意識を手放すように、急激に眠りに落ちていった麻衣が、
 前触れもなく涙をこぼした。
 何の夢を見ているのか、読みとらなくても解った。
 麻衣の手が、僕の服を握りしめる。
 彼女が、時折夢の中で他の誰かを見ているのは知っている。
 それが誰か、も。…知りすぎているほど知っている。
 僕の腕の中で、奴の夢を見ることに対する罪悪感で、
 彼女が目覚めてから泣いているのも知っている。
 それでも手放そうとは、どうしても思えない。
 彼女を苦しめるのが、僕自身の存在かもしれなくても。


 抱き上げた麻衣の身体をベッドにきちんと横たえて、
 布団の中に押し込む。
 隣に寝転がって、意識のない麻衣を抱きしめた。
 慣れた暖かい身体は、けれど僕を覚えていない。
 ―記憶をなくした。
 そんなに簡単に、人は記憶を失ってしまえるものなのだ。
 麻衣が最初に見せた、不信感に染まった顔が、頭から離れない。
 …二度と、人に対して愛情を抱くことはないと思った。
 麻衣を、心の底から愛することはないと、思っていた。
 だから僕自身が戸惑った。
 彼女に「あなたは誰?」と問われたとき、ひどく衝撃を受けた。
 ショックを受けた自分にさらに驚く。
 麻衣に忘れられたことが、こんなに重くのしかかるとは。
「もういいかげん、認める頃かもしれないな」
 自分の中の、麻衣の存在の大きさを。
 麻衣が体の向きを変えて、僕の背に細い腕を回す。
 上司と部下。
 便利な言葉だ、と苦笑して、麻衣を抱き返した。
 明日になったら、麻衣が笑っていればいい。
 そんなことを思いながら。


 翌日、目が覚めると、麻衣はまだ夢の中にいた。
 すぐ横で穏やかな寝息を立てる麻衣を見て、もう一度目を閉じる。
 二度寝なんて、したことがなかったのに。
 彼女の体温が、僕を夢の縁へ落としていった。




「ねぇ、そろそろ起きないと遅刻だよ?」
 掛けられた声が、妙に遠い。
「ねぇってば。良いの?」
 ああ、麻衣か。
「ナルーっ!!所長が遅刻する気?!」
 がばっと起きあがる。
 急に光が目に当たり、眩しくて顔を顰めると、
「おそよう!珍しいね、ナルがあたしより遅いなんて。
 初めてじゃない?こういうの」
 麻衣の屈託のない笑顔。
 けれど、様子がおかしい。
 まるで…。
「お前、戻ったのか?」
「戻る?何が?」
 麻衣は首を傾げる。
「ナル、寝惚けてる?ナルでも寝惚けるんだー」
 …どうなってるんだ、これは。
 麻衣は、記憶を失っていたはず。
 夢?…いや違う。昨日、ぼーさん達がここに来たのは間違いない。
 寝起きで上手く働かない思考に苛立ちながら、
 目の前にいる麻衣を見る。
 彼女に確かめるのが、一番早いのか。
「麻衣、今日は何日だ?」
「え?…えーと、16日」
 壁に貼られたカレンダーを(貼ったのは、当然麻衣だが)見て、麻衣が答える。
 …なるほど。
「日付がどうかしたの?ねぇ、早く起きないと、もう9時半になるよ。
 リンさんが迎えに来たりしたらどうすんの?」
 これを脱力というのだろうか。
 身体から力が抜ける。
 呆れるほど呑気な麻衣が、(彼女自身は非常に焦っているようだが)
 華奢な手を僕の額にあてる。
「ねぇ、体調でも悪いの?」
「それはこっちの台詞だ」
「へ?何で?」
「どこか痛くないか?怪我は?」
「別に…。どうして?」
「頭は?」
「あ、たんこぶのこと?痛くないよ。もう大丈夫」
 ナルってば、意外と心配性なんだから。
 冗談のように言って笑う麻衣を、そのまま抱き寄せた。
「…ナル?」
「一つ教えてやろうか」
「うん。なぁに?」
 腕の中で無防備に身体を預ける麻衣。
 空いた方の手で髪を梳いてやると、猫のように擦り寄ってくる。
「今日は17日だ」
「…はぁ?」




 精密検査の結果、これといった異常は見つからなかった。
 記憶が一時的に混乱することは、ごく稀にあるのだと、
 医者が言ったそうだ。
 麻衣は気にしすぎだと笑ったが、ぼーさんはしつこく医者に確認し続けた。
「ほんとに大丈夫なんだな!?」
 僕がその騒ぎの後ろで、安堵の溜息を付いたのを、多分誰も知らない。


 渋谷のオフィスは、既に日が落ちて何時間も経つというのに、
 妙に賑わいに包まれている。
 麻衣の復帰(本人にその自覚はない)を祝って、ささやかとは形容しがたい
 飲み会が開かれていた。
「ほんとに、一時はどうなるかと思って、冷や冷やしたわよ。
 どじは良いけど大概にしとかないと、そのうち大怪我するわよ」
「ふに〜…」
「麻衣だって、好きでコケたわけじゃねーだろうが」
「だよね?さぁっすがぼーさ…」
「だ・が!オレ達に一言もなかったっつーのは、いただけねーなぁ?」
「えー…。だって、ほんとに大丈夫だったんだよ?
 記憶がなくなってたなんて、自分でも信じられない位なんだし」
 ぼーさんがぴしゃりと麻衣の額をたたいた。
「そのことではナイ。お前、ナルんとこに泊まってたろう?」
 途端に麻衣が赤面する。
 …またこの話題か。
「へぇ〜。それはまた、お安くないですね」
 安原さんまで参戦のようだ。
 いつもならここで、事態を収めようと、神父が動き出すはずだが、
 今日はその神父の姿もない。
「や、だって、あれは、一人で家にいるのがイヤだったから…」
「なら、あたしんちに来れば良かったじゃない」
「だって、綾子んち遠いじゃんか」
「オレに電話してくれば、送り迎えぐらいしてやったぞ」
「そんなにみんなの手を煩わせるようなことでもないでしょ。
 それに、恐いから一緒にいてーとか恥ずかしくて言えないじゃない」
 麻衣の必死の弁解に、ぼーさん達の目が光る。
「ナルには言えるってことね?」
「へ?」
「恐いから一緒にいてーとか言ったのか?麻衣」
「いや、あの、」
 墓穴を掘ったことに気が付いたらしい。
 麻衣の目が泳ぎだした。
「誤魔化そうったって、そうはいかないわよ!」
「おとーさんに内緒で、一人暮らしの男の家に泊まり込むなんて、
 この不良娘!」
「だぁーからぁ!違うんだってば〜」
「…何が違うのか、ご説明いただけますかしら?麻衣」
 麻衣の背後から、原さんが顔を出す。
「ま…真砂子…?」
「私、何も聞いていませんわよ。言い訳の一つくらい
 なさいませんの?」
「言い訳って言われても…」
 馬鹿馬鹿しい。
 無駄に時間を潰すのが嫌になって、所長室に置きっ放しになっていた
 資料のことを思い出し、立ち上がる。
 と、リンがわざとらしく声を掛けてきた。
「ナル、どちらへ?」
 一気に視線がこちらへ集まる。
 折角誰にも気付かれずに立ち上がったのに、と溜息を付くと
 麻衣の声が飛んできた。
「あ、ナル出かけるの?」
 いや、部屋に資料を…と、言いかけるが、
 麻衣は有無を言わせずに続ける。
「あたしも買い物あるから、一緒に行くよ」
 ぼーさんの手をすり抜けて、コートを片手に麻衣が駆け寄ってくる。
 かと思うと、今度は僕のコートを抱えた。
「ほら、行こ!」
 小声で囁いて、すれ違い様に僕の腕に手を掛けて引っ張った。
 周囲が騒ぐ中、オフィスの扉が開き、勢いよく閉まった。
 松崎さんかぼーさん辺りが追いかけてくるかと思ったが、
 その日、誰の姿も見かけることはなかった。




「はー、もう疲れたよぉ」
 ソファの上に麻衣が倒れ込む。
 結局、飲み会を抜け出したからといって、どこへ行くわけでもなく
 何となく僕の所へ付いてきてしまったらしい。
「そう思うなら、隠し事をしなければいい」
「別に秘密にしようと思ってしてたわけじゃないもん。
 何か言い出しにくいし、わざわざ報告することでもないかなぁと思って」
「ぼーさん達はそうは思わなかったみたいだな」
 聞いているのかいないのか、麻衣はうーんと呻って
 ソファの上で転がっている。
 脱いだコートをテーブルの脇に落として、ノートパソコンの電源を入れる。
 と、麻衣がいきなり入れたばかりのスイッチを消した。
「何をしてるんだ」
「だって、ナル疲れてるでしょ?疲れてるときに
 パソコンなんていじっちゃ駄目だよ」
 そのままパソコンを僕から遠ざける。
 別に疲れてない。と言っても、麻衣は頑として聞かない。
 仕方なく、パソコンを諦めて近くにあった洋書に手をのばすと、
「読書もだーめ!ちゃんと休みなよ。お酒も入ってるんだから」
 口うるさい麻衣に、言い返すことはせずに大人しく従う。
 どうせ、言い返したところで、勝てる見込みもない。
「シャワー使う?」
「ああ」
「あたしも一緒に入って良い?」
「…勝手にしろ」
 呆れて言うと、麻衣がへへっと笑った。
「うそだよーだ。ナルってば、全然動揺しないんだもんなぁ」
 着替え出しとくね、と言ってぱたぱたと駆けていく麻衣の後ろ姿に
 心の底から沸いた感情を、無視できない自分がいる。
 愛しいという感情を、もう誤魔化さずにいようと、誓った。




 渋谷のオフィスが、ぼーさんの絶叫に包まれるのは、
 もう少し先のことだ。




「ぼーさん、あのね、あたし、実は子供できちゃって…」
 
     






何の話だったんだこれは。←それはオレが言うべき台詞ではないだろう。
いや、最初の予定では記憶が戻って終わりだったんだけど。
だらだら書いてたらこんなことに…。(泣)
長いのにここまで読んで下さって、ほんとに有り難うでした〜☆
ジーンと麻衣の夢の中での話はまた機会があったら書きます。
ジーンはキャラが掴みにくいので、書くの難しくて止まったままでス。(滅)





余談ですが、上記のお子さまはこの晩につくったものと思われます。
…ナルが失敗したのか?←コラコラ。
キャベツ畑にコウノトリがー、ってことで許して下さい。
ほんとはそっちのシーンも書こうと思ったけど、途中で撃沈。(死)<