アリスのお茶会

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海の匂い

前夜

 あの夜の役に立たないかがり火と、それより明るかった笑顔。
 消えてしまってもまた燃せばいいとライターを鳴らして誰かが言った。
 バーベキューもできなくて、用意した肉と野菜はコンロで焼いた。
 あんまり暗いので、固めた砂山の上に懐中電灯を横たえた。
 それでも火を絶やさず燃やしていた。
 気分だよ気分、と彼らは笑った。
 バーベキューも酒盛りも便利な機械が都会へいくらだって持ち込んでくれるけど、この情けなく気むずかしい火はこの砂浜でしか燃えない、と彼女は笑いながら思っていた。

 ――海の匂いがしていた。

「それでは、調査の無事終了を祝って、乾杯ー!」
「かんぱーい!」
 それぞれの手に配られたプラスチックのコップとその中の安いビールが砂浜の上に持ち上げられた。一同の中央で申し訳程度に燃えている焚き火の明かりで、ビールの黄金色がやけに綺麗に輝いた。
 夕方大きな問題もなく調査を終了した彼らは、メンバーそろっての打ち上げパーティーを始めていた。名目上はただの夕食であるが、仕事が終わってアルコール解禁になった彼らが飲まないわけがない。当然のごとくナルもリンも渋ったが、結局焚き火の輪から少し離れて皿をつついている。自分たちで夕食を作る手間と飲み会に付き合う手間とを秤にかけ、短時間なら参加してやろうということになったらしい。
 会場は神奈川の端にあるうらびれた砂浜である。海の水は猫の額ほどの土地に引き込まれているが、後は断崖に沿って人の手から遠ざけられている。旧道の通行量が多かった頃は穴場を狙って泳ぎに来る客もいたが、高速道路が通ってからすっかりさびれて人の姿もない。
 入り江の端に建てられた調査対象の家屋は昔砂浜の管理人が住んでいた時期もあり、当時は海の家も兼業していたらしいのだが、長い間人が住んでいないのが明らかだ。この砂浜は大がかりな海水浴場にするには狭すぎ、交通の便も悪いことから元々閑散としていた。それが幽霊騒ぎの後は本当に捨てられた場所になってしまっていたのだ。
 確かに狭いが、ロケーションは良い。危険が排除されて人も来ないとなれば少々の役得でバーベキューに使わせてもらうには最適であった。
「くーっ! 一仕事終わった後のビールはやっぱり最高!」
「なんでビールなわけ。もっといいお酒なかったのぉ?」
「バカ言うな。打ち上げと言えばビールでしょ。キンと冷えたビール! これ日本人の心ネ」
 一気にコップを干した滝川に、安原が手際よくビール瓶を構えた。
「まったく同感であります。部長、ささ、どうぞお注ぎします」
「いやいや悪いね安原くん、君出世するよ」
「いやぁ、部長にそう言っていただけると心強いです」
「君も飲みなさい、はっはっは」
「あ、こりゃどうも。はっはっは」
 じゃれあっている滝川と安原を冷たい目で見やり、綾子は文句をつけたばかりのビールをしっかり飲み干した。息が白くなるほど寒い海岸で、『キンと冷えたビール』とやらは氷のように冷たい。ぞっとするような温度に頭が本当に『キン』と音を立てた気がして、次には胃が熱くなった。
「このバカ寒い場所で、こいつらもう酔っぱらってんじゃないの」
「いつものことでございましょ」
 一同でもっとも酒量の少ない真砂子は、底の方に少しだけ入った琥珀色の液体をまるでウイスキーか何かのようにちびちびとなめる。大学にも行っておらず同世代の友人が少ない真砂子は、付き合いで飲まされることが少ない。こういう場への免疫というものに欠けていた。
「真砂子、あんた景気の悪い飲み方してんじゃないわよ。寒いんだから、さっさと飲みなさい」
「ほっておいてくださいまし」
「冗談。見てるだけで不味くなるわ」
「どう飲んだって不味いものは不味いことに変わりありませんわ」
 真砂子はビールがお気に召さないようだ。そもそも酒類一般が苦手らしいのだが。
「こういうのはね、いーい、慣れなのよ。オトナの愉しみってもんに始めからイイもんなんてないの」
「変な理屈ですわ」
「経験則よ。イヤな部分に慣れてくると癖になるの」
「そう、ですの……?」
「あら、キスだってセックスだってそーでしょ」
「酔っぱらってるのは、あなたの方じゃありませんの?」
 顔を引きつらせた真砂子の口調が、きつくなる。綾子は大声で笑った。
「なーに、照れてるの? まさかその年でキスもバージンってこたないでしょ?」
「酔っぱらいの相手はしてられませんわ。向こうのお2人とどうぞ」
「そうツンケンする事ないじゃない。オネーサマがイイこと教えてあげてるのに」
「興味ありませんわ。低俗な話題は低俗な方となさったら?」
「オトナの興味を低俗って言うわけ? ははん、それじゃアンタも近いうち低俗の仲間入りね」
「付き合いきれません!」
「いいから、難しく考えないで飲みなさいよ。ここでなら酔っぱらっても介抱してあげるから」
 綾子がせっかく消費されてきた少量のビールに新しくたっぷりと注ぎ足してしまう。真砂子が悲鳴をあげた。
「飲めませんったら!」
「慣れよ、慣れ。ねぇ、麻衣?」
 苦笑しながらコップを傾けていた麻衣は、顔をしかめた。彼女は花の大学生であり、真砂子に比べれば多少は場慣れしている。
「なんであたしに振るかな」
「アンタもオトナの愉しみに慣れといた方がいいと思うでしょ?」
「いんじゃない、勝手にすれば」
「冷たい」
「おかげさまで」
 麻衣にあしらわれた綾子は、ノリのいい人間を巻き込んだ。
「ちょっと、ぼーず。アンタも言ってやってよ」
「あーん? 何だ?」
 滝川は、安原とジョン、リンといういつもの飲み仲間と平和に酒を楽しんでいる。リンもジョンも乾杯の時には少し離れていたはずだが、見えない磁石でもあるかのようにいつの間にかまとまってしまっている。こうして集まっていると何となく男女に分かれてしまうのはよくあることだ。本当に根っから付き合いの悪いナルだけが輪から完全に離れている。
「真砂子ったら、この年になってビールも飲めないのよ。今後の人付き合いに問題があると思わない」
「真砂子ちゃんや、綾子ほど飲めるようにならんでもいいぞ」
「バカね。あたしはおかげで阿呆な男に酔いつぶれさせられることもないわよ」
「そりゃ確かに安全だがな。色気がないとも言う」
「色気がない? あたしに向かってよくも」
「綾子が色っぽいと思ってらっしゃるごく一部の男性方にこそ、教えてやりたいことが満載だね俺としては」
 綾子はすっくと立ち上がった。真砂子に構うより滝川に文句をつける方が優先になったらしい。
 危険信号を察知して、男性陣から安原が要領よく逃げてきた。綾子と入れ替わりに女性陣の方へ寄ってきて、背後でくだらない言い争いが始まった頃にはさりげなく位置を確保している。
「こちらはおとなしいですねぇ」
「慣れてませんのよ」
 真砂子の反応は、綾子に対するより数段素直だ。
「松崎さんの言うことにも一理ありますよ。現代社会のみなさまはお酒の席ではしたない姿を演じ合うことが腹を割ることだと思ってますからね。その席で1人素面なのはバカらしくていたたまれないし、かといって慣れてないのに参加しようとすると演技どころじゃなく本当に酔いつぶれてしまう。醜態も見せ物だと思っているみなさまは、初心者に優しくないものですから」
「今慣れておくべきだとおっしゃるの?」
「僕らは見捨てませんよ?」
 どうぞどうぞとコップを干すことを勧める安原を、真砂子はやんわりとにらんだ。
「あたくしが酔っぱらうのを楽しみになさってるのではなくて?」
「とんでもございません」
 安原スマイルとコップをしばらく見比べていた真砂子だが、やがて意を決したように一気飲みした。
「お嬢さん、いい飲みっぷりっ! 惚れちゃいますねぇ」
「……苦い」
 泣きそうな顔で真砂子が呟いた。
「酔っぱらっちゃえば分からなくなりますよ。ささ、お注ぎしますね」
 と、安原は両手を頭の横に掲げ、ウェイターを呼ぶように拍手した。
「こちらのお嬢さんにお代わりですー!」
「おおお、少年よくやった! ほめてつかわす」
「ははっ。ありがたき幸せ」
 これ幸いと綾子の追及から逃れた滝川が、いそいそとビール瓶を持って来る。真砂子のカップに注いで、ついでとばかり麻衣にも注ぎ足そうとするのを麻衣は仕草で断った。
「麻衣も飲んでるか? おとなしいじゃねーか」
「今日は控えめ。疲れてるからね」
「そだな。今日は適当にしとけ。大活躍だったからな」
「うん」
「でも酔わんと寒いしな。強いやつなめてるか?」
「勝手にもらうよ」
 麻衣はぱたぱたと手を振って、大酒のみたちのところへ戻っていく滝川を見送る。
「ちょっとぉ、ぼーず、火が消えてるわよ! 寒い寒い寒いっ!」
「わぁーったわぁーった。うるさいよお前は」
 言葉通り、麻衣の体には海の水のように疲労が溜まっていた。
 除霊しようということになれば体力のある男が3人ばかり稼働されるが、浄霊できそうだとなると最近では麻衣1人が霊の巣に放り出されることが多い。それで穏便に済めばよいのだが、今回のように抵抗を受けると助けもなく1人で奮闘しなければならない。もちろん死なないように事前のサポートは考えてもらえるが、それ以上のものではない。その前後に毎回ある機材運搬などの肉体労働も女性の身には響いて、調査の後には泥のように体が重いのが常だった。
 信頼されている、という満足感は疲労とよく似て身体に染みている。とても他の面々と一緒になって騒ぐ体力はない。周りも分かっているのだろう、真砂子にするように無理に勧められることはなかった。
「不味いですわ! いくら飲んだって不味いじゃありませんの!」
 急に声を荒げた真砂子に一瞬驚いて、その顔を見てすぐ納得した。飲み会でよく見る赤ら顔である。
「早くも出来あがってんなー真砂子」
 早くも出来上がっているのは真砂子だけではない。
「いーい顔になったね、まーさこちゃん」
「こっちおいで、真砂子ぉ」
「素面のやつは素面のやつ同士陰気に飲んでろー」
 最後の滝川の台詞は、麻衣に対する揶揄である。
 今素面なのは疲れて酒を控えている麻衣と、始めから参加する気のないナルである。騒ぎたいためととにかく寒さを紛らわすため、全員がハイペースでコップを空けている。調査の疲れも手伝って、あっという間にあたりは酔っぱらいの巣と化していた。
 いや、正確には揶揄を装った応援だろうか。苦笑した麻衣に向かって滝川はウインクを飛ばしてきた。彼は麻衣がナルに好意を寄せていることにどうやら気付いている。これは彼なりの気遣いなのかもしれない。
「……甘えるとしましょうか」
 麻衣はカップと皿を持って立ち上がった。

 ナルは焚き火からもコンロからも完全に離れた場所に座っている。折り畳み椅子を持ってきて、きっちり腰かけているのが彼らしかった。
「うわ、寒っ!」
 火の側にいるというだけでどれだけ温度が違うか、麻衣は体で実感した。
「なるほど、リンさんがあっちに来た理由が分かるわ」
「寒いなら向こうへ行ったらどうだ」
 気温より寒い視線がちらりと麻衣に向けられた。
「もーっ、なんで人の顔見たら文句言うかな。せっかくあったかくなるもん持ってきてやったってのに」
「酒なら足りてる」
「ウイスキーも?」
 麻衣は新しい2つのコップを掲げて見せた。先ほどの真砂子のコップのように底へ少しだけ液体が入っているが、ものとアルコール度数が違う。
 ナルは軽く苦笑して手を差し出した。
「もらう」
「どーぞ」
 ナルはどちらかといえば『量より質』の飲み方をした。けして酒に弱いわけではないが、けして好きでもないらしい。麻衣もビールを流し込んで馬鹿騒ぎするのが好きなわけではなかったから、ナルの飲み方に付き合うのは苦痛にならない。少なくとも今はそちらの方がより体調に合っていた。
 ナルの椅子のとなり、砂浜の上に直接腰を下ろして、麻衣は自分のカップから度数の高いアルコールを口に含んだ。
「んー……のどが熱い」
「ここに居座るつもりか」
「別にナルの所有地じゃないでしょ」
「話しかけられても邪魔なんだが」
「疲れてるんだもーん。置いといてよ」
 ため息が消極的な了承を伝えてきた。もとより飲み会に出てきた時点で多少の付き合いをさせられることはあきらめているのだろう。
「ナルがパーティーに出てくるの、2回目だね」
「そうか?」
「うん。前はね、ジーンが見つかって……イギリスに帰ることになった時。まどかさんに脅されて、ムリヤリ」
「ああ」
 思い出したという風にナルが呟く。特に興味をそそられている様子はなく、暇つぶしに相づちを打っているのがあからさまだった。暗くて本を読むわけにもいかないから、退屈なのだろう。今彼の皿に載っているわずかな野菜が消えたら、麻衣になど構わずさっさと部屋に帰るに違いない。
 だが、いつものことなので麻衣もいちいち腹を立てたりはしない。ひそかな上機嫌を害されることもない。海辺が非常に綺麗に見える夜に、少々風が冷たい程度の問題だ。
「でも今回はみんなに散々頼まれたとはいえ、いちおー自主的に出てきたから大進歩」
「進歩? これこそ馴れ合いというのだと思うが」
「いーじゃん、『馴れ合い』。角がこすれて丸くなってきたってことでしょ。嫌なとこがあって、それでも一緒にいられるのは本当に好きだってことだと思う」
「平和なやつだな」
「うん、まぁね」
 海へ抜けていく風が麻衣の髪を荒らしていく。砂が巻き上げられて、麻衣は目を閉じてやり過ごす。ナルの姿が見えなくなった。
 風が去って頭を振りながら目を開けると、月明かりで陰影が増した美青年が黙って海の彼方を見ていた。ため息をつきたくなるほど美しい光景。これが自分の恋人だとは、現実感がないほどだと麻衣は思う。
 無条件に信じられる仲間がいて、楽しい友達がいて、嫌なやつだけれど信頼できる恋人がいる。
 大学も4年になろうというこの時期、将来への不安は大きい。1年後の予測がつかないというのは心許ないことだ。どんなことをしても生きていけると思う反面、どんなことをしたいのか考えるべき今が人生を決めるというプレッシャーがのしかかってくる。
 ただそれでも、この場所があるということを麻衣は信じていられたからそれが支えになった。どんな将来になっても、彼らといられればそれだけで幸せだからいいだろうと思う。
「ねぇ、ナル。あたし卒業したらSPRに就職しようかな」
「調査員として?」
「うん」
「めずらしく役に立ったんで、調子に乗ってるな」
「悪い?」
 役に立つようになっているのは事実だろうと麻衣は胸を張る。滝川に拝み屋としての技術と心得を、リンにゴーストハンターとしての技術を習っている麻衣は何とか1人立ちできる力も付いてきていた。それは、ナルが以前言葉の端で認めていた事実である。
「麻衣はうちの正式な調査員だ。就職するというなら止める理由はない」
 うん、と麻衣は笑った。

 砂浜に立ち上がると打ち寄せる波の白さがよく見えた。
「綺麗ー」
 どこに流れ着いても、同じ海にいられるなら幸せでいられるだろうと思う。

 ──海の匂いがしていた。

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