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「谷山さん、どこ行っちゃったんでしょうね〜」
安原の呑気そうな声が、ナルの耳に飛び込んできた。
遠くへ馳せていた気持ちが、急に戻ってくる。
(遠く・・・?)
どこが遠いというのか。
すぐ隣の部屋だというのに。
たったの数歩で、たどり着ける場所に少女はいるのに。
(そう・・・彼女はあそこにいる)
あの部屋で、きっと小さく丸まっているだろう。
どうして良いのか、途方に暮れて。
物音一つ発てるわけにもいかず、助けを求めることも出来ずに。
彼女をそんな状況に追い込んだのが、己であることも忘れて、麻衣を想う。
寒いだろう。
いくら暖房の必要はない時期だと言っても、裸でいつまでも我慢できるほど優しい気温ではない。
怯えて泣いているかもしれない。
腹を立てて、何かに八つ当たりしているかもしれない。
今すぐに抱きしめてやりたいと思う。ただ純粋に。
だが、彼女を前にしたら、きっとまた自分の中のどす黒いものが動き出す。
怯えて、肌を隠そうとする少女を目の前に置いてしまったら。
自分が男であることを憎めばいいのか。
彼女が女であることを詰ればいいのか。
心の奥底にある黒く汚い感情。
汚らわしい。
だが、それさえも自分自身なのだ。
(厄介な感情だと、解っていたはずなんだがな)
理屈で解決できない「感情」など、無縁だと思っていた頃の自分に言ってやりたい。
お前は近い将来、一人の少女を不幸にするかもしれないのだと。
理屈では押さえられない「感情」の名のもとに。
「所長、ご存知ありませんか?」
「・・・何がです?」 「谷山さん、鞄置きっぱなしなのに、どこにも居ないんですよ」
安原の疑問を、ナルは顔に出さずに嘲る。
麻衣はいる。
今頃所長室で、途方に暮れた顔で。・・・・裸のままで。
「さぁ。僕は見ていませんが」
ナルはそれだけ言うと、安原の煎れたお茶を飲み干して立ち上がった。
「用がそれだけなら、僕は戻ります。暫く声を掛けないで下さい、お茶もいりません」
「ええ、解りました」
ナルの言葉を疑いもせず、(実際には疑っていたかもしれないが、
それ以上ナルに訊ねては来なかった)安原はいつもの笑顔を浮かべ、
「頑張って下さいね」といつも通りの言葉を掛けて、自分のデスクに座った。
ナルはそれを横目で見てから、出てきたときと同じように扉を薄く開け、
猫が滑り込むように所長室の中へと消えた。
所長室の中は暗くなっていた。
さっき、彼がこの部屋を出ていったときよりもずっと。
(?・・・なんだ?)
「・・・・鍵」
ソファから小さな声がした。
ナルは溜息とともに、その囁きを無視する。
ブラインドが下ろされて、完全ではないものの、日光は殆ど遮断されている。
この光量では、仕事はままならない。
(もとから仕事など手に付くはずもないのに・・・)
まだ、己の冷静さを、壊れやすい日常を取り戻そうとしている。
ナルは机に向かうことを考える。
机に向かって、これからしなければいけない仕事のことを考える。
・・・まだ取り戻せる。
鍵を、麻衣に渡してしまえば。
鍵を放って、ほんの数分、麻衣を視界から外してしまえば。
(簡単なことだ) 簡単すぎて思いきれない自分は、間違いなく己が毛嫌いしていた『馬鹿』の部類の生き物だ。
麻衣がソファの上から更に非難の声を囁く。
「鍵!早くしないと、ぼーさんたちも来ちゃったらどうするつもり・・・」
「別にどうもしない」
「な・・・」
言葉に詰まった麻衣が、ソファから落ちそうになるほど、体を起こした。
咄嗟にその身体を支えようと、ナルが麻衣に向かって手を伸ばす。
案の定、麻衣は安定を失って体勢を崩した。
「っ!」
それでも悲鳴は堪えた。
ナルの腕に縋り、かろうじて受け身も取らないままに床に落ちることだけは免れた麻衣は、
小さく息を吐いた後、更に小さく謝った。
「・・・ごめん・・・」
「子供のようなことをしていないで、大人しくしていろ」
麻衣はその言葉にかちんときたようだ。
少女は、男の腕に掴まった不安定な体勢のまま、その鳶色の瞳で睨み上げてきた。
「誰のせいだと思ってんだ、誰の!」 「お前のせいだろう?」
「あんたでしょうが!あたしの服返してよ!!」
「断る」
「何でっ?!」
麻衣の身体を支えていた腕を、ナルが故意に引き抜いた。
当然、バランスを崩した麻衣の身体は彼の腕の中に転がり落ちてくる。
「ナル・・・?」
身の危険を感じたのか、麻衣が急にしおらしくなった。
・・・もう遅い。 「まだ終わってないだろう?」
抱え込んだ麻衣に、ナルは微笑みかけた。
唇の端だけ吊り上げて。
「はっ・・・・ぁ・・・っ」
その白い肌を再度外気に晒したときには、すでに麻衣は僕の欲望の言いなりになっていた。
ソファの上に両手をつかせて、膝立ちを強要する。
当然、麻衣は抵抗を示した。
その抵抗に、微かな苛立ちと堪えきれない優越感を覚える。
無駄にしかならない抵抗。
脆弱なまでの力。
細く小さな身体。
背後から耳朶を甘噛みし、全くサイズのあっていないコートの中に手を忍ばせて、
柔らかな双房をゆっくりと揉みしだく。
少しずつ麻衣の息が弾んできたのを確認して、コートのボタンを外し、乱暴に剥ぐ。
別にコートが邪魔になるわけではなかったが、裸にしておけば、それだけ麻衣の気持ちに余裕が無くなる。
そして、これら一連の行為を行うだけで、麻衣は抵抗力を失った。
たったそれだけで。
裸のまま四つん這いになった麻衣は、慣れない背後からの交尾に怯えている。
身体を支えていたはずの腕には、もう力が入らないのか、
ソファにもたれ掛かるように、上半身を前傾させて麻衣が鳴く。
吐息だけで。
声を漏らすことの出来ない麻衣には、それが精一杯なのだろう。
「んん・・ぁっ!」
濡れそぼった場所に舌を差し入れ、愛撫を深めると、
我慢しきれなくなったのか、麻衣が切なそうな声をあげ始めた。
リンや安原さんに見つかるのは大した問題ではないが、 だからといって、情事を中断させられるのは本意ではない。
「麻衣、声」
耳元で囁くと、麻衣が小さく頷く。
「わかっ・・・るけど、・・・も・・・ムリ・・・」
肩を振るわせて大きく呼吸を繰り返す麻衣の姿に、
その言葉通り、限界が近いことだろうことを思う。
やめてやるのが優しさだろうか。 果たしてやるのが優しさだろうか。
(優しさなんて・・・僕には縁がない)
それは、片割れが全て担ってくれるはずの役割だ。
僕には持ち合わせがない。
(やめてやる・・・?やめてどうする)
やめてやって、麻衣には指だけでそこそこの快感を与えてやって、自分を慰めてみるか。
愛情の名の下に行われるはずの行為に、打算と欲望を埋め込んでいる自分を、
一人嘲ってみるのも。
(・・・それも一興かもしれないが、あまり歓迎できる状況でもないな)
ほんの少しの逡巡の末、僕は麻衣に己を埋めた。
「ん・・・・・・」
あれ・・・・?
目の前にある黒っぽい影。
何だか霞んで見えにくい・・・。
黒い影は、背中から夕日を浴びているのか、顔の端や肩先だけが赤く染まっている。
「だ・・・れ?」
「寝惚けるな」
・・っ!!
「なっ・・・・る」
ナルが、いつも通りの呆れ顔で、あたしを見下ろしていた。
どうやらあたしの身体はソファに横たえられていたようで、
起きあがって裸のままの自分の身体を見、あたしは一気に目が覚めた。
「さっさと服を着ろ。ぼーさんたちが探してる」
「ぼーさん・・来てんの?」
ナルはあたしの問いに答えずに、手で軽く扉の方を示した。 扉の向こうから、ぼーさんの声。
何を喋ってるのかまでは解らないけど、数人の喋り声の中にひときわ通るぼーさんの声が聞こえる。
やばい・・・あたし何時間寝てたんだろ・・・。
あたしが慌てて足元を見ると、そこにはナルが隠したあたしの服が置き去りにされている。
(・・・こいつ、せめて畳むとかしろよな・・・。皺になるじゃんよ)
でも、ナルが女物の洋服畳んでる姿って結構笑えるかも、なんて考えながら下着をつけてブラウスを羽織る。
と、ナルがじっとこちらを凝視していることに気が付いた。
咄嗟にスカートで身体を隠して、ナルを睨む。
「・・・・何?」
「別に」
まるで興味を失ったようにあたしを視界から外して、机に向かってファイルを開いた。
「いつから?」
「何が?」
「いつからいるの?ぼーさんたち」
「・・・さあ」
「1時間くらい?」
「・・・知らない」
知らないって・・・・。
ナルの言葉があまりに歯切れが悪くて、あたしは不思議に思ってナルを見た。
彼は、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ばつの悪そうな顔をした。
「・・・・・・寝てたの?」
返事はナシ。
ナルが?
・・・珍しい、ものすごく珍しい。
こんなところで、気を緩めるような人じゃないのに。
(いや、こんなところで事に及んでる状況自体にも問題はあるんだけど)
「寝てた?」
あたしはもう一度訊いてみる。
ナルはこっちを見て、今度はブラインドのかかった窓の方へ視線を投げた。 「寝てない」
「じゃあ何で?」
「・・・答えたくない」
「答えて」
まただんまり。
「ナル?」
「五月蠅い、さっさと出て行け」
・・・ああ?
何だって・・・・?
・・・このマッドはほんとに・・・・。
あたしは、自分が持っていたスカートをさっさと穿いた。
ブラウスのボタンをきっちり留めて、今度は大きく息を吸い込む。
「っっっっこんの・・・・馬鹿ーーーーーーーーっ!!!!!!!」
狭い部屋に響きわたる叫び声。
ナルの顔を見ると、明らかに驚いてる。
へっ、ざまーみやがれ。
みんなにばれて、居心地の悪い思いでもしてろ。
「麻衣っ??!」
所長室の扉が勢いよく開いて、ぼーさんが飛び込んできた。
よっぽど心配を掛けちゃってたのか、と、あたしはちょっと申し訳なくなる。
けど、ぼーさんはあたしを見て、ナルを見て、もう一度あたしを見て、一気に表情を無くした。
「ナル・・・・・どういうことだ?」
ぼーさんの声は、今までに聞いたこともないくらい低い。
密室、男女二人。プラス、女の叫び声、と。
あたしが狙った演出は、どうやら思ったよりもずっと効果を得てしまったらしい。
ぼーさんはナルを睨み付けている。
「説明願いたいんだが?」
「・・・・説明?何を?」
ナルは眉一つ動かさずにぼーさんを見据えた。
ぼーさんがゆっくりと顔を上げる。
・・・・・・・ヤバイ、ぼーさんが怖いぞ・・・。
「麻衣が何故ここにいる?」
「所員が所長室にいて、何か問題でも?」
ナルは淀みなく答える。
「所員に、何か強要した覚えは?」
「ないね」
ぼーさんは一つ息を吐いた。
「質問を変える。・・・今日、麻衣を抱いたか?」
ナルは、これにも躓くことなく答えた。・・・イエスと。
ぼーさんと一緒に飛び込んできた綾子と安原さんが、驚いてあたしを見る。
あたしは二人の視線を痛いくらいに感じながら、それでもナルから視線を外さない。
ただじっと、ナルを見てる。
「場所柄は考えないのか?・・・いや、そんなことよりも、合意の上だったんだろうな?」
「さあな。それは僕じゃなく、麻衣に訊いてくれ」
「お前に訊いてるんだ。麻衣に同意を求めたか?」
ナルが嘲笑するようにぼーさんを見た。
「『抱いても良いですか?』とでも?」
ナルの態度はどこか自虐的で、痛々しくさえ見える。
ぼーさんもそれに気付いているのか、ナルを責めるような目で見るだけだ。
「そうだ」
「何故?」
「男が得るのは快楽だけだが、女には苦痛とリスクが伴うからだ」
こんなとこで、するべき事じゃないことぐらい、賢い博士様なら解ってるだろう?
ぼーさんの言葉に、ナルが笑った。
声をあげて。
「な・・・ナル?」 げらげら、というほどじゃないけど、ナルが声をあげて笑うのは初めて見た。
あたしだけじゃなくて、多分ぼーさんも、綾子も安原さんも。
彼はひとしきり笑って、斜に構えた瞳でこちらを見た。
「苦痛を感じない?・・・誰に向かって言ってるんだ?」
ぼーさんが無言で部屋を出ていった後、あたしは綾子に「こっち来なさい」と手招きされた。
でも、あたしはちょっと笑っただけで綾子についていくのはやめた。
傷ついた獣みたいなナルが、牙をむくこともなく机に向かっているのを、眺めていたかった。
「ナル、お茶のむ?」
「いらない」
「・・・・ナル?」
返事はない。
それでもあたしはもう一度呼びかけた。
「ナル、あたしを抱くと痛い?」
これにも沈黙だけが返ってきた。
あたしはナルを見つめたまま続ける。
「あたしを抱くのが辛い?セックスすると、辛い?」
「・・・・別に」
「嘘。・・・辛いんでしょ?」
ナルは答えない。
静かな部屋に、ペンの音が微かに響く。
ナルは書類を見てる。あたしを見ない。
「そんなんなら、しなきゃいいのに」
ナルがペンを止めた。
「五月蠅いと言ってる。出て行け」
ナルの目が真っ直ぐ向けられた。
身悶えするくらいに強い、視線。
背筋がぞわぞわする。
あたしは意識的に膝を閉じた。
「・・・やだ」
「出ていけ・・・これ以上、犯されたくないだろう?」
犯す?
「どうしてそんな言い方するの?」
「事実だから」
ナルの目はあたしを見たままだ。
鳥肌のたった腕を抱えて、あたしはナルから目が離せなかった。
・・・・目を離したら、視線を逸らしたら「喰われる」気がした。 |
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