ページを捲る、指の爪の形を覚えてる。
 瞬きをする瞬間の、睫毛の動きまで覚えてる。
 キスの時、傾ける顔の角度も。
 でも。

(どんな声だっけ)

 オフィスに復帰して2日目。事務所にも、それからもちろんあたしの自宅にも、ナルからの連絡はナシ。

(どんな顔だっけ)

 5日目。今日も音信不通。

(…忘れちゃうよ)

 7日目。
 鳴ったのは、オフィスの電話だった。




 ここ数日、受話器をとる度にどきどきしてたから、もう流石にときめきも飽き始めてきてる。
(でも、結局毎回どきどきして、毎回がっかりするんだよな…)
 あたしはいつも通り、期待半分諦め半分で受話器を手にした。
「はい、渋谷サイキックリサーチです」
「麻衣か?」
 受話器の向こうから、よく通る声が聞こえた。あたしが欲しかった「声」だ、と唐突に気付く。
 掠れかけてたはずの記憶が、急に潤いをもってあたしの中で泳ぎだした。
 ナルの声だ、と思うだけで、あたしはいっそ涙ぐみそうになった。
「…ナル?」
 精一杯何でもない振りを装って問いかけたあたしに、ナルは特に感慨もなさそうに「リンは?」と答えた。
(…ちょっと待てよ。これが、ほったらかしにしてた恋人に対する態度か?)
 感激した分だけ腹が立って、あたしは怒鳴りそうになるのを必死でこらえた。
 …だめだ、ここはオフィス。仕事場、仕事場…。
 眉間にしわが寄ってるけど、口元は引きつってるけど、
 とりあえずあたしは、アルバイトらしく部下らしく努めて冷静に「所長」からの電話に対応した。
「リンさんは今、買い物に出ておりますが」
「そう。なら伝言を」
「はいはい」
 あたしは電話の近くに常備してあるメモ帳を引き寄せて、ペンを手に取った。
「良いよ、なに?」
「明日の19時頃そっちの空港に着くから、車を出してくれ」
「電車で帰ってくれば? その方が早いんじゃないの?」
「別に、麻衣に迎えに来いと言ってるわけじゃないが」
「…ああ、そうですね」
「じゃあ」
「え? ちょ、」
 所長は、こっちの用件も聞かずに一方的に電話を切った。
「…別れてやろっかな…」
 ぽつりと呟いてみるけど、その選択はあたし自身に酷い痛手をもたらすことを知ってる以上、簡単には選べない。
 もしかしたら、ナルには何の影響もないかも知れない。それを知ることがまず怖い。
(馬鹿みたい…)
 メモ帳に『明日、19時に所長帰国。空港に車で迎えに来いとのことです。』とメモをしながら、
 あたしは何だかとても虚しい気持ちになった。




「お帰りなさい」
「ああ」
 実に2週間ぶりに会うナルは、やっぱりいつも通りに素っ気なくて、
 あたしはみんなの手前、感激のあまり(半分はイヤガラセで)抱きつくこともできずに、大人しく大人しく出迎えた。
 ナルが帰ってくると聞きつけて(もちろん情報発信源は安原さんだ)、久しぶりに一同が勢揃いしているのだ。
 活気のあるオフィスはやっぱり嬉しいし楽しい。
「よお、長旅だったな? どうだった、久々の地元は?」
「別に。それより、今日も大勢で何のご用事ですか?」
「ちょっと近くまで来たから寄っただけよ」
「相変わらず暇そうで何よりですね」
「余計なお世話!」
 ナルが秋物のコートを脱いで所定位置に掛けているのを見ながら、あたしは彼に「お茶」と言われるのをじっと待つ。
 ナルは余程疲れているようで、普段以上に口数が少なく、顔色も相変わらず良くない。
 入院した日よりはずっとましにはなってるけど、それでもやっぱり本調子じゃないのがバレバレだ。
 電車に乗るのが面倒だったんじゃなくて、電車に乗るのが辛かったんだな、これは。
(それならそうって言えばいいのに)
 口が裂けてもそんなことは言わない人だと解っていながら、あたしは心の中で毒づく。
 彼は片手に抱えて持ってきた荷物を持ちなおすと、所長室へとさっさと足を進めた。
 要らないのかな、とあたしがちょっとつまならない思いをしていると、ふと思いついたようにナルが振り返った。
「麻衣、お茶」
「うん!」
 現金な子ね、という綾子のからかうような声が背後で聞こえたけど、
 あたしはそれに構わず給湯室へ駆け込んだ。


 真砂子は仕事があるからと言ってすぐに帰っていき、
 他のメンツは『ナル帰還祝い』とか称してリンさんまで引き連れて飲みに行ってしまった。
 多分あたしたちに気を遣ってくれたんだろうとすぐに解ったけど。
 出がけにあたしの頭をぽんと叩いていったぼーさんのあったかい手を足がかりに、あたしは勇気を振り絞った。
「ねぇ、帰り一緒に帰ってもいい?」
 声が震えるんじゃないかと思うぐらい緊張したあたしに対して、ナルの答えはすぐに返ってきた。
 やけにあっさり「ご勝手に」と言われて、あたしはまた少し淋しくなる。
 会えない間、あんなに焦がれた声と顔が、すぐ目の前にあるのに。
「うん、じゃあお邪魔します」
 ナルはあたしの返事を聞いていないようだった。



 久々に訪れたナルの部屋は、いつもと変わりなく静かだった。
 ナルは旅行に持っていった着替えなどの荷物の類は向こうから発送したらしく、手持ちの資料や本といった、
 細々とした荷物を置いてソファに腰を下ろした。すぐに本を開くのはもう癖になっているようなので、
 あたしはそれについては何も言わず、懐かしさのようなものを感じながらキッチンへ足を向けた。
「お茶いる?」
「ああ」
 ナルの短い返事にこれほど喜べる自分の単純さに半ば呆れながら、あたしはガスコンロのスイッチを押す。
 あたしがティーカップを両手にリビングに出ると、数分前と全く変わらない姿勢のまま、ナルがソファで読み物をしていた。
 声を掛けてからナルの前にカップを置いて、自分の分の紅茶をすすりながらナルの隣に腰掛ける。
 食事は帰りがけにレストランでとってきたし、あとはナルをお風呂に入れて、早く寝るように言わないと。
 まるで母親のようにあれこれ考えていたあたしに、ナルがふと視線をよこした。
「? …なに?」
「別に」
「なんだよ、別にって」
 ナルはそれきりまた本の世界に戻ってしまう。その横顔に不快そうな気配がないことにほっと溜息をついた。
 今、帰れと言われたら、あたしはきっとめげて泣きだしてしまう。
 会えなかった時間が、いつも以上に素っ気なかったナルの態度が、あたしの気持ちをこんなに弱らせている。

「…会いたかったよ」
「そう」
「仕事はもう終わったの?」
「とりあえずは。まだ細々した処理は残ってるけど」
「明日からオフィスに完全復帰?」
「いや、明日は休む。流石に疲れた」
「当たり前だよ。病人のくせに何時間も飛行機乗って、疲れないわけないでしょ」
 ナルがふと唇を動かした。ごく僅かでほんの一瞬だったけど、笑った。
「…ずるいよね」
 弱ってた心が膨らむ。そうやってあたしは結局ナルを許してしまう。
「なにが?」
「なんでも」
 そんな小さく笑うだけで、あたしがどれほど幸せになるか。ナルは知らないんだろうか。
 それとも知っててやってるのかも。
(知っててやってたら…)
 この数週間も冷たい言葉もそれに傷ついたことも、全部忘れちゃえるあたしの気持ちを、
 知っててやってるなら、もうそれはもてあそんでるとしか思えない。
 もてあそばれても良いとか、実はちょっと思ってる節もないとは言えないけど。
 あたしはソファの上に行儀悪く両足を乗せて、膝を抱えてナルを見た。
 視界に映る横顔も、本の上で定期的に動く指も、組んだままの足も。
「お疲れさま」
「ああ」
「でも、淋しかったよ」
「何故」
「来るなって言われるし、見舞いに行けば邪険にされるし、イギリス行きのことも何にも知らせてくれないし」
 あたしがわざと頬を膨らませて訴えると、ナルはこっちを見ないままで小さく答えた。
「仕事」
「…その言葉、禁句にして良い?」
 ナルからの反応がないので、あたしはとりあえずナルの頬に唇を押し当てた。案の定、驚きもしやしない。
 振り払われなかったことに機嫌を良くして、あたしは調子に乗って今度はナルの唇へ自分のそれを寄せる。
 押し当てるだけのキスをしながら、ナルの首に腕を回すと、淡々とした声でストップをかけられた。
「読書の邪魔」
「仕事の邪魔はしてないよ」
「仕事の一環なんだが?」
 そう言いながら別に押しのけようとするわけでもないナルの腕に、あたしは思いきり甘えることにした。
 本気で嫌そうな顔をする寸前までやってやる。それぐらいのいやがらせは許されるはずだ。
「もう終わったんでしょ? 次はあたしに構って」
「次?」
「あたしのことも愛してよ」
 仕事だけじゃなくて、研究だけじゃなくて、たまにはあたしのことも愛して。
 ナルは数秒の間を置いたあと、あたしの方を見た。
 机に置かれたままのティーカップから、もう湯気は出ない。ナルは冷めてしまった紅茶が好きじゃない。
 いれなおしてこようかな、と考えていると、ナルがようやく口を開いた。
「今、充分付き合ってやってると思うが?」
「そうじゃなくて」
 ナルはもう一度間を置いた。あたしの言っていることを理解するのに、いつもよりずっと時間がかかってる。
 やっぱり疲れてるんだよね、と思う。ナルがここで誘いに乗ってくれることは、あんまり期待してない。
 とりあえず今、散々淋しい思いをさせられた分、ちょっとだけ仕返しできればそれで良い。
「…準備がしてない」
 ようやくそれらしい返事が返ってきた。率直すぎる言葉に、あたしは何だか笑ってしまう。
 珍しいことに、誘惑されてくれる気はそれなりにあるらしい。
「いいよ、準備なんてしてなくても」
「駄目だ」
「いいよ。危険日じゃないもん」
 強情に言い張るあたしに、ナルはもう一度「駄目だ」と言って、冷めた紅茶を口に運んだ。
「いれなおす? 紅茶」
「いや、いい」
「じゃあ抱いて」
「…その文法は正しいとは言えないな」
「いいの、正しくなんかなくても」
 あたしが今欲しいのはナルの腕と温もりだけで、だから正しい日本語なんてどうだって良いんだって、
 きっと言ってもナルには解らない。解んなくていい。そんなのどうだっていいんだよ。
 正しいことなんて欲しくないの。あたしが欲しいものはそんなものじゃない。

「疲れてる」
「疲れてたらできない?」
「さあ、試したことがない」
「じゃあ試そうよ」
「断る」
「失敗するのイヤ?」
「楽しい想像じゃないことは確かだな」
 ティーカップをもう一度傾けて、ナルは空になったそれをガラステーブルの上に置く。
 その仕草さえ、あたしは愛おしくてたまらない。
「ね、じゃああたしが頑張るから」
 ナルが嫌そうに眉をしかめた。それは、無理だと言っているのに聞き分けのないあたしにうんざりしているのか、
 そういう直接的なことを口にするあたしに呆れているのか、真偽のほどは定かじゃない。
 ナルの溜息があたしの目の前に落とされた。
 ちょっと流石に言い過ぎたかなと、熱くなった顔を俯けると、予想もしていなかったナルの声が耳に届いた。
「30分」
「え?」
「30分ですませろ」
「…ほんとにいいの?」
「嫌なら引き受けない」
「でも…」
 どうするんだ、と目で問われる。視線でしか語らないのは疲れてるせいもあるって知ってる。
「ナルが頑張るの? …あたしが頑張るの?」
「誘ったのはどっちだ?」
「あたし」
 ふと和らいだナルの視線が、2週間侵入を許されなかった、寝室を示した。






 夜中、目を覚ましたあたしの横にはナルがいた。
 あれほど失うことが怖かった彼の姿が、今は手を伸ばさなくても触れられる場所にある。
 灯りのない部屋の中で、ナルの顔色は解らない。
 体調が悪化してないかどうかが心配だけど。
(朝になってみたら解るよね)
 目が覚めても消えたりしないで、と強く願いながら、あたしはナルに身を寄せた。

「お帰り」

 返事の代わりに、ナルの深い寝息が聞こえた。
 あたしの、すぐ隣で。
 
     






はーい、長々とお疲れさまでしたv
久しぶりにちゃんと(…ちゃんと?)創作したので、かなり色々苦労したハズなんですが、
結局の所、その苦労が活かされているかというと、そうでもなく(滅)
…まあ、とりあえず、無事に完結しただけで私的には充分です。←小さな幸せ。

しかし、これで「終わりまで書き上げてある小説」のストックを失ってしまったので、
またしばらく更新がどうなるコトやら…(遠い目)
パソコンの中をひっくり返したら、2,3本出てきそうな気はしてるんですが…出てこないかな…(曖昧)


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