|
「…というわけですので」
「ちょ、ちょっと待って下さい! ナルは、じゃあ今…?」
「ええ、病院で診察中です」
リンさんの単調な声が何故か遠くに聞こえて、あたしは思い切り受話器を握りしめた。
まるで、そうすることで現実にしがみつくみたいに。
その頼りない現実との糸を切られるのが怖くて、あたしはリンさんの言葉を必死で反芻した。
「ナルが倒れました」
過労と栄養失調だそうです。
混乱する頭で、あたしは「やっぱり」と思った。そして同時に「何故」とも。
(過労って…栄養失調…? 違う、そんなことより、ナルは…?)
気付いたとき、あたしはまるで叫ぶように電話口のリンさんへ返していた。
「今から行きます!」
焦って来る必要はない、大事はない、とリンさんは珍しく二度も繰り返した。
でもあたしは、とにかく何でも良いからナルの顔が見たかった。
そうやって、息せき切らして駆けつけたあたしに、当の本人の第一声は「廊下を走るな。ここをどこだと思ってる」だった。
あんたが倒れたんだから病院に決まってるだろ、と指摘する気力は、そのときのあたしにはなかった。
「何だ…無事だったんだね」
「全くの無事ならこんなところに収容されない」
ほっとして息を付いたあたしの心境とは裏腹に、
ナルは自己管理不足を大っぴらに指摘されたことが気に入らないのか、非常に不機嫌だった。
明らかにやつれた気配を見せている顔は、いつものナルの美貌を覆い隠している。勿体ない、と不謹慎にも思った。
「身体は? 大丈夫なの?」
「命に別状はない」
「当たり前! そういうことじゃなくて…」
「それ以外に、何か重要なことが?」
まさにとりつく島もない、とはこのことだ。
この機嫌の悪さもあって、リンさんは来なくて良いなんて言ったんだろう、とあたしは今頃気が付いた。
ナルは出会ってから何度目かの病院服に身を包み、これまた病院特有の堅いベッドの上で、その背の部分を立てて座っている。
寝てればいいのに、とあたしが言うと、寝にくい、と短い答えが一言返ってきた。
そりゃ確かに、神経質なナルが人の気配の耐えないこんな場所で、しかもこの堅いベッドで、寝やすいだろうとは思わないけどさ。
「リンから聞いたのか?」
「うん、そう。さっき電話貰って。倒れたって言うからびっくりしたよ」
「他のメンツには連絡しなくて良い。大騒ぎされるのは迷惑だ」
心底嫌そうにナルはそう吐き捨てる。
どうせ医者やらリンさんやらに、日頃の不摂生を散々注意されたんだろう。
これ以上、山より高いプライドを傷つけられるのは、ナルとしてはさぞ不愉快に違いない。
「でも、もう連絡しちゃってるかも」
「止めてこい」
「けど、一応リンさんあたしの上司だし。 しがないアルバイト員ですので、プライベートなことを意見するような真似はちょっと」
あたしがわざとらしく首を傾げてやると、ナルが更に冷たい目を向けた。
「所長は誰か解ってるか?」
「それは勿論。論文書くためにお籠もりして、挙げ句の果てには栄養失調で入院した、頭のいい学者さんでしょ」
目一杯に笑ってやると、ナルがいつもと変わらない鋭い視線でもってこっちを睨み付けてくる。
でも、ここで反論してこないところを見ると、どうやらナルはナルなりに反省はしてるらしい。
しょうがない、これ以上の追求は勘弁してやろう、とあたしはにんまり笑った。
ナルはさも当然のように個室を使っているので、(まあ、6人大部屋のナルなんて想像したくもないけど)
あたしは特に気兼ねなく、壁に立てかけられていたパイプ椅子を開いて座った。
「で? 入院、長引くの?」
座り込んだあたしが気に入らないのか、ナルは目一杯不機嫌そうに眉をひそめた。
あたしはそんなナルの態度を、彼の腕に繋がったコードが、
懸命にその身体へ栄養を運んでいる様を眺めて無視してやる。
(点滴してるときは、起きあがらない方が良いんじゃなかったっけ)
痛々しいくらい白い腕には、はっきりと血管の色が浮かんでいる。不健康そうな普段より、更に不健康な顔色。
「明日には出る」
「あたしが聞いてんのは、ナルの都合じゃなくて医者の見解なんだけど」
「リンに聞け。僕は知らない」
ナルが、点滴が付いているのとは逆の手で、
近くにあった付箋だらけの本を引き寄せて開いたので、あたしは呆れて溜息をついた。
「まだやるの?」
「当たり前だ。締切がある」
ナルの答えはあくまでも端的で、まるであたしの意見なんて聞き入れようとしない。
多分、今回の入院があまりに予定外だったから、(予定通りだった、なんて言ったら殴ってやる)
ナルが今まで立てていたスケジュールは、かなりの変更を余儀なくされてるだろう。
自分が立てた予定通りに動けないこの状況は、ナルにとって多大なるストレスでしかない。
そして、そういう状態に自分を貶めたのは他ならぬナル自身だったりするから、
彼は不満をぶつけるあてもなく、ただただイライラしている。
(可哀想に、と言うか、自業自得というか)
どっちかっていうと自業自得だ、とは思うけど。
ナルが何より研究に傾倒していることを知ってるから、
今回の仕事に、全く表には出さなくても嬉々として取り組んでたナルを知ってるから、
判定は自然と少しだけ甘くなる。
その甘さが彼への愛情によるものだと、自分では解ってるけど。
(好きだなんて。だから心配だなんて)
その横顔が、例え青くても白くても、血が通っていて呼吸をしていてくれれば良いなんて。
(絶対言わない)
例えそう伝えたところで、「ああ、そう」とか適当に返されることは目に見えてる。
「で?」
ナルが顔も上げずに会話の続きを求めてきた。
「で、って?」
珍しいな、と思ったのもつかの間、ナルは嫌そうにあたしを横目で睨んだ。
「何をしに来たんだ」
「何って…お見舞い」
「なら、もう用事は済んだだろう」
無言のまま顎で扉を示される。どうやら、帰れと言いたいらしい。
静けさを求めてるナルにとって、隣でべらべらと下らない話を喋られるのはそりゃあイヤだろうさ。
彼が今一番したいことは、誰にも邪魔されずに論文を書くことで、
その作業の中に、ナルは一切他人の存在を許したくないんだから。
(…前言撤回。やっぱり自業自得)
可愛さ余って何とやら。さっき見えた反省の色は、あたしの見間違いに違いない。
「ダメだよ。リンさんが出掛けてる間、あたしがナルのお目付役なんだから」
「必要ない」
ナルの言葉にかちんときたあたしは、ついさっき仕入れたばかりの最新情報を持ち出した。
「前科者の言うことは聞かない。…ナル、あたしを騙したでしょ」
「勝手に勘違いしたんだろう」
「あんた自身に非はないのか? 非は」
ナルは肩を竦めるだけであたしの言葉を否定した。
(こいつはほんとに…)
今回、あたしはてっきり、リンさんがナルの身の回りを気遣ってくれてるんだと思ってた。
ところがナルは、(これはついさっきリンさん本人に聞いて知ったことだけど)
そのリンさんさえも閉め出していたのだ。
リンさんは、逆にあたしがナルの世話をしてるんだと思ってたらしい。
単なる情報の行き違いと言えば確かにそうなんだけど、
確認しなかったあたしたちが浅はかだと言われれば、反論の余地もないけど。
別にナル自身が計ってそういう状況を作った訳じゃないんだろう。
ナルはあたしたち両方に「来なくて良い」と言っただけで、確かにナルの言うとおり「勝手な勘違い」なのだ。
彼はあたしたちの間に思い違いがあることさえ知らなかったはずだ。
でも、その分ナルは自分一人の時間をより長く使うことができた。その結果がこれ。
(…論文書くのに命賭けて、そうやって死にかけてまで、それでもまだ論文が大事?)
大事だろうな、とあたしは解りきった自問自答に溜息で終止符を打つ。
冷たい横顔をじっと睨んで黙り込んでいると、ナルが一つ息をついてあたしを見た。
久々に真っ直ぐ重なった視線に、あたしの心臓はあたしの意志と反して飛び跳ねる。
「気が散る、帰ってくれ」
「やだよ」
「帰れ」
「やだ」
そうして数秒の間の後、あたしが自分の意に屈しないことを察したナルは、早々に妥協点を弾き出した。
「なら、せめて黙って座ってろ」
「…努力しましょう」
ナルの命令通り、あたしはリンさんが戻ってくるまで物音一つ発てずにお人形のように、
堅くて冷たい安物のパイプ椅子に座っていた。
結局入院から丸3日、ナルは白い病棟の中に押し込められた。
それがリンさんの配慮によるものであることは、誰の目にも明らかだった。
PKならまだしも(いや、そっちは直接命に関わるから、もちろんダメなんだけど)、
過労なんてあからさまな理由でナルが倒れたことが、リンさんの保護者代理としての心をいたく傷つけたんだろう。
本当なら一晩で帰れたところを、と退院当日、元通りの黒服に着替えたナルは、
言葉にせずに不機嫌な顔で語っていたらしい。
「らしい」という表現なのは、あたしはその日学校を休めなくて、
彼を迎えに行く一団(入院初日のうちに安原さんの口から、ナルの入院はみんなに知れ渡っていた)に加われなかったからだ。
更に言うなら、あの初日の数時間以来、あたしはナルに会っていなかったりする。
何しろ、ナルが倒れたのはちょうどうちの学校のテスト週間が始まった当日なわけで、
奨学金を使って学校に通う身としては、やっぱりどうしても、中間考査を捨てることはできなかったからだ。
(…そんなのタテマエだけだけどさ…)
ほんとは、ただ眺めてるだけでも不機嫌でも、単位を落としたって構わないくらいに会いたかったけど。
入院初日の帰りがけ、「また来るね」と言ったあたしに返ってきたのは、
「来なくて良い」という、あまりに素っ気ないナルの言葉だった。
本当はそれに意地を張っただけ。悔しかったから。
会いたいのはあたしだけだって言われてるような気がして、腹が立って悲しかったから。
(…言われてるような、じゃなくて、あれは明らかに言ってたな、多分)
ナルの言葉に傷つけられるのなんて、今更と言えば今更だけど。
それでも、とにかく退院したら会えると思ってたから、
それを目標に学生らしく、あたしは毎日黙々とテストを受け続けた。
会えたときに言ってやる愚痴を考えながら。
ナルのためにお茶をいれる、あの平凡で幸せな時間を考えながら。
(…会えると思ってたんだよ)
テストが明けて、晴れて自由の身となったあたしが久々にオフィスへ行くと、
そこには所長であるナルの姿はなかった。
「イギリス〜?」
来て早々、素っ頓狂な声をあげたあたしに安原さんは、そうなんですよ、とわざとらしく困った顔を作った。
「所長が突然、向こうでの仕事がどうとか書き置いて、あとをリンさんに任せたまま、国外逃亡してしまいまして」
困ってるんです、と付け加えた安原さんは、何だかこの状況を楽しんでいるように見えた。
「安原さん…その言い方、何かナルが犯罪を犯して逃亡してるヒトみたいに聞こえるんですが」
気のせいでしょう、と安原さんが出してくれたお茶に、あたしはお礼を言って手を伸ばす。
カップから躍り出る湯気は、確かに優しい香りを放っているのに、何だかとても味気ない気がする。
(折角、安原さんがいれてくれたのに)
あたしは、たまたま背を向けた安原さんに気付かれないように、そっと所長室へ視線を移した。
主が不在の所長室の扉は、彼が居るときと同様にぴっちりと閉じられている。
一体何を考えてイギリスへなんて。
(…そりゃナルの自宅はあっちなんだから、別に珍しいことでも何でもないんだよな。ほんとなら)
でも、やっぱり珍しい。ナルは普段、自分やご両親の誕生日でさえ、帰省を嫌がってる。
別にイギリスが嫌なんじゃなくて、多分その移動で消費する時間と手間の無駄さ加減が、
ナルの気にくわないんだろうとあたしは踏んでるけど。
向こうで急用ができたからってまどかさん辺りに呼び出されて渋々、とかならともかく、
ナルが自分から進んで出向こうとするなんて。
(そんなに楽しい仕事? 退院したてのくせによくやるよ…)
どっちにしてもあたしは、ナルにぶつけてやろうと思って溜めていた愚痴と、
ついでに心配と愛情の行き場さえも無くして、空気の抜けた風船みたいに脱力してしまった。
「…いつ頃戻ってくるか、言ってました?」
「それが、未定なんですよ。リンさんに聞いたら、『用事が済んだら戻る』と言われたそうなんですが」
「未定って…じゃあ、こっちの仕事は?」
「保留です、全部。って言っても、怪しげなのが2件だけですけどね。もー僕、暇で暇で」
谷山さんが来てくれて良かったなぁ、と安原さんが笑って、あたしたちはとりあえず何事もなかったように仕事に戻った。
でも、確かに安原さんの言う通り、仕事なんて殆どない。
ナルが言い置いていった雑務はとっくに安原さんが終わらせてたし、
こういう日に限って、お客さんは誰も来ない。ぼーさんたちさえ、珍しく姿を見せなかった。
ナルが入院する前と変わらない、ナルの居ないオフィス。
その日は、あたしも安原さんも、リンさんさえ早々に職場を辞した。 |
|
|