変質した何かを、彼女は胸一杯に吸い込んだ。 「犯してやる」 ナルが驚いたように目を見開いた。 彼がその類の単語を嫌うことを知っていて、わざと選んだ言葉だった。 麻衣はさっきの仕返しのように、身体中から掻き集めたなけなしの『余裕』を笑みに乗せた。 「馬鹿を言ってないで帰れ」 小さな沈黙に響くナルの声。彼はたった一呼吸でいつもの無表情を取り戻していた。 精一杯の強がりで平静を装おうとしている麻衣の本心は、多分見抜かれている。 麻衣は気付かない。 ナルの瞳の奥の、その奥に彼が必死に隠しているものの存在に。そして、その正体に。 「ナルの言うことなんか聞かない。ナルはあたしの言うこと聞いてくれないでしょ」 麻衣は自分の着ていた薄手のセーターを脱いで、傍らにあったベッドの上に放り投げた。 突然目の前にさらけだされた白い下着と、それより更に白い肌に、ナルは眉を顰める。 「やめろ」 「イヤ」 腰に巻いていた細めの飾りベルトを引き抜いて、デニムのミニスカートを地面に落とす。 昨日買ったばかりのスカートを身につけてきた麻衣の気持ちなど、きっとナルには届かない。そう思うだけで涙が浮かぶ。 今まで堪えてきた不満も不安もナルには届かなかったのだ。どんなに深く愛しても、おそらく彼には届かないのだろう。 寒さと緊張で鳥肌がたつ。けれど、そんなこと気にしてはいられない。 麻衣が黒いタイツに手を掛けると、ナルがその腕を掴んだ。 「やめろと言ってる。襲われたいのか?」 「勘違いしないでよ、あたしがナルに傷をつけるんだから」 「無理だ」 「やってもみないで諦めるのって、好きじゃないから」 腕にかけられたナルの手を力を込めて振り払い、その目の呪縛に晒されないよう下を向く。 悔しいと思う気持ちと羞恥心が鬩ぎ合って、麻衣は暫し逡巡する。 取り返しの付かないことをしている自覚はある。けれど今更後には引けなかった。 タイツを床に脱ぎ捨てて下着姿になると、先ほど振り払ったばかりのナルの腕を引っ張った。 麻衣の行動に呆気にとられているのか、それとも呆れているのか、 ナルは不意を付かれた形で微かにバランスを崩し、麻衣の導くままにベッドの近くへとやってきた。 「麻衣」 咎めるようなナルの声に、心の中で耳を塞ぐ。 傷つけてやりたい。汚してやりたい。潔癖なまでに「汚れ」を嫌うナルを。 ナルは全く抵抗を見せなかった。 ベッドに腰掛けさせてシャツのボタンに指をかけても、露ほども反応を示さない。 諦めたような怒っているような、曖昧で複雑な無表情を浮かべたまま、ただじっとしているだけだ。 麻衣の指示する通りにベッドに腰掛けて、彼女の指が動く様子を見るともなしに眺めている。 作業に没頭する麻衣に気付かれないよう注意深く、彼は全てを観察していた。 震える華奢な指と、その行為と、その向こうにある無垢な身体を。 闇色の瞳の影で揺れていた感情が、少しずつけれど確実に「形」を取り始めていた。 彼女を受け入れる振りをして、彼女の我が儘に付き合っている振りをして、全てを抱いてしまうのも良いような気にさえなっている。 無論、ナルがそんなことを表情(おもて)に出すはずもなく、彼が狼狽さえ見せないことが、更に麻衣の感情を逆撫でた。 震える指でようやくカッターシャツのボタンを外し終えたものの、その先はどうして良いのか解らなくなって、 麻衣は結局、ナルの上半身を外気に触れさせたところで作業を留め、あとは諦めることにした。 「寝て」 ナルの両肩に手を添えて、支えのない彼の身体を一気にベッドに沈める。 その上に馬乗りになるように覆い被さって、まだ沈黙を守り続けるナルを見下ろし、そこでまた彼女は躊躇した。 と、見上げてくる黒い瞳が揶揄するように動いた。 その程度の覚悟か、と嘲笑(わら)われたような気がして、麻衣は頬を紅潮させる。 「・・・何?」 「別に」 上から睨み付けても、ナルから返ってくるのはあまりに素っ気ない返事。 そうやって余裕を見せ付けられている限り、麻衣が平静な思考力を取り戻さない、と彼は知っている。 純粋であるが故の単純さで、麻衣はナルへの行為を再度決意した。傷つけたいのだ。 愛情を示してもどんなに世話を焼いても決してナルのテリトリーに踏み込むことさえ出来ないなら、 一生残る傷として、彼の中に自分の存在を焼き付けてやりたい。 愛情と憎しみの表裏を思う。このままもしも本当に彼が傷ついたとしても、満足など出来ないことは知っているのに。 麻衣は、後悔すると分かっている道を、わざわざ突き進んでいる愚かな自分に目を背けた。 男性にしておくのが勿体ないほど肌理の細かい肌を撫でておそるおそる唇を重ねると、逆に舌が忍び込んできた。 口腔を蹂躙する舌に翻弄され、そんなときでさえ顔色一つ変えないナルが悔しくて、麻衣は精一杯なんでもないことのような振りをして答える。 ナルの右手が、キスに夢中になっていた麻衣の背中に回され、おもむろにブラジャーのホックを外す。 「っ!」 重力に従って肩から滑り落ちようとする下着を、麻衣が咄嗟に両手で押さえた。 その隙を狙われ、身体の位置を入れ替える形で攻守が逆転した。逃げ場を封じるように、麻衣の両脇にナルが手を突く。 じんわりと麻衣の身体から勢いが消え、その隙間に不安が流れ込む。 「・・っやだ! どいて!」 身体を捩って束縛から逃れようとしても、歴然とした力の差がそれを許さない。 「離してよ!」 「何故」 「何故って・・・」 「するんだろう? セックス」 唇を強引に塞がれて、そこから、呼吸も鼓動も全てを奪われるような感覚を注ぎ込まれる。 麻衣が少しずつ覚えたキスの仕方も、全く役に立たない荒っぽい接吻(くちづけ)。 胸を押さえていた両手を掴まれて頭の上で両手を束ねられる。 それは初めてのナルからのキス。麻衣が秘かに望んでいた、ナルからの意思表示。 けれど、こんな風ではない。 麻衣が欲しかったのは、こんな、激しく乱暴なキスではなかったはずだ。 意味を為さなくなってしまった下着の間から覗く胸に、ナルがやわく噛みついた。 「っ・・ぁんっ・・!」 背中から腰へ、甘く切ない電流が駆け抜ける。 まるでそれに感電したかのように、麻衣の身体は一瞬にして彼女の意思を受け入れなくなってしまった。 「や・・め・・」 言うことを聞かない身体に鞭を打って、必死に首を横に振ると、 ナルはさっきの彼女と同じ位置、こちらを見下ろす姿勢で呆れたような眼差しを向けてくる。 呼吸さえ乱れていないナルを睨んでも効き目なんか無いことは、あたし自身が一番よく解っていた。 「違う・・の! 『あたしがナルを』犯すんだって言ってるでしょ」 「それで僕を傷つけると?」 「そう」 「・・・通常、この状況下で傷が残るのはどちらだと思う?」 ナルの手が、たった一枚だけ残されたショーツにかかる。膝の内側に手が触れた瞬間、また腰の辺りがざわめきだした。 身体が震える。その震えは、今触れている手から、重なっている身体から、ナルへと伝わっている。 「男か、女か」 いつもと変わらない、抑揚のない言葉。 まるで仕事中に明日の日程でも話しているかのように、冷静さを失わない静かな眼差し。 彼が普段よく口にする「お茶」という台詞と、さほど変わらない感情のこもらない口調。 けれど。 少しずつ引き下ろされる下着の、それに掛けられた冷たい指の感触とは裏腹に、耳に届くナルの声は何故か甘い。 「・・・離して・・・」 小さな呟きに従って、ナルの手が離れた。拘束されていた手首もほぼ同時に解放される。 覆い被さっていたナルの身体の重みも消えて、代わりにベッドの上に畳んであったシーツがふわりと麻衣の上に掛けられた。 ナルは拾い上げた自分のシャツを肩に羽織り袖だけ通すと、麻衣が脱ぎ捨てたセーターとスカートを拾い集め、 ベッドで身動きも取れずに固まっている少女の方へ放り投げた。 呆然としている麻衣を一瞥してから、ナルは寝室を出ていった。一言も言葉を発せずに。 一人ベッドに残された麻衣は掛けられた真っ白なシーツと、自分の肌と、 白いセーターや新品のスカートを回転の鈍くなった頭と目で眺め見る。 腿まで下げられたショーツと、完全に肩から落ちてしまったブラジャー。胸の谷間に残る、紅い痣。 そこまで考えてから、改めて麻衣は自分のしたこととその意味を実感して赤面した。 恥ずかしくて涙が出る。・・・恥ずかしすぎて言葉も出ない。 (あたし・・・) |
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