知らない貴方、知らない私 前

update: 09.07.29

 あたしとガウリイに、保護者と被保護者であり相棒であるというだけでなく『こいびと』でもある、というただし書きがついてから、数ヶ月が経つ。
 まぁその……キス、とか、したりしてもいるが、まだあたしはせいぢゅんな乙女である。身も心も。
 ガウリイは一切手など出してこない。なんとなく普段よりちょっと甘い雰囲気になっても、あくまでくらげ、あくまで紳士。にこにこのんびりのほほん、と笑って、あたしの頭をなでたり、ぬいぐるみか何かのようにぎゅーっとしたり。あたしがじーっと見つめると、なんとかキスくらいはしてくれる、という状態である。
 ……よく考えたら、すごく幼稚なおつきあいかもしんない……。
 しかしガウリイは経験ある大人とはいえ脳みそ溶けてるし、長年あたしのことが好きだったらしいのに告白ひとつしてこなかった根性なしである。関係が変わったからといって、急に態度が変わったりはしなかった。
 対するあたしは……。
 あたしは、初心者なのに今だってじゅーぶんがんばっていると思うっ! これ以上はムリとゆーもんであるっ!
 そんなこんなで、ムードとかとは無縁なままはや数ヶ月が経っていたのだが……。
 きっかけはすごく単純なことだった。
 2人でたまたますけべえ屋さんの前を通りかかったという、それだけのことだ。
 遅い夜ご飯を終えて、宿に帰る途中のその道。慣れない街のことで歓楽街に迷い込んでしまったあたしたちは、足早にそこを通り過ぎようとしていた。
 今行き過ぎたばかりのすけべえ屋さんのねえちゃんが、となりに女がいると分かっていてガウリイに秋波を送ってきていた。
 不愉快なねえちゃんから目をそらして、ふと、思ったのだ。
 どこかのああいうねえちゃんが、あたしの知らないガウリイを知っていたりするんだろうか。そう思いついてしまうとひどく気に入らなかった。
「……ガウリイも、あーゆーとこ行ったことあるの?」
 横を歩く興味なさげな男にあたしは思わず聞いていた。
「え……へぇっ?」
 ガウリイは、気の抜けるような声をあげる。
 あたしは通り過ぎるすけべえ屋さんを無言でちらりと振り返る。
「え、それはお前、えぇと」
 ものすごく焦った様子で言葉をつないだガウリイは、しばししてうなだれた。
「……すまん」
 あるのか。
「……ふーん」
 まぁ過去のことは責められない。ガウリイだって男なのだし、あーゆーところに行っていたって何ら不思議はないだろう。
 そう思っても、なんとなくイヤだった。
「……イヤか?」
 見透かすように、ガウリイがあたしを振り返る。
 おそるおそるこっちをうかがってくるその瞳をまっすぐ見られなくて、あたしは目をそらした。ちょっとだけ辺りを見回し、ほとんど人通りがないのを確認してから小さな声で答える。
「……イヤ、っていうか。昔のことなら仕方ないと思うけど。ただ、なんとなく、ああいう人たちにガウリイが……って思うと」
 最後はあまり声になっていなかった。
 それでも、言いたいことはそれなりに伝わったらしい。
「うん」
「や、すけべえ屋さんに行ったこと自体がイヤとかじゃなくてね。でも、その、あたしには全然そういうことしないのに、ああいう人たちに、って思うとなんとなく」
「うん」
 真面目な顔でうなずいたガウリイが、急にあたしの手を取る。
 手袋の上からでもその手の少しざらついた感じが伝わる。骨ばった長い指が、あたしの手を包み込む。
「ちょっと、いきなり、なにっ」
 いや、手をつなぐくらいはしたことあるんですけど……。いきなりだったんでほんのちょびっとだけ動揺したってゆーか……。
 ガウリイは少し困ったように笑うと、手を離すことなく前に向き直った。くやしいが、最近あたしの照れ隠しくらいはお見通しらしい。
「オレだって、リナの昔のことに口出しする気はないけどさ。でも、リナが他の男に抱かれてたら、なんとなく、ヤだな」
「ヤ、ですか」
「オレには抱かれてくれないのに、って思う」
「ぐぅ……っ」
 ものすごく真面目に言われたストレートなセリフに、あたしはつんのめった。
 何言ってんだこいつはっ! 手を出してこないのはそっちぢゃないのっ!
「……だ……抱かせてほしいなんて言ったことないじゃない」
「言わなきゃダメか?」
 ガウリイは前を見て歩きながら苦笑する。
「リナはまだ覚悟ができてないって、見てれば分かるよ。ムリさせてもしょうがないだろ。そーゆーのは、なんとなく、そーなるもんなんじゃないか?」
 穏やかに軽い口調で言ってるけれども、珍しくふざけてはいなかった。きっとガウリイの本音なんだろう、これが。
 照れて縮こまってる分だけ後ろを行くあたしの手を引いて、大きな背中が宿に向かう。きっと宿に着いたらその手を離して、いつも通りの明るい笑顔でおやすみを言うのだろう。踏み込むことなく。かき乱すことなく。
 ゆっくりゆっくり、あたしのペースに合わせて待ってくれるのはガウリイの優しさだって分かってるけど。
「……そんなのって、ずるいじゃない」
 あたしは低い声で言った。
「ずるい、か?」
「そーよ、ずるいわ。それって結局、あたしから言うまで何もしないで待つってことでしょ?」
「えと、そう言われてしまうと、まぁ」
「あたしが、だ、抱いてほしいって、言うまで待つの? 言わないわよ? そんなのってずるいわよ。たまにはあんただって、あたしがきっかけ作るのを待ってないで本音でぶつかってくるべきだわ。こんなことくらい、あんたの方から踏み出してしてよ」
 ガウリイの背中が止まった。
 あたしは、少したたらを踏みながらとなりに止まる。
 何よ、と言いかけてガウリイを見上げると、暗闇の中、薄暗い道沿いの明かりだけにぼんやり照らされて、ガウリイは真剣なまなざしをあたしに注いでいた。
(今なに言ったあたし!?)
 失言に気がついた時にはもう遅かった。
 ガウリイは情けなくって受け身でのんびり屋だけれども、その底の底は熱くて強い男だった。そんなこと、あたしが1番よく知っている。出すべき勇気を、出すべきと分かっているタイミングで出せない、そういう男ではなかった。
「リナ」
 射抜くような目に見下ろされて、逃げようとしたのはあたしの方だった。
「あ、や、今のは一般論ていうか、別に今すぐどーこーって話をしたんじゃなくてね」
「待つなって言ったのはリナだぞ」
 唇の端が少しだけ苦笑を浮かべる。いや、震えているその唇は、緊張、なのだろうか。
 ガウリイはあたしの肩をつかむ。
(ものすごくまずいこと言った。ものすごくまずいこと言っちゃったあたし)
 いい加減このよく回る口をなんとかしたい。
 ガウリイの立っている位置がめちゃくちゃ近い。体温が伝わる。ガウリイの匂いがする。どうしていいか分からない。
 ダメだ。す、好きだわ。どうしよう。
 混乱して立ち尽くすあたしにガウリイは顔を寄せ、あたしにしか聞こえないように耳元で小さく小さく囁いた。
「――リナが抱きたい」
「……っ」
 ……今、あたし真面目に心臓止まったんじゃないだろうか?
 というか、こんなにバクバク言ってて死なないか?
「……イヤか?」
 かすかにかすれた声で言うと、ガウリイは「うー」とうなりながらあたしの肩に顔を伏せてしまった。たぶん、ガウリイも相当勇気を出して言ってくれてるんだろう。
 そう思うとむげにもできず、あまりものを考えられる状態でもなく、あたしは今言われた言葉のあまりの熱さにのぼせながら呟く。
「イヤ……というわけではない……よ? ただ」
「怖い、か?」
「こ……っ怖くなんかないわよ。このあたしを誰だと思ってるのよ」
 くく、とガウリイが笑う。強がりはバレバレらしい。ちょっと苦いような、残念そうな笑い方だった。
「やっぱり、まだ早い……かな?」
 あたしはかっとなって勢いで言い返す。
「だからそーやってあたしに判断を投げるなって言ってるでしょ! たまには強引にいってみたらどーなのよこの甲斐性なしっ!」
 この言葉が、決定打だった。
 言ったとたんにあたしも青ざめたのだが、ガウリイはガウリイで後に引けなくなったのも確かだった。
 えへ、今のなしね、と言うよりも早く、ガウリイが顔を上げた。明かりを照り返して光る透き通った目が、あたしの目を至近距離からのぞきこむ。ガウリイが、笑っていない。ものすごく真剣だ。
 戦いの時は見せているのかもしれないが、あたしに向けられることなどついぞなかった凄みのある目。
 ダメだ。反則だ。息が詰まりそう。だいすき。
 体の中を甘い風がかき乱す。
「リナ。抱かせてくれよ」
(うなずいちゃダメだからあたし、よく考えろっ!)
 そう言う冷静な自分の声もどこか遠くて、あたしは頬を火照らせながら首を縦に振っていた。
「……うん……」
 ガウリイが照れたように、でも嬉しそうに顔いっぱいでわぁーっと笑った。
 それで、まぁいいかという気持ちが一気に強くなり、不安や恐怖を押し流してあたしの心の大半を占めた。

 宿はすでに2部屋でとってあったんだけど、あたしは自分の部屋に帰らずとなりの部屋へ入った。
 さっきからあたしの手を握りっぱなしの自称保護者兼相棒兼こいびとは何も言わない。でもなんだか少し手が熱い気がするけど。横顔が赤い気がするけど。照れてるんだろうか。緊張してるんだろうか。
 部屋に戻ったガウリイは、そっとあたしの肩を押してベッドに座らせると、部屋に備え付けの獣脂のランプに手慣れた仕草で火を入れた。使い古された宿の、なんということもない部屋がぼんやりと照らされる。
 暗い明かりに照らし出されたガウリイは、いつもよりずっと大人に見えた。いや、男に見えた。
 それがきっかけだったように、少し治まっていたあたしの動悸が完全復活した。
 うう、意外と大丈夫かもなんて思ったけど、ウソだ。
 あたしは、よく分かってないんだと思う。現実的に想像できていないんだと思う。けれども、あたしの未熟な感性が追いつくよりも早く、事態は進行していく。
 黙ったまま、ガウリイは身につけた鎧をはずす。いや別になんにも珍しいことはない。部屋に戻ってきたんだから、当たり前のことだ。しかし、意識してしまうのはどうしたもんか。うつむきながら、あたしもショルダーガードとマントを外して床に置く。ひどく頼りなくなった気がした。
 ガウリイの長身が大股で近づいてきて、ベッドの縁に立ってあたしを見下ろした。その熱い視線だけで、あたしは死ぬかと思った。
「……リナ」
 体中が心臓になったみたいだ。どくどくと脈打って、はちきれるんじゃないかと思った。
「リナ」
 ガウリイの手が伸びてきて、あたしの頬を包み込む。あまりの恥ずかしさに横を向いてしまおうとすると、反対の手も伸びてきて前を向かされた。
「……し、死んじゃうかもしんない」
 思わず言うと、ガウリイが吹き出す。
「オレもすげえ緊張してる」
 ベッドに片膝をついたガウリイが、ぐっと体を乗り出してきてあたしを抱きしめる。
 体温の高いガウリイの体から、ぽかぽかした熱が伝わる。確かに、鼓動も早い気がする。少しだけ、ガウリイが近く思えて安心した。
「リナ。初めてだよな」
 ぽつりとガウリイが呟いた。
「……そーだけど?」
 子供だと言われた気がして、あたしは少し強く答える。
「うん。いや。優しくするからな」
 ガウリイは、胸に響くような穏やかな声で言う。
 安心させようと思って言ってくれたんだと思う。けど。
「そっか……痛いんだっけ?」
 その言葉がきっかけとなって、ただ未知の体験をするというだけではすまない、初めてならではの関門を思い出す。
 あたしは残念ながらよけいに緊張することになった。
「え、ああ。たぶんな」
「そっか……」
 自慢じゃないがあたしは痛みが苦手だ。
 わざわざ痛いと予告されたことをやるのかと思うと、自然に体が防御モードになっていく。
「分かってなかったのか……」
 ガウリイがげんなりした声で呟く。
 あたしはあわてて言った。
「だ、だいじょうぶよ。そらまーちょっと……考えがいたらない部分があったかもしれないけど」
 苦笑する気配がして、ガウリイの腕がゆっくりとあたしの背中をなでてくれる。なんだか落ち着くリズムに、体に入った力が抜けていくのが分かる。
 だから、あたしはうつむいて珍しく素直に呟く。
「あ、あたし、こーゆーの……疎くって。ほら、あんまり女の子同士の話に参加する機会もなかったし、そのまま1人旅始めちゃって、こい、とかもしたことないし」
「そっか……。うん、分かった、ゆっくりな」
 その言い方がすごく慣れている感じがして、あたしは思わず呟く。
「ガウリイは……たくさん、したの?」
「え」
 ガウリイが言葉に詰まる。
 そのまましばらく困ったように考えていたが、やがてため息をついた。
「……人並みにな」
 ちゅ、と頬にキスされる。
「あのな、リナ。確かにオレは経験がないわけじゃないけど、それは全部昔の話だし、そんなに人並みはずれてそーゆーことばっかりしてたってわけじゃない。もうずいぶんしてないし、今はリナのことしか抱きたいと思ってない。だから……その話は、忘れてくれよ」
 すごく困ったように言われて、あたしはうなずく。過去の経験のことをぐずぐず言われても、ガウリイだって今さらどうしようもないだろう。
 そうこれは、意味のない……ただの、やきもちだ。
「……そうね、分かった」
「……今は、リナ、だけだぞ?」
「当たり前でしょ、そんなの」
 あたしはかなり本気で言う。
「このあたしを両天秤にかけたりなんかしたら、殺すし」
「……よく覚えておきます」
 1回ぎゅっと抱きしめられてから、顔を上げさせられて。
「――リナだけだ」
 キスが落ちてきた。
 ふれるだけじゃない、深いキス。
 閉じていた唇にぬるっとしたものが割り込んできて、ぺろりと舐める。素直に開いた唇の中に侵入してきたそれは、口腔の奥へ入り込んで舌をからめとり、吸い上げて、舌先でなぞって、あたしの意識を翻弄する。
 合わせた唇の隙間から、勝手に声がもれる。
 深いキスをするのは初めてじゃないけど、なぜか慣れない。舌を吸われるたび、大きな手で後頭部を押さえて奥まで入ってこられるたび、お腹の奥がしびれていてもたってもいられなくなるのだ。この感覚を、なんと呼んでいいのかあたしは知らない。
 口づけて、離して、また角度を変えて奥まで舌を入れて、いつまでも続くキスに頭がぼぅっとしてくる。
 これはもう単純に酸欠なんじゃないだろーか? くらくらして、ものが考えられなくなっていく。
 くったりと体を預けたあたしをやっと解放して、ガウリイがぽつりと呟く。
「……ほんとにいいか?」
「……これ以上聞いたら、殴る」
 ガウリイがちょっと笑った。
「おう」

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