それはあの日の夢 〜After〜 前

update: 99.12.25

 ある日、家に帰ってきて麻衣は悲鳴を上げた。
「何これーっ?」
 どさり、と買い物袋が床に落ちる。足の上に落ちなかったのが幸いだろう。
 リビングで本を読んでいたナルはそのやかましさに顔を上げるが、特に何を言うこともなく読書へ戻っていった。説明もコメントもなしである。
  麻衣がナルと暮らすようになって、なんだかんだと三ヶ月近くたつ。結婚の手続を済ませたのがほぼ二ヶ月前、つまりまごうかたなき新婚家庭である。
 当人たちの気分がどうあれ、結婚したばかりであれば新婚だ。たとえ二人の関係が、いまだに友人と恋人の境界線をうろうろとしていようとも。入籍の内実が、メリットだけを秤にかけた、契約としての結婚であろうとも。
 引き換えにしたのは、ナルの世間体と、麻衣の金銭事情そして結婚願望だった。
 長く雇用主と従業員の関係を続けた麻衣は、いつしかとっつきにくいナルの唯一の友人のような按配になり、そして友人のまま籍を入れた。夫婦になったその後から少しずつ歩み寄り始めているものの、その関係はまだ本当の夫婦に踏み切れてはいない。
 すっかり兼業主婦が板についた麻衣だが、ナルの無関心主義にはいまだしばしば驚かされる。
 玄関口に落してしまった買い物袋を抱え上げると、麻衣はあたふたしてナルに駆け寄った。
「ナル、何なんだよ、この寒さ!」
 彼は、メガネをかけ本をかまえるいつものスタイルに加え、屋内にもかかわらずコートを着込んでいる。イギリス育ちで寒さには耐性があるはずの彼にも、さすがにこの温度は応えるらしい。
 寒いのである。
 一年でもっとも寒い一月である。日も落ちたこの時間ならなおさらだ。ヒーターもエアコンもストーブもコタツも暖炉もなくやり過ごせる寒さではない。だがこの部屋には、その内どれかひとつでもこの場所で恩恵を振りまいているものがあるとは思えない。
 畢竟、たとえ部屋の中といえど、壁の効能によって風が防げる以外に外との差はない。
 その寒さの中、慌てる気も騒ぐ気もなさそうにナルは眉をひそめた。
「いちいち聞かないで、自分で考えてみたらどうだ?」
 嫌味を言うくらいなら一言事情を教えてやれば済むものを、ナルというのはむしろ不思議なくらい意固地な人間である。
 麻衣はむっとした様子で目を細めた。
「エアコンは電気代を食うから節約することにしたとか」
 これには嫌味すら返ってこない。
「イギリスの気分に浸ってみたくなったから、今日はエアコンをつけないことにしたとか」
 ナルの故国であるイギリスは、東京と比べ物にならないほど寒いところである。しかしいくらロンドンが寒いとはいってもそれは外の話、家の中まで寒いわけがない。この文明の時代、エアコンさえあればどの国のどの季節の温度であってもそれほどの変わりはないものである。
「あるいは、極寒のケースも予想される調査に備えて、サバイバル訓練をしてみることにした」
 サバイバル訓練で厚着をして意味があるのかどうかは知らない。
「あたしにはこのくらいしか思いつかないけど?」
「くだらなすぎて聞いていられない」
「そう? で、本当は何だったの?」
 退く気もなさそうににっこりと麻衣は笑う。
「……エアコンの故障」
 不機嫌極まりなくナルは吐き出した。
「そう言や、一言で済むじゃんか」
 むくれる麻衣に、ナルはもう答えない。無理矢理答えさせられたことに気付いているだろう、その眉間にはしわが寄っていた。
「修理呼んだの?」
「……明日だろうな」
「そっか、もう電気屋さん開いてないか」
 オフィスが終わってから麻衣が買い物に行って帰ってきた時間である。彼女が行った店だって相当遅くまでやっている場所で、しかも閉店間際に店内を駆け回ってきたのだ。もう開いてる店などないだろう。
「今夜何とかしのぐしかないかー」
 袋を持ってキッチンに向かいざま、麻衣はこっそりとナルをうかがう。屋内で大真面目にコートを羽織って読書するナルは笑える。
 しかし、買ってきたものを片づけようと冷蔵庫を開けた瞬間さらに冷気がすべり出し、人を笑っているどころではなく後ずさって転げそうになった。 

 いまだ夫婦と言えない夫婦の寝室は別々だった。寒さを分かち合うなにものもないまま布団を首までかぶって、麻衣は震えていた。
 寝る前は冗談に済ませていたが、本当に寒い。
 夜が更けるにつれ、寒さもより深くなっていこうとしているように思うのは、麻衣の気のせいだろうか。単に動かずにいることで体温が下がってそう感じるのかもしれない。どっちにしろ体はどんどん冷えていく。明日には凍死体ができあがっているかもしれない。
 くすりと麻衣は笑うが、うまく笑いにならない。顔までが完全に強ばって、冷たい空気を体内に吸い込むことも嫌だった。
 何か行動を起こそうか、と思うが、寒くて布団から出る気がしない。普段エアコンに頼っているこの家では、冬用の布団などというものは存在しない。薄く、頼りない布団だが、ないよりマシという程度だ。
 一人暮らしをしていた頃、朝になると夜のうちに暖めておいた空気が全部逃げてしまって、布団から出たくなくなった。そんな時に似ている。そのままでいても何も問題は解決しないのに。
 小さな声でかけ声をかけ、勢いをつけて麻衣は起き上がった。
 途端空気が背中から駆け抜けていくが、首をすくめて何とかやりすごす。何も起きてどこかへ出かけるわけではないし、着替える必要もないから、布団は手放さなくてもいい。
 布団をしっかりと抱えて、麻衣はベッドを下りる。
 どうするかなんて決まっている。
(凍えそうな時のセオリーは?)
 ナルと話していた時には冗談にしても言えなかったが、今はすでに冗談ではなくなっている。冗談にできる状況でもないし、冗談にする必要もない。
 ただ、こういうきっかけになったか、と思うだけだ。
 体を縮み込め両手で布団を抱きながら、麻衣は部屋を出てとなりのドアを叩いた。
「……ナル」
 返事はない。だが、寝起きのいい彼だ。もし寝ていたとしても今のノックと麻衣の声で起きただろう。
 この寒さであまり悠長に寝ていられるとも思えないが、ナルは寒い国の人間であるから、もしかすると平気で寝ているかもしれない。
「入ってもいい?」
 どうぞ、というようなくぐもった返事が聞こえた。案外本当に寝ていたのかもしれない。
 そっとドアを開け、麻衣は暗い部屋の中を見渡した。
 ナルはきれい好きで、部屋の中を散らかすということがない。麻衣とて別段派手に散らかすわけではないが、ナルほど徹底した整理に努めるわけでもない。障害物がないようなのを見て取って、麻衣は足を踏み出した。
 ドアを後ろ手に閉めて暗闇の中ベッドの脇まで歩いていくと、闇に多少慣れた目に、ベッドの中でやはり布団をかぶっているナルの顔だけが見える。
「寒い。こっちで寝ていい?」
「ああ」
 こともなげにナルは答える。あまりに簡単に了承されて、麻衣は拍子抜けした。これほど容易なことだったとは知らなかった。
 もう一月近く前から、互いにその状況について納得してはいる。
 一ヶ月前、仕事で東京を出た二人は泊まる場所を探してホテルに一つしかなかった部屋を取り、同じベッドで眠った。その時から、互いに互いを異性として見ていることは了解している。だが、二人は一線を超えることができなかった。
 もしかすると、この一ヶ月間、互いにきっかけを待って心の底で意識し続けていたのかもしれない。
 それでも、きっかけなしに関係を変えることはできなかった。同居するのが不自然に感じないほどに親しい相手だからこそ、変化には度胸が必要だった。
 麻衣は、抱えてきた布団をナルのかけている布団の上にぼさりと乗せ、身を乗り出してベッド全体に広げるよう整えた。中に埋もれているナルにあまりほこりをかぶせないよう、けれど寒いので手早く、適当な範囲で済ます。
 わずかに端に寄って場所を空けたナルのとなりに、麻衣は逃げ込む。
「さむーっ」
 狭いシングルベッドの中で体を丸めてみても、冷え切った体は固まりそうに強ばっていて、動く気がしない。二枚重ねた布団と近くの人間の体温は、まだ体を温めるにはいたらない。
 目を開けるとかなりのアップできれいな顔が見える。これほど近くで自分も見られているのかと思うと、麻衣の顔は少しだけ堅くなる。
「寝てた?」
「いや」
「やっぱり寝られないよねー」
 ナルの部屋は分厚いカーテンがかけられていて、あまり光が入ってこない。そのわずかな光の中、彼の目は麻衣にはとても静かに見えた。
 彼は、ずっと昔、子供の頃に彼が初めてサイコメトリーをした時、レイプの被害者と同調する経験をした。サイコメトリーはある特定の物やその持ち主の過去を知ることができる能力である。
 ナルに関して言えば、彼のそれは同じ能力者の中でも特異で傑出している。彼は対象者と意識を同化し、その思考や感情、感覚までも追体験するほどの深い同調を可能とするのである。
 しかし、それは当人にとって都合のいいこととはとても言えない。
 初めてのサイコメトリの時、彼はレイプされ殺された少女の痛みと、恐怖と、絶望とを追体験した。その心の傷がいまだ癒えないことを麻衣は感じている。もしも麻衣が同じ目にあったなら、ナルのように何でもない顔をしていられるとは思えない。
 一ヶ月前、麻衣のほんのわずかな抵抗に、ナルはすぐに手を放した。感情をあらわにしないナルの、その時の苦痛の表情が麻衣の胸に重い。

NEXT

戻る