罪を犯すもの 第二章 5
山を越えたい、とあたしはいつも思っていた。
あたしの家は鳴山のふもとにあった。鳴山はたくさんの山につながっていて、つながってつながってあたしの村を囲んでいた。山向こうに何があるのか幼い頃からあたしはずっと知りたかったし、連れてってくれと大人たちに何度も頼んでみた。
大人たちは時折山を越えて村を出ていった。そのたびにめずらしいものやら綺麗なものやらたくさん持って帰ってくるので、あたしは小さいながらも山向こうを大変な上人の世界だと了解して、やがて何も頼まなくなった。
けど、ずっと山を越えてみたかった。
知らないということはあたしの小さな好奇心をうずかせ、想像はいつも山向こうへとはばたいた。
山は空の終わり。大地の始まり。お日様は夕方になると山を飛び越えた先へうずもれてゆき、朝には山向こうを照らしてからやっとあたしたちの村へ来てくれた。
年に一度の鎮魂祭、あたしの家で行われる歌舞音曲の騒ぎを見ていても、あたしの心はいつも山向こうにあったように思う。わざわざ山の端に葬られた昔の女性たちをかわいそうに思う。端でありながら、やはりあたしの家の辺りは村の中でしかない。閉じ込められて、最後まで出してもらえずに毎年歌でそれをなぐさめられるのだ。彼女たちがかわいそうになる。
昔語りの婆が聞かせてくれたのだけど、うちの辺りに葬られている彼女たちは、昔だんなさまの後を追って死んだのだと言う。今上のずっとずっとおじいさまの神様がこの地を治めていた頃、彼女たちを哀れんで死ぬのはやめなさいと申されたとか。
それから村では死人を増やさない。戦が盛んになり、覇者が倒れ、新しい栄えがやってきて。遠いお江戸では恋人の後を追う人がたくさん出たりもしたそうだけれど、村ではそういうことをしないことにしたそうだ。
人が死ぬと、村では刀を振り回すことで悲しみを癒す。後を追っていきたいけど、それはやめましょうということで、死ぬほどのことはしない。よくだんなさまを亡くした女の人が傷つきすぎて体をおかしくしてしまうけれど。
昔の女の人はかわいそう。死んでしまったのだもの。
後を追えない今の女の人も、かわいそう。
かわいそうだから、村は一年に一度、なぐさめの歌を歌う。鈴を鳴らし踊り狂う。だから、鳴山という。昔からそういう。
だから、山のふもとに産まれたあたしは鈴、と名づけられた。と、母がいつか言った。
だからあたしは歌う。鈴を鳴らし、かわいそうと歌う。
ふいに鈴の音を聞いた気がして、麻衣はうっすらと目を開けた。
ほんの少しの間寝てしまったものらしい。窓から射しこむ日の角度は変わって見えないから、大した時間ではないだろう。辺りはまだ静かで、となりの教室からは授業をする声が聞こえてくる。六時間目の授業中なのだ。
麻衣は耳をすました。やはり、どこからか鈴の音が聞こえてくる。うたた寝の間に夢で聞いていたものとよく似ている。
妙に鮮明な夢には慣れている。あの夢はおそらく、過去の出来事だ。
この鈴の音は、この世のものではないのかもしれない。
麻衣は壁にすがりながら静かに立ち上がった。ひょっとしたら、夢の中にいたあの鈴という少女がいるのかもしれないと思った。
廊下は無人だった。少し肌寒い気がするのは、元からの気候のせいだろうか、そうでないもののせいだろうか。
(かわいそう)
鈴の音に乗ってかすかな甘い声が聞こえてくる。
(ああ……これは鈴の声だ)
(かわいそう)
麻衣は体の前で印を組んだ。
無人とはいっても会議室のとなりには使っていない小部屋がある。反対どなりには外への出口がある。どちらから何が出てきてもおかしくはない。それでも窓を背に立つよりはましに思えた。窓の外には鳴山がそびえている。夢の中の鈴が畏敬をもって見つめていた、鳴山だ。
封印された会議室を壁に、窓の外の鳴山を正面に、神経を張りつめて気配を探った。
じりじりと短い時間が過ぎていく。鈴の音は鳴りやまない。
どこから聞こえてくるのだろう?
「かわいそう」
耳元でささやかれた。
一挙動で麻衣は振り向く。
背を預けた扉ののぞき窓に、目がある。丸い大きな目。それを縁取る長く黒い艶髪。赤い口、小さな輪郭、笑う少女。
赤い着物の少女。
そろそろ麻衣を探しに行った方がいいんじゃないか、という話になったのは、主にミーティングの行き詰まりのためだった。書き置きのひとつもなくベースを封鎖してきてしまい彼女が困っているのではないかと気がついたのはいいが、結果から言えばそれは遅すぎたと言える。
特に女性が狙われているようだと言い出したのはナルで、一同は真砂子と綾子を囲むようにして移動した。その確かな意味を知っているのはナルと真砂子だけだ。
真砂子はナルにしか分からないように少し微笑んで感謝の意を示した。そうしたところで危険が去ったわけではなかったが。
会議室のあるN棟に近づいた頃、真砂子は足がすくむような思いがして立ち止まった。
「真砂子ちゃん?」
滝川がのぞきこんでくるのに、真砂子はなめらかに微笑むこともできない。耳は、あの音を聞いていた。
それが真砂子以外の耳に届いていないことからしても、霊の仕業に違いないだろう。そして、その霊のターゲット範囲内に彼女が収まっている可能性は非常に高い。
「鈴が……」
その言葉にナルが瞳を険しくし、他のメンバーを見回した。
「他に聞こえる者は? 松崎さん?」
「アタシには聞こえないわ」
それではやはりその鈴は女性に聞こえるもの、というわけではない。
特定の女性なのかあるいは真砂子の霊視、霊聴の能力のせいなのか。それはどちらとも言えない。
他の誰もが首を横に振り、ナルは小さく息をついた。
「……麻衣が気になる。行くぞ」
ちょうどその時だった。
N校舎の中から女性の悲鳴が聞こえた。
「今の声、麻衣じゃないか!?」
声を上げたのは滝川、真っ先に駆け出したのはナルだった。
N棟に駆け入り、最初の角を左へ。教室からわらわらと出てくる生徒たちを押しのけて彼らが見たのは、会議室の向かいにあたる窓の下にへたりこむ麻衣の姿だった。
「麻衣!」
ナルの厳しい声が飛び、麻衣は青い顔をはっと上げた。
「ナル」
「どうした」
「女の子が……赤い着物の女の子がいたの!」
会議室の扉をまっすぐに指差す麻衣の手がわずかに震えた。
封印された扉。その封印は開かれた様子がない。人間は入ることができない。
誰もが、ナルすらも、目を見開いた。そこに、戦慄が走った。
「くそっ」
滝川が舌打ちして駆け寄るよりも早く、ナルが上着を脱いでその手に巻き付ける。彼が取っ手に触れると、扉は静電気を弾かせて音を立てたが、ナルは頓着せず封印を引き千切りそれを開け放った。さらに紙の破ける音が響く。
ほんのわずか遅れて滝川らも中へ飛び込んだ。
綾子がその後をふさぐように立って、首を伸ばそうとする生徒たちを牽制した。
出口一つ挟んだとなりの教室から、教師の制止も聞かず次々に生徒たちがあふれてくる。当然授業どころではないだろう。そこにあるのは、四月に死んだ清野夕希のクラスだった。
「やっぱり、出たの?」
「ねえ、幽霊のせいだったの?」
「何言ってんだよ、気のせいだろ」
無責任な声が飛び交う。青ざめて壁にもたれかかる麻衣を、もしかするとさらにひどいかもしれない顔色をした真砂子がそっと抱きしめた。
ナルたちがベースの中をあらためていたのはほんのわずかな時だった。いくら機材の山があるとはいっても、人一人容易に隠れられるような場所はない。もしも生身の人間がいるならば見つからないはずがない。
最後に出たリンが、後ろ手に扉を閉めた。問うような視線を寄越すナルに、真砂子が小さくうなずく。
「もう、何もいませんわ」
真砂子に軽くうなずき返すと、ナルの視線は次に麻衣へ向く。麻衣は唇を引き結んで、床をにらむようにしていた。それが体の震えを落ち着かせるための仕草だと、一見して知れた。
「どんな姿だった」
「黒髪の女の子。髪は背中くらいまで長い。赤い着物を着てた。真っ赤な着物。そこの……ガラスに頭をくっつけて、笑ってたの。たぶん、十五歳とか、そのくらい」
会議室の扉を指しながら機械的に説明する麻衣の言葉に、よどみはない。ショックの抜け切らない様子とうらはらに、彼女はれっきとしたプロであった。
「……例のヤツかね」
滝川が低く言う。それに対するナルの応えは、さらに低く突き刺すようだった。
「可能性は高い」
「どうして麻衣なんですの……」
真砂子が口元を覆う。
生徒たちがその様子にざわつく。となりをつつき合い、顔を見合わせ、中には、あからさまに呪われたと言い出す者すらいた。
麻衣は困惑したように彼らを見渡した。
「どういうこと……?」
「説明する」
切って落とすようにナルが言い捨てる。あまりにきつい語調に、麻衣は知らず身をすくめた。
「ナル」
いさめるように綾子が口を出したが、それには答える素振りも見せず、ナルは生徒たちを睥睨する。かしましく騒いでいた彼らも、冷たい視線ににらまれて一様に口をつぐんだ。
「仕事の邪魔です。お帰り下さい」
滝川は顔をしかめた。ナルは普段から毒舌家ではあるが、ある程度公私の区別はつく人間だ。依頼人と言えないこともない立場である生徒に簡単にふるうような舌は、本来持っていないはずだった。
生徒たちと同じだ。彼も、相当に動揺している。
「悪いねえ」
ナルの言葉にそう付け足して愛想をふりまいたのは、滝川なりの配慮だった。
半分は納得し、半分は興味を失いきれない様子で、それぞれに教室へ戻っていく。戻れ戻れと言っていた教師がやっと聞いてもらえて肩を落とし、最後の生徒の背中を叩いて扉の中へ消えた。
急速に消えていくざわめきが引ききらない内に、ナルが麻衣を振り向いた。
「麻衣、最近……」
「何?」
言いよどみ眉を寄せて、ナルは滝川たちにその場を離れているよう指示した。さらに困惑したのは麻衣だけで、他の誰もが心得た様子で了解を示す。
少なくともただ幽霊を目撃したというだけではすまないのだ、と悟ってなおさら麻衣は困惑するしかなかった。
「しばらくどこかにいてくれ。使ってない教室にでも。一人では行動しないように。特に、原さん。……それから、松崎さん」
「はい」
あからさまに綾子はおまけでしかない。
綾子は不愉快そうにしたが、それは彼の好悪の情とはまったく別の問題なのだ。分かっているから真砂子も別段嬉しそうな顔は見せなかった。それはそうだろう、ナルの配慮は真砂子が狙われているかもしれない事実の下にある。
「ナル、なんなの?」
「麻衣に質問があるだけだ。中へ」
示されて、不安には思いながらも麻衣はベースの扉を開けた。逆らってどうしようがあるわけでもない。現状すら麻衣にはさっぱり分かっていないのだ。
ベースに足を踏み入れる時、赤い着物の少女を思い出して麻衣は少しだけためらった。

