シャドウ トライアングル 2

 結局あれから大したことも聞けず、気まずいままに一日が過ぎた。
 予定していた次の町について、宿を取る。
 居心地のよい関係が壊れてしまうかもしれない怖さと、どうにかしなくてはいけないという焦りがせめぎ合い、覚悟を決めきれない。
 カマかけには逃げられまくってしまったが、真剣に問い質せばまた話は違ってくるだろう。だが、真剣に話すということは、真面目にあたしの気持ちを聞かれるリスクもあるということだ。
 叫び出したいような気持ちを抱えながら、のろのろと荷物を片付けていると、不意にドアがノックされた。
 驚いて、体が固くなる。
「……はい?」
「オレ」
 ガウリイの声だ。
 彼の声もどこか固く、夕飯前の散歩に誘いに来たという雰囲気ではない。
 話をしにきたのだ。彼も、あたしが大事なことを隠していると気付いているのだろう。
 あたしはため息を押し殺しながら立ち上がり、黙って鍵を開けた。
「よう」
 ガウリイは扉を開け、小さく笑った。
 その大きな体を見上げて、あたしは少し体をずらす。
「入って」
「ああ」
 ガウリイを中に入れて、扉を閉める。どうしようか迷ったが、いつもの習慣通り鍵をかけた。
 振り返ると、ガウリイはあたしを見つめたまま部屋の中央で立ち尽くしていた。
「座ってよ」
 言いながら、あたしはベッドに腰掛けてみせる。
 ガウリイは、少し考えて頭を横に振った。
「なあ、昨日、やっぱり何かあったんだろう」
 いきなり核心を突かれて、あたしはこっそり呼吸を整えた。
「どーいうこと?」
「お前さんは何か隠してるし……朝から変なこと聞いてくるし……」
「ふむ」
「本当のこと、話してくれないか。オレ、昨日おかしなこと言ったのか? 話せないようなことなのか?」
 ……やはり、ガウリイ相手に隠しごとは難しいようである。
 あたしはガウリイの真剣なまなざしから目をそらし、窓の方を眺める。
「なあ……もしかして、オレ、お前に何か変なことしなかったか? つまり……痴漢まがいのことっていうか」
「痴漢まがいのこと……ね」
 それは、お尻触ったとかキスしたとかそのレベルのことを言ってるんだろうな。
 あたしは苦笑いしたが、ガウリイは真剣だった。
「リナの話聞いてると、そうとしか思えないんだよ。もしそうなら……正直に言ってくれ。そんなことするヤツと、一緒にいられないだろ。別れようって言われても……しょうがないと思っている」
 ――だめだ。これ以上誤魔化せない。
 致し方ない。
 何もかもだめにしてしまう可能性もある。だけど、どうせ隠し続けることはできない。ここで軽く話してしまった方が、傷は軽く済むかもしれない。
 自分のミスの責任は、取らなくてはなるまい。
 あたしの前に立ったままのガウリイを見上げる。
 澄んだ青い瞳にぶつかって怯みそうになったが、可能な限り冷静に、シンプルに、それを告げた。
「あのね、あんまり深刻に受け止めないでほしいんだけど、あたし昨日あんたと寝たのよ」
「………………は?」
 喉から鼓動の音が漏れ出すのではないかというくらい、胸がどきどきした。
 言ってしまった。何の誤魔化しもせずに。
「ウソ……だろう?」
「残念だけど、ほんとの話なのよ、これが」
「寝たって……一緒に寝たとか……」
「そーゆーんじゃなくて。つまりその……男女の……なんてゆーか……すけべな意味で」
 あたしは、ガウリイが謝り出す前に早口で続けた。
「あ、責任だのなんだのってことは考えなくていいから。別に無理矢理されたわけでもなんでもないし、合意の上でのことよ」
「ウソ……だろう?」
 震える声でつぶやいたガウリイは、今にも泣き出しそうな顔に見えた。
 ここまで言ってしまったら、後には引けない。あたしは、できるだけ軽く肩をすくめる。
「ンなウソついて、あたしに何か得があると思う?」
「いや……ほら……慰謝料取るとか……」
「するかっ! ンなことっ!」
 ガウリイは、全身を震わせながら、大きな手で口元を覆った。
「からかってるんだよな……? あんまりシャレになんないぞ、それ……」
「シャレになんないわよ、ほんとに。あんたはすっかり何もかも忘れてるし」
「マジなのか……」
 動揺を押さえようとしてか口元に押しつけていたガウリイの手が、ぐっと握られる。
「どうして、そんなことしたんだ」
 聞いてきた声は、幾分しっかりしていた。少なくとも、事実を受け入れる気にはなったらしい。
 イヤリングのことやら、あたしの態度やら、その他諸々の事実が、あたしの話した内容と合致したのだろう。
「どうしてって、あたしが? それとも、あなたが?」
「お前さんは……どうしてなんだ?」
「それを言う前に、あなたの気持ちを聞きたいわ。今朝も言ったけど、昨日ガウリイ、あたしを抱きたいって言ったのよ。あれは、本心だったの?」
「それは……」
 ガウリイは、泣き笑いのような形に唇を歪めた。
「本心だ、って言ったら……リナ、お前さん、どうする?」
「……それなりの返答をするわ」
「じゃあ、一時の気の迷いだって言ったら? 酔ったせいでおかしなこと言ったんだって言ったら、元に……戻れるか?」
 あたしは、隠されたままの真情を探してガウリイの目をじっと見上げる。
 青く透明なガウリイの目には、ガウリイと同じく緊張しきって綱渡りを演じているあたしの姿が映っていた。
 あたしは、この切れそうな綱を切ってしまわないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「……元に……戻れるかどうかは、あたしも正直わかんないわ。でも、もしあなたが酔ったせいで不本意な行動を取ったんだって言うなら、一発殴って許すつもりよ。同意したあたしだって、同罪なんだから。その後は、まあ流れ次第よね」
「……そうか」
「それで……あれは、気の迷いだったの?」
 ガウリイは、迷うように口をつぐんだ。
 大きく息を吸い込んで、吐く。
 部屋の中はいつもと何も変わらないはずなのに、空気が薄いような気がした。窓の外から聞こえるはずの雑踏の物音も、聞こえない。
 もう一度、ゆっくりと吸って吐く。
 ただ、耳に入るのは自分の呼吸の音だけだった。
 三度目の呼吸をした時、ガウリイも細く息を吐き出した。
 大きな運命の籤を引くように、空気を震わせることすら怖れるように、そっとガウリイは言った。
「――オレな、お前に惚れてるよ」
 全身から力が抜けた。
 体に詰まっていた何もかもが抜けて、そのまま塵になってしまうんじゃないかと思った。
「……そう」
「だから……オレ、昨日自分が何したのかほんとに覚えてないんだが……お前さんを抱きたいって言ったんなら、本心だったんだと思う。すまん」
「なんで謝んのよ」
 脱力したままに、少し笑いが漏れた。
「酔って言うべきことじゃないだろ」
「そりゃまあ、そうよね」
「……お前さんは?」
 重く鋭く問いを突きつけられて、力の抜けていた体にまた少しぴりりとした緊張が走った。
「お前さんは、どうして嫌がらなかったんだ、リナ」
「あたしは……」
 つぶやきながら、ゆっくりと立ち上がった。
 ガウリイの目を見上げたまま、一歩一歩踏みしめるようにその大きな体に近付く。彼の体はあたしには大きすぎて、間近に立つと壁のようにすら感じられる。
 顎をくいと上げて、頭一つ分以上高いガウリイの長身を見上げる。
 あたしを見下ろす青い目が、緊張と不安に染まっていた。
 その透明な目を見つめながら、あたしは細い腕をいっぱいに伸ばし――
 ……渾身の力で顔面を殴った。
「あたしが好きでもない男と寝ると思うのかあああっ! たまには脳みそを使ってものを考えろこのボケ男がああああっ!」
 ガウリイは軽くよろめいて、顔をこすった。
「うっ……いや、だが、お前さんだってオレが遊びだったかもしれないって疑ってたんだろ?」
「あんたは、あたしと違って『ずいぶん』慣れてたみたいだから? そーゆーこともあるかもしんないって考えるのは、ごく普通のことじゃあないかしら?」
「いや、それは昔のことで……」
「しかも全部忘れてるし。ケロっとしてるし。あんた乙女の純情をなんだと思ってんのよ一体」
「それは……すまん」
 言ってガウリイは、腰が折れそうなほど深く頭を下げた。
「本当に……悪かった」
「……ったく」
 その程度で気が済んだあたしも、この男に相当頭を壊されてると思う。
 だけど、とにかくほっとしてしまって、その気持ちが怒りをはるかに凌駕していたのだ。
 ガウリイはしばらくそのまま頭を下げていて、やがてゆっくりと顔を上げた。その顔は、とろけそうなくらい笑っていた。
「……何よ」
「いや……嬉しいんだ」
 気がつくと、あたしはガウリイの腕の中にふんわり抱きしめられていた。
 鎧をつけているみたいに固い胸と腕が、あたしを包み込む。
 ガウリイの胸は固くて広い。けれども優しくてあたたかい。
 ガウリイそのものみたいな抱擁だった。その胸に包まれていると、意地と見栄がバターのように溶けていってしまう。
「朝、さっさと言ってくれればよかったのに……」
「だって、もしガウリイが本気じゃなかったら……あたし、ただの間抜けじゃないの」
「考えすぎなんだよ、お前さんは」
 そうかもしれない。
 一人でもがいていた時間を思って、なぜか少し目が熱くなった。
「なあ、ほんとに……同意の上だったか? オレ、お前さんにひどいことしなかったか?」
「いやだったら、殴るか吹っ飛ばすかしてるわよ」
「だがなあ……オレ、宿の中で接近戦やったら、お前さんに勝てると思うし」
 物騒なことを淡々と言う。
 まあ確かに、殺さないという条件で、丸腰で、狭い部屋の中戦うことになれば、あたしはガウリイに勝てないだろう。手足を拘束して口を塞げば、それでガウリイの勝ちなのである。ガウリイの力で押さえ込まれて、抵抗ができるとは思えない。
「ま、そうかもしれないけどね」
 あたしは素直に認めた。
「もし無理矢理されたんだとしたら、今朝目が覚めてからげちょんげちょんに殴って、宿に置き去りにしてるわ。どうしてそんなことしたのかなんて、いちいち聞かない」
「……それもそーか」
 ガウリイは少し笑った。
 笑い声が、胸から響いて耳に直接入ってくる。
 どきどきして、耳から熱が出るかと思った。おそるおそる、分厚い背中に手を回す。全力で抱きつく勇気は、出せなかった。
「……優しく、してやれたか?」
 切ないような声音でガウリイがつぶやいた。
「痛くなかったか?」
 昨日のもろもろを思い出して、全身が火を噴きそうになる。
「……い、痛いのは……そりゃ痛いでしょ。初めてだったんだし。優しくは……してくれたと、思うわよ。比べる対象がないから、よくわかんないけど」
「そっか……」
 長い指があたしの豊かな髪に入り込み、揉み込むようにしてそれを握る。軽く地肌に触れる指先がくすぐったくて、身をすくめそうになった。
「なあ……どういう風にした? お前さんのこと、気持ちよくしてやれたか?」
「ど、どういう風って」
 言えるかそんなことっ!
 ガウリイの胸に顔を伏せて、胸苦しさに口をぱくぱくと開閉する。そんなあたしの肩を、背中を、ガウリイの大きな手がゆるゆるとなでてゆく。すけべな意味合いというには優しすぎる手つきだが、あたしをなだめているというには、あまりに丁寧すぎる。あえて言うならば、あたしの体の形を確かめている、そんな風に思えた。
「がっつかなかったか? イかせてやれたか?」
「ちょっ……なっ……」
 恥ずかしさでじたばた暴れるあたしに構わず、ガウリイの顔が髪に触れる。口付けされたのだ、と気付いて理性が吹き飛びそうになった。
「怖がらせなかったか? お前に変なことさせなかったか?」
「いや大丈夫だから……それより、あんた、何しようとしてんのっ!?」
「何って……だから、昨日のやり直しを」
「ちょ、っと……待ってよ、まだ痛いしっ……」
 ウソだった。痛みなんか、とっくに引いている。
 だが、その言葉を聞いてガウリイの声音がマジになった。
「……そんなに痛くしたのか?」
「や、違う、そうじゃないけど、でも昨日の今日で……まだ夕方だし……」
「時間は別に関係ないだろ?」
 関係あるっ!
「ほんとに……イヤか?」
 ガウリイがわずかに体を離す。
 恥ずかしくてとても顔が見られなかったけど、あたしの表情を覗き込んでいるのがわかった。
 あたしは、真っ赤になっているだろう顔を見られないように、ガウリイの胸に額を押しつける。
「昨日より、もっとずっと優しくするから。やり直し、させてくれないか? こんなのは……何も覚えてないなんて、こんなのは……たまらん」
「……あんたが、勝手に忘れたんじゃない」
「そうだな。すまん。だから……リナがどうしてもイヤなら、ここでやめる。でも、もし昨日のことでイヤになってなければ……してもいいって思った気持ちが変わってなければ……もう一回、やり直しさせてくれないか」
 そんなこと言われても……。
 あたしは唇を噛んで、恥ずかしさをこらえる。
 気持ちは、変わってない。
 むしろ、抱かれて、幸せだと思った。昨日のことは、痛かった分を差し引いても、けして忘れたいようなことではなかった。
 いやではない。してくれても構わない。だけど、いいわよなんて、お酒の勢いでも借りなきゃとても言えない。
 あたしはガウリイの胸に額を強く押しつけ、精一杯の返事をした。
「……やり直すって言うんなら、今度はちゃんとあんたの気持ちを聞かせてからにしてよね。誤解のしようがないように」
「ん」
 ガウリイが、少し笑った気配がした。
「……お前さんに、ずっと前から惚れてるよ。お前が同じ気持ちでいてくれるなら……させて、くれないか。昨日より優しくするって、約束するから」
「……昨日よりって、覚えてないくせに」
「覚えてないが……これ以上できないくらい、優しくする。約束する」
 ほう、とため息が漏れた。
 恥ずかしさで熱かった体が、もっと別の、優しいものであたたかくなった気がした。
「……もう一回言って」
「何を?」
「……好きだって」
 また笑う気配がして、そっと肩をつかまれる。ゆっくり引きはがされ、ガウリイがかがみ込んでくる。金色の雨に包まれて、唇があたしの耳元に降りてきた。
 耳たぶに唇が触れる。少しかさついた唇が、耳たぶをかすめながら、その言葉を直接注ぎ込んでくる。
「――リナ、好きだ」
 鼓膜だけじゃなくて、全身が細波のように震えた。
「して、いいか?」
 拒めるはずが――なかった。
 あたしは唇を引き結んで、かすかに、ほんのかすかに顎を下へ引いた。

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