アリスのお茶会

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  4. 海の匂い 第三夜

 そばにいればそれでけっこう幸せだと思っていた。
 いつでもとなりにいさえすれば、気が向いた時に横を見てあたしに気付いて、丁寧な仕草で抱き寄せてくれるから。
 あたしはわがままを言うための口をつぐんだ。
 黙って沸き上がってくる不満に蓋をしていれば、そのうち彼の見えにくいいいところにも気付いて、静かなキスにうっとり酔えたから。
 でもそうして邪魔にならないようにしてなきゃ、彼は私を捨てるのだと思ったから。実際、仕事と両立できなくなったらあっさり捨てられたのだから。

 この甘く暗い夜から、あたしも前に進まなくちゃ。

海の匂い

第三夜

 1週間ぶりに出勤したオフィスで、麻衣は休んでいる間負担をかけたことを安原に謝った。安原は事情を聞きたがる素振りを見せたが、それを説明したら一方的にナルを責める言葉を出してしまいそうな気がしたので迷った末何も言わないでおいた。
 オフィスは1週間前とも1ヶ月前とも変わらない様子でいつも通り動いていた。代理の所長はナルほど几帳面でもきれい好きでもなかったが、ナルに指示されてオフィスの状態を支えてきたのはアルバイトである安原と麻衣である。所長が替わったからといって一朝一夕に様変わりするわけもない。少なくとも麻衣たちは前所長の厳しい目がなくなったからといってすぐに掃除をさぼれるほど楽な教育を受けてきたわけではなかった。ナルの厳格な仕事ぶりを皮肉と罵倒で体に叩き込まれ、すっかり身に付いてしまっている。
 ナルの残した影響というものは計り知れなかった。
「仕事ありますか? あたし、今日は安原さんの分も働きますよっ」
「そんな、僕が働けないようなこと言わないでくださいよ。仕事は、はっきり言って、大変遺憾なことにありません」
「全然?」
「きれいさっぱり」
 重々しくうなずいた安原は、自分のデスクで本を読んでいる。どうも法律関係の本のようだ。仕事がないので『仕事がないときは自由』というこのオフィスの特権を発動させているらしい。
「なーんだ、張り切って来たのに」
「僕も張り切ってるんですけどねぇ。空回り空回り」
「仕事も請けられないし、私用寸前の雑用を言いつけてくるナルもいないですしねー」
「僕、渋谷さんが恋しい……っ」
 安原はしおりを挟んで本を閉じながら泣き真似をした。
「この優秀な頭脳と健康な体を遊ばせておくなんて、才能の無駄遣いです。人類の損失です。誰かこき使ってほしいっ」
「ナルじゃないんだから」
 麻衣は大げさにため息をついて見せた。
「まぁ、人をこき使うんじゃなくて使われたがるところが決定的に違うけど……」
「僕、本来は影の支配者タイプなんで」
「うわ、似合いすぎ」
「渋谷さんは孤高の英雄ってところですかね」
「孤高の英雄が人の好意を利用していいように使いっ走りさせるのか」
「それもまたカリスマ性というやつですよ」
「あーやだやだ。優れた人間って卑怯」
 むしろ独裁者かなぁ、と楽しそうに呟く安原にもう1度ため息をついて、麻衣は自分の荷物をデスクに置いた。ナルもリンもいないオフィスで1週間1人きり、安原は話し相手に飢えているらしい。影の支配者かどうかはともかく彼が巧みな話術で周囲にとけこんで過ごしていることは確かなので、得意の口が使えない状況はさぞつまらないだろう。
「暇ならあたしとお茶しません?」
「ナンパですか? 困っちゃうな」
「困るんですか? 残念だなぁ」
「僕が誘うべきだから困るんですよ。お嬢さん、お茶でもいかがですか?」
 麻衣はことさら丁寧に笑顔を浮かべて見せた。
「おいれします。喜んで」
「いたみいります」
 特にやるべきこともないような昼間、このオフィスではお茶会が開かれるのが恒例である。こうしてイレギュラーズも来ていないような静かなお茶会にはしばしばナルやリンが参加していたのだが、今彼らはいない。これからもいない。もう少しすれば安原もいなくなる。それだけが違う。
 最後が近づいていると分かっているお茶会は、自然ありがたみが増した。麻衣はいつもと同じ手順を踏みながらいつもよりも心を込めてお茶をいれ、ちょっとしたお菓子を添えて安原に給仕した。安原と麻衣は同格の調査員なのだから麻衣だけが働く道理はないのだが、これは麻衣の大事な仕事である。誰にでもできる作業しかこなせない麻衣にとって、お茶をいれることだけがみんなに認められた仕事であったから。
「お茶の仕事っていうのもいいな」
 麻衣が何となく言ってみると、湯気の立つ紅茶でありがたそうに両手を温めていた安原が首をかしげた。
「谷山さんはここに就職するんじゃないんですか?」
「そんな気になってましたけど、考えてみれば他に道がないわけじゃないし、いろいろ考えてみようと思って」
「そうですか……谷山さんはなんとなくいつもここでお茶をいれてるような気がしますけど、僕だって他に就職するんですしね。分からないものですねぇ」
「ほんと、最近そう思います」
「実は最近谷山さんが元気ないんで、心配だったんですけど。前向きになってきたみたいで、ちょっとほっとしました」
「ご心配おかけしました」
「仕方ないですよ。当然だと思います」
「やっぱり、ショックだったから」
 えへへ、と麻衣は笑った。多少はわざと明るく振る舞おうとしているとはいえ、すべてが強がりというわけではなく、本当に前向きな気分だった。
 ナルに強引なさよならを言った後だが、どうせ何も言わなくてももう会えなかったのだし、最後に少しでも鼻が明かせたなら気分がいいと思う。一時はひどくナーバスになってもう誰とも会えなくなるような気がしてけれどこうしてオフィスは続いているし、イレギュラーズたちは変わらず友達で同じ東京都区内にいる。会う気さえあれば会えるだろう。会えないのは、相手に会う気があると思えないナルだけだ。
 手のかかる恋人に振り回されることもなくなり、費やしていた時間がぽっかり空いて自分の手に戻ってくる。何でも新しいことを始められるような気がしていた。
「あ、誰か来た」
 ドアベルがカラララと涼やかな音をたてる。
 さっそく誰かのお出ましだ、と麻衣は機嫌よく席を立った。

 それから1時間ほどのうちに、オフィスには綾子を除くイレギュラーズがにぎやかに集っていた。日曜の昼だから、綾子は昨夜遅くまで遊んでいた可能性が高い。もとより近頃では彼らも忙しく、なかなか全員集合とはいかなかったから仕方のないことであった。その日それだけの人数が集まったのも、要は前の週ばらばらにオフィスを訪れた彼らが給仕係の不在に落胆し、麻衣の復帰日を狙って今度こそ美味しいお茶を飲むためにやって来たという話である。
 ところが麻衣の大歓迎を受けて彼らがとっておきのお茶に舌鼓を打っていたのも最初の30分ばかり、やがてオフィスには重い空気が流れ始めた。1週間の休暇を追及された麻衣が、ついに観念して事情を話したのである。
「と、まぁ実にナルらしい電話があってさ。それっていつ、って聞いた時には切れてたわけ」
「コールバックしなかったんですか?」
「最初はそう思ったんだけどね。個人的な用事で電話をかけるとは思ってなかったから、電話番号オフィスに置きっぱなしだったの。次の日出勤してメモして帰ったんだけど」
「かけなかったんですか?」
「かけた。ら、いなかった。ルエラに電話があったことを伝えて下さいってお願いしたんだけど、その後連絡なし」
「いや実に所長らしいことで……」
 言った安原は、麻衣の複雑な視線に気付いたように言い直した。
「あ、前所長ですね。ついくせで」
「うん、ほんとこれでもかってくらいナルらしいよねー」
「それで、あいつほんとに来たの」
 ナルの来訪を信じているのかいないのか分からないほど普通の調子で、滝川が話をうながした。
 麻衣は苦笑する。
「来たよ。昨夜、突然」
「昨夜?」
 聞き返したのは滝川だけではない。
「僕らには連絡なしですか。渋谷さんつれないなぁ」
「もう帰らはったんですか?」
「来たならオフィスに顔出してもいいだろうに」
「えーっと、仕事だって言ってたんだしもしかしたら来るかも。詳しくは聞いてないけど。何考えてんだか」
「今日帰ったら、僕たちにもあいさつしてくださいって伝えて下さいよ。僕渋谷さんが恋しいって恨み言言いたいんで」
 この言葉には全員がうなずく。せっかく日本まで来て仲間に顔も見せず自分の行きたい場所だけに行くあたりが、実に彼らしい無粋さだ。麻衣に連絡しただけでも進歩と言えるのかもしれないが、それも日付を伝えない自分勝手さでは評価が低い。
 麻衣は自分に注目する全員を見渡して、ちょいと軽く肩を上げて見せた。
「もう会わないって言っちゃったから」
 次の言葉が出てくるまで、しばしの間が空いた。
 麻衣は笑っている。1ヶ月前からすればずいぶんやつれたその笑顔を、それぞれがそれぞれの表情で見つめた。
「……どうしてですの」
 静かに問いかけたのは、それまでじっと話を聞いていた真砂子だった。
 麻衣はとなりに座った真砂子に向かって、ことさら明るく舌を出してみせる。
「堪忍袋の緒が切れたってやつ。何も言わずにイギリス帰っといてさ、都合のいいときだけ呼び出すなんてあまりにも自分勝手すぎるじゃない。付き合ってられないって言ったの」
「何も言わなかったんですの?」
「別に。鍵を返すとか言ってたけど」
「その話じゃありませんわ。それもですけど、イギリスに帰る時ですわよ」
「ああ。言わなかったよ。オフィスでリンさんと安原さんと呼ばれて、帰ることに決まったから後をよろしくってそれだけ。それでおしまい。以上でした」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは、何も言わなかったんですの?」
 麻衣は胸で存在を主張し始めた苦い思いを噛み殺した。
「もう会えないね? って、聞いた」
「ナルは」
「そうだなって」
 真砂子は眉を寄せてうつむいた。その綺麗な眉に怒りが漂っていたので、麻衣は大きく笑い飛ばす。
「いつか来ることだったんだしさ。考えようによっては面倒なやつと縁が切れてよかったのかもと思って。あんまり言わなかったけどほんと振り回されてたから、なんか、うん楽な気分だよ」
「それはそうですわ」
 真砂子の口から漏れる言葉は固い。
「面倒なことなんか、あって当たり前ですわ。ナルなんですから。逃げ出せば楽に決まってます」
「真砂子」
「同情の余地はありませんわよ」
 ジョンが、対応に困ったようにおろおろと2人を見比べた。
 安原と滝川も止めようかと迷っている素振りだ。
「ナルが仕事のことになったら夢中になってしまうのも、言葉が足りないのも、分かってたはずでございましょ。それを今さら嫌になったなんて、わがままなのはどちら?」
「言い方が悪かった。それは認める」
「言い方?」
「あたしにはもう無理だよ。そりゃ確かに冷たいやつだって知ってたけどさ。でも少しは大事にしてくれてるって思ってたの。好きでいてくれると思ってたの。一言もなしに置いていかれるなんて……思ってなかった」
 真砂子の黒い玉のような瞳が、麻衣を弾劾するように見る。
「それはあなたの読みが甘かっただけですわ。大事にしてくれてると思ってた? ええ、そうですわ。ナルはあなたを大事にしてましたわよ。気にかけて、家に入れて、これ以上ないほど大事にしてましたわ。あたくしが見てないとでもお思い?」
「原さん、そのくらいで……。麻衣さんかてたくさん考えて決めたことなんデスし」
「そんなの……そんなの当たり前ですわ!」
「いろいろ事情もあるんでっしゃろ……ね?」
 そんな動きを目の端で見ながら、麻衣は自分の心の中で殻を割られようとしているものを感じていた。笑顔と希望という明るい殻に、見えないよう出てこないようしっかりと閉じこめておいた、こぼれ出すそれは氷水のように冷たい。
「どんな事情があったって、あたくしならそんなに簡単に負けたりしませんわ。あのナルに愛されて! それで充分じゃありませんの! 一体何が不満なんですの?」
「愛されてたかどうかなんて……どうしてそんなことが分かるの?」
「どうして? 日本に来るのに、わざわざあなた1人に連絡して無理に時間を空けさせたんでございましょ? 他にどんな理由が必要?」
「ただのわがままじゃない。わがままが愛情? 冗談じゃないよ」
「あら、そんなことも分かりませんの? やっぱりあたくしが盗ってしまえばよろしかったみたいですわね。いいえ、今からでも構いませんわ。連絡先を教えて下さらない? あたくしならどんな手を使ったって、ほしいものは手に入れて見せますわ」
 さあ、と手を出す真砂子に麻衣は冷え冷えとした怒りを感じた。力は込めずにその手を押しのける。
「……真砂子だってあきらめたんじゃない」
「ナルがあなたを見ていることを知っていたから。あなたがナルを見ていることを知っていたから。2人がうまくいくならそれでもいいと思っただけですわ。もう遠慮する必要はありませんでしょ?」
「付き合ってる人がいるのに?」
「どんな手を使っても、と申しあげましたわ。早くして下さいませ。それとも、自分で捨てたくせに人に盗られるのはお嫌ですの? 本当にわがままな方ですわね」
「のしをつけて差し上げられるほど寛大にはなれない。盗るなら自分で盗れば?」
「そうしましょうかしら。イギリスくらいあたくしはいくらでも追いかけていきますし。ナルは優しいから無下に追い払ったりはしないでしょうから」
「そんなのはあいつの無神経さを体感してから言えば?」
「したいですわね」
 真砂子の目に涙がにじむ。
「あたくしはナルの無神経さとやらを試すことすら許されませんでしたのに。知りたくても知ることができなかったんですわ! 選ばれたあなたに何がお分かり?」
「ナルが選んだのはあたしじゃない」
「じゃあ何だって言うんですの」
「仕事だよ。分かりきってるじゃない」
「問題外ですわ。本当に分かりきっています」
「だから!」
 真砂子の小さな手が麻衣の頬をはたいた。
「どうしてあきらめるの! どうして! あなたはあたくしが望んで得られなかったチャンスを手に入れたのに! イギリスに行ったからって、それが何? 追いかけていけば済むことじゃありませんの!」
「そんなに簡単なことじゃない!」
 殴られた頬を押さえて怒鳴り返した麻衣を、誰かの手が押さえた。
「ストップだ」
 滝川が麻衣の肩に手を置いていた。
「2人とも一時休戦だ。いいな? 麻衣、来い」
「どこへ!」
「ナルを探しに行こう」
「やだ」
「いいから来い」
 腕をつかんで無理矢理立たされる。麻衣の力で滝川に対抗できるはずもなく、たたらを踏みながら引っ張られて立ち上がるしかなかった。
「俺たちはこれからナルを探してくる。でもって改めて話をする。真砂子ちゃんもそれでいいな?」
 真砂子はぷいと横を向いた。
 滝川は安原とジョンに目配せを送り、麻衣と2人きりで出口に向かった。
「ぼーさん!」
「少し時間を置いた方がいい。分かるな?」
 小さな声で囁かれた言葉に、麻衣は渋々うなずいた。
 叩かれた頬が熱い。真砂子は容赦なく叩いたらしい。まさか泣かせるとは思っていなかった麻衣は、呆然としていた。
「原さん……」
 扉を閉める直前、安原が真砂子にそっと声をかけるのを聞いた。
「だって! だって、こんな風に傷つけられるだけ傷つけられて終わってしまったら、あたくしは何のために身を引いたんですの? 麻衣が、麻衣が幸せにならなかったら、あたくしは一体何のために……」
 目の前にいた滝川にすがるように、麻衣は腕をからめた。滝川は少し横を見ただけで、何も言わない。

 滝川が麻衣を連れていったのは、オフィスの入っているビルの地下駐車場だった。今日は車で来ていたらしい。車通勤していたリンがいないから、オフィスで確保してある駐車スペースが空いているのである。
 恋人のように腕を組んで歩く麻衣に苦笑して、滝川は車の鍵を開けると助手席に乗るよう示した。
 調査の関係や私用で何度か乗った車に乗り込み、麻衣はシートベルトを締める。慣れた手つきで発進準備を済ませた滝川が、麻衣の様子を確かめるように目を寄こした。
「ほんとにナル探すの?」
「そのつもりだが?」
 唸りを上げてエンジンが息をし始める。エアコンのスイッチが入って暖かい風が冷えた体を溶かし出す。守衛にあいさつをして駐車場を出ると、日曜日の道玄坂はひどい混雑だった。
「で、ナルちゃんはどこにいるって?」
「知らない」
「知らないんかい」
「朝別れた時は、今日は用事を済ませるって言ってたけど。もともと残ってる仕事を思い出したから戻る、としか聞いてないもん」
「はぁん。それでオフィスに来ないってのはどういうわけかねぇ」
「知らないよ、そんなこと。何にも言わないんだから」
 滝川は麻衣に目をやって微笑った。
「んじゃ、とりあえず行きそうな場所を当たってみましょーか。広田氏にあいさつにでも行く?」
「はぁ? なんで」
「日本まで来るってことは、日本にしかない場所か、日本にしかいない人間に用があったってことでしょ。忘れものがあるだけなら送らせればいいことだしな。ナルが直接顔見せなきゃ話が進まない場所に用があったってのが、一番考えやすいラインかな、と」
「……そっか。そうだね」
「後は宗教研究の進んでる大学か……有名な幽霊スポット。どちらにしろこういう情報は詳しい人間に聞かないとな」
「広田さんなら、というか零班なら分かるよね」
「そゆこと」
 麻衣は体の底から息をついた。
「すごいね……これだけの情報でも打つ手って見つかるもんなんだ」
「その気になればな」
 車は広田の務める検察庁への進路を取る。広田は心霊現象の関係していると思われる事件を扱う特殊な部署に所属している。本人はいまだ頑健な幽霊否定派だが、望むと望まざるとに関わらず彼の元に情報は蓄積していた。
 しばらく麻衣は東京の街をながめていた。
 日曜日の東京は割合スムーズに車が流れている。日本人が勤勉とは言っても日曜日は全国的な休日であり、仕事に奔走する人々の車も圧倒的に少ない。特に平日混んでいるオフィス街などは差が顕著で、車も通行人も明らかに目減りしていた。街は機能中心にまとまっている。
 生まれたときから住んでいる、これが東京の街だ。
 無関係で無関心な人々を見ているのは、麻衣のささくれだった心を多少なりとも落ち着かせた。麻衣は長い沈黙が段々気がかりになってきて、横目で滝川をうかがった。話し上手の男なのに、もう10分以上何も話していない。
「……ぼーさんも呆れてる?」
「ん?」
「あたしがナルから逃げたと思って」
「いんや?」
 滝川はハンドルを握って前方を見たまま苦笑した。
「麻衣の味方か真砂子ちゃんの味方か、と聞かれたら『俺は中立だ』としか言えんがな。同情の余地は充分あると思うが。でもって、麻衣とナルならどっちかってーと麻衣の味方だぜ、実は」
「……そーなんだ?」
「つーか、たぶんみんなそう」
 そう言って滝川は可笑しそうに笑った。
「真砂子ちゃんだって、麻衣が大変なのは分かってるさ。この1ヶ月お前さんが無理してたのもな。ただ、きっと俺たちより少しばかりナルを信じてるんだ」
「それであんなに怒るかなぁ?」
「さてね」
 つかみどころのない表情で、滝川は再び口をつぐんだ。
 麻衣はしばらく次の言葉を待っていたが、あきらめてもう1度窓の外を見た。オフィス街へ近づいていく車の外では、日曜日だろうとお構いなしに、毎日毎日飽きもせず勤勉に仕事をこなしている人々が歩いている。周りの景色に目をやることもなく、目の前にあるだろう仕事だけに熱心に。
 いつもの光景――なのだが、実は彼らの全員が1年後も同じようにしているわけではない。彼らの何人かに転機が訪れ、当たり前のように思える景色は、少なくとも当人たちにとって当たり前ではなくなるだろう。それなのに大多数が昨日と同じに歩いているから、大きな目で見ればそれは『当たり前』にしか見えない。
「――こんな風にずっと何となくそばにいるんだって、思ってた」
 滝川は返事をしない。だが、それは続きをうながすような沈黙だった。
 わざとらしいくらい変わらない彼の表情を見て、麻衣は少し笑った。
「あたし、ぼーさん好きだよ」
「どーも。俺も麻衣ちゃんが大好き」
「真砂子も好き!」
「そらよかった」
「みんなみんな大好き。いつか調査で海に行ったときにね、みんながいればあたし幸せだわーって感動したの」
 滝川は口の端に微笑を浮かべた。
 最初のうち派手な音を立てて車内を暖めていたエアコンは声をひそめ、2人の会話に耳を澄ませているようだった。
「別に他に欲しいものなんてなかった。今だってそうだよ。ほしいものは……守りたいものはね、ほんの少ししかないんだ。それってわがままかな? なのに、みんな行っちゃう」
 横目で滝川の反応を見たが、彼は車の進む先を見つめているだけだった。
「あたしは1人で、みんな行かないでって泣いてるみたい。イギリスくらい追いかければいいって真砂子言ってたけど、そんなに簡単なことじゃないよ。だって、イギリスに行ったら今度は他のみんなに会えない。ぼーさんにも、綾子にも、真砂子にも、安原さんにもリンさんにもジョンにも。みんながどんどん離れて行っちゃうのに、あたしまでオフィスからいなくなっちゃったら帰る場所がなくなっちゃうよ。あたしは、あのオフィスにいられたらそれで幸せなのに。それだけでいいのに」
 赤信号が道の先で行く手を阻み、車がゆっくりと停止した。
 ブレーキを踏んだ滝川が麻衣の方を振り向き、夢のように優しく笑った。
「麻衣、俺だってナルがいなくなってからさみしい」
「うん」
「俺だけじゃない。きっとみんなががっかりしてる。麻衣はそれ以上だろうな。それを知らんぷりで行っちまったナル坊は、やっぱり少しばかり恨めしい」
「……うん」
「でも、あいつを1つだけ尊敬できるとしたら、知らんぷりできたってそのことでもあるんだ」
「え?」
「あいつだってあそこが居心地よかったはずだ。麻衣がそばにいる方がよかったはずだ。俺にはそう見えた。イギリスにはあいつの大嫌いなお付き合いが山のようにあるだろうし、行ってみなきゃ今よりいいかどうかも分からない」
 滝川の大きな手が伸びてきて、麻衣の頭をぽんぽんと叩いた。昔、麻衣が少女と言える年齢だった頃よくそうしたように。
「そこにあることが当たり前のものなんか、何もない」
 麻衣は自分よりも長く生きてきた彼を見上げる。
「あいつはそれをよく分かってる。分かってても普通は捕まっちまうもんだが、あいつにはそれがない。成功も幸せってもんも、今あるものが当たり前だと思わずにチャンスを見ては自分の力で掴もうとしてるんだ。それはすげぇなと実際、思う」
 信号が青になった。車が前に向かって動き出す。
「友達にも恋人にも難儀なやつかもしれないが、上等な男だ。そう思わないか?」
 滝川がアクセルを踏むためにまた前に向いた。
 視線が離れたから返答を避け、麻衣は窓の外で流れる日常を見つめた。
 冷たくても無神経でも、少なくとも確かに愛してくれた男のことを考えた。
 確かに彼は彼女を愛して、彼女は彼を愛していた。

 日が暮れ始めた頃になっても、ナルの姿どころか痕跡すらも発見することができなかった。広田は珍妙な2人組をことさら歓迎はしなかったが、特に嫌がる素振りもなく迎え入れて仕事の合間に必要な情報を渡せる範囲で渡してくれた。その心霊スポットリストに従って2人はさらに探し歩いたのだが、結局本人も黒衣の美青年を見たという情報も得ることができなかった。
 滝川は舌打ちして仕事があると言い、麻衣に車を貸してスタジオに行ってしまった。お茶を飲みに来ただけの人間に1日付き合ってもらい、麻衣に文句があるはずもない。ありがたく車だけを借りてそのまま1人でリストをつぶしていった。
 真砂子の言うようにイギリスに追いかけていくような決心は、まったくついていない。それを思うたびに、オフィスの仲間たちの顔や、置いていかれて泣き明かしたたくさんの夜が頭をかすめていく。幸せになれる保証など、ない。
(でも、あたしはまだ何もしてない)
 ナルを責めることも、自分の居場所を守ることも、何もしていない。
 きちんと話し合って、その末にもう1度さよならを言うのでもいい。ただこのままでは悔いが残る、とそう思った。ナルを愛していた時間が涙だけで終わってしまう。
(何で会いに来たの?)
 それを聞かなければ前に進めない、そう思った。
 ただもう1度会おうと、それだけを思って夕暮れに染まっていく街を走った。

 自宅に向かってハンドルを切ったのは、ただの思いつきだった。ちょうど日が落ちようという頃、あまりに収穫のない捜索に疲れてわずかな手がかりでも残っていないかと家を見てみることを思いついた。ナルが書き置きなど残しているわけがないと思ったが、手がかりもなく走り回っているよりはそれを確かめに行く方が益があるように思えた。
 そしてそれは、奇跡のような思いつきだった。
 アパートの玄関で何気なく郵便受けをのぞいた麻衣は、そこにつまらないチラシ1枚しか入っていないことに違和感を覚えた。日曜日は郵便物の配達がないから、ダイレクトメールの類ですら届かずそこが空であっても何もおかしいことはない。しかし、理由はすぐ思い出した。
 今朝、ナルに鍵は郵便受けに入れてくれと言って出たのだ。
(なんだぁ?)
 忘れて出ていったのだろうか。それとも返す気がなくなったのだろうか。
 不可解な思いを抱えながら部屋に戻って、麻衣はさらに驚くことになる。
「……ナル?」
 彼女の部屋は6畳1間のワンルームで、玄関に入れば中が全て見渡せる程度の広さしかない。その部屋の中央に、見覚えのある黒衣があった。
 正確に言えば、黒衣をまとった青年がそこで寝ていた。
「何してんの?」
 広い背中が麻衣の声に気付いたように身じろぎする。
 座卓の上に鍵があるのを見つけて、麻衣は部屋の中に入っていった。鍵は馴染みの青い便せんの上に乗っていた。便せんには、ナルを待って書き殴った、結局投函できずにいた短い手紙。
 彼はこれを見ただろうか、と思い、当然見たはずだと思い直す。狭い部屋の真ん中に置かれた便せんに気付かないはずがないし、便せんを見ないでその上に鍵を置くことは不可能だろう。
(……何考えた?)
 座卓とナルの背中のそばに座って、麻衣は見慣れた黒髪を見つめた。
(ショックだった?)
 傷ついてなければいいと思い、傷ついてほしいとも思う。
 恋心は底知れない優しさと甘い暗闇とをいつも包み込んでいる。
「なんでこんなとこで寝てるかなぁ……」
 当たり前などないと思い知ったばかりなのに、なぜ彼は当たり前のように彼女のそばに存在しているのだろう。守れるほどの距離で。傷つけられるほどの距離で。
 また、許してしまいそうになる。
「……バカ」
 呟いた、その時電話が鳴った。
 麻衣は飛び上がるほど驚く。麻衣の暴言にナルが怒ったような気がしたのだ。彼はまだ寝ている。唐突に音を立てたのは麻衣の携帯だ。
 寝ているナルから申し訳程度に離れて、麻衣は努めて小さな声で電話に出た。番号は非通知になっている。
「……はい?」
「あ、谷山さん?」
「安原さん? これ、オフィスからですか?」
「そうです。渋谷さん、見つかりました?」
「えーと……まぁ。一応、今」
「おっと、お邪魔したかな」
「いえ、ナル寝てますから」
「寝てる?」
「寝てます」
「それはまた」
「考えてみれば時差があるし。疲れてるんじゃないですか? あたしも信じられないヤツだとしか言えませんけど」
 危険な発言をしつつ、こちらに背中を向けているナルをうかがう。少なくとも怒ってにらんでくる様子はない。寝ているのかいないのかは微妙なところだが。もし起きていたとしたら、人の家に勝手に居座って寝込んでいたことに引け目を感じているのだろう。それならそれで言いたいことを言ってやるしかない。
「じゃあ、とりあえず用件だけ伝えますね」
「どうしたんですか?」
「今さっきイギリスのリンさんから電話がありまして。渋谷さんの居場所を知っていたら教えてくれ、と言うんですね」
「……はぁ」
「知らないらしいんですよ、渋谷さんの居場所」
 含みたっぷりに言われた安原の言葉に、麻衣は首をひねった。そういう電話をかけてきたなら当然知らないのだろう。それがどうしたというのか?
「分かりませんか? 目下のところ渋谷さんはまどかさんの下で働いているそうなんですが、そのまどかさんに聞いても分からないんですって。直接の上司が渋谷さんの仕事内容を知らないなんて、おかしいと思いません?」
「はぁ。言われてみればおかしいですね」
「おかしいんですよ。『ナルは日本に行っていませんか』、とこうでしたからねぇ」
「はい?」
 麻衣は思わず聞き返した。
 ナルが仕事内容を詳しく話さないことはありえる。滞在するホテルをわざわざ連絡するほどまめでないことは理解できる。しかし、海外へ出向くことを伝えないことがありえるのか?
 安原は楽しそうに繰り返した。
「『ナルは日本に行っていませんか』」
「え、だって」
「ルエラさんもご存じないそうで、困ってオフィスにかけてきたんですよ。谷山さんはどうしていますか、ナルと何かありませんでしたか、って。いやぁ、面白いですよね。そう思いません?」
「はぁ!? 何ですかそれは!?」
「それでもって実際に渋谷さんは日本にいるんですよねぇ。それも、谷山さんだけに連絡して。もう僕楽しくて楽しくて、一刻も早く教えなきゃと思って電話したんですよー」
「わ、分かりません……」
「谷山さんに会いに……え? 何ですか?……替わる? いいですよ。……あ、すいません。原さんが替わってくれっておっしゃるんで今替わりますね」
「あ、はい」
 電話の向こうでごそごそと人が動く音がする。さっきの今だから、麻衣は少し緊張した。
 ごく短い沈黙のあと、耳にこぼれ落ちてきたのはいつも通り静かに落ち着いた真砂子の声だった。
「麻衣?」
「うん」
「あたくし、さっきのことは謝りませんわよ」
「……オーケー。望むところ」
「言ったのは、本当の気持ちですもの。あたくし、あなたよりよほど正直だったと思いますわ」
「はいはい」
「でももう1つ本当なのは……仕方ないことがある、ということも、あたくし知ってますの。悔しいですわ。許せないと思います。でも、仕方ないこともあります」
 麻衣はうつむいた。
「……うん」
「ただ、これだけは言っておきますわ」
 真砂子が息を吸い込む音がはっきりと聞こえた。
「あなたがもしイギリスに行ってしまっても、あたくしたちは決してあなたを見捨てたりしません。弱音を吐きたくなったら電話をかけてくればよろしいし、そうしたらいつでも言ってさしあげます。あたくしからナルを取ったくせに、って」
 麻衣は小さく笑った。
「あたくしたちはあなたを見捨てたりしませんわ」
 真砂子はもう1度言った。その声がわずかに震えていた。
「でも、ナルは掴まえていないとどこかへ行ってしまいますわよ」
 ひょいと弾けてしまいそうな嗚咽をこらえて、麻衣は口を思いきり膝に押しつけた。
 電話の向こうでは、さらに話主が変わった。
「麻衣さん? ジョンどす」
「うん」
 声が泣いてしまわないように、麻衣はくぐもった声でそう応えるしかない。
「松崎さんが話す言うてはったんですけど、無理そうなんで変わらしてもらいました」
「うん」
「麻衣さんと滝川さんが出ていきはった後、松崎さんがいらしゃりはって、ボクたちから事情を説明させてもろたんどす」
「うん」
「それから、松崎さん渋谷さんに怒ってずいぶん泣かはって……代わりに伝えてくれ、言われました」
「……うん」
「ボクたちは麻衣さんを愛してます。忘れんといて下さい」
 アタシはそこまで言ってないわよ! と、綾子の怒鳴り声が聞こえる。照れているのだ。付き合いが長いからよく分かる。
 ジョンが怒られて焦っている。安原がそれをなだめに入り、真砂子があおって笑っている。電話の向こうから、オフィスから家までの距離をものともしないで、夢のようにいつも通りの時間が流れ込んできた。
 麻衣は泣きながらうなずいた。
「分かったよ。ありがとう。……みんな大好きだよ」
 電話を切る。
 膝を抱えて泣く。
 ここまで大騒ぎをしたらナルが寝ているわけもないことは気付いていた。
 なぐさめてもらうことは始めから期待していなかった。
 それでも、目の前で勝手に泣き出して迷惑がられることがないということも、麻衣はよく知っていた。
 見守っていてくれると、知っていた。
「……ごめんね」
 気が済むまで泣いた後呟くと、静かな声で返事があった。
「何がだ」
 そして麻衣は顔を上げて、優しい人の顔を見る。
「いろんなこと」

 勝手に人の部屋を専有した詫びをしろと言って無理矢理ナルを連れだし、麻衣は夜のドライブに出かけた。別れを告げられた後にすっかり寝てしまったことを彼も気まずく思っていたのか、案外楽に連れ出すことができた。
 ナルは1度だけ行き先を聞くために口を開いたが、麻衣が笑って答えないので黙って付き合ってくれた。
 ドライブは高速道路を使って1時間強、日曜の夜は道が空いている。
 目的の場所は、さらに人気がなかった。
「うっわぁぁ寒いっ」
 海風の吹き込む場所へ出てきた麻衣が体をすくめるが、ナルの視線は冷たい。当たり前だろう、と目が口ほどにものを言っていた。
 そこは、1年前メンバー全員でバーベキューをした砂浜だった。当時完全にさびれて打ち捨てられていた砂浜は、小さいとはいえ駐車場が新設され、夏になれば人の少ない穴場海水浴場としてそれなりに機能しているらしいことがうかがえた。
(変わらないものなどない)
 思い出どおりにものごとがとどまっていることはなくても、思い出は大切な宝物であり続け、新しく訪れた人がまたここで別の思い出を作るのだろう。
 砂浜に沿って作られた駐車場で車を降りて、麻衣は砂を隔てる手すりに駆け寄った。
「よかった、まだ綺麗だぁ」
 改装された海の家が1軒あるだけのこじんまりとした海水浴場は、それほど人工物の匂いに毒されていない。両脇に迫る雄大な崖と、それを割ってどこか遠くの方まで続いていく海。海の先には月が見える。
 駐車場には常夜灯が1本だけ、明かりのほとんどは月から降る静かなそれに頼っていた。
「ここ、覚えてる?」
「調査に来たな」
「うん。それでね、ここでみんなでお酒飲んで騒いだの」
「ふぅん?」
「ふぅんって、ナルもいたよ?」
「へぇ」
 手すりに両腕でつかまって土台の部分に膝を乗せてしまうと、ナルが少し離れた場所で同じ手すりに背中を預けた。
「で? こんなところまで連れてきて思い出話か?」
「ナル相手に? 不毛だよ」
「分かっているならありがたい」
「分かってるよ」
 短い沈黙が落ちた。
 嫌味が混じったかな、と麻衣が心の中で苦笑する頃、ナルが落ち着いた声で言った。
「悪かった」
 先ほどのナルを真似るように、麻衣は笑って首をかしげる。
「何が?」
「いろいろ、だ」
「うん」
 海風が肩近くまで伸びた麻衣の髪をなぶっていく。
 胸の中をかきまわすほどに、強い潮の匂いがした。
「イギリスは遠いけど、でも同じ海の向こうだよね? 日本と同じ島国だしさ。おんなじ匂いがするよね?」
「しない」
「はい?」
「これだけ潮の香りが強いのは、日本だけだな」
「そうなの!?」
「そう」
「びっくり。そっか、そんなに遠いんだ」
 麻衣は目をすがめて海の先を見つめる。何かが見えるはずもないし、イギリスは見えるような遠さではない。
「……ねぇ、なんでイギリスに帰る時、何も言ってくれなかったの?」
「言っただろう」
「上司としてはね。一応の恋人としては?」
「何を?」
「何をって?」
「何を言えばいいんだ?」
「知るかそんなもん。あたしに聞くなよ」
「なら僕に分かるわけがない」
 麻衣は苦笑した。
「あたしのこと好きだった?」
「……その質問は困るんだが」
「何で? 言いにくい?」
「言うべき言葉がない」
「何それ」
「悪意は持っていない。それ以上の何を?」
「『嫌いじゃない』と『好き』は全然違うだろーが」
「僕には分からないね」
「ふぅん……」
 やっと海から目を外して横を見ると、ナルは景観などには目もくれず面白味のないコンクリートの駐車場をながめていた。景色が綺麗でもそうでなくても、彼にはそもそも興味がないのだろう。
 麻衣も倣って少し駐車場をながめたが、数秒で飽きてしまった。彼にとっては海も同じなのかもしれない。
「じゃあ、質問を変える。何であたしを抱いたの?」
「……そうしたかったからだな」
「あたしが誘わなかったら? しなかった?」
「しなかった」
「断言しやがったな」
「……傷つけるかもしれないと思っていたから」
 麻衣は彼の顔を見た。
 綺麗な無表情と、静かな口調。
「……じゃあ……初めて抱きたいと思ったのって、いつ?」
「さぁ。2年前くらいかな」
 付き合い始めたのは、ちょうど1年半前だ。麻衣がはっきりと意志表示をしたのもその時だ。
 その、時間の齟齬。
 足の力が萎えてその場に座り込んだ。
「日本に……日本に戻ってきたのは、何で? 用事はどうなったの?」
「用事は、なくなった。今晩にでも帰るつもりだった」
「用事は、本当にあったわけ? まどかさんもリンさんも知らないって言ってたって聞いたよ?」
「用事はあった。私用だが」
「……あたしに、会いに来たの?」
「いや?」
 ナルは小さく口の端を上げた。
「もう会わないだろうと思ってたな。日本から連れ出すわけにもいかないし、そんな責任は持てない。だから仕方ないと思った」
「じゃあ、何で?」
「なぜ理由ばかりを聞くんだ?」
「知りたいから。今、ナルの考えてることがとっても知りたいと思うから」
「僕の考えていることを聞いて何かお前の足しになるのか?」
「ものすごく、なる。あたしのことを勝手に1人で決めないで。勝手に責任とか考えないで。ナルのためにあたしが動くと思ってんの? あたしは、あたしのためにするんだよ。何であたしが泣いたと思ってんの?」
「だから、来たんだというのが近いかな」
「わけわかんない」
「それはお前が馬鹿なんだろう」
「馬鹿で悪うございました。分からないものは分からないんだから、説明してよ」
「だから、責任を感じてだ」
「何の」
「以前、卒業後に雇うと約束したことの、だな。反故になったわけだから、その責任は取るべきかと思って」
「わけがわからない」
 言って、麻衣は顔を覆った。
 古い口約束が彼の口から出てきたことに驚いて、涙が出てきた。
「馬鹿だ、あたし」
 言ったら、さらに涙があふれだした。
「馬鹿だ。言えばよかった。ちゃんと言えばよかった。あたし、連れていってほしかったよ。そう言えばよかった。こんなに辛い思いをするくらいなら、あの時ちゃんと言えばよかった。あたし、連れていってほしかったよ……」
 ナルが、静かに来るかと聞いた。
 愛しい仲間たちの顔が、次々に浮かんだ。
 イギリスは遠い。
 本音でぶつかってきた真砂子。
 優しく見つめてくれた滝川。
 麻衣のためになりふり構わず怒って泣いてくれた綾子。
 誰よりも真っ直ぐにエールを送ってくれた安原。
 愛情の固まりを見せてくれたジョン。
 海の向こうでも麻衣を忘れないでいてくれたリン。
 幸せそのものがある、渋谷道玄坂のオフィス。

 その場所には、海の匂いがしない。

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