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15分と経たないうちに、見慣れた車が坂を上ってきた。
安物じみたエンジン音を聞きながら、綾子は一つ安堵の溜息を落とした。
来ないかも知れない、という不安は、とりあえず解消されたからだ。
あまりに短時間で到着した車の運転席には、これまた見慣れた風貌の男が見える。
この近くでの仕事だったのかも知れないし、単に裏道を使って来たためにこれほど早く到着したのかも知れない。
無限とある可能性の中に、急いできてくれた、と言う答えがあることに、綾子は無視を決め込んだ。
そんな純粋な思いのまま、少女でいられた頃を思い出す。
(あの頃だったら、きっと喜んで走り寄っただろうけど)
律儀に合図を出しながら歩道に寄せられた車に、綾子は歩調を早めることなく近寄り、無言のまま乗り込んだ。
「で?」
運転席から注がれる視線に、綾子は目を向けない。それよりも、滝川が車を発進させないことが意外だった。
さっさと我が儘な用事を済ませて、去っていくような気がしていたのだが、それをするほど冷たくもないらしい。
彼女の視線を釘付けにしているのはフロントガラスと、その向こうの街路樹やビルだったが、
綾子の視覚以外の感性は、全て隣の男に向けられている。
けれどそれは、滝川には伝わらない感傷のようだった。
「綾子? きいてんのか? 家まで送れば良いんだろ?」
滝川の声はどこか非難がましく、彼が手放しで喜んで自分を迎えに来たわけではないことは容易に知れる。
そんな解りきったことに傷つくほど、自分が心弱くなっていたことに綾子は今更気が付いた。
終わりだろうか、これで何もかも。
何度も覚悟したはずの思いに、手が震える。同じように震える右手を乗せてむりやり押さえ込んだが、あまり効果はなかった。
「…綾子? おい…」
真っ直ぐ前を見たまま姿勢を崩そうともしない綾子に、滝川の声が少し和らぐ。
滝川の言葉が終わるのを待たずに、綾子は低く短く答えた。
「泣けないのよ」
エンジンを掛けたままの車内に、珍しく音楽はない。いつもなら、気に障らない程度の音量で何らかの音楽がかけられているのに。
先ほど目を背けた可能性が、また頭をもたげた。自分に都合のいい要素が多すぎて、まだ信用には至らない。
(でも…)
「…泣けないの」
「誰が…?」
「アタシに決まってんでしょ。他に誰がいるってのよ」
察しの悪い男に痺れを切らし、綾子が冷たく言い放つ。
返す言葉を失ったようにおし黙った滝川の顔が、視界の右の一番端に映った。
「泣きたいのか?」
「わめきたいわ、思いっきり」
小さく吹き出すような音に続いて、滝川が大きく身動きした。
それに釣られて、綾子はちらと運転席に視線を移してしまう。
彼は上半身の重みをハンドルに預けて、目を閉じたまま笑みを刻んだ。
嫌味のない笑いだが、今の綾子には何より苛立たしい。
綾子は視線をフロントガラスに戻し、それ以上彼を眺めることを拒否した。
「どうぞ?」
肩を貸すでもなく、慰めるでもない。ただ、泣きたければ泣けばいい、と。
「…ムカつく男ね」
「そりゃお互い様だろ?」
普段通りの軽口に返された声は、先ほどまでの穏やかさを失い、堅さを帯びている。
その声の低さに驚いて、綾子は一瞬反応が遅れた。顔ごと滝川の方へ向けそうになって、止める。
まだ、駄目だ。見つめてはいけない。
「…何でアタシが?」
「見合いだったんだろ、今日」
滝川が着物の袖を引っ張った。珍しく彼の眉間にはしわが寄っているが、無理に視線を固定している綾子からは見えない。
けれど、年上である滝川の子供じみた行為に、つい頬が緩むのは堪えきれなかった。
間髪入れずに答えた所を見ると、彼の不機嫌の元はそれであるように思えた。そうであればいいと、思う。
「何笑ってんだよ」
「別に。大したことじゃないわ」
「そーですか。…で? どうだったんだよ、今日の男は?」
綾子は今の今まで記憶から消し飛んでいた男のことを思い出す。
あのままあの庭園に置き去りにされて、彼はその後どうしただろうか。
どちらにしても、青年が今後しばらく見合いに精を出すことはあるまい。
「アタシが知ってる中でも、下から2番目」
綾子の言いぐさに、滝川もやや破顔した。
「そりゃすげぇ」
堪えきれないように笑う運転手に、助手席から厳しい一言が飛ぶ。
「言っとくけど、一番下はアンタよ」
「…あっそ」
肩を竦める仕草に、綾子はようやくそれらしい笑みを刻んで視線だけ滝川へ移した。
「でも、今日ちゃんと迎えに来たから、格上げしといてあげるわ」
「そりゃありがたいね」
滝川がようやくハザードを消した。道が混んできたことに気が付いたらしい。
タイミングを計って右へハンドルを切り、自分の車を道の流れに混ざり込ませた。
「で、結局どーするんだ、これから」
やっと音楽がないことに気が付いたのか、滝川が危なげない手つきで2つほどボタンを押す。
流れてきたのは、聞き覚えのないロックだった。
動き始めた景色に合わせるように、軽快なテンポが刻まれている。
やきもちだと、見なしても良いのだろうか。
自分の無遠慮な呼び出しに、急いで駆けつけてくれたのだと。
希望的すぎる観測が、手痛い未来を招くかも知れないのに。
(…良いわ。痛かろうが、辛かろうが。…そんなの)
今は、どうだって良い。
「綾子? おい、どーす…」
「ホテル」
「……は?」
無粋な沈黙の後に返ってきたのは、予想通りの返事だった。
「ホテルよ」
「…この時間から?」
「そう」
「その格好で、か?」
「だから、そうだって言ってるでしょ」
男の視線が綾子の着物に向けられた。脱いだ後をどうするつもりだ、と突っ込まれるかと思ったが、
彼は溜息混じりに視線を前方に戻しただけだった。
呆れた顔を見せる滝川を、叱りつけるように我が儘を押しつける。
それを許してくれる相手だからと、甘えているのは自分でも解っていた。
「何よ、ヤなの?」
車は安全運転で進んでいる。
「そうは言ってねぇだろ」
前方の信号が赤に変わり、前の車が止まったのを見計らって、滝川もブレーキを踏んだ。
「じゃあ何? 今更、世間体がどうとか言うんじゃないでしょうね?」
吐き出されるように忙しなく、歩行者が横断歩道を行き交う。
「言うに決まってんだろ。大体なぁ、俺は仕事の…」
綾子が、滝川の顔を強引に自分の方へ向けた。
貪るように唇を合わせた後、目を見張る滝川に、綾子はしっかりと視線を合わせた。
ちゃんと目を見るのは久しぶりだ。くすみのない薄茶の眼を案外気に入っていると、
そのうち本人に言ってやろうと思っていたのだが、そのチャンスは今のところ訪れていない。
今日なら、言ってやってもいいかも知れない。
「したいのよ、今すぐ」
信号が青に変わった。綾子は唇を弓なりに曲げて、その信号を指さす。
「…命令の次は、おねだりかよ…」
反応しきれずにいた滝川が、綾子の仕草を見てようやく、車を発進させる。
「女の武器は、飾るだけじゃ意味無いのよ。使えるときに使えるだけ使うのが、アタシのモットーなの」
再び流れ出した景色に、綾子はもう見向きもしない。運転席だけに視線を注ぎ、蠱惑的な笑みを浮かべている。
「有効利用は結構だがな、今日のオレは金も時間もないぞ」
車が迂回した。
「別にどこだって良いわ。…何なら、ここでする?」
綾子の挑発する言葉に、滝川が笑った。
「オレたちも、意外と若いな」
車は、安全運転で進んでいる。 |
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