罪を犯すもの 第一章 2
小西が帰ると、麻衣は自分の机に飛びついて、引き出しから新聞のスクラップを探し出した。
心霊現象について報じてあるものはナルからスクラップしておくよう指定されている。だが、麻衣はその他にも目についたものを保存しておくようにしていた。調査では何が役に立つか分からない。大した仕事がないからこそ、自分で考えて働くことを心がけているのだ。
ナルは相変わらずソファでくつろいでいる。ただ先程まで読んでいた本は脇に放り出してあり、代わりに作ったばかりの依頼書がその手に取られていた。
小西の依頼は所長さまのお気に召したのだろうか。データの取れそうな依頼でもなかったのに、どうしたことだろう。
不思議に思いながら、麻衣はスクラップを差し出す。
「ナル、これ、少しだけど事件の記事。スクラップしてたから」
「……ああ」
その目が如実に『たまには気が利くじゃないか』と語っている。すでに怒るのもばかばかしいので、『そうだろ、たまには役に立つだろ』と目で返してやった。
ナルが引き受けてくれて良かった、と麻衣は思う。追いつめられて心霊調査事務所などに駆け込んでくる人間は、程度の差はあれど憔悴し、怯えている。麻衣などは心が痛んでどれもこれも引き受けてやりたいと思うが、ナルが差し伸べられた手を取ってやることは実にまれだ。だが、彼が引き受けたからには、心霊現象であるにしろないにしろ問題は解決するだろう。
口惜しいが仕事の腕だけはいいのだ、この男は。
「それにしても、珍しいね。こういう依頼、あんまり好きじゃないかと思ったけど」
「うん」
明らかに聞いてなさそうな返事が返ってくる。麻衣の渡した新聞記事に気持ちを奪われているのだ。
「調査、すぐに始めるの?」
「ああ」
「明日とか?」
「うん」
聞いてなさそうだ。麻衣は静かな横顔をにらんだが、こういう時のナルに腹を立てるだけ無駄だ。勝手に話を続け、言質を取るしかない。
「あたし、あと二日試験があるんだけどな」
「ふうん」
呟いてから、ふとナルは顔を上げた。
「試験?」
「そう。明後日まで」
「なんでお前は今ここにいるんだ?」
「ナルに依頼人を任せておけないから。安原さん休みだし」
もちろん、安原も試験のための休みである。
「馬鹿になるはずだって言うんなら、馬鹿になるのはナルのせいだからね。これからは反省して依頼人をいきなり追い返さないようにね」
麻衣だって当初は休んでいたのだ。リンから、試験期間中は依頼人が二分といないと聞くまでは。
「そんなことで勉強時間を減らすな。すぐに帰るような依頼人はどうせどうでもいい話だ」
そうとは限らないと麻衣は思う。
「へぇ。心配してくれんだ」
「これ以上事務所にたかられては困るからな」
叩いて落とすようにナルは言うが、よくよく聞いてみれば、麻衣の言葉を否定してはいない。どうにも、最近優しい気がしてならない。
「ありがと」
ナルは何も言わず、再び新聞に目を落とした。
「麻衣は明後日急いで来い。今日はもう帰っていい」
「うん。じゃあ、明後日終わったらすぐ合流するね」
返事はなかったが、麻衣は立ち上がった。どさくさでもう一人の調査員であるリンにお茶を持っていくのが遅れてしまった。リンに限って怒っていることはありえないが。
テーブルの上のカップを片づけて、トレイに載せる。給湯室に向かいかけて、麻衣はふともう一度振り向いた。
「……ね、イギリスにはいつ帰るの?」
新聞を見たまま、ナルは少し瞬いた。口元が何かに迷う。
「……麻衣には関係ない」
「そおですか」
返事は、予想していた。
資料室は、リンの根城である。所長室がナルの根城であるのとちょうど同じに、何の用もない時、リンはここにこもって滅多に出てこない。やかましい外界を隔絶した天の岩戸である。
入室を許されるのは、もちろん用事がある時だけ。そしてお茶の給仕は、このオフィスでは十分な用事だった。リンもナルも、本当はお茶の国イギリスから来た人間だから、であろうか。
ノックをしてドアを開けると、そこにはいつも通り機械の山が展開していた。パソコン、プリンタ、ドライバ、種々のモニターを大小さまざまのコードがつなぎ合っている。その隙間を埋めるように置いてある紙と紙と紙とファイルとファイルとファイル。資料室はいつも一種異様だ。
「リンさーん、お茶持ってきたよー」
パソコンの前に、黒いとてつもなく大きな背中がある。メカニック担当者であるリンは、平均的身長の麻衣を子供に見せるほど、とんでもなく長身の男であった。
麻衣の声にリンはわずかに振り向くそぶりを見せる。
「どうぞ」
邪魔にならなそうな手元にカップを置く。
空気が動くので感じるくらいかすかに、リンが会釈で返してきた。彼の極端な無口さは先刻承知、今さらまったく不快には思わない。
「あとね、明日から調査だって」
リンは無表情に麻衣を見た。
「谷山さんは、あと二日試験が残っているのでは?」
麻衣は、うん、と笑った。
リンというのは上司と違ってこういう人間だから、全然嫌いになんかなれない。(上司は時々嫌いだ)
「あたしは明後日合流。ごめんね、機材の設置任せちゃうけど、撤収の時がんばるから!」
リンがうなずいたので、麻衣はじゃあ、と言って事務所に戻ろうとした。そこで、ふと思い出してもう一度振り向いてみる。
「ところで、ナルがイギリスに帰るって聞いたんだけど、リンさん知ってる?」
あまり期待はしていなかった。リンならば何か知っているかもしれないが、無駄話に付き合ってくれる相手でもない。「知ってますが、それが何か」という反応が返ってくるのを麻衣は半ば以上予想していた。
ところが彼は、少し考えた後にごく真面目な調子で口を開いた。
「理由は聞きましたか」
「え? いや、聞いてないけど。ナルがそんなこといちいち教えてくれるわけないし」
リンは表情の見えない目で麻衣を見た。
「結婚の話が出ています」
「けっ……結婚!?」
全力で叫んでしまったとして、誰が麻衣を責められるだろう。
ドア一枚隔てた向こうのナルをはばかり、焦って口に手を当ててみたが、その口は驚きのあまりしまりなくあいてしまって、それこそ開いた口がふさがらない。
「……な、なんで? ナルだよね? ナルまだ二十歳だよ?」
「ええ。そうですね、今はまだ婚約ということでしょう」
「婚約ったって……。どこのどなたさまよ、あんなのと結婚しようって人は」
「パトロンの娘ですね。ナルも無下には断れないというわけです」
「そ、そそそんな……」
断りにくいからといってナルが結婚。よりによってあのナルが知り合い中一番に婚約。よく知りもしない女と……ああいうこととかこういうこととかしちゃうわけで?
麻衣は勢いよく頭を振った。
「こ、断るんじゃないのいくらなんでも」
「どうでしょう。これを機にそろそろイギリスに呼び戻そうという話になっているようでしたし」
手が、一度大きく震えて止まった。
それは、一番、怖れていたことかもしれなかった。『ナルはこの国の人間ではないのだ』……。
「……イギリスに帰るって、本当に帰るってことだったの? ここを引き払うの?」
「そのように聞こえましたが」
麻衣は無理に笑って見せる。
リンが、淡々とした声で付け足した。
「もしナルに言いたいことがあるのでしたら、今のうちに話した方がいいのではないですか」
「……どういう意味?」
「さあ」
それきり、リンは口をつぐんでしまった。
ナルは麻衣が出ていった時のまま、一人静かに依頼書を読んでいた。こうしてる時が彼は一番幸せなのだろう。他の誰かといる時よりも、イギリスにいる時よりも。
それならどこにいたっていいじゃないかと思うのは、自分の勝手さだと麻衣は思う。麻衣やその他の人間がここにいてくれと思うのと同様、イギリスにはナルの家族がいて、彼を待っている。家族を差し置いて麻衣がわがままなど、言えるわけもないし、言いたくもない。そうは思う。
麻衣は、資料を読みふける青年の背後に立った。
「結婚するの?」
ほとんどおどかすような格好だったが、もちろんナルは驚いてはくれない。それどころか軽蔑の眼差しを冷え冷えと麻衣に注いできた。
怒る気もしないほど、ナルらしい反応だった。
「……どこで聞いた」
「リンさんが。イギリスに、帰るの?」
「それが、お前に関係あるのか?」
低い返事に、おぼろげにこれが不機嫌の原因だったのかと悟る。ならば彼は帰るのを嫌がっているのだろうか? だが、それを願ってはならないことだと麻衣には思えた。もしもナルに会えないのが、そしてジーンにも会えなくなるというのが自分にとってどれほど辛いことであろうとも。
麻衣には関係ないというナルの言葉は、正しい。確かに麻衣には関係ない。待遇のいい職場を失うのは痛手だが、仕事を選ぶ余地の少ない高校生だった時と違ってもう大学生になったのだ。割のよい仕事くらい、自分で探すこともできる。
それならばなぜ、これほどにショックを受けているのだろう?
ため息をつきながら麻衣が自分のデスクに向かうと、ナルもまた小さく息を吐いた。
「……麻衣、原さんを呼んでおいてくれ」
後ろから声をかけられて、麻衣は振り向いた。
「真砂子? めずらしいね」
ナルが彼女を苦手にしていることは周知の事実だ。
「たとえ猫並みでも、霊視能力者がいなくなるんでね」
渋谷サイキックリサーチの関係者の中で霊を視る才能があるものは、麻衣と同業者の真砂子だけである。
「ふぅん」
「あと、ぼーさんも。帰る前に連絡を」
「うん」
デスクから電話番号を取り出し、言われた通り協力者たちに連絡を取るべく麻衣はプッシュホンをダイヤルし始めた。
彼のことを思う時、思い出すのはいつも微笑みだ。
オフィスを早引けしてきても勉強する気になれず、部屋の床をごろごろと転がりながら、麻衣はジーンのあの優しい微笑みを思い出していた。
あの人の世界一綺麗な微笑み。
それがあるから生きてゆける、と思う。二年前の夏、ずっとナルだと思って会っていたのが実はとっくに死んでいるジーンの霊だったと知ってから、麻衣はどこかでそう思っている。
死んだ人を恋してるなんて不毛だよと言われても。他の恋をしなよといわれても。時にはもっと具体的に誰かをすすめられても。ジーンを想う気持ちが尊くて、とても優しくて大事だから、あきらめるよと言うことができない。
霊視の能力者である麻衣は、実のところ今でも時折ジーンに会うことができる。それはいつも調査中で、もっと言うならナルが優秀な霊媒であったジーンの助力を必要としている時だ。だから、本当のところジーンはナルを助けるために自分の夢に出てくるのかもしれないと、麻衣は漠然と考えていた。なにしろたとえ同じ調査中であっても、ナルがいない時に彼が出てきたためしがない。
自分よりも、ナル。そういうことなのかもしれないと麻衣は思っている。
(イギリスに帰る……)
それはとりもなおさず、ナルとの調査が今回限りになるということだ。そうなれば、きっともうジーンが夢に出てくることはない。
今度こそ本当の別れが来る。
胸がつまって、麻衣は苦しく寝返りを打った。
初めから分かっていたことだ。死んだ人間に会えていた今までの状態の方がおかしいのであって、別れは今突然来たとしても、本当はとっくに会えなくなっていたとしても不思議ではない。
ナルがイギリスに帰ると聞いて胸が苦しいのは、おそらくジーンに会えなくなる可能性が高いからなのだろう。
きっと、そうに違いない。
机の上に置いた目覚し時計の差す時間を見、麻衣はため息をついて電話ににじり寄った。受話器を取り、そらで覚えている番号をプシュする。
二度の呼び出し音の後、相手が受話器を上げる音がした。
「はい、原でございます」
聞き慣れた気取った声が耳に流れ込んでくる。麻衣は息をついた。
「もしもし、真砂子? 遅くにごめんね……」
「麻衣ですの?」
応えの調子に、反問しながら首をかたむける、真砂子のいつもの動作を麻衣は思い描いた。
原真砂子は日本で一流の霊媒師である。そう言ったのは何を隠そう仕事へのプライドで凝り固まっているナルだ。霊姿を見ることのできる能力者は渋谷サイキックリサーチの関係者の中に麻衣と真砂子しかいないが、その実力には雲泥の開きがある。麻衣のことを『猫並み』とナルは表現したが、麻衣は自分の能力をコントロールすることができないのだから、そう言われても仕方がない。
これで真砂子がナルを好きで、彼に迫ったりしていなければ、彼は彼女をもっと重用するのだろう。
「なんですの、何か変更でも?」
「ううん、仕事のことじゃないの。個人的な用事」
「まあ、めずらしい」
ふと真砂子は言葉を切り、透き通るその声を低くした。
「休戦協定なら応じませんわよ」
「にゃ?」
「あたくしはいつでも臨戦態勢ですわ。麻衣のいない間、めいっぱいナルにアタックさせていただきますので、そのおつもりで」
「はあー?」
「敵の隙を突く、これこそ戦略というものですわ」
「あのなーっ、あたしがいつ参戦したよ」
「あら、してませんでしたの?」
「してない」
「それはついぞ存じ上げませんで」
「何言ってんの。あたしが好きなのはナルじゃないってば」
「お兄さまの方がお好きだというのは、お聞きしましたわよ。二年前には」
「どういう意味かな?」
「そのままの意味ですわ」
脱力して、麻衣は床に立てていた肘すらも崩した。べったりと床に横たわる。
これだ。どいつもこいつも、これだ。
しとやかに軽やかに、真砂子は笑った。
「あたくし、油断はしないことにいたしましたの。恋愛は戦いですもの」
「あっ、そーお? ……過激になったね」
「ええ、まあ。いつまでもお人形のように綺麗なだけでは、あの人に太刀打ちできませんもの」
「そりゃあそうかも」
真砂子がうらやましい、と麻衣は思うこともある。ナルのような相手に彼女なりにいつも体当たりで、自信たっぷりで、全然めげていない。停滞前線を漂っている麻衣とは大違いだ。
「覚えておいて下さいましね、あたくし容赦しませんから」
「……知ってる」
「禍根は徹底的に叩く作戦ですの。と、いうわけで楽しんで参りますわね」
「そうして」
「あら、敵に塩を送りますの?」
だから敵じゃないと言うのに、と麻衣は小さく苦笑した。真砂子のスタイルはあくまで敵対モードだ。それはまるで麻衣の何かを見透かすように。
未来か、あるいは隠れた気持ちか。
だが、そう、未来はもうありえないのだ。
麻衣は腕に額をつける。
「……真砂子、ナル、イギリス帰るって」
受話器の向こうに、沈黙が落ちた。麻衣は受話器を握り直した。
「だから、もしかしたら一緒に仕事できるのは最後になるかもしんない」
真砂子には、まだ希望がある。うまくいけば、まだ会うことができる。まだ終わったわけではない。そう思っても、冷血漢なナルを知っているから、麻衣は辛かった。ナルが決めてしまったら、誰がそれに逆らえるだろう。真砂子も麻衣も、いつも危うい立場にいたのだと、突きつけられてみて初めて知った。
「……やるだけやってみますわ」
しばしして聞こえてきた声は、ひどく落ち着いていた。
「真砂子?」
苦笑した気配が電話回線ごしに伝わってくる。
「麻衣と一緒にしないでくださいまし。あたくし、人が努力して手に入らないものを持ってますもの」
「それは美人だと言いたいのかね?」
「それから、有能だと申し上げてます。こちらの方が重要ですわね」
「……ほおう」
「話って、そのことですの?」
「そおですが」
「貴重な情報をありがとうございます。アタックの参考にさせていただきますわ。麻衣も参戦なさるならお早めに。では、ごきげんよう」
曖昧に別れを呟く麻衣に、真砂子は態度と同じく軽やかに、電話を切った。
何がどうというわけではない。茫然とし、この上ない攻撃を受けた気がし、麻衣は床を転がった。
「参戦なんかしないってば」
口に出してみる。
本気であの強気でナルにアタックする気だろうか? 真砂子なら、するのだろう。自尊心が高く、またそれに見合うだけのものを彼女は持っている。ナルも認めるほど。
何とも言いがたい感触がざわりと胸をなで、麻衣は手元のクッションを引き寄せて思い切り顔を埋めた。
「しないって!」
一体誰に主張しているのかと思えばやっぱり自分に言い聞かせているようで、なおさら麻衣は転がるしかなかった。

