罪を犯すもの 序章
絵というものは鏡だと、誰かが言っていた。
教師だっただろうか? 以前目を通した専門書のどれかに書いてあったのかもしれない。
では、もし今の
指の間で絵筆をもてあそびながら、玲は一人ほくそえむ。それは大した芸術的な絵になるに違いない。芸術とはいつも混沌としているもの。人に理解を訴え、それでいて理解されないぎりぎりのラインに位置するものだ。
誰が今の玲を理解するだろう。
否、玲が口にすれば、あるいは今彼女が握った、彼女の心を映し出す魔法の絵筆を思うままふるえば、人は知ったように彼女を語るであろう。絵という鏡に描き出されたさかしまの虚像を見つめ、原因と結果を、玲の心をこのように導いた生い立ちから事件から、まるで彼女が小説の主人公であるかのように解剖し分析するに違いない。
そうして現われる玲は、今のこの混沌とした、誰にも理解しがたいような玲であろうか?
……否。いな、否。
人の理解できる玲は、所詮言葉にできる程度のうすっぺらな側面にすぎない。人は誰かを、自らの言葉に置き換えて形容することでしか理解できないからだ。そのようなものを玲は望まない。そんなお人形さんには、ろくな芸術を生み出すことができない。
玲は筆にすくった絵の具を丁寧にキャンパスに置いた。筆の先に色とともに宿った何かの魂を、筆をふるう自分だけが息づかせるような、そんな錯覚がする。だから玲は絵を描くことが好きだ。
子供っぽい話だが、一枚の絵の中で玲は神様だから。
その絵の空気も理も、すべて玲が作り出す。誰はばかることなく、王になれる。そして自分は良き王、良き作り手であるつもりだ。その快感を、玲でないものは知ることができまい。
よく、そうして描いているうちに玲は時間を忘れてしまう。
そもそも絵を描くことは想像以上に時間を食う作業だ。集中してしまえばなおさら。ただ自分の感じるままに色を置いていくだけの、ある意味単純作業ではあるが、その分手の休まる時がない。
とっくに日の暮れた美術室の中、玲はいつのまにか手元に目を凝らしていることに気がついた。もう、国道から来る車の不安定な灯りしかなくなっていた。
「……帰った方がいいのかな」
一向にそんな気になれぬまま、玲は呟いた。美術室の鍵は預かっている。およそ施錠に熱心になる必要もないような田舎だから、学校の管理は甘い。
「……帰ろうかな」
その言葉は自らの行動を喚起しない。ただ玲に、帰るべき家と、その奥に待つ人のことを思い出させるだけだ。
おっとり微笑む母。いつもどこか照れくさそうな父。玲を、もうとっくに卒業してしまった彼らの学校の教師に代わる「間違わないもの」として扱う、幼い彼らを。彼らの信頼を、思う。
彼らの頭が描き出すように、玲は「完璧」だろうか?
……否。いな、否。
そのような玲はこの世にすでに存在しない。ここにいるのはただの汚れたもの。誰かの娘であることも、誰かの恋人であることも汚してしまった、玲はすでに「汚れたもの」だ。
清廉であるべきとの則を犯した、女。
「……『罪を犯しし者』」
口に出して呟いてみて、玲はくつくつと笑った。
罪、という語感は、他のどの形容よりも今の玲に近いものに思えた。何と背徳的で、何と薄汚いものなのだろう、自分は。
自らの腕を玲はながめる。誰よりも美しいと母は自慢げに笑った。何のための自慢だろう? 何のために自分は美しいのだろう?
汚れたはずの己が腕の白さ、清さに、玲は戦慄した。
この腕があの男を誘ったのだ。白くなまめかしく、玲の目にさえたとえようもなく魅力的に映るこの腕は、男の目にどのように映っただろうか? 今、どのように映るだろうか?
めまいのような気分が玲を襲う。
誰かにすがって泣くことができたら、どれほど楽だっただろう。
玲は切望した。しかし、それを切り捨ててきたのは玲自身だった。一人の人を誰よりも大事だと心に決めた。それなのにその人を裏切り、堕ちた玲に、行くべき場所はすでにない。
そう、逆説的に言えば、彼を選んだ時から玲の罪はすでに犯すことが決まっていたとも言える。
『私は罪を犯す者』。
キャンバスに絵の具でべっとりと書き付け、玲は笑った。
こんな玲などに、いるべき場所はない。
いなくなってしまった方がいい。
嫌悪感の命ずるまま、玲はあの時から護身用にと持ち歩いている果物ナイフを手に取った。光る刃を、白い腕になすりつける。
鈍い刃で皮膚を切り裂くにはかなり力が必要だった。だが、それだけの力をかけても、ナイフが骨を押さえつける固い感触ばかりが強く、大した血は流れない。ただしびれるように熱く感じて、玲は血の滴る左手を肩から上下させた。
「いた……」
もう一度、と裂けた傷口にナイフを当てるが、痛みでそれ以上力が入らない。玲は右手で自らのセーラー服の胸元を引き千切った。
死にたいのか。
傷つけられたいのか。
哀れになりたいのか。
罰されたいのか。
「助けて……」
救われたいのか。
助けられたいのか。
哀れに思われたいのか。
許されたいのか。
「助けて、誰かあたしを助けて……」
出血のためなのか痛みのためなのか手が重くなり、気が遠くなり、玲はキャンバスの前の椅子から床へと崩れ落ちた。そこに滴り落ちた血が体へと気味悪く絡み付く。床に頭を打ちつけたと感じた瞬間、誰かの泣く声を聞いたように思ったのは、めまいのあまりの幻聴であっただろうか。
「かわいそうに……」
少女は泣いた。
「死ぬことなんか、ないのよ……」
少女は、血まみれの体に優しく触れるための力を持ってはいなかった。その差し伸べた手は宙を切り、赤い着物の袂に入れた鈴だけが悲しく震えた。
「かわいそうに……」
もう一度、少女は呟いた。絹の黒髪が膝まずいたその体の脇で床に触れたが、美術室の床を濡らす血に染まることはなかった。細いあごからゆっくりとたれた涙は血だまりに吸い込まれていく。
少女を取り囲むかのように白い着物の女たちが現われた。
あるいは、玲を取り囲んでいるのだろうか。
何かの儀式のような光景であった。血まみれの玲とそのかたわらにひざまずく赤い着物の少女を、そろいの衣装に身を包んだ女たちが囲んで言葉もなく見守る。
「どうして死ななくてはならないの……」
小さな手で少女は顔を覆い、無意識の下で浅く息をつく玲の体に涙がこぼれ落ちていった。しゃらら、と鈴が鳴る。
白い女たちは少女に向かって無表情に手を伸ばした。
赤い着物の少女は唐突に手を伸ばし、そのうちの一人の手をつかんだ。
しゃらららら。

