海の匂い
夢
『いつか、幸せになれるよ』
中学3年の夏休みに、修学旅行があった。
受験を控えた夏休みで修学旅行なんて、と生徒たちは不満たらたらだったしボイコットする生徒も多かったが、基本的にそろって上位高校を狙うような進学校ではなかったから大半の生徒は受験勉強の気晴らしにいい口実をもらって2泊3日の短い旅行に喜んで出かけた。ただし、夜には勉強会の時間があった。
麻衣は仲のいい友人4人と同じ班で、8畳の部屋に泊まっていた。
夜中は恒例の激白タイムである。
「あたしはー! 実は、3組のサッカー少年が好きです!」
口火を切った少女に、追及が群がる。
「サッカー少年って、去年の対抗試合でMVP取った彼?」
「ミーハー!」
「うるさいなぁ。あんたち彼の試合見てないでしょー? ほんっとに、ほんっとぉぉにかっこよかったんだからぁ!」
「サッカーにしか興味ないやんちゃ坊主じゃん」
「女の子よりサッカーだよ、まだ」
「そこがいいの! いつまでも少年、って感じでさぁ」
「ダメだよ、こいつ。マンガの読み過ぎ」
そう言って人の恋路を笑いながらも、全員が似たり寄ったりの告白をする。
いわく、今時硬派の誰それが好きだ。
いわく、飼育委員の心優しい誰それが好きだ。
消灯時間を過ぎているから多少声をひそめているとはいえ、いつ薄い壁を突き抜けて話がもれてしまうかも分からないのに、彼女たちは楽しく盛り上がっている。
いつ尽きるとも知れない告白は続いていたが、布団に横になって話を聞いていた麻衣があくびをしたので、ふいに途切れた。
「ちょっと、麻衣。寝る気?」
「ふえぇぇ? だって眠いしー」
「あんたってマイペースよねー。好きな人いないわけ?」
1人が言うと、他の2人が大きくうなずいた。
「そーよそーよ」
「聞くだけなんてずるい」
「あのね。あたしは別に参加するなんて言ってないんだから、ずるいも何もない」
「そりゃそうだけどー……」
「でしょ? あたしはスポーツに汗する青少年にも、硬派を気取ってる無口くんにも興味はないし、あっても言わない」
「なんで?」
「かち合ったら困るじゃん」
「かち合ってないんでしょ?」
「後で同じ人を気に入ったら? 困る困る。面倒はごめん」
でもー、と級友たちはぶうぶう不満を言った。
「言っておいたら協力してもらえるじゃん。残された時間は短いんだからさ」
「卒業までに何とかする気なわけ?」
「もちろんよ! 高校ライフをエンジョイするんだから!」
「いーよあたしは。忙しいしさ」
「暇じゃん。部活もしてないくせにー」
「あたしの高校生活はバイト一色。生活費稼がなきゃなんないんだから」
その言葉に、彼女たちも多少勢いを納めた。
麻衣は数ヶ月前に唯一の庇護者だった母親を亡くし、現在担任の家に居候している身である。高校は奨学金で進めるところを狙っているし、高校に入ったら自分1人で生活するつもりでいるのだ。
「そっか……大変なんだっけ」
「大変ってほどでもないけどね。案外何とかなりそうだからさ」
「でも! だったらなおさら幸せにならなきゃ!」
麻衣は笑った。
「大げさー」
「大げさじゃないよ。麻衣はね、欲がなさ過ぎ。最高の幸せを夢見てなきゃ、幸せになんかなれないんだからな!」
「何かの受け売りだろ」
「うるさいな」
ぶっとふくれた彼女が、その他の2人が、それでもひどく真剣な顔で麻衣を見つめる。
「いつか、幸せになれるよ」
友人が一生懸命に言った。
「麻衣は本当に本当にがんばってるんだから、誰よりも誰よりも幸せになれる。ならなきゃダメだよ。麻衣は幸せにならなきゃダメだよ」
「そのつもりさ」
麻衣は軽く受け流した。彼女たちのような友人がいること以上に、サッカー部の子供っぽい男子とお付き合いすることが幸せだとは思えなかった。
そんなことを言うのは恥ずかしいから、ただ笑う。
「いい友達を持ったもんだわ」
「でしょ、でしょ?」
「こいつ、点数稼ぎか?」
「麻衣相手に点数稼いでどーすんのよ」
「そりゃそうだ」
「媚びなら男に売るっ」
「でもっていい男をゲットする?」
「そうそう」
退屈なんか知らない毎日。
好みの誰かにかわいい彼女ができても、友達がパフェでもおごってくれたらラッキーだと思った。
優しい友達に囲まれて、夢見ることがとても自由に感じられた。
夢を見て泣くことなど知らなかった。
1つの決断にいちいち人生を賭けるような願いを知らなかった。
ベッドの中で大きく伸びをして、麻衣はよいしょとばかり体を起こした。
部屋は日本で言う6畳くらいの広さで、今まで生活していた部屋より広いわけではなかったが、日用品の全部をそこに詰め込んでいるのと寝るためだけに同じスペースがあるのとではまったく違う。その部屋にはキッチンが詰め込まれているわけでもなかったし、食器やらバス用品やらを押し込めているわけでもなかった。そんなものは階下にある広いキッチンとバスルームにきちんと置かれている。
両親が健在でその庇護下にあったときはともかく、中学からの生活を考えると1軒家に住むような贅沢など思い描いたこともなかった。
自分1人で起きあがり、自分だけのために朝食を作ってテレビを見て、人に会うために家を出ていった。大学に入ると馴染みのクラスメートというものもいなくなり、年中同じ顔を見られるのは長く勤めたバイト先のオフィスだけ、社交的な性格とは言っても自然友達の数は減っていった。
でも、多くを失った分だけ今は家族と呼べる人たちがいる。
不思議なものだ。
麻衣は服を着替え、出勤の準備をして階下に降りていった。
リビングの扉を開けると、新しい家族たちが彼女の顔を見て笑顔になる。
「おはよう、麻衣」
麻衣は笑った。
「おはよう」
『いつか、幸せになれるよ』
夢を見る。
夢と呼ぶのはたいがい昔の夢で、今は未来の夢はあまり見ない。
未来のことははっきりイメージできる。だから、夢に見る必要はない。
夢に見たところで叶うわけではないのだから、夢は見ない。
特に好きなのは海の匂いがする夢。
大好きな仲間に囲まれている、大事な宝物のような夢。
奇跡のような時間だったが、今となっては昔の夢。
この街には海の匂いがしない。
でも、あなたがいる。

