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事務所の扉を開けると、そこにナルがいた。
彼は一瞬驚いた顔をして、すぐに顔をしかめた。
「こんな時間に何をしてる」
「ナルこそ、もう営業時間は終わったよ」
「・・・早く帰れ」
「一緒に帰ろ」
「先に帰ってろ」
「一緒に、帰ろう」
「仕事が終わってない」
「持って帰れば良いよ」
「ここでやった方が捗る」
「じゃあ、終わるまで待ってる」
あたしはソファに腰を下ろした。
ナルは、困ったようなイライラしているような、複雑な表情をしている。
言いたかったことがあって、
言えなかったことがある。
あたしの中にある思い。
ナルの顔を見るまで、決断しきれなかった、想い。
「もう時間が時間だ。駅まで送ってやるから、帰れ」
「やだ」
「麻衣」
叱りつけるような強い口調。
ナルがため息を付く。
そのため息の意味を、知りたかった。
だから。
「終わったら帰るから、さきに帰れ」
「やだ」
「眠らないつもりか?」
「ナルが帰るなら帰る」
「だから・・・」
「ナルがいない家に帰るのは、辛いよ」
まだ泣いちゃいけないのに、涙はあたしの意志に反して、どんどん溢れてくる。
ナルは戸惑うようにあたしの頬に手を伸ばして涙を拭う。
態度とは裏腹に、優しいぬくもりが哀しい。
ナルの顔を見る。
彼は、無表情だった。
いつも通りの、でもちょっと戸惑った、無表情。
綾子の言葉が頭の中に響く。
『大丈夫よ。ナルが好きなのは麻衣だから』
違うんだよ。
ナルは、あたしを愛してるんじゃなくて、
責任をとってるだけなの。
今、ナルを苦しめてるのは、あたしなんだ。
・・・だから、もう。
「あたしのことが嫌いなら、あたしのことが重荷なら、
・・・別れよう?」
ナルの手が離れた。
「あたしのことも、子供のことも、忘れて良いから」
本当は別れたくないけど、離れたくないけど。
でも、何よりも誰よりも、ナルが辛いのはイヤだから。
だから、この気持ちはしまっておこう。
ずっとしまっておこう。
あなたが辛いのはイヤだから。
「何もなかったことにしよう?」
あたしは笑う。
きっと、涙でぐちゃぐちゃの顔をしてる。
でも、笑いたかった。
「ご免ね」
あたしはソファを立った。
ナルは呆然とあたしを見ている。
いきなりやってきて、騒いで泣き出して、急にこんなことを言い出されれば、
きっと誰だってナルと同じ反応をするよね。
何だか急におかしくなって、あたしはもう一度笑った。
ナルが、あたしの手を掴もうとしたけど、寸前でナルの手をすり抜けて身を引く。
「今日はちゃんと帰ってね。あたし、今日中に出てくから、帰って来て良いからね」
あたしはそのまま事務所を飛び出した。
あなたを苦しめたから。
あなたの羽を奪ったから。
あなたの自由を奪ったから。
・・・ご免ね。
家。 あたしと、ナルが暮らした家。
たった3ヶ月。
あたしにとっては、幸せな3ヶ月間。
でも。
あたしはお腹をさすった。
「これで良いよね。ご免ね・・・頑張ろうね」
荷物は、着替えだけで良いや。
家具まで持っていくには、時間が遅すぎる。
あたしは小さな鞄に、洋服を詰めて、ちょっとした身の回りのモノを詰める。
タンスの引き出しから、母子手帳を取り出して、それをポケットにしまった。
行くところなんてない。
でも、もうここにはいられない。
(一晩ぐらいなら、ホテルに泊まれるかな)
お財布の中身を確認して、あたしは家の扉を開けた。
鍵を閉めて、その鍵をポストの中へ落とした。
これで、終わり。
あたしは真っ直ぐに歩き出した。
もう、泣いてられない。
明日からは、住むところも、仕事も、自分で探さなきゃいけないんだから。
今更だけど、あたしは、初めから間違えていたのかもしれない。
ナルに、子供のことを告げるのが正しい道だと思った。
何も言わずに、ナルの前から去ることだって、出来たと思う。
考えたくはないけど、子供を、この子を生まれる前に殺してしまうことだって。
だけど、あたしはナルに選んで欲しかった。
ナルに告げて、ナルの気持ちを訊いて、それから結論を出すつもりでいた。
ナルの答えを今でも覚えてる。
『責任はとる。安心しろ』
あたしは、その答えが少し淋しかった。
ただ、口数の少ないナルの「言葉」だけで判断したくなかった。
ナルが、本当に思ってることが知りたかった。
でも。
なにより、あたしはナルに縋れることが嬉しかったのかもしれない。
自分の身体の変化が不安で、怖くて。
ナルの腕に頼っていれば、楽が出来るのが解ってたから、
ナルに答えを出させて、いざというときに、
自分が悪者にならない方法を考えたのかもしれない。
彼に責任を押しつけたがっていたのは、あたし自身だったんだ。
あたしの存在が、ナルにとっては重荷になる。
ナルには『精神的な支え』は必要だと思ってた。
あたしは、少しでもナルの支えになりたくて、精一杯だった。
でも、ナルには、束縛するだけの『家族』は必要なかったのかも、しれない。
少なくとも、あたしは彼の家族にはなれなかった。
仕方ないね。
あたしの努力が足りなかったのかもしれないし、
元々あたしとナルの相性が最悪だったのかもしれない。
理由なんてどうでもいい。
結果は、もう出てしまった。 |
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