アリスのお茶会

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海の匂い

第二夜

「身が入らないみたいね、ナル」
 声をかけられて、彼は振り向くのすら億劫に感じるほど疲れていることに気が付いた。
 目線だけ横に投げると、まどかが苦笑していた。
「『日本でのフィールドワークの方が面白かった』――そういう顔をしてるわよ?」
「分かっているなら、このつまらない仕事をさっさと片づけてくれ、まどか」
「もう、曲がりなりも怪我人が出てるのよ? つまらないはないでしょ」
「いるようだな、小物の罠に引っかかってねんざをした調査員が」
 直接的な嫌味に、まどかも少々苦々しい顔をした。立場上なのか性格上なのか正直に愚痴を言いはしなかったが。
「少し、油断してたかもね」
 控えめに自己批判としてとどめた言葉に、ナルは肩をすくめる。油断というよりはそもそも慢性的な警戒不足だ、と思う。
 久々にSPR本部からの依頼でフィールドワーク研究所員として駆り出されたナルは、学者たちの危機感のなさにうんざりしていた。確かに、イギリス国内で発生する心霊調査の需要といえば、多くは浮遊霊の噂の追跡、よくて可愛らしいポルターガイストの資料収集だ。記録さえ取れればナルとしては満足なわけだが、だからと言って危険を想定しない同僚たちの尻拭いに回されれば腹が立つ。
「ずっと好き勝手に調査してたから、気に入らないんでしょう?」
 ナルは軽く目を細めて肯定を示した。
 それを大っぴらに口に出していい立場かどうかはともかく、ナルが抑圧を感じているのは事実だった。彼が指揮を執っていたなら、そもそもこんな気まぐれなポルターガイストになど興味を持たなかっただろう。
 ナルはつい先週まで日本でSPR支部の所長を務めていた。時間にして実に6年。上司と呼ばねばならない相手がおらず、自分の采配で物事を動かせた6年間は実に快適なものだった。日本での生活にも充分慣れていて、異国で生活する苦痛も特に感じなくなっていた。もちろん、特別イギリスに帰る願望など持っていなかった。
 それがこうして再びフィールドワーク研究室の一般所員として戻ってくることになったのは、前年彼が発表した論文の評価のためだった。民族風習と心霊現象の関連について述べたその本は、日本での研究成果をまとめる形になった。発表後はSPR本部から慰労の言葉を受け、まもなく栄転のチャンスを得た。彼の本来の専門である理論チームにサブチームを新設することが決まり、そのチーフとして推挙を受けたのである。
 理論専門のチームに入れば、本来専門外であるフィールドワークに時間を取られることもない。恩師たちの元へ帰ることに異論はなかった。形が整うまでの間元通りまどかの下で働くことには少々異論があったのだが。
「フィールドワークに優秀な霊媒がいないのは、問題だな」
「まぁね。せめてリンがいればいいんだけど」
 6年前ナルがイギリスにいた当時、フィールドワーク研究室にはユージン・デイビスという突出した霊媒がいた。ナルの実兄である。彼は霊の姿を見、言葉を聞き、場合によってはその身に降ろすことができる真性の霊媒師だったが、6年前日本を訪れた時に客死した。彼の体を探すために、サイコメトリストであるナルと巫蠱道の道士であるリンが日本へ渡った。フィールドワーク研究所に所属していた能力者の大半が日本に消えてしまったのである。
 フィールドワークとは、実際に心霊現象が起きている現場に行ってデータを採取する作業のことである。当然場合によっては危険が伴う。研究者たちは心霊現象のパターンを知悉していたが、対処については無力だった。能力者でなければ対応できないことの方が多いのだ。
 その場に、知識ばかりの研究者しかいないというこの危険。
 まどかは愚かな責任者ではなく、危険を無視して仕事を進めることはしなかったが、それでも能力者しか察知できない危険に対しては打つ手がない。
「麻衣ちゃんでもいいなぁ。こっちに来ないの、彼女?」
 唐突に挙げられた名前に、ナルはわずかに瞠目した。
「麻衣?」
「ええ。彼女も優秀だってナル言ってたじゃない」
「僕が? いつ」
 ナルには覚えがなかった。
 麻衣は日本支部で彼の部下だった同年代の女性である。取り柄といえば体力と人当たりの良さで、言われたことをこなす熱心さはあれど機械にも心霊現象にも無知、能力は非常に不安定と、どちらかといえばプロには不向きな人間だった。
 まどかは破顔してナルの顔をのぞき込んできた。
「言ったわよ?」
「だから、いつ」
「そこまで覚えてないわよ。思い出さない?」
「全く。麻衣が能力者としてプロになるなんて、考えたこともない」
「そんな大げさなものじゃなかったと思うんだけどねぇ?」
 ナルは崩れないまどかの笑みに困惑して、ついに「そうだったかな」と呟いた。
 本当に記憶はなかった。麻衣はいずれ事務所を辞め、普通の仕事を始めるのだろうと思ってきた。拘束するつもりもなかったし、だからゴーストハンターとして教育したつもりもなかった。ただフィールドワークを手伝わせるために最低限危険を回避できるだけのことしか教えていない。
 彼女が滝川について時折能力のコントロールを習っているのは彼も当然知っていたが、それすら苦々しく思っていたくらいなのだ。滝川が教えていたのは積極的に能力を高めるための手法だった。麻衣の指導霊であるユージンもまた、積極的に彼女の能力を伸ばしていた。プロの拝み屋として使いものになるレベルまで引き上げようとしていた。
 潜在的な力を制御させず暴走させてしまうのは得策ではない。しかし、ナルはそれ以上のことを望んでいなかった。彼女が仲間である滝川らに追いつくため同じ位置に立ちたがっているのは承知していたが、軽い興味や状況に流されて深く踏み込んでしまうには危険で居心地の悪い世界だと、彼はよく知っていたからだ。
 ごく真っ当な生活を掴めるはずの彼女を、その場所に留め置く気はなかった。
「ねぇ、だからうちのチームにくれない?」
 まどかが無邪気にそう言ったので、ナルは顔をしかめた。
「僕が売り買いできるものではないと思うが?」
「あら、でもナルがお願いしたら聞いてくれるでしょ?」
「まさか」
 調査に協力してくれなどという、一時的な話ではない。彼女の人生の決定に彼が口を出せるはずはなかった。口を出したところで、そこまでの影響力があるとも思っていない。
「人を使うのは得意技じゃない」
「それは僕が責任を持てる範囲内での話だ。他人の人生の責任まで負えないね」
「そうなの? あなたも少しは大人なところがあったのねぇ」
「まどか」
 十代前半の頃から知り合いであるまどかの言葉は、無邪気だからこそ辛辣だ。
「でも」
 と、まどかは首をかしげた。
「正しいことが必ずよいこととは限らないと思うわよ?」
「は?」
「だって、それはナルの理屈でしょう? 正しいことは人の数だけあるんだから、ナルの考える正しいことが必ず一番いいかどうかは分からないもの」
「……それは、まどかの理屈だな」
 確かに、ナルは常に自分が正しいと思ったことを押し通している。
 だが、それは充分な考慮の上での話だ。他人の理屈まで考えに入れていたら、ナルは生きていけない。
 生きている間にできるだけの研究を進める、それが彼の最優先事項だ。そのために多少切り捨てるものが出てくるのも仕方ない。利害の衝突が起こるのは仕方がないのだ。大勢の理屈が衝突しあって我を通しながら進んでいるのが世の中だ。他人に遠慮していたら自分の筋が通せない。
 研究さえうまくいっていれば、彼はたいがいのことに我慢ができる。そして、研究の邪魔にさえならなければ他人の都合にも敬意を払う。それ以外にどうしようもない。
 自分で最善と思ったことをするだけだ。
 そして、彼の理屈からすれば自分の都合で他人を拘束しないということは、我慢をして考慮している点であった。
「人材が欲しいからといって妙な理屈で煙に巻かないでくれるか」
「あら、ばれた? 本当に欲しいんだけどなぁ……」
 まどかは笑ったが、その笑顔には苦いものが混じっていた。フィールドワーク研究所では怪我人が多い。チーフである彼女はそれを憂えているのだろう。死人が出ないとも限らないのだ。それを避けるために霊視の能力者が欲しい。彼女の理屈としては成り立っているのだろうし、それはナルとしても理解できる理屈だ。
 たとえば彼女が麻衣を直接勧誘するなら、ナルが止める理由はないだろう。麻衣の仲間意識に訴えていることを思って苦く感じはするだろうが、止める権限があるわけではない。
 自分の勝手で拘束はできない。
 拘束するということは、責任を持つということだからだ。

 ナルがCDデッキを買い込んできたのは、イギリスに帰って2週間が経とうという頃だった。
 デイビス家のリビングには立派なコンポが据えられていたが、ナルの部屋に音を立てるものはない。テープデッキならば研究用のものがあるが、それをBGM用に稼働するわけにはいかない。
 つまり、彼は仕事中のBGMを流したかったのだ。
 もちろん今までそんなものを必要としたことはない。音楽には何の興味もないし、むしろ煩いとしか思ったことがなかったが、ちょっとした思いつきである。わずかでも能率を上げる可能性があるなら試してみない法はなかったし、彼は金銭面において自立していたのでそのくらいの自由はいくらでも利いた。
 流すべきCDは実のところ選びようがなかったので、自分の容姿がもたらすメリットを充分に自覚した上でレコードショップの店内にいた女子学生風の2人組に声をかけ、適当に選んでもらった。邪魔にならないクラシックを、というリクエストにどの程度応えるものが選ばれたのかは分からない。どうせどんなものであれ音が鳴るのだから煩いことには変わりないだろうと、彼は興味もなかった。
 両親の驚愕の視線を受けながらデッキを部屋に運び込み、適当に接続した。彼が普段扱っている機材に比べればそれは玩具のように単純だったので、特に使用説明書をながめる必要もなかった。
 接続したデッキにCDを放り込み、プレイを開始する。予想通り気に障る雑音が流れてきた。誰の作った何という曲なのか彼はジャケットを見てみようともしなかったが、頼んだ通りにクラシックで、ピアノのみの演奏であることは彼にも分かった。
(……さて)
 彼は実験を開始すべく自分のデスクに座って先日の調査資料を取りだした。
 プリントアウトされた3mmばかりの厚さがある紙束は、その多くが調査地の見取り図に気温やイオン値などの変化を書き込んだものである。半分ほどは録音に成功した霊障と思われる雑音の解析だ。数日の調査で、多少有効な資料として採取できたのは、これだけ。だからその音の資料が大半を占める。
 彼はその解析を隅から隅までながめ、そこから何らかの法則性なり以前のデータとの共通性なりを発見しようとする。彼の頭脳に蓄積された知識と経験と、それに基づく一瞬のひらめきが勝負を決する作業だ。目の前のものにどれだけ集中できるかが勝負の鍵を握る。だからこそ、今までそこに余計な雑音が混じることを嫌ってきた。
(煩い)
 柔らかなピアノが耳孔をくすぐる。
 人間の脳には入ってきた情報を取捨選択する機能がある。現実問題として彼がいくら雑音や雑念を忌避したところで資料と彼との閉ざされた空間を作ることは不可能である。彼が資料だけに集中するためには、たとえば階下から聞こえてくる両親の生活音や、窓の外を通る車の音、風の音、自分の息の音、生存のために存在を主張してくる空腹、片づけ忘れたペーパーナイフなど、自分を取り巻く全てのものを思考から切り捨てなければならない。そこで初めて集中というものが訪れる。
 これはナルにとってけして難しいことではないが、実のところ他の人間にとってもそれほど難しいことではない。テレビの番組に見入っている時に時間の経過を気にしていないのと同じ理屈である。
 ところが、テレビに集中しているからと言ってその時電話が鳴っても気付かないかというとそうではない。人間の感覚は変化に対して敏感である。それまで継続的に聞こえていてすでに無視の範囲内に入っている時計の音は聞かないでいられても、後から突然に追加された電話の音は高確率で拾うことになる。
 今のナルについて言えば、変化は自分の置かれた状況にあった。部屋の様子は同じ人間の好みとあってさほど変わらないが、日本の住宅街に住んでいたナルにとって木々のざわめきは異音である。ごくかすかに聞こえてくる両親の会話も耳慣れないものだ。
 同じマンションの中であわただしく立ち働く人間の雑音には、あれほど慣れていたのに。
 時に集中を乱すそれを改善すべく彼が思いついた実験というのが、CDをかけることだった。つまり、聞こえる雑音を1つに絞るというわけである。
(聞こえる余計な雑音も――聞こえない余計な雑音も、気にならないほどに)
 慣れてしまった生活を切り替えるために。
「ナル?」
 彼は少々驚いて振り返った。
 声は扉の外からしていて、扉はどう見ても日本のマンションのそれではなかったのですぐに現実を取り戻したのだが。一瞬、聞こえないはずの雑音を聞いたような気がした。
「何」
 扉を細く開け、彼の義母である女性が顔を出す。穏やかで聡明なその女性は、彼に錯覚を起こさせた女性とは似ても似つかない。
「お茶をいれたのだけど、飲まない?」
「悪いけど。今は仕事をしたいから」
「そう」
 断られたのに少しも残念そうではなく彼女、ルエラは笑った。
「お茶をいれたのも本当だけれどね、本当の本当は、あなたが音楽なんかかけているから不思議になって見に来ちゃったのよ」
「不思議?」
「ええ。マーティンと不思議がっていたの」
「2人して……僕に聞いてくれれば不思議なことは何もないと分かったはずだけど」
「だから聞きに来たのよ?」
 ナルは小さく苦笑を浮かべた。
「そうだね。これは、ちょっとした実験を」
「実験? 音楽をかけるのが?」
「そう。雑音の変化と数に対する集中状態をためす実験」
「最近は心理学に凝ってるの?」
「いや?」
「でもそれは心理学の実験に聞こえるけど」
「ああ……もっと日常的な実験で。状況の変化が少しばかり集中を邪魔しているように感じたから、最善の状態を探している、といったところかな」
「あら、あなたにもそんな繊細なところがあったのね」
 ナルは顔をしかめた。まどかといいルエラといい、ナルの態度に妙な驚きを見せる。それが実に当たり前の部分だから、親愛から来る言葉だと分かっていても馬鹿にされているような感触を覚える。
「驚かれるようなことか?」
「ナルは今まで何を考えているのか自分のことを全然話さなかったから。どんなことを聞いても驚きだわ」
 そういうものか、と彼は首をかしげた。
 確かにこうして特に話す必要がないことをルエラと話しているのはめずらしいかもしれない。ナルは思い出すのに労力を要するほど昔のことを思いめぐらしながら、そう納得した。
「知らない間にずいぶん大人になったのねぇ」
「……それはどうも」
「離れているのはさみしかったけど、日本にいる時間はあなたにとってとてもよかったみたい。最近とてもそう思うわ」
「そうか?」
 他人に自分の変化をほめられるのは居心地が悪い、とナルは思った。以前の自分をけなされていることにつながるからというのもあるが、単純に気恥ずかしいというのが正直なところだ。
「だから……少しだけ不安でもあるわ。あなた、こんなにあっさり戻って来ちゃってもよかったの?」
「日本でするべきことはできるだけしたと思うけど?」
「でも、日本に友達もいたんでしょう?」
「別に?」
「まだそこまで素直にはなれない?」
 ルエラはくすくすと笑った。
「恋人はいなかったの? 戻ってきてしまって……どうしたの?」
 ナルはわずかに瞠目した。そういう類のことにナルは言及されたことがなかった。それはいつもユージンに向けられていた興味で、両親とも彼に対して追及することなど始めからあきらめているようだったのだ。
「なぜそんなことを聞くかな」
「好きな人ができたように見えたから、かしら? あなた、本当にとても柔らかくなったわ。いえ、人に理解されようと努力するようになってる。自分のことを伝えようとするようになってるわ。だからね、分かってほしい人がいたんじゃないかと思うのよ。違う?」
 ルエラの言葉は、ナルにとっていつも対処に困るものだ。というのも、彼女の菫色の瞳はいつも他人への暖かなまなざしにあふれているからだ。過去の級友たちのように詮索しているわけでもないし、日本の面々のように不躾でもない。ナルにすらはっきりと分かるほど素直な思いやりに裏打ちされた言葉だから、乱暴に拒絶することがためらわれる。
 そして、今に限って言えば彼女の言葉がナルをして刮目させるものだったから、なおさら毒気をそがれた。彼女の言うような変化が自分に訪れているのだとしたら、それは全く初耳であったしまた驚くべきことでもあった。しかしルエラは今確かにそう感じているのだ。まどかのように悪ふざけで人を混乱させるような女性でもないから、ナルは否も応もなく信用するしかない。
 少し考えた末に、彼はこの驚きと沈黙で何かを察されているだろうと思いつつも軽く手を挙げるしかなかった。
「黙秘権を行使させてもらう」
「そう」
 案の定ルエラはしたり顔でうなずいた。その笑顔にかすかな憂いを見せながらも。
「でもね、もし、もしもの話なんだから否定しないでね? もしあなたにそういう人がいたなら、大事にしなさい。それはとても貴重なことだわ。あなたが思っているよりずっと、素敵な奇跡なのよ。なくしちゃいけないものなのよ。現にあなたは、こちらへ戻ってきたことをあんまり歓迎してないみたいじゃないの」
「僕が?」
「あなたが『音』を欲しがるなんて。研究に集中するために何かが必要なんて、今まであった?」
 ゆっくりとそこまで言ってから、ルエラは花のように微笑んだ。
「あら、私ったら舞い上がって煩いことを言っちゃったわね。嫌わないで頂戴?」
「まさか」
 言うと、ルエラははっと驚いたような顔をし、前よりも顔をほころばせた。
「日本であなたの言葉に耳を傾けた人たちに、私は心から感謝したいわ」

 お仕事がんばってね、と軽く笑ってルエラが部屋を出ていった後、ナルは奇妙な感慨を覚えた。
 ルエラはもとより誰に対しても暖かな気配りを持つ人間だが、以前その笑顔はナルからどこか遠い場所にあったように思う。もちろんナルはその理由を知っていたが、それは彼女が主にユージンとばかり話していたからだった。彼がルエラの人柄をよく了解していたのはつまり目の前でユージンと話す彼女を観察していたからであって、彼自身に向かってそのあたたかさの影響を与えるほど話しかけてくることはまれだった。
 当然のことだが、ルエラに非はない。彼女はナルが人付き合いを嫌うからそっとしておいてくれたのであって、ナルの無粋な態度を嫌って話しかけてこなかったわけではない。
 では、本当に自分は他人との会話をある程度受け入れる態度を見せているのだ、と彼は理解せざるを得なかった。
 会話の消えた部屋の中で、物静かなピアノの調べだけが流れている。仕事に集中するには時間がかかりそうな精神状態だ、と自分を分析した。
 こうして物思いを続けていれば、そのうちひょこりと顔を出す人間がいるはずだという気がする。まどかが当たり前のように日本での仕事仲間を引き合いに出したことから、イギリスに帰ることが決まった時どこかで頭を切り換えて捨て去っていたらしい日本の生活が、彼の新しい生活を浸食していた。
 いや、本当は彼の頭がそれに気付こうとしなかっただけで、時間は連続している。日本ではイレギュラーズたちが今もオフィスに出入りしているのだろうし、麻衣は時間があればナルを訪ねようとするのだろう。ただ、訪ねて来るには少々距離がありすぎるだけだ。もう会えないだろうと彼女は言った。それはもちろんこの距離を考えてのことだろう。
 こんな精神状態の時に彼女が訪ねてきたら、欲求を抑制する必要を感じずに抱いて眠るのだろうが――彼女は、いない。
(切望ではない)
 彼女が目の前にいて彼の生活を乱さない今、通り魔のような衝動はやってこない。来る機会がない。
(ただ、寂寥ではあるかもしれない)
 驚くべきことに。
 彼は時計を確認し、まだ許容範囲内の時間であることを計算して1番下の小さな引き出しを開けた。そこには文房具と共に数少ない余計な小物などが入っている。奥の方に入れてあった去年のアドレス帳を引き出した。
 黒革張りのその手帳はコンパクトなタイプのものだったが、妙に膨れている。その理由を思い出して、ナルは急に走った痛みに顔をしかめた。荷物を整理した時処理し忘れたことに気が付いて、なくさないように挟んでおいたものだ。
 表紙を開くと、ごつごつした金属片が紙の形を変えながら居座っていた。麻衣のアパートの鍵だ。
 ナルが麻衣の家を訪ねることは皆無に等しかったが、麻衣はこれを乱暴に差し出してきた。その前日、ナルは非常にしばしば家を訪ねてくる麻衣に自分のマンションの合い鍵を渡した。自分だけもらえない、と言って合い鍵を作ってきた麻衣は、おそらく照れていたのだろう。
 唐突に日本の生活がはっきりと形を持った。彼は立ち上がった。
 日本は夜中だ。
 その行動によって自ら通り魔を招き寄せることを、彼はまだ気付かない。

 ナルからの電話を受けた後、しばらくの呆然とした時間を過ごし、我に返った麻衣は翌日のオフィスで英国人の代理所長に休暇を申し出た。期間は翌週一週間。安原もまだ出勤してきていたから、休暇は特に問題もなく受理された。もともと後任の所長が決まるまで、日本語のできない所長では仕事を受けることができない。忙しいわけでも人手がいるわけでもなかったのだ。
(大体、来週時間を空けろって、来週のいつだ!)
 最初の感動が過ぎ去った後はそういうもっともな怒りが麻衣を支配していた。ナルは何をしに来るともどのくらいの時間を空けてほしいのかも言わず、言いたいことだけを言ってさっさと電話を切ってしまったのだ。それでも5分間の電話は画期的ではあったのだが。
 恋人に腹を立てることは、恋い焦がれることに似ている。
 そんな風に麻衣は時々思う。
 ナルが彼女を怒らせてばかりいるからそう思うのかもしれないし、一般的にそういうものなのかもしれない。大事な人間だから、いろいろなことを期待してしまうから、裏切られたと感じて怒ることが多いのかもしれない。
 はっきりしていることは、ナルからの電話を受けてから一週間弱、彼女が時に腹を立て、時に待つ時間の長さに泣き、結局のところひたすら彼を思っていたということだ。
 彼が言っていた週に入ると、彼女の苦しみは一方ではなくなった。
 やはりいっそのこと積極的に忘れる努力をした方がよかったのかもしれない、と彼女は誰にも言わず時々思った。
 彼はいつとも言わなかった。始めは日にちが決まったら連絡してくるのだろうと思っていたがその様子もなく、成田あたりから呼び出しをかけてくるつもりなのかはたまた約束したことを忘れたのか。今か今かと待っている気分は時間を長く感じさせる。待つ時間の長さは期待を膨らませ、期待は失望への恐怖を呼ぶ。
 訪ねてくるかもしれないのだからと思って部屋をくまなく掃除して食事を菜食にしてみては、1日待つ。無意味に日が暮れてくる。すっかり暗くなって猫の声もしない夜が訪れると、一体今日は何をやっていたのかと思う。翌日になって綺麗に片づいた部屋で目を覚ますと、自分の期待が目に見えて悲しくなって1日泣いてしまう。不誠実な恋人を1人でなじってはこらえようもない憎しみに気分を悪くし、やがてそれでも待っている自分に嫌気がさしてくる。
 ところが、渦を巻いてめぐる思考に身を任せていると、こういう気分もいつものように彼の顔を見たら吹き飛んでしまうのだろうなと思えてきて、あえて嫌われるような態度を取るべきではないと考えまた素直に待ち始めてしまう。
(あの電話がかかってきた時みたいに)
 また声を聞いたら愛しい気持ちばかりがあふれてくるのではないかと。
 そんなことの繰り返しだった。
 そして、1度失望するたび本当の失望に対する恐怖がふくれあがってきて、暗い気持ちが深まっていく。
(彼は――あたしのことを忘れてイギリスに行ってしまったように、電話したことなんかまた忘れているかもしれない)
 その考えは日を追うごとに強くなっていった。
 そして、結局ナルは指定した週、最後の土曜日の日が落ちても姿を見せなかった。ナルがイギリスに帰ってから1ヶ月が過ぎ、カレンダーは2月になっていた。

 ナルは強い既視感を覚えながら日本の町並みを歩いていた。
 既視感というのは大いに間違っている。実際に歩いたことのある道なのだから、見覚えがあって当然だ。しかしそれは郷愁と呼ぶには切なさに遠かったし、単純に見覚えがあると確認しているだけの無味乾燥な気持ちでもなかった。
 たとえばサイコメトリのビジョンの中で行った街に訪れたような、そういった類の感覚だ。日本という街が、ことに仕事に関係のなかった部分が今の自分にとってどれほど現実感のないものなのかナルはそこを歩くことによって感じていたのかもしれない。長い夢を見ていたようなものだ。居心地のいい時間だったと彼も思うが、継続できなくなった以上執着することに意味はない。
 もう振り返る予定もなかった日々に手を伸ばしてしまったのは、まどかやルエラが当たり前のように話に出した日本の生活が一種の衝動的な寂寥を呼んだことが直接の原因だった。思いつきでかけた電話で、会いたいと麻衣が泣いたから――会えるということに思い至った。
 しかし声を聞いた時に胸裡に生まれた、消えがたく思われた熱は、数日もするとあっさり冷めた。そうすると日本でのことはまた遠く思えてきて、目の前の研究を中断して積極的に行こうとする気持ちも萎えがちになった。
 それでも、1日に1度は試してしまうCDと、妙に馴染まない紅茶の味、確かに交わした約束に後押しされて彼は飛行機に乗った。
 郵便ポストの角を曲がり、国道から一本入って4軒目、木造のアパートが建っていた。間違いないと思ったがもう1度住所を確認し、ナルはエントランスと言うにはおこがましいアパートの玄関に入った。
 麻衣の部屋は2階にある。住人が少ないのか静まり返ったアパートの中を部屋の前まで行って、時間を考えながら控えめにノックをした。
「……麻衣?」
 返事がないので、呼びかけてみる。中に気配はあるのだが。
 さらに5秒間待ったが扉が開く様子はなかった。出かけるような時間でもないし物音はしている。夜中の客を警戒する気持ちはあるかもしれないが、自分の声を聞いたら出てきてもいいはずである。ナルは眉をひそめてもう1度強めにノックした。
「麻衣。入るぞ」
 反応がない。ナルはため息をついて返すために持ってきた合い鍵を取りだし、扉を開けた。
 部屋の中が見えてくるなり飛び込んできたのは、麻衣の怒声と座布団だった。
「遅いよ! 何してたんだよ、バカっ!」
 飛んできた座布団を片手でキャッチし、ナルは後ろ手に扉を閉めた。
 ずいぶんなあいさつへの文句も、近所に迷惑だという説教も言える立場ではなさそうだった。部屋の隅で膝を抱え、声を上げて泣いている女性に対してそこまでできるほど彼は冷たいわけではなかった。
 彼女は憔悴し、追いつめられて泣いていた。当然笑っているものと思って考えてもみなかったが、彼女は震えていた。
 ――そして彼は、初めて恋人をひどく傷つけていたことに気が付いた。

 ナルは、黙って入ってくると麻衣の前に膝をつき、ためらいがちに彼女の体を抱き寄せた。慣れた、けれど長く焦がれていた腕の感触にぞっとするほどの愛しさを感じて麻衣は暴れた。
「離してよ! もう嫌い、ナルなんか嫌い」
 先ほどの言葉と矛盾している、と彼は指摘しなかった。思っていたのかもしれないが黙って彼女の言葉を聞いていた。思い切り胸を叩いても腕をひっかいても、拘束して暴力をやめさせる様子も言われたとおりに放してくれる様子もない。駄々っ子を鎮めるようだ、と麻衣は思ったし実際そのつもりだったのだろう。
「なんでこんなに遅くなったの? ずっと待ってたのに。待ってたのに!」
「仕事が立て込んでた」
「連絡くらいくれればよかったじゃない。そのくらいの気配りもできないわけ? あたしが予定立てられなくて困るとは思わないわけ? 何でもかんでも自分の都合で動かせると思うなよな!」
「忙しくて忘れてた」
「あたしは暇で暇で死にそうだったよ。ナルなんか嫌い。ナルなんか、嫌い……」
 嗚咽が言葉をつまらせた。嫌いなのは事実だ。憎いのも事実だ。それなのに安心して甘えているのも事実で、自分の情けなさが悔しくて仕方がなかった。堂々巡りを繰り返す。迷路にはまりこんでいる。
 麻衣はナルの背中に腕を回した。
(そんなことをしたら、また振り出しに戻ってしまう)
 愛しくて突き放せなくて、抱きしめられたらそれでいいような気がして許してしまう。また置いていかれるに決まっているのに。
「……悪かった」
 ナルが呟き、麻衣は涙をこらえる。
 押し流されそうな自分を、こらえる。
 しかし彼が自分の身体をゆっくりと横たえ、肩口に口づけてきた時、彼女は自分が崩れていくのを悟った。
「――1回だけだからね」
 それは、破滅的に甘い抱擁だった。
 腐った果実のように。
 1年半、彼の家で過ごした時間のように。

『いつか、幸せになれるよ』
 友人が一生懸命に言った。
『麻衣は本当に本当にがんばってるんだから、誰よりも誰よりも幸せになれる。ならなきゃダメだよ。麻衣は幸せにならなきゃダメだよ』
 そのつもりさ、と麻衣は笑った。
『いい友達を持ったもんだわ』
『でしょ、でしょ?』
『こいつ、点数稼ぎか?』
『麻衣相手に点数稼いでどーすんのよ』
『そりゃそうだ』
『媚びなら男に売るっ』
『でもっていい男をゲットする?』
『そうそう』
 大声で笑いあった。
 本当に、幸せになれる気がしていた。
 友達がいれば、仲間がいれば、愛する人に愛されれば、幸せになれると思った。今だって充分幸せだと思った。
 彼女とも、もうずいぶん会っていない。

 床の上で目を覚ましたナルは、身体の節々が訴える痛みに顔をしかめながら起きあがった。畳の上で寝ればそれは痛みもするだろう。横になった瞬間から痛いと感じたから、1晩経った後の状態は容易に予想できたことだ。
 前日は飛行機、今度は畳の上とは幸せな話だ、とナルは皮肉に笑った。
 麻衣の姿は近くにない。台所から音がするから、食事を作っているのだろう。そう思っていたら音を聞きつけたのか案の定台所から麻衣が顔を出した。
「あ、起きた?」
 いつも通りの声といつもよりも柔らかい微笑に、ナルはひそかに安堵のため息をついた。泣かれるのは対処に困る。
「今日はどうするの?」
「……用事を片づけに行く」
「あ、そうか仕事で来たんだって言ってたね」
「麻衣は」
「あたしは今日から出勤。1週間も休みとってたから、もう休めない」
 半分は嫌味のようだったので、ナルは苦笑した。
「じゃあ」
「ねぇナル」
 麻衣が急にはっきりとした声でナルの言葉をさえぎった。
 タオルで手を拭き、部屋に戻ってきてナルの正面に座る。浮かべている微笑は瞳の色に反して、奇妙なほどに柔らかかった。
「もう、会うのやめよう?」
「……何」
「もうやめよう?」
 麻衣はもう1度言った。
「イギリスへ行っちゃったんだし。もう戻ってくる予定もないんだし。やっぱり、忘れた方がよかったんだよね、ごめん。あたしが会いたいとか言ったから、困ったよね。しかもお恥ずかしながら勝手に泣いて、大騒ぎしてさ」
「麻衣」
「やめよう?」
 強く、彼女は言った。
「ナルのこと好きだけど」
 そう言った彼女の瞳が潤む。
「好きだから。期待したり、がっかりさせられたり、傷つけられたり、ナルのペースに振り回されてたらあたし、何にもできないよ。このままじゃあたし、ぼろぼろになっちゃうよ……」
 麻衣は立ち上がった。
「だから」
「麻衣」
「返事は、聞く耳持たないからね」
 そのまま、泣きそうな顔を隠すように玄関を出ていこうとする。ナルはなおも引き止めた。
「麻衣。合い鍵はどうすればいい」
 沈黙があった。
「……何よ。かっこよく出ていかせてよ」
「開けっぱなしにするわけにはいかないだろう」
「出る時に閉めて、郵便受けに入れといて」
「ああ」
 うつむいた麻衣が、肩を震わせるのが見えた。泣いているのか、笑っているのか、と思った時、麻衣が半分だけナルを振り向いてふわりと笑った。
 その顔がもっとも気に入っているかもしれないな、と言葉にしない部分でぼんやりナルは思った。
「朝ごはん作ってあるから。ちゃんと食べてから出てね。最後のお願い。……元気でね」
 扉が麻衣を外に吐き出して、閉まった。
 ナルは静かになった部屋を見回して、ふと座卓の上にある青い便せんに目を留めた。まめに手紙を書く習慣はなかったはずだと知っていたから気になったのだろう。
 黒いペンの文字で、簡単な文が2行だけ。
『会いたくない。
 来なくていい』
 ナルは目を閉じ、ゆっくりとため息をついた。

第三夜へ

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