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眠れない。
麻衣はベッドの中で嘆息した。
ナルが帰ってきて、これでやっと安心して眠れる、と何となく思っていたのに。
麻衣は首を動かして、閉まっている扉を見る。
ナルは扉を閉めてしまった。
夕べのように、開けておいてはくれなかった。
(・・・・我が儘言ったから)
怒っているのかも知れない。 キーボードの音が聞こえないわけは、あの扉という隔たりのせいなのだろう。
何か考え事をしている風だったナル。
いつもでは考えられないような行動をとるナル。
(ナルの近くに行きたい)
どうしても、彼の温もりなしでは眠れないような気がして、麻衣はもう一度ベッドを降りた。
(もっと、近くに)
そっと扉を開けると、ソファの上にナルが居て、ただ窓の外の雨を見つめている。
着替えは済ませたようで、先ほどのバスローブはソファの背に無造作に掛けてある。
そして。
驚いたことに、彼は仕事をしていなかった。閉じたままのノートパソコンが、彼の傍らに置かれている。
扉の開く音が微かに響いて、ナルは背後を振り返った。
「・・・麻衣?」
「ナル、寝れないの」 「馬鹿。横になってろ」
「だって、寝れないんだもん」
溜息をつく。病人というのは得てして我が儘なものだ。
そして、麻衣の風邪は自分に責があることを、不本意ながらもナルは知っている。
おぼつかない足取りで近寄ってきた麻衣が、ナルの服を軽く摘んだ。
潤んだ瞳は熱のせいだろう、と解釈する。
「・・・僕にどうしろと?」
「一緒に寝て」
小首を傾げて、麻衣がねだる。
その細い首筋には、昨夜ナル自身がつけた朱痕が見え隠れしている。
「風邪が移ったら?」
「あたしが看病する」 だから。
「一緒に・・・寝てクダサイ」
熱で上気した頬を更に染めて、けれど俯くことなく見上げてくる麻衣を見返して、
ナルはもう一つ深い溜息をついたあと、寝室へと移動した。
麻衣をベッドに横たえ、自分もその隣に座る。
ベッドサイドにある本を手にとって開いた途端に、また麻衣がナルの服を引っ張った。
「一緒に寝てよ」
「僕は眠くない」
「ウソ。夕べだって寝てないんでしょ?知ってるんだからね」
合点がいった。
麻衣は、ナルが寝ていないことを知っている。
「僕を、寝かせたいのか?」
「・・・違うよ。『一緒に』寝たいの」 「つまり、お前も寝てないんだな?」 「う・・・」
一晩中起きていたのか。 問いつめられて麻衣は嫌々頷く。ナルの溜息が再度落とされた。
「治す気がないなら、僕は仕事に戻る」 「や・待って!行かないで!!」 去ろうとしている腕を必死に掴む華奢な指が、微かに震えている。
「寝るつもりだったけど、寝れなかったの」
「何故?」
「・・・・・・ナルが居ないから」
「僕が?」
「だって、ナルが隣にいなかったから・・・」
「お前は子供か」
呆れて吐き出した言葉に、麻衣が敏感に反応した。
「一緒にベッドに入ったなら、一緒に朝を迎えたいって思うのは、子供の考えること?」
真剣な眼差しを向けて、震える指に力を込める。
「あたしを子供だって思うなら、どうして抱くの?」
雨の音が響く。静かな部屋。沈黙。
ナルは何も答えない。その問の答えこそが、彼の頭を悩ませているものなのだと、麻衣は知らない。
「あたし、ナルが好き」
「・・・ああ」
「ナルは?」
沈黙が返ってくる。微かに、ほんの微かに戸惑うような気配。
「イエスかノーでも良いよ」 好きだ、なんて言えない人だと知っているから。でも、せめて。
「ナルは、あたしのこと好き?」
ナルはイエスもノーもくれなかった。
ただ、少し強引に唇を塞がれて、呼吸を奪われる。 一度離して、もう一度唇を重ねる瞬間、ナルが何かを呟いた。
けれど、熱に浮かされた麻衣の耳では、それを理解することが出来なかった。
眩しい朝の光に目が覚めたとき、傍らに麻衣の姿はなかった。
ナルは何となく麻衣の姿を探す。
寝室には見あたらない。開け放したままの扉の向こうにも、彼女の姿は見えない。
バスルームかキッチンか。
どちらにしても、病人が彷徨いていることに変わりはない。
ナルは、夕べ脱ぎ捨てた上着を羽織って、適当に着衣を整えるとリビングへ出た。
「あ、ナル起きた?」 麻衣は予想通りキッチンから出てきた。
ナルが眉を顰めるのにも構わず、華のような笑顔でおはよう、と言う。
「風邪は?」
「ん?もう治ったよ〜」
言いながらぱたぱたと部屋中を走り回る麻衣を捕まえて、額に手を載せる。
「・・・・ね?下がってるでしょ?」
確かに熱は感じられない。だが、病み上がりでいきなり部屋の掃除を始めようなどと、誰が考えるだろう。
「今日も寝てろ」
「えー??もうヤダ〜・・・寝てるの飽きちゃったよ」
それに、折角良い天気だし、洗濯とかも済ませちゃいたいし・・・。
ぶつぶつと呟く麻衣の額を軽く小突く。
「馬鹿」
「ね、それよりナル、ちょっと屈んで」
「は?」
「良いから」
渋々麻衣に従うと、彼女はナルの額に手を当てて「やっぱり」と呟いた。 「今度はナルが風邪」
ナルの手もその額も、普段からは考えられないほど熱い。
麻衣が体温計を手に持って、ナルを寝室へ押し戻す。
「ほら、ちゃんと寝て!暖かくして、熱を計る!」
「要らない」
「ダーーーーメっ!!あんた、昨日あたしに同じこと言ったでしょうが」
仁王立ちする麻衣の顔を見上げて、ナルは諦めという言葉を頭にセットする。
これ以上言っても無駄だ。そして、麻衣の言うとおり、おそらく今日はろくに動けそうにもない。
(体が怠い)
風邪のせいだけでないことは知っているが、それはおそらく麻衣も同じ事だろう、と黙っておく。
「やっぱり移された、とか思ってる?」
「いや、空気感染だから、どうせ移るだろうとは思ってた」
そんなことよりも。
「麻衣は?測ったのか?」
「何を?」
「熱」
ナルの手が、熱で普段よりも熱くなっているなら、先ほどの検診は全くあてにならない、と言うことだ。
ナルの言葉に、麻衣はにっこり笑った。
「ばっちり平熱。ほら、ナルがちゃんと朝まで居てくれたからね」
嬉しそうにそう告げて、途中で「あ」と呟いた。
「ねぇ、昨日のさ」
「?」
「キスしてるとき、何て言ったの?」
「・・・意味が分からなかったのか?」
「聞き取れなかったの!」
「日本語だったはずだが」
「だから!・・・・もう一回言って?」
ねだるような麻衣の仕草に、ナルが唇の端を吊り上げた。
「もう一度させてくれるなら」
「・・っば・・バカ!」
ナルの意図するところに気付き、麻衣が頬を上気させて怒鳴った。
「もー、病人は大人しく寝てなさい!」
部屋をバタバタと出ていく麻衣の後ろ姿に、ナルは昨夜見つけたばかりの『答え』を反芻する。
麻衣を、受け入れるための許容量。
そしてその理由。
「『・・・・愛している』」 「え?何?」
呟いた言葉は、またしても麻衣の耳には届かなかったらしい。
「何でもない」 下らない、あまりにも下らない陳腐な台詞。
けれど、理由としてさほど悪くはない。
彼が己の中に理由付ける言葉としては、それなりに面白くもある。
ナルは重たくて重たくて仕方ない瞼を、逆らうことなく降ろす。
遠のいていく意識の中で、「隣にいるからね」という麻衣の声が聞こえた気がしたが、
返事は出来なかった。
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