アリスのお茶会

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海の匂い

おまけ

デイビス家の夕食はおおむね早い時間にとられる。
 主婦であるルエラは夫のマーティンが帰ってくるのを待っていることが多いが、幸い彼の帰りはそれほど遅くない。授業が立て込んでいなければわざわざ大学にいる必要もないので、仕事は家に持ち帰って早めに帰宅するのだ。忙しい時期には寝る時しか帰ってこないこともあるが、彼は可能な限り家族との夕食を大事にしていた。
 1月、ナルが7年ぶりに家庭に帰ってくると、その傾向はさらに強まった。夜は仕事熱心な息子の時間として残しておくために、夕食は早い内にとっておこうという暗黙の了解が成り立ったのである。仕事をしているところを呼び出そうとしても断られる可能性がある。快く彼を部屋から引っぱり出すためには、彼が仕事に熱中していない時を狙うのがもっとも確実だったのだ。
「あら、お帰りなさい」
 ナルが研究所から帰ると、音を聞きつけてリビングの扉から顔を出したルエラが嬉しそうに笑った。
「もう夕食ができるから、荷物を置いたら降りてきてね」
 ひとつうなずき、ナルは階上にある自分の部屋へ向かう。
 2階には2つの部屋があり、それぞれがナルとユージンにあてがわれていた。子供は子供同士でいたいだろうという両親の配慮からである。廊下の奥がナルの部屋、手前がユージンの部屋。片方はもう長い間主をなくして、客間に使われていた。
 ナルの部屋も同様に7年間空き部屋同然だったのだが、デイビス夫妻はそれをそのままに保存してくれた。ナルがいつ帰ってもいいよう掃除は欠かさず、中のものもけして勝手に動かしたりはしなかった。それは、いつでも彼を受け入れる用意があるという両親の気持ちを語っているようだった。
 ナルが荷物を置いて言われたとおり階下に降りていくと、テーブルには夕食の支度が整えられようとしているところだった。マーティンがすでに椅子について新聞を読んでいる。
 ナルは黙って席に座った。
「おや、ナル。会うのは久しぶりだね」
 マーティンが眉を上げて、新聞をたたむ。
「やっと帰ってきたと思ったら何日も行方をくらまして。君は風来坊だね」
「用事を思い出したもので」
「日本へ行っていたんだって?」
「ああ」
「優れた行動力だな。行動半径が広がるのはいいことだが、あまり心配をかけないでくれ」
 ナルは謝意を込めて軽く頭を下げた。
「あらお説教なの?」
 フォークとナイフを持ってキッチンから現れたルエラが、それをテーブルに配って席に着く。
「あんまり言うと逃げられちゃうから、ほどほどにね?」
「そうしよう」
 マーティンが両手を挙げて賛同を示した。
 家族3人でテーブルを囲み、十字を切って感謝の祈りを捧げる。ナルは信仰を持たないが、形なりとも倣って目を閉じておいた。日本で言う、郷に入れば郷に従えというものである。
「ナルはずいぶん日本が気に入ったんだね」
「今回の旅行はそんなんじゃない」
「用事があったんだって? でも日本支部の人に頼めばよかったじゃないか。これは責めてるんじゃないよ」
「分かってる。僕が行く必要があったんだ」
「秘密なのね?」
 ルエラがくすくすと笑う。彼女の方は始めから追及をあきらめているようだ。
 ナルはそれに苦笑した。
「秘密ではない。それに関連して、マーティンとルエラに頼みがあるんだけど」
「頼み?」
「ま、珍しい。日本に永住したいなんて言い出さないでね?」
「当分イギリスを動く気はないな。代わりに、日本から能力者を1人連れ出すことにした」
 ルエラたちはナルを凝視するのではなく、互いに顔を見合わせた。仕事の話なのか、という呆れとあきらめの視線である。
「こちらに戻ってから1番気になるのは、イギリスのフィールドワークのひどさだ。機械と理論とインチキ霊能者だけでは、いくら慎重を期しても穴が抜けている」
「辛辣だね」
 仮にも心霊研究の権威であるSPR本部のフィールドワークを正面切ってけなすのは、心霊研究者としては彼くらいのものだろう。
「つまり、有能で信頼の置ける霊能者を日本からスカウトしたんだね?」
「有能かどうかはともかく、能力の真偽については信用している」
「それなら、そう言って本部に推薦すればいいんじゃないか? 君の言うことなら私が口を出すまでもなく本部も取り合ってくれるだろう」
「もちろん、そのつもり」
 マーティンは困ったように頬をかいた。
「仕事の頼みじゃないのかい?」
「いや? その能力者というのが僕と同年代の孤児で、渡航には同意しているがイギリスでの生活に不安があるらしい。英語も下手だし、金銭面でも援助が期待できない」
「援助の頼みなのか?」
「ある意味では。簡潔に言うと、ユージンの部屋を彼女に貸してやってほしいんだ」
 彼らは、呆気にとられた。2重、3重の意味でである。
「ずいぶん優しいね」
 ナルがそんなことを言い出したのがまず1つめの驚き。
「一緒に住むの?」
 それが2つめ。
「……彼女、ですって!?」
 それこそが何よりの驚きだった。
 こほん、と咳をしたのはマーティンだった。
「確かに部屋は空いているし、フィールドワークに人手が必要なことも事実だ。わざわざ日本から来てくれる人に、しかも親から援助の期待できない子だというなら、住居の世話をしてあげることもやぶさかではない。でもナル、一緒に住むというのは簡単にはいかない問題だよ。その上女性だというならなおさらだ」
「彼女の方は、それでいいって言ったの?」
 ルエラも横から口を出す。仕事の話でないなら彼女にも口を挟む権利がある。
「ルエラたちに迷惑だからと渋っていたが」
 ほら見なさい、と2人の顔に書かれる。
 それは婉曲な断り文句というものだ。息子はどうして人間関係にこれほど疎いのだろう、とため息すら出てきそうだった。
「安く住めるアパートを近くに探そう。食事なんかは一緒にすればいいし、その方がいいと思うよ、ナル」
「ああ――言い忘れていたが、彼女が渋るのでそれならと思って婚約したんだけど」
「……それを早く言いなさい!」

 でもね、イギリスに行くって言っても簡単なことじゃないでしょ、と麻衣は長い沈黙の末そう言った。
 ナルは首をかしげた。
「簡単じゃないとは?」
「だからー。あたし英語下手だから仕事だって困るし、外国に1人で住むのだって大変だし」
「仕事ならSPRで雇える。ちょうどまどかがお前を欲しいと言っていたから、問題ない。部屋は、僕の家に一部屋余ってる。これも問題はないと思うが?」
「ナルの家って……ナル、1人暮らしじゃないでしょ!? 今までみたいに入り浸るのとはわけが違うんだから!」
「違うか?」
「違うわい。他人様の家にお邪魔できるわけないじゃん」
「本部に必要な霊能者を確保するためなら、そのくらいのわがままは通せると思うけど」
「冗談じゃありません。そんな迷惑はかけられません」
「なら、婚約者ということなら?」
 麻衣は目を見開いてナルを見上げた。
「は?」
「他人じゃなければいいんだろう?」
「そうだけど……それってプロポーズ?」
「いや、別に?」
 麻衣の顔に浮かんでいた喜色が一瞬で消えた。まずいことを言ったのか、とナルは困惑する。
「……プロポーズじゃないなら、何」
「だから、そういう紹介の仕方をすれば角が立たないだろうということだ。両親も他の人間も納得するだろう」
「そーでしょーね」
「嫌なのか?」
「いーえ、別に」
「なら何なんだ」
「ううん。ただねー」
 麻衣は寄りかかっていた柵から手を放し、ふわりと舞うようにナルに背中を向けた。
「やっぱり便宜上なんだな、と思って。あたしがいれば紅茶いれさせるのにも便利だろうし、ご両親は喜ばせられるし、いいことばっかりだよね。日本を離れるの、とっても勇気がいるって、分かってる?」
「たぶん」
「理屈としては?」
「そう」
 ナルはちらりと麻衣の後ろ姿を見たが、泣いているようにも見えなかったのでまた視線を駐車場の方へ戻した。
「何が不満なんだ?」
「来て欲しいって言ってよ」
「来て欲しい」
 麻衣は振り向いた。それで機嫌が直ったのかと思えば、にらまれる。
「……簡単に言うかな」
「なぜ。言ってほしかったんだろう?」
「いつもは言ってって頼んだって何も言ってくれないくせに! 本当に、必要だと思ったら何でも恥ずかしげなくやるよね!」
「答えられる範囲では答えているだろう」
「ナルの誠意の見せ方はね、ずれてる!」
 ぴしりと指を突きつけられ、ナルは顔をしかめた。
「指差すな」
「ごめんなさいませ。不調法なもので」
「何を怒ってるんだ」
「怒ってないよ。照れてんだもん」
 頬をふくらます麻衣に、ナルは盛大なため息をつく。
「……威張ることか」
「あんたこそ威張れる立場か。余裕たっぷりな態度が気に入らないっ」
「ああそう」
「相手するの面倒くさくなってきたでしょ?」
「よくお分かりで」
「どれだけあんたのわがままに付き合ってきたと思ってんの」
「お互い様だね」
「そうかもね」
 麻衣は駆け寄ってきてナルの胸にしがみついた。爪先立って、ナルの肩口ではっきりと言った。
「愛してる」
 ナルは片手で背伸びをする麻衣の体を支える。
「あー言っちゃった。こんなとびきりのセリフ。つけあがらせてどーするんだろうね、あたしは。ただでさえ苦労してるってのに。1ヶ月も待ってやるしさ」
「婚約してもいいと受け取っていいのかな?」
「ここは、甘いセリフを返すところでしょ?」
「甘いセリフと言われてもね」
「優しくしようと努力していることは認めるけど、ナルは学習が足りない」
「僕の、どこが」
「付き合い方! 女の子の扱い方!」
「努力しよう」
 麻衣は肩から顔を上げ、すとんと踵を下ろした。
「努力してくれるの?」
「泣かせた責任くらいは取る」
「責任なんか……あたしは知らないけど。でも、わがままだから愛して欲しいだけ」
 与えた分だけ返してもらいたがるのは人の常だが、彼女が自分で認めるとおりわがままな言い分だ。ナルは眉を上げ、麻衣の体を放した。
「もう行くぞ」
「どこへ? 大体、ナルいつ帰るの?」
「明日にでも。飛行機はフリーのチケットを取ってる」
「あたし、イギリスに行くったって学校があるんだけど」
「卒業式が終わってから来い。それまでに向こうの話は付けておく」
「うん、分かった」
「……結局来るんだな?」
「……行くよ?」
 そう、とナルは息をついた。
「なーんだよ、勝手に話進めながら。心配ならそれらしくしたらあたしだって優しくしてあげるのにー」
「していただかなくて結構」
「嘘。意地っ張り」
 決めつけて、麻衣は笑う。ため息をつくナルに笑いながら、車の扉を開いた。
 優しくしてほしければ自分こそそれらしくすればいい、と思いながらナルは車に乗り込んだ。

 買い物袋を抱えて帰宅したルエラは、同様に荷物持ちを手伝ってもらったマーティンに場所を空けるよう先に玄関をくぐってリビングに続くキッチンへ向かった。
 買い物は亭主の休みの日に限る。家族が4人にもなると食料の買い出しだけで一苦労であり、偉くなって時間に融通が利くマーティン以上に息子と息子の婚約者は仕事が忙しいので買い物など頼めない。ここぞとばかり買いためた袋を重たく抱えながら、懸命に前方を確かめてリビングへ進んだ。
「あら」
 リビングに先客がいる。
「マーティン、ちょっと静かにね」
 すっかり寝ている先客に遠慮して声をひそめながら、マーティンを手招きした。
 首をかしげながらやってくるマーティンは、やはりルエラに倣って足音を殺す。両手いっぱいの買い物袋だけがごそごそと音を立てた。
「ほら」
 ルエラが示した先を見て、マーティンは目と口を軽く開き、驚きを表して笑うルエラと顔を見合わせた。
 リビングのソファでは1週間前に来たばかりの新しい同居人が横になって眠っていた。ナルから事前に話を聞きだしてあったとはいえ、彼女は面識が浅いとは思えないほど自然に家に馴染んだ。それが彼女自身の性質なのだと気付いたルエラもマーティンも彼女が大好きになり、こんな場所を見つけてしまうとほほえましさがもれる。
 しかし、それだけでは驚く必要はない。
 彼女は彼らの無愛想な息子の膝に頭を預けて眠っており、その息子は読んでいたと思われる本に指を挟んだまま、ソファに座ってやはり目を閉じていたのである。
 ルエラたちが微笑み交わして扉を閉めようとした時、横になっていた麻衣の方が目を覚まして顔を上げた。
「あ……うわ、ごめんなさい」
 半分寝ぼけた声ながらもあわてて謝ると、自分が膝枕をさせていた人間も寝ているのに気付いて、その肩を揺する。
「ナル、ナルまずいって起きて」
「ああ、いいのよマイ」
「起こさないとあたしが怒られます。ナル!」
「……何」
 騒音にやっと目を開けたナルは、よほど疲れていたのだろう。
 ルエラたちの姿を見つけても、数秒間何も言わなかった。
「ごめんなさい、つい寝ちゃって」
「全然構わないわよ。それに、いいものを見せてもらちゃって。ねぇ?」
「ああ、本当に」
 マーティンの方がルエラより笑いをこらえきれない様子を見せている。
 麻衣は照れたように舌を出した。
「こんな場所で、お邪魔してしまいまして」
「……僕は上で寝直す」
「あ、寝るの?」
「疲れているらしい。非効率的だ」
 ルエラたちの横を通って2階に向かうナルを見送ってから、麻衣が笑った。
「照れて、無理な理屈つけてるんですよ」
「みたいね」
 リビングに響いた笑いは、2階まで届いたかもしれない。

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