GAME 前

update: 02.01.31

「よし、ゲームをしよう」
 と、唐突に麻衣が言った。
 ナルは、軽く歯を立てていた彼女の肩から口を放した。充分に顔をしかめるのも忘れない。
 顔を上げてみれば、麻衣はしどけない半裸の姿と裏腹に平静な顔つきで彼を見ていた。
「ゲーム?」
「そ、ゲーム」
「なぜ僕が」
「つまんなそうだから」
「別に?」
 取り繕うわけでもなくそう答えた。
 いつもの部屋、いつものベッドで、いつも通り彼らは互いの服に手をかけながら向き合っていた。
 確かに特別興奮はしていないが、退屈を感じているわけでもない。仕事以外の、しかも必要がないことに時間を割く気になるのだから、ナルとしては楽しんでいると言っても大きな間違いではない。
 彼の日常は仕事を中心に動いている。邪魔をされずに仕事をしている限り、苦痛も飽きも感じない。息抜きを欲することもないから、仕事だけをして過ごすことなどできないという一般の理屈にのっとって説明すれば、彼の場合仕事が趣味も兼ねているとでも言えばいいだろう。彼は休むことの必要性というものをついぞ感じたことがなく、その代わり仕事を楽しいと感じることなら確かにあった。
 その彼が仕事以外で唯一望んで時間を取るのが、彼女とのセックスだった。
今まで遊びの『あ』の字も知らなかったかと思えば、やっと覚えた遊びが女遊びか、とは当の相手である麻衣の言だ。
 その程度には楽しんでいることなのだが、とナルは少し彼女の言葉を考えた。彼女は身体的にも技術的にも際だつ魅力があるとは言い難いが、彼にしてみればある意味価値のある人間だ。ただ、最近馴れ合いになっているのは事実かもしれない、とは思う。
 ブラウスの前をはだけたまま、さほど照れている様子もない麻衣は、憤然とナルを指を突きつけた。
「つまんなそうなの!」
「つまらなくはない。……人を指さすな」
「悪うございましたね。あのね、本当はどうか知らないけど、こう淡々とやられるとあたしの立つ瀬がないわけ。しかも久しぶりに会ってだよ? あたしが忙しい間に他の人としてんのかと思っちゃうじゃない」
 そんな事実はまったくない。麻衣が大学の課題とやらに追われしばらく顔を見せなかった間、彼はセックスのことなど考えもしなかった。
「麻衣のつまらないプライドに、僕がわずらわされる理由が?」
「2人とも楽しくてこそのセックスでしょーが。惰性でしないでよね。それともあんたは1人遊びにあたしを付き合わせてるわけ?」
 ナルは憮然として口をつぐんだ。
「どーよ?」
 たたみかけてくる麻衣に、しぶしぶ白旗を揚げる。
「……正論だな」
「でしょ」
「だとしても、それとゲームにどんな関連性がある」
「バリエーションってヤツ? 同じことしてて飽きてきたら、ひと工夫してみるといいんだよ。楽しむ努力をしなくちゃね」
 そこまでして無駄な楽しみに興じたくはない、と仕事が趣味であるナルは当然思った。
 これが単なる提案であったなら彼は即座に断っていただろう。ならいい、面倒くさいからやめる、と一蹴したに違いない。事実彼はそう口に出しかけた。
 思考が浮かんでから口を開くまでのわずかな時間で思いとどまることができたのは、彼の理性が優秀だったからに他ならない。これは、提案ではなく直訴なのだ。麻衣の言葉は正論だったし、ナルはそれを認めたばかりだ。彼は、確かに正論であることを無視するには理性的すぎた。
 結果、沈黙のあと彼の口から漏れたのは冷たい否定の言葉ではなく、ごく小さなため息になった。
「……で?」
 にこり、と麻衣が笑って言い出したのは…… 

 ぱたり、と枕に腕を投げ出して麻衣は唸った。
「よけい白けたという気がするのは錯覚でしょーか」
 ナルは返答を避ける。今の情事がどうであったかなど当事者である自分たちにはよく分かっていることで、返答する必要があるとも思えなかった。
 行為の直後から元気に文句をつけている麻衣の様子さえ見れば、彼女の作戦の失敗は明白だった。
 オーガスムスは快楽の頂点というが、身体的な反応である部分が大きく、充分に刺激を与えれば達することができるものらしい。その点では男の機能と似たようなものだ。盛り上がっているかどうかはまた別の話で、深い快楽を覚えていれば意識を失うことすらあっても、軽ければ絶頂につきものの脱力もごく軽く済むようだ。
 現在のように。
 ナルは実につまらないことに時間を費やしたと思いながら、それでも消費した体力が戻るまでベッドの天板にもたれる。
「引き分けか」
「引き分けだね。つまんない」
 麻衣は布団に入ったまま身を乗り出し、ベッドの下に散乱した服をあさりはじめた。
「案外、声って我慢できるもんなんだなぁ」
「そのようだな。いつもは演技を?」
「そこまでサービス精神に富んでないやい」
「だろうな」
「でも少しはサービスも必要かも、と学習しました」
 目立たない肌色のブラジャーを床から釣り上げると、麻衣はため息混じり半分ナルに背を向けながら体を起こした。
「気分が盛り上がってくると、なんとなく声出した方が気持ちいいって思うんだけど。出さないようにって思うのって、感じないようにって思うのと似てるわ。すっごく淡々としてた」
 感想を語る麻衣の言葉をナルは聞くともなく聞く。
 麻衣の提案したゲームは、声を出した方が負け、というごく単純なものだった。賭けたのは互いの命令権。独創性はないが実用性ならある。
 実のところ、ナルは1度としてセックスの最中に声を上げたことはない。麻衣の学習した通りそれは我慢しようとすれば楽にできることで、ナルは無防備に声を出すことを意識して避けてきた。麻衣もそれは気付いているだろう。
 麻衣がそれでもそのゲームを提案したのは、おそらく、彼女に声を出させるためにナルが気持ちを砕くよう仕向けるためだったのだろうと彼は思っている。彼女の思惑には最初から気付いていたが、あえて乗った。
 ところが、結果はあっさりと引き分け。
 実際問題として、声を出さないどころか本人の言うように感じない努力などしている女を抱いても、盛り上がりというものがない。行為に真剣になれなくても仕方がないというものだ。
 何かを楽しむためには、確かに努力が必要なのかもしれない、と思わざるをえない。
 ブラジャーを着けている麻衣の背中から半分のぞく胸を、いつもほど切迫した欲望を感じないまま何となくながめた。普段行為の際に当然見ているわけだが、冷静に観察することはない。
 麻衣はまだ話しかけるわけでもなく話している。しかし、ナルの興味はとっくに話題から離れていた。
「……でもそれって、ナルはいつもリラックスしてないってことなんだよね。ねぇ、じろじろ見ないでくれる」
 ナルは呟いた。
「案外小さいな」
「何が!?」
「胸」
 間髪を入れず枕が飛んできた。
 しかもかなり強烈な勢いで。
「バカぁーっ!! 最っ低!!」
 さすがにこの至近距離ではナルでも避けられない。
 見事に顔面で受けた枕を落ちるに任せて腕で受け止め、ナルは顔をしかめた。
「……やかましい」
「やかましいのはそっちだ! バカナル!」
「やかましいというのは、穏やかに話している人間にあてはまる言葉だったのか? むしろ」
「なぁにが穏やかだよ。余計なお世話だからやかましいって言ったんだい! あんたはデリカシーって言葉を知ってるか」
「……『麻衣』の反対語だな」
「同義語だい。少なくともナルが対極にいるから、たいがいの人はデリカシーの塊だね」
「デリカシーのある人間が人の言葉をさえぎって自分の文句だけを」
 言いかけたナルは、今度は怒声以外のものに言葉をさえぎられた。
 麻衣の頬にこぼれた涙というものに。
「……泣くほどのことか?」
「泣くほどのことだい」
 一粒だけの涙は、彼女の腕で乱暴に拭われる。
「人の身体的欠陥をどうこう言うんじゃない」
「悪かった」
「つまんない?」
 唐突に言った言葉に、ナルは首をかしげる。
「あたしなんかじゃつまんない? 手近にいたから抱いてるだけ?」
 それならこれほど譲歩してまで付き合ってない、とナルは口にせずそう思う。つまらないというのは今日のゲームのようなことだ。彼女本人に関してどうこうは思っていない。
 それをそのまま説明すれば彼女は安心したのかもしれなかったが、ナルはそうしなかった。それはたとえばセックスの間声を出さないように意識するのと似ている。無防備に自分を晒したりは、しない。それが彼のスタンスだ。
「悪いという意味で言ったんじゃない」
 それだけを言ったナルに、麻衣は少しの間黙ってから顔を背けた。
「じゃあこれからは言わないで。こういう時に気にしてること言われるのってね、すっごい傷つく」
「そうか」
「そう。男の人だったら、アレ小さいねって言われるようなもんなんだから」
 それは嫌かもしれない、とさすがにナルも納得するしかない。
 彼は自分の身体に欠点があるとは思っていなかったが、それでもそう言われればいい気持ちはしない。
(だが、泣くほどのことか?)
 額を小突いて麻衣を枕に押しやりながらナルは内心ため息をついた。彼女は情緒不安定ぎみらしいと結論する。あえて理由や対応を考えたりはしないが、彼女の不調はそのまま彼の生活に響いた。仕事にも、夜のささいな楽しみにも。 

 お互いの生活の合間に、気まぐれに肌を合わせる日々。
 約束もなく、責任も求めない。
 ただお互いの望みが一致し、楽しみを共有しているだけだとナルは理解していた。愛の行為だなどと大上段に構えるつもりはさらさらない。縛りつける気もなければ縛られる気もない。ただ、それは相手への思いやりがないこととイコールではない。
 仕事においてもプライベートな付き合いにおいても、彼女とナルはある程度信頼しあい、共有できる部分があった。そして性生活でもそうだった。そういうことなのだろうと彼は思っていた。
 誠意は見せる。慕われていることを知っているから他の女は抱かない。彼女の意志も予定も尊重する。その代わり彼女もナルに無理は言わない。
 お互いでルールを定めて、それを守れば問題はないと思っていた。
 後になってみればままごとのような時間だった、とナルは思う。

 

 オフィスにはいつも通り邪魔者たちがいた。
 呼ばれもしないのにしばしば仕事場を訪れ、備品の茶葉を消費しては大声でさえずる。受付の事務員2人が甘いからといってやりたい放題だ。寄生虫だ、とナルは思う。
 が、口惜しいのは、彼らが寄生しているのはナルをも含めた所員全員の好意にであるということだ。
「これは、みなさまいらっしゃいませ」
 所長室の扉を開けてナルが微笑むと、2匹の寄生虫と2名の寄生主がぴたりと静かになった。
「……よぉ、ナルちゃん。お邪魔してるぜ」
「邪魔だなどと、とんでもない。滝川さまも松崎さまも大切なお客様ですよ。麻衣」
「あい」
「お客様のお茶を代えてさしあげなさい」
「あー……お代わり、いる?」
 ナルがソファに近づくと、麻衣がそそくさと席を立ち、事務員の安原が場所を空けた。ナルは声をかける必要もなく自分の位置を確保して腰を下ろす。
 一応牽制のため嫌味は言っておくが、ナルも無理に追い出そうと思っているわけではない。出ていったらもうけもの、というくらいだ。
 実際、彼らはバツの悪い顔をしながらもそのまま図々しく居座った。釘を刺すくらいの役にはたっただろうから、ナルもそれ以上言わず麻衣がお茶を給仕するのを待った。
「いやー今日はだね、麻衣が久しぶりに仕事に来てるはずなんでちょっと顔を見に来たんだよ」
 滝川が未練たらしく言い訳を試みてくる。
「麻衣との個人的なお付き合いは、仕事の後にどうぞ」
「俺はこの後が仕事でさ」
「なら、仕事のない日に会えばいい。病気でもないのになぜ頻繁に様子を見に来る必要が?」
「あら」
 綾子が口を挟む。
「このオフィスに病原菌はなくても、毒がたっぷり充満してるじゃない」
「しーっ! バカ綾子!」
 滝川の低姿勢を無駄にする綾子の挑戦的な態度に、ナルは薄く笑んだ。
「毒とは?」
 ことさらにゆっくりと聞く。
「アンタのそういう態度よ」
「日本語で毒を含むと言えば、自意識過剰の女性の代名詞だったかと思いますが」
「な……っ。それは、誰のことかしらね?」
「動揺なさっている方が図星を突かれた方なのでは?」
「誰が動揺してるって言うのよ!」
「これは一般論ですが、怒声をあげることで意志が通せると思うのは、野蛮な考え方ですね」
 怒鳴るに怒鳴れず、今にも噛みつきそうな形相で口を開閉させる女に、ナルはにこりと笑いかけてすら見せた。
 自分に口で勝てると思うのが間違いというものだ。
「少年、助けてやりゃーいいのに」
「滝川さんこそ」
「俺ぁ勝算もナシにナル坊に逆らうほど向こう見ずじゃない」
「僕はメリットのない仕事はしません」
 そこにカップの載ったトレイを持った麻衣がやってきて、苦笑する。
「終わった?」
「うるさいわね!」
「仕事場に乱入してるのは事実なんだから、綾子も少し遠慮すりゃーいいんだよ。……はいナル」
 トレイを片手で支え、ナルの前に1つを差し出す。6つのカップを載せたトレイは片手には重そうで、滝川が軽く手を出す。
「悪い、手伝えばよかったな」
「あ、ありがとぼーさん。ちょっと重いけど大丈夫」
「すいません、紳士失格ですね」
 安原がすかさず立ち上がってトレイの上からカップを2つ持ち上げた。
 ナルは我関せずと真っ先に供されたお茶を楽しんでいる。
 綾子はと言えば横を向いて、まだすねている様子。
「松崎さーん、紅茶入ったみたいですよ」
「麻衣、手、放していいぞ」
「……うん」
 カップを落とさないよう緊張していたらしい体から力が抜け、トレイの下から手が抜かれる。そして、彼女の体はそのまま必要以上に力を抜いた。
「麻衣!?」
「……あ、ごめん」
 とっさに滝川がつかんだ腕が、麻衣の体を支える。それは一瞬のことで彼女はすぐに自分の足に力を入れ直した。
「ヤバ」
 立ち上がった途端口を押さえ、再び今度は意識した動作で床に近づく。
「おい大丈夫か?」
 その質問には何の意図を示そうとしたのか手を振って応え、麻衣は滝川の手を振り払ってオフィスを飛び出していった。
 後には、それぞれやっていたことを止めて呆然とした面々が残される。
 急に吐き気をもよおしたらしいことは、少し人生経験のある人間ならすぐ分かる。トイレはオフィスを出たすぐのところにある。そこへ駆け込んだのだろうことは想像に難くなかった。
 様子を見に行くか、と滝川が言い出したのが10分ほど後だったが、ちょうど彼が立ち上がったのと同じタイミングで、彼女はふらふらとした様子でオフィスの扉を押した。
「谷山さん」
「もう平気か?」
 立っていた滝川がすぐに近寄っていって肩を貸す。
「ちょっとだけ寝かしてー……」
 綾子が立ち上がってソファを空ける。
 安原も立ち上がりながら、とりあえずカップが空になってもその場に残っていた上司に伺いを立てる。
「所長、ここで寝てもらっていいですよね」
 ナルは慌てず腕時計をながめ、少し考えてからうなずいた。
「もう来客はないでしょう。安原さん、扉にCLOSEDの表示を」
「分かりました」
「ほら、寝ろ。貧血か?」
 滝川がソファに麻衣を寝かせ、自分の上着を脱いで足元に掛けてやる。
「かな」
「あったかくしなさい。静かに寝て」
「うん」
 ひとしきり世話を焼くと、綾子はグラスに水を入れて持ってきた。
「紅茶飲んだ?」
「さっき1杯と、今味見」
「紅茶やコーヒーは貧血起こしやすいのよね。アンタ貧血体質だっけ?」
「そんなことないと思うけど」
「初めて? 少し落ち着いたら水飲んで」
「うん」
 何とか普通に会話をする麻衣に綾子も少し安心したようで、ソファから体を起こし、腰に手を当てる。安心したらまた先ほどの苛立ちを思い出したのか、口調が意地悪くなる。
「もしかして妊娠してんじゃないの」
「はぁ!?」
 声を上げたのは滝川だ。
「松崎さんそれはちょっと……。谷山さんはまだそんな歳じゃ」
「22よ。充分そんな歳だわ」
「いやでも」
「肌も妙に荒れてるし、動作はいつにも増して鈍いし。麻衣と貧血なんて結びつかないわ。これに情緒不安定のおまけでもつけば立派な妊娠の症状じゃない」
「してるのかな」
 妙に真剣な声で言った麻衣は、思い当たることでもあるように目を見開いている。
 焦ったのは滝川と安原だ。
「何よ、心当たりがあるの?」
「……ないわけじゃ」
「じゃあホントにそうかもねぇ」
 麻衣が顔の向きを変えた。
「どうしよう……?」
 そう言った彼女の視線は、綾子を飛び越してナルをまっすぐに見ていた。
 全員の視線が一斉にナルへ向く。
「……はぁ!?」
 ナルは額に手を当てた。 

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