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ナルは、何時間も前から黙ったままだ。
多分、ここにあたしがいることにさえ気が付いていないんだろう。
あたしはこの何時間、ただナルを見てる。
ナルを見てるだけの時間は、それなりに愛しくて、それなりに幸せだ。
ナルは最近、視力が落ちてきたのか、眼鏡を買った。
でも、本人は余程気に入らないらしくて、誰かが側にいるときは絶対掛けない。
それが例え、リンさんであっても。
あたしの前にいるナルは、眼鏡を掛けている。
それが、少し嬉しい。
でも、その目があたしを見てないのが、少し悔しい。
彼が眼鏡を掛けるのは、いつも仕事中だから。
今のナルの目に映るのは、あたしには解らないアルファベットの羅列だけだ。
ナルの横顔は真剣そのもので、整った顔は更に表情を無くしている。
でも、目は真剣だ。
(・・・・良いなぁ)
ナルに言ったら馬鹿にされるから口に出しては言わないけど、
あの書類は、ナルに見つめて貰えるんだと思うと、ちょっと羨ましい。
あんなに真摯な目で、見つめて貰えるんだから。
ナルの目は、いつも真面目だ。
でも、やっぱりどこか馬鹿にしてる気がする。
気がするだけかもしれない。
ちゃんと、真剣に見てくれるときもあるのかもしれない。
でも。
研究に没頭するときのあの目は、絶対に他のものには向けられることはないんだろう。
ナルの、かけがえのないもの。
「・・・・ちくしょう」
ぼそりと呟いた言葉は、音楽もかけていない無音の部屋に酷く響いた。
しまった、と思ったときには、時既に遅し。
ナルがこちらを振り返った。
ものすごく不愉快そうな顔で。
書類に向かっていたのとは、全然違う目で。
「何が?」
ナルは今にも「出ていけ」と言わんばかりの苛立ちでもって、あたしに言葉を投げつける。
そんな言い方しなくたって。と思うけど、仕事の邪魔をしたんだから、あたしが悪い。
だから、傷ついた心は隠す。
「何でもない。・・・・もう帰るね」
「ああ」
そういって、ナルは持っていた書類を机の上に置いた。
「・・・送ってくれんの?」
あたしが不思議そうに問うと、ナルはあたしの方を見ようともしないで答えた。
「時間が遅すぎる」
腕時計を見たら、確かに終電はとっくに車庫に片付けられている時間だった。
でも、別に電車に乗る訳じゃないし。
元々歩いて帰れる程度の距離だし。
「良いよ、タクシーで・・・」
言いかけたあたしの頭を、ナルが小突く。
「そう言って、この間歩いて帰ったのは誰だった?」
「・・・だってあの時は、生活費厳しかったんだもん」
タクシーに乗る前にお財布を覗いてみたら、明らかにうちまでの運賃にはほど遠かった。
マンションの下にタクシーを呼んでもらって、
ナルとはマンションの部屋で別れたから、お金を借りに行くのも面倒になって、
結局真夜中の町をてくてく歩いて帰ったのだ。
次の日、何故かナルにばれて、散々叱られた。
「もうしない!今日はお金持ってるし、ちゃんとタクシーで帰るよ」
仕事、続けてて。
ナルが上着を羽織ろうとするのを止めて、あたしは慌てて自分のバッグを持った。
こんな風に、邪魔になるのは嫌だ。
でも、ナルはあたしの言うことを聞かない。
袖口を掴んだあたしの手を軽く外して、羽織った上着のポケットに車のキーを落とし込む。
こうなったら、もう何を言っても無駄だ。
(・・・頑固者)
心で呟いて、さっさと歩き去るナルの後を追った。
ナルの車が、何という車種なのかは知らない。
というか、これがナルの車なのかどうかもよく解らない。
何の前触れもなく、ある日いきなりマンションの駐車場に車が届いていて、
ナルが自分の物のように乗っているから、多分ナルの車なんだろう、と想像しているだけなのだ。
黒っぽい車体。大きすぎず小さすぎずの車内。
あたしはいつも、彼の隣、助手席に座る。
でも、今日は何となく後部座席に腰を下ろした。
ナルはバックミラーでちらっとこっちを見たけど、何も言わずにエンジンを掛けた。
窓の外を流れるのは、夜の仮面をつけた街。
いつもと同じ景色、いつもと違う顔。
あたしは、何を見るわけでもなく外を見ていた。
ナルのマンションからうちまで大して距離があるわけでもないから、 暫くするとあたしの住んでいるマンションが見えてくる。
そびえ立つ、というほど大きくはないけど、遠目に見てもそれと解る程度の規模はある。
あたしは知らず、溜息を落としていた。
謝らなきゃな。
今日は晩御飯を作りにナルの家に行って、
結局こんな時間になって、ナルの手を煩わせた。
あたしがナルにしてあげたいと思うことは、
ナルがして欲しいと思うこととは、違っているかもしれない。
ほんの少しだけ、胸の奥が痛んだ。
「ご免ね、仕事中断させて」
「別に」
ナルはマンションのすぐ前に車を停めた。
降りる前に、謝らなきゃ。
きっとあたしが車から降りたら、ナルはあたしを振り返りもせずに帰っていってしまうだろう、
と何となく思ったから。
「仕事もいいけど、ちゃんと寝てね?」
「・・・解ってる」
「ほんとに?」
「ああ」
後部座席からミラー越しに交わす会話は、何だか心のこもらないものになってしまう。
いつもと同じ文句を、なぞっているだけだから・・・?
「あたし、明日から事務所行かないんだから、ちゃんと自己管理してよね」
「明日?」
「・・・試験前だって、ちゃんと言っておいたと思うんですが?所長」
聞いてなかったね?
責めるあたしの声に、ナルはふいっと視線を外した。
「一週間ぐらいか?」
「ん、多分ね」
「解った」
交わす言葉が無くなって、どうしようかと悩んでいるとナルが振り向いた。
「帰らないのか?」
問われてしまえば、降りるより他ない。
「帰る。・・・おやすみ」
「おやすみ」
扉を開けたあたしの背中に、めずらしくナルが挨拶を返した。
ほんとは少し嬉しかったけど、あたしは何でもない振りをして車を降りた。
扉を閉めて、ナルを見送ろうと思って車から一歩離れたところに立つ。
(・・・暫く会えないって、言ってるんだけどな)
ナルにはどうでも良いのかもしれない。
会えない一週間が、ナルに何らかの影響を及ぼすとは、どうしても思えなかった。
ナルと同じくらい、あたしにとってもどうでも良かったら、こんなに辛くないのに。
(それじゃ、付き合ってるって言えないか)
あたしが思うほど、恋愛は綺麗なものでも優しいものでもないのかもしれない。
ナルの車はなかなか発車しない。
不思議に思って運転席側に回わりこんで窓を叩く。
ゆっくりと窓が降りて、ナルの顔がそこから覗いた。
「どうかした?」 「それはお前だろう」
あたし?
「何で?」
「帰るんだろう?」
「・・・・見送ってくれるつもりだったの?」
ナルはあたしの質問に答えない。無表情も変わらない。
「さっさと部屋に戻れ」
「あたしもナルを見送ろうと思ってたんだけど」
「必要ない。早く戻って寝ろ」
そりゃ必要なんかないだろうけどさ。
「ナルこそ、早く帰って良いよ」
「お前がマンションに入ったら帰る」
何でこんなに強情なんだか。
あたしは、こんな事で言い合うのが馬鹿らしくなって、
一つ溜息をついた。
「・・・解った。じゃ、気を付けてね」
もう一度「おやすみ」と声を掛けて、車の側を離れる。
振り向いてみようかとも思うけど、何となくそれが悔しくて真っ直ぐにエレベータを目指す。
一瞬、エンジンをふかす音がした。
その音が気になって、あたしはついナルを振り返った。
ナルは、じっとこちらを見ていた。
真剣な眼差しで。
あの、真っ直ぐな瞳で。 |
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