抱きしめて、キスをして。
それだけで、あたしは幸せになれるのに。


あなたには、伝わらないのかな。





--+--- キ  ス ---+--



BY ニイラケイ






     
 
「ナルと別れなさい」
・・・・・・・・は?

開口一番、綾子はそう言った。




いきなり事務所に電話がかかってきて、
「今から下の喫茶店に来なさい」
と言う命令が下され、あたしは渋々綾子の言葉に従った。
そして、いきなりこれ、だ。
何と答えて良いのか解らなくて、
あたしは注文を聴きに来てくれた店員のおねーさんに
「あ、オレンジジュース」
とだけ答えて、あとは黙り込んだ。


「ナルがあんたを幸せに出来る男だと思ってたから、最初は反対しなかったのよ」
でも違ってたわね。
呆れたように言い放つ綾子の意図がよく解らない。
「でも・・・だって、ナルはナルなりに・・・・」
「ナルが一体何してくれたのよ?!」
「何って・・・」
「妊婦を毎日働かせて、挙げ句の果てに帰ってきてないってどういうことよ!」
「あの・・・だからね、綾子、ちょっと落ち着いて・・・」
「しかも、3ヶ月も待ってやってるのに、式も挙げないじゃない」
「うん。ナルはそういうお祭り騒ぎみたいな事、嫌いだし・・・」
「そういう問題じゃないでしょ!?女にとって、ウエディングドレスっていうものが、
どれだけ大事なのか、ちゃんと説明したの??」
「・・・してない」
「ほら見なさい」
「だって、お金かかるし・・・、それに、あたしとナルだとね、
親戚として招待できる人が、ナルのおとーさんとおかーさんだけなんだよね」
今まで息巻いていた綾子が、淋しげに少しだけ微笑む。
「あたしたちがいるじゃない。あんたの結婚式には、
大泣きする予定のジジィがいるのよ」
「うん。・・・でも、やっぱり」
「ナルが、やらないって言うから?」
「・・・無理強いしたくないんだ。
ナル、結構責任感じてるみたいで、いつもなら断っちゃうような依頼でも
最近は無理して受けてるみたいだし」
ストレスが溜まってるんだと思う。
家にいてもナルの周りだけ空気が張りつめてて、あんまりあたしと会話もしなかった。
唯一、ナルが全身全霊をかけられる研究が、出来なくなっているから。
・・・あたしを養うために。
あたしたちの子供を、養うために。


「ナルと、別れる気はないの?」
「・・・・別れたくない」
これがあたしの本音。
ナルが好き。
だから、どんな理由でも結婚できるなら幸せだった。
一緒にいられるなら。
別れる日のことなんて、考えてもいなかった。
綾子がため息を付いた。
「そう、なら仕方ないわね・・・」
「でも」
「?」
「・・・・ナルにとっては、きっと離婚した方が良いんだと思う」
「麻衣!」
咎めるような、綾子の声。

あたしは泣いていた。
涙を、流す場所が欲しかった。
誰かが肩を叩いてくれる場所で。
誰かが慰めてくれる場所で。

甘えてる。
イヤな自分。
泣けば、綾子が心配する。
きっと、ナルを責めるだろう。
解ってるのに、あたしは綾子の前で涙が枯れるまで泣いた。
声は出さずに、ただ俯いて泣き続けるあたしに、綾子は何も言わずに側にいてくれた。




事務所へ戻る気になれなくて、そのまま帰ろうとしたあたしを
綾子が引き留めた。
「うちへ泊まりに来なさいよ。なんかつくったげる」
「うん、・・・でも・・・」
「ナルが心配?」
「多分帰ってこないと思うけどね」
へへへ、と笑うあたしの頭を、綾子が小突く。
「ちょっとは心配かけてやりなさいよ。
男なんて調子づかせたらキリがないわよ」
心配。
「すると思う?・・・心配」
「するでしょ?しないの?」
「わかんない」
「するわよ」
そうだね。
少しでも心配してくれたなら、嬉しいかも、ね。



綾子の家に来るのは久しぶりだった。
相変わらず緑が生い茂る部屋には、以前よりも観葉植物が増えている気がした。
「子供が出来てるんだから、ナルと寝たんでしょ?」
いきなりのストレートな表現に、あたしは思わず俯く。
「う・・・・うん。・・・まぁ・・・ね、一応」
「だったら、責任はナルと、勿論あんたにもあるのよ」
「・・・うん」
「まぁ、あんたが初心者だってことも差し引けば、
ナルの方が責任強いけどね」
でも、と綾子は真面目な顔であたしを見た。
「あんたに責任がないわけじゃないからね。それは、解ってるわよね?」
「・・・うん」
痛いね。
綾子の言葉は、すごく痛い。
当たってるから。間違ってないから。
「ナルが辛いのは当然よ。あいつの肩に、生活がかかってるの。
そんなことは、世の中の家族を持ってる男はみんなそうでしょ?
だから、その点でナルが辛いとか何とか思ってるなら、それはナルが悪いのよ」
綾子は冷蔵庫から卵を取り出した。
「でも、最近のナルが、すごく無理してるのは見てて解ったわ」
「・・・あたしが無理させてるんだよね・・・」
「そうね」
つきん、と胸が痛む。
スープをかき混ぜている手が、無意識に止まってしまう。
ナルを、苦しめるだけの『あたし』。
「だから、ちゃんと話し合いなさい」
「話し・・・?」
「いくら愛し合ってたって、結婚してたって、他人は他人よ。
言葉に出さなくて、どうやって意志表示するの?
言葉にしなくても伝わるモノはあると思う。
でも、言葉で伝えなくちゃいけないものもあるのよ」
綾子はじっとフライパンの中のオムライスを見ている。
あたしは綾子の静かな横顔をただ見つめていた。
「ナルがね、あたしに説明する必要ないって、何も話さないんだ」
どれほど問いつめても、すぐに逃げられたり、不機嫌になったり。
「何を弱気になってるの?」
「弱気・・・?」
「引け目を感じてるんだったら、先ず別れなさい。
養われてるから、無理をさせてるから、強く出れないなら、別れなさい」
「・・・あたし弱気になんか」
「なってるわよ。帰ってこない時点で、殴ったって良いのよ。
逃げられる、なんて言ってないで、逃がさない努力をしなさい。
説明してくれない、じゃなくて、説明させるのよ」
自分のテンポを忘れてるわよ、麻衣。


綾子の持つフライパンの中で、黄色のオムレツが踊る。
そのとき、多分気のせいだけど、あたしの中で、何かが動いた気がした。
お腹の中で、誰かが、動いた気がした。


あたしは、キッチンに掛けられているカレンダーを眺めた。
カレンダーは月ごとに捲るもので、その写真さえ木々の緑に溢れていた。
「・・・あたし、やっぱりご飯食べたら帰るね」
横顔をじっと見つめていると、綾子が不意にこっちを見て綺麗に笑った。
「大丈夫よ。ナルが好きなのは麻衣だから」
「何を根拠に・・・」
「あたしの経験に基づく推理」
「当てにならないなぁ」
「何ですって?」
「うそー。・・・ありがと、綾子」



綾子の作ったオムレツは、やっぱり美味しかった。





帰るときになって、あたしはふと疑問に思った。
「ねぇ、綾子。どうしてナルが帰ってきてないって知ってたの?」
「ああ。この間、夜中に電話したでしょ?
そのときリンも一緒でね、何か忘れ物したとか言うから一緒に事務所に行ったのよ」
綾子たちは、そこでナルを見つけたんだそうだ。
事務所のソファで、うずくまるように眠るナルを。
「あんた、ナルはもう寝てるって言ったわよね。
なのに、ナルは事務所で寝てるわけでしょ。
これは夫婦喧嘩でもしたのかと思ってたら、
ナルが、毎日ここで寝泊まりしてるって言うから」
「・・・ナル、事務所にいるの?」
「どこにいると思ってたのよ?」
「・・・・その・・・、女の人とか・・・」
あたしが言葉を濁すと、綾子があっさり言う。
「ナルにそんなに甲斐性があると思うの?」
馬鹿なこと心配してないで、さっさと仲直りしてきなさい。
あたしの背中を押してくれた綾子の言葉が、また胸に刺さった。

仲直り。

あたしは・・・。