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通信のきれた携帯電話を握りしめて、麻衣は呆然としていた。
『戻る』と、ナルは言った。
確かに「動けないし、眠れない」と訴えたのは自分だが、まさかナルがそんな行動に出るとは思わなかった。
(だって・・・仕事中なのに・・・)
一定の機械音を鳴らし続けている携帯を見る。
あの言葉が夢でない、と証明してくれる唯一のものを、麻衣は手放すことが出来なかった。
電車を降りて改札を抜ける。外は雨が降り始めていた。
彼はタクシーを捕まえることを考え、列が出来ている乗り場に視線を巡らせたあと、溜息をついて雨の中に足を踏み出した。
電車に乗っている間、ナルはずっと扉口に立って外を見ていたにもかかわらず、雨が降っていることに気付かなかった。 彼は、流れる景色の中を、必死で探していたのだ。
仕事を投げ出してまで、たかが風邪をひいただけの恋人のために、急いで帰らなければいけない理由を。
理由が無くては動けない。
今頃ベッドの中にいるあの少女のように、鏡の中に映る異なる世界に棲む片割れのように、感情だけでは動けない。
麻衣を手に入れても、彼女に特別な変化は見られなかった。己にも、無いと思っていた。
(今の状況を見て、誰がそんなことを言える?)
明らかに自分は変わってきている。それが煩わしい。
「変化」することが不快なのではなく、「変化している」と自覚することが不愉快なのだ。
「変えられていく」自分。それを受け入れるための許容量。 『麻衣』と言う存在を受け入れるための、許容量。
理由は見つからないまま、ようやく辿り着いたマンションを見上げ、ナルは雨に打たれた身体から体温が逃げていくのを感じていた。
そしておそらくは、自分を見て驚き、風邪の身体を抱えながらも、世話を焼こうとする彼女を思う。
その温もりの、意味と理由を考えながら、彼はエレベーターに乗り込んだ。
「馬鹿じゃないって主張するなら、駅前のコンビニで傘ぐらい買ってこい!」
せき込みながら怒鳴る麻衣を見上げて、ナルは、彼女の反応が自分の予想通りだったことに僅かばかり安堵していた。
「動けないんじゃなかったのか?」
「動くしかないでしょ?手のかかるコドモがいるんだから」
「子供?誰のことだ?」
「アンタ以外に誰が居る」
麻衣はよろめきながらバスルームに向かい、戻ってくるなりナルの腕を引っ張った。
「ほら、早くお風呂!」
真剣な少女の目に、ナルは反抗を諦めて素直に従った。
ナルをバスルームに押し込んだあと、麻衣はへたり込みそうになるほどの疲労を感じて、壁に手をついた。
戻る、と言ったナルの言葉に嘘はなかった。
けれど。
(誰が濡れネズミで帰ってこい、なんて言った?)
これでは、看病をしに帰ってきたのか、看病をされに帰ってきたのか解らない。
寝室の扉が開く音がして、麻衣は閉じていた瞼を押し上げた。
そこに立っていたのは、白い顔を更に蒼白にして、濡れた髪を掻き上げているナルだった。
「っ・・な・・何してんの??!」
驚いて麻衣が起きあがると、ナルは眉を顰めた。 「お前が帰ってこいと言ったんだろう」
「そういう意味じゃない!何で濡れて・・・」
「ああ。雨が降ってるから」
全く何の感慨も見せず、ただ事象だけを説明するナルに、麻衣は溜息とともに行動を起こした。
ベッドからがばっと起きあがると、布団の上に掛けてあった上着を羽織り、タンスまでふらふらと歩いてバスタオルを引き出す。
それをナルに渡すと、彼女は次にキッチンへ行く。 ふらつく麻衣を助けようともせずに、ナルはただ、麻衣を眺めている。
お茶を煎れてリビングに戻ると、ナルは渡されたバスタオルを握ったまま、所在なげに立っていた。
「頭拭いて!今お風呂入れるから、その間にこれ飲んで待ってて」
ナルは何も答えず麻衣の言葉に従う。何か、考え事をしているようにも見えた。
喉が痛い。渇いた喉で怒鳴ったせいかもしれない。身体も熱い。
(・・・・とりあえず、着替えを・・・)
ナルの着替えは寝室のクロゼットの中だ。
普段とは勝手の違う身体を引きずって、何故か遠く感じる寝室まで辿り着く。
ベッドに倒れ込んでしまいたい、と思いながら麻衣はナルの着替えを抱えてベッドに背を向けると、寝室の扉へ手を伸ばした。
「っ!!」
「・・・・何をしてる」
開けようとした扉が突然開いて、麻衣はそのまま前のめりに倒れ込んだ。
倒れた先にはバスローブ姿のナルがいて、突然倒れてきた麻衣を支えている。 頭上から呆れたような溜息が漏れた。呆れてるのはこっちだ、と麻衣は心の中で思う。
「早すぎ!ちゃんと暖まったの?」
「ああ」
面倒くさそうに答えて、ナルは麻衣を抱き上げた。そのままベッドに寝かせて持っている着替えを取り上げる。
布団を被せてやると、麻衣は熱に潤んだ瞳でナルを見上げた。
「早く寝ろ」
「うん。・・・ちゃんと着替えてよ?」
肯定も否定も口にせず、ナルはその着替えを手にとって部屋を出た。
帰らなければならない理由。
帰ってきてしまった理由。
リビングの窓を、強くなった雨が叩いていた。
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