human beings
   〜第一章 人間たち



1、

 そのドアの先に何があるのか、確かめたものは少ない。

 特に厚くもないドア一枚が、向こうとこちらとを隔てている。そこを開けて入っていくのは簡単なことだ。ちょっとノブをひねればいい。
 しかし仮にもオフィスと名のつく場所である。好奇心だけで入っていくことには抵抗を覚えるものが多い。そもそもそのドアに注目する人間自体かなり少数なのだ。渋谷道玄坂という立地ではあるが、雑居ビルの中にある一オフィスの、しかも英語で書かれたロゴを目にとめてわざわざ不思議がる人間はそういないだろう。
 だが、もしもふと目が行ってしまったら。
 その人間は、たとえ英語に堪能でない女子高生であろうとも、うさんくささのあまり眉間にきっぱりとしたしわを作ってしまうであろう。
 現代社会でもっとも神聖視され、また危険視されているといえるもの。『オカルト系』のにおいが、その扉のロゴには十二分に漂っていた。
 シブヤサイキックリサーチ――渋谷心霊研究所。
 なぜ渋谷の一等地にそんなものがあるのか。どんな仕事をしているのか。やっぱり心霊現象を盲信するオカルトかぶれが運営しているのか。どんな奴だそりゃ。
 誰しもそんな疑問符を抱く。だが、なかなか開けてみる勇気はない。
 今、そのドアの先にある世界をのぞこうという少女がいる。
 谷山麻衣、二十歳。都内の某四年制大学に所属し、みなしごという境遇ながらその手ひとつで立派に世間を生き抜く。柔らかそうな薄茶の髪、小柄な体。愛らしい容姿ながらその体の中には不屈のパワーが秘められていた。
 そして、彼女は今、禁断の扉を――開けた。


「あ、谷山さん。こんにちはー」
 ドアベルの音が静まらない内に、さわやかな声が麻衣に投げられる。
「こんちはー」
 と、明るく返しかけて、麻衣は口をあんぐりと開けた。
 渋谷サイキックリサーチの売りは、心霊研究所という怪しげな名前とは裏腹な科学的調査である。その売りを反映するかのごとく、オフィスも趣味良く上品に整えられている。下手な日本の小企業よりも、よほど信頼できるビジネスライクな雰囲気がただよっている。
 常ならば、そうだった。
「一体どうしたらそんなことが言えるのですかっ!」
 オフィスにいた長身の男性が、近くにあった書類を拾い上げて床に叩きつけた。
 麻衣のよく知る人物ではあるが、ついぞ聞いたことのないような荒い声を出している。かなり感情が昂ぶっているらしい。
 彼の周りには、同じように投げられたか、机の上から叩き落とされたと思われる書類が散らばっていた。普段塵ひとつないオフィスが、まるで修羅場だ。
「どうしたらもこうしたらも、質問に答えただけだ」
 面倒くさそうにため息をついたのは、このオフィスの所長だった。
 怒鳴っている方と比べると一回り背が低く、年も若い。やっと十代を抜け出したくらいの青年である。どちらかというと、声を荒げて怒るという行動が似合っているのは、彼の年代の方であろう。しかし、だからと言って彼が年の割に落ち着いているということでは決してない。ただ彼は心底面倒くさがっているだけなのである。
 渋谷サイキックリサーチ所長の渋谷一也氏、通称ナルシストのナルちゃんは、唯我独尊我田引水、絶世の美貌と鉄壁の論理と氷の眼差しを持つ、非社会的人間だった。
「そもそも、お前に僕の生活を指図されるいわれはないと思うが?」
「何度でも繰り返させていただきますが。私はデイビス夫妻からあなたの面倒を頼まれているのです。栄養失調で倒れられでもしては、ご夫妻にどう説明すればよいのですか」
「お前の都合など僕には関係ない」
 当たり前のように言うと、後ろもかえりみずに踵を返した。
「ナル!」
 つかみかからん勢いの呼び声もどこ吹く風で、ナルは所長室の扉に手をかける。
 ふと、何かを思いついたようにその足が止まった。
 振り返り、険しい形相のお目付け役に目を向ける。
「リン」
「……何か」
「書店に頼んだ本が今日届くはずだ。取りに行ってくれ。それから所長室にお茶」
 リンは大きく胸に息をためた。
 雷が落ちるぞ、ととっさに耳をかばった麻衣は、結局その空気が音にならずに吐き出されるのを見た。
 彼らの目の前で、所長室の扉が素っ気ない音を立てて閉まった。
「私は所用で出かけますと、昨日から再三申し上げました」
 静かに言い、リンはオフィスの隅でいないような振りをしていた麻衣たち所員に目線を寄越した。
「注文した本の受け取りは、僕が責任持って」
「不詳谷山、お茶汲み承りました」
 言われる前に良い子のお返事をして、バイト二人はぴしっと敬礼の姿勢を取った。
 リンは、ひたすら無愛想な顔をわずかに動かして会釈する。
 縦長の背中が資料室の扉に消えた後、麻衣は知らずひそめていた息を大きく吐き出した。
「び……っくりしたー」
「僕もです」
 感心したように事務の安原が答えた。
 安原は麻衣と同年代の好青年である。ナルほど突出した美青年ではないが、さほど勉強している様子もないのに要領よくT大に合格した秀才だった。ここでのバイトは、生活のためというより彼の道楽らしい。
「何ですか、あれ」
「何に見えました?」
「察するに、論文で煮詰まったナルがまたまたいつもの無茶をやって、心配したリンさんが怒った」
「パーフェクト。ミスタニヤマ、一○○ポイント」
「サンクス、ミスターヤスハラ」
 と、言い交わしてしまえるくらい、ナルの無茶な生活態度は日常茶飯事である。
 それを今さらあれほど怒ったということは、リンもいい加減腹に据えかねたということなのか。あるいは、いつにも増してひどいのか、だ。
「どうやら僕らのリンさんは今日から出かけるみたいですからね。しばらく所長のお世話ができなくて心配なんでしょう」
 思考を見透かしたように安原が言い、麻衣は床を片付けながらなるほどとうなった。
「しばらくって、しばらく帰ってこないの?」
「昨日、3日ほどで帰るとおっしゃってましたよ」
「えーずるい。あたし聞いてない」
「僕ではなく、所長におっしゃってたんです」
「……ナルに」
「僕の目の前で」
 しかし聞いた当の本人はまったく覚えていないようだった。
「怒りたくもなりますねー」
「ははは、僕はノーコメントということで」
 安原がさわやかに言い放った時、かちゃりとノブが回る音がした。
「麻衣」
 聞こえた声に麻衣は飛び上がる。
「は、ははははいっ!」
「お茶を」
 絶対零度の声は、それだけ言い残して消えた。
「承知しております、所長!」
 麻衣がおそるおそる振り向いた時、所長室の扉はすでに閉まっていた。
「……聞かれましたかね?」
「さぁ?」
 安原の笑顔は小憎たらしいくらい余裕だった。
「じゃあ、僕は本屋へ行ってきますね」
「帰ってこなくていい!」
「つれないなぁ」
 安原はテーブルの上から素早く注文表を取り上げた。ちょうど片付いたばかりのテーブルの上、彼は注文表を別に取り分けてあったのだ。
 ふくれている麻衣にひらひらと手を振り、安原の姿は扉の向こうに消える。
 一人取り残された麻衣は、なんとなくカレンダーを見る。
「今日から三日っていうと……あ」
 カレンダーの日付を見て、麻衣は胸にずしりと重いものが落ちるのを感じた。
「今日……八月十四日だったんだ」
 その日は、麻衣にとって悲しい思い出の日だった。
(ジーンの……命日)


 彼の名は田中と言った。
 平々凡々とした名が見事に体を表しているような男である。
 中肉中背、頭はいい具合に薄くなっているが禿頭というほど思い切ってもいない。妻一人子一人、仕事場では部下たちに好かれているが家に帰れば邪魔な置物扱い。仕事の方も年相応に出世したはいいが、これと言って情熱があるわけでもない。役所勤めをしている彼の仕事振りは、典型的なお役所仕事だ。
 彼がまとめ役を務めるのは、東京から新幹線で一時間、私鉄を三十分バスを四十分使ってやっとたどりつく山奥の小さな村だった。
 その日、彼は渋谷道玄坂という異境を歩きながら額の汗をしきりに拭っていた。
 一体、この人出は何事だろう。田中はテレビがけして嘘をついていないことを知った。東京といえど常時そんなに人がいるものか、テレビというのは大嘘つきだ、彼の村ではそんな説が主流を占めていた。帰ったら報告をせねばなるまい。
 彼が帰るまで村が無事ならばの話だが。
 田中はしたたり落ちる汗が急速に冷えるのを感じた。そう、村が無事で彼の帰還を待っているという保証はない。たった一日の間に村がなくなるなんて、夢のような妄想だ。しかし、実際に彼の村は今悪夢に閉ざされているのだ。この上さらにむごい夢が降りかかったとして、何の不思議があるだろう。
 手の中の紙を握りしめる。そこには、『渋谷サイキックリサーチ』という事務所の所在地が記されている。神に祈るような気持ちで、彼は道玄坂を登った。
 人ごみに弾かれ、時に進路をふさがれて立ちすくみながらも、彼は一歩一歩目的の場所に近づいていった。
 入り口は人で埋め尽くされている道玄坂だが、頂上付近はスムーズに歩けるだけの通行量だ。目指すビルは坂を上りきったところの交差点にあった。
 小洒落たビルだ、と田中は思った。彼の住む村にも、いくつかこの手の雰囲気を持つビルが建ち始めている。どれも若者たちが好んでたむろす場所で、田中にはまったく縁がない。興味を引かれて近づこうものなら、おじさんが何の用だと言わんばかりの視線を食らう。
 ビルを前に、田中は足を止めた。
 本当にこのビルなのだろうか。何度もメモを確かめるが、間違いなく住所の通りのビル名である。渋谷サイキックリサーチはこのビルの二階に事務所を構えているらしい。
 彼のイメージでは、オカルト系の店というのは今にも崩れそうな小さな雑居ビルでひっそりと客を受けているものだった。東京という街は、さすがに一味違うらしい。
 意を決して、足を踏み入れた。
 女子学生たちの視線が痛かった。


 お洒落な娘たちが出入りしていた一階から階段を上ると、そこは打って変わって静かなオフィススペースとなっていた。
 人のいない屋内広場を通り過ぎ、奥にブルーグレーのドアを見つけた。
 『Shibuya Psychic Research』
 それが探していた事務所だと分かるには、しばしの時間を要した。彼は英語が苦手だった。何でもかんでも英語で書こうとする昨今の風潮には涙が出る。
 ビルの前で思った以上に、渋谷サイキックリサーチは都会風のオフィスらしい。
 根っから田舎者の田中は生唾を飲んだ。村を救わねばならないという使命感がなければ、その場で回れ右していただろう。
 ドアを押す。軽やかなドアベルが鳴り、中の人間に彼の来訪を告げた。
「きゃーっ!」
 最初に耳に入ったのは、少女の悲鳴である。
「ど、どうした麻衣!?」
 ドアの中には、三人の若い男女がいた。
 悲鳴を上げたと思われるのは、高校生か大学生か、そのくらいの少女だ。渋谷に来てから散々見たような奇抜な服装ではない。むしろ清潔で好もしい雰囲気だ。
 彼女を取り囲むのは、大学生風の青年と、『奇抜組』の一員と言えそうな男が一人ずつ。茶髪に黒革のベストなぞをまとった男の方はともかく、大学生と思われる青年の方はいかにも有能そうだ。
 その彼らは、テーブルの上に田中も見覚えのある仏具などを広げて騒いでいた。
 盆の読経でもしていたような様子だ。
「いや……待てよ、ナルか?」
 少女が呟き、誰も返事をしないのに顔色を変えて座り込んだ。
「え、えー? 本当に?」
「麻衣、麻衣や」
「ちょ、待ってよどうしてー? ……うん、うん。いやそうだけど!」
 電話でもしているのか、と田中は思った。
 しかし彼女の手に携帯電話らしきものは見えない。
「麻衣、お客さんだぞ」
「えっ?」
 麻衣と呼ばれた少女が顔を上げるのと、感じのよい青年が田中に歩み寄ってくるのがほぼ同時だった。
「お客様、大変失礼いたしました。ご依頼ですか?」
 そつのない対応に、今までぽかんとしていた田中は焦る。
「は、はい!」
「ただいま片付けますので、少々おかけになってお待ちください。……谷山さん」
 目配せを受けて、麻衣が弾かれたように立ち上がる。
「大変失礼いたしました! すぐにお茶をお持ちします」
 青年に勧められるままソファに腰掛けると、魔法のような速さでテーブルの上が綺麗になっていく。
 給湯室とおぼしき方へ向かう麻衣に、茶髪男がそっと歩み寄った。耳打ちされた言葉は、田中の耳にまで届いてしまった。
「どうした、麻衣?」
「ぼ、ぼーさん」
「何かあったんだろ?」
「ジーンがいる……」
「ジーンって……ユージン・デイビスがいるのかぁ!?」
 大声に、にこにことテーブルを拭っていた青年もまたぽかんとする。
「やっぱり、見えない? 聞こえない?」
 麻衣が今にも泣きそうな声で訴える。内容は不明だが、とにかく取り込んでいることだけは分かった。
「見えん、聞こえん、俺に分かるわけがない」
「ふえええ、本物だぁ」
 ふいに麻衣の顔があらぬ方向を向く。
「……初めまして、って言ってる」
 茶髪男が頭を抱えた。
 青年はきょろきょろと辺りを見回しながら、とりあえずと言った。
「所長に知らせましょう」
「それだ! さすが安原さん!」
 どうやら青年の名は安原というらしい。
「お客はどうすんだ」
 そうだどうするんだ、と田中は拳を握りしめた。突然自分の話が出たので緊張した。
「ついでだからお客さまのお話も所長に聞いていただきましょう」
「あ、リンさんにも知らせなきゃ」
「それじゃ滝川さん、かわいい僕らのためによろしくお願いします」
「おい! 俺も客みたいなもんだろーが!」
「ぼーさんはすでに身内。よろしく」
 話がついたのか、安原と滝川がそれぞれ奥の扉に向かった。
 代わりにソファへ戻ってきたのが麻衣だ。彼女は幾分引きつった顔をしていたが、一応笑顔で頭を下げた。
「ばたばたしていてすみません。すぐに所長が参りますので、もう少々お待ちくださいませ」
 待つのは一向に構わないが、と田中は動悸が上がるのを感じた。
 彼にとってはここが最後の希望なのだ。どうやらこのオフィスは今取り込み中らしい(内容は見ていても完全に謎だが)。話を聞いてもらえるのか、それだけが心配でたまらなかった。
「よろしければ、お名前をうかがえますか? これくらいは聞いておかないと、所長に怒鳴られてしまいますんで」
 やわらかな物腰で聞いてくる麻衣につられるようにして、田中は震える口を開いた。
「た、田中と申します。S県九具津村のまとめ役を仰せつかっております」
「S県九具津村?」
 麻衣が驚いたような声を上げるのと同時だった。
 奥の扉が開き、人が飛び出してきた。
 その人物を見て、田中はぽかんと口を開けた。
 美青年、というのがぴったりの形容だろう。テレビに出てくる俳優も青くなるような美しい青年がそこにいた。細身の体を黒い衣装に包み、きびきびした動作でオフィスに入ってくる。
「所長」
 麻衣が腰を浮かす。彼が所長なのだろうか。
 まさにテレビは真実なのだ、と田中は思った。東京はおそろしい街だ。
「リン!」
 開口一番、所長は厳しい声を飛ばした。
「あ、リンさんなら今ぼーさんが呼びに……」
 麻衣が言う間もなく、所長室と思われる場所のとなりにある扉が開いた。そのタイムラグは約十秒。
 出てきたのは、男の田中でも見上げるような身長の男だった。手に、不似合いなハンディカメラをたずさえている。彼もまた黒い背広をまとっていた。
 黒尽くめの二人がほとんど同じような無表情でつかつかと麻衣に詰め寄る。
「え、え?何?」
「麻衣、ユージンの居場所だ」
 説明を加えたのは滝川だった。
 ぽん、と手を叩き、麻衣は自分の隣を目線で示した。
「ここにいるよ」
 所長がリンをちらりと見る。
 リンは視線を受けると、ハンディカメラを麻衣の示した方に向け、黙って回し始める。そして、余った片手で電子温度計を宙に差し出す。
 所長がすたすたと近寄ってそれを受け取る。
 田中は呆気に取られるばかりだった。
「あ、あの所長。お客様がいらしてるんですが」
 麻衣が口添えをする。
 しかし、美貌の所長は田中を振り向きもしなかった。
「就業時間は終了しました。またいらしてください」
「おいおい」
 麻衣と滝川の言葉が美しくハモる。
 田中は目の前が暗くなるのを感じた。
「き、聞いてもらえないのか……それほど、それほど私たちは呪われているのか」
「また明日に、どうぞ」
 綺麗な響きの声が、にべもなく言い切る。
 田中は全身の勇気を振り絞って食い下がった。
「一日も! 一日も待っていられない! こうしている間にも、もしかしたらうちの村はなくなっているかもしれないんだ!」
「所長、話だけでも聞いてさしあげれば……」
 麻衣が味方をしてくれる。
 所長はしらっとした顔で何かの数値をノートに書きこんでいた。
「なるほど、一日も待てない根拠がおありなら、おっしゃってみてください。そのくらいお聞きしましょう」
「呪われているんだ!」
「どのように」
「それが、今年に入ってから、近所の国道で幽霊が出るという噂だったんです。気味が悪いと思っていたら、ひ、人が死んだんです!」
「それで」
「連続殺人事件ですよ! ご、五人も死んだんです!」
 失礼します、と安原が断って口を出した。
「もしかして、S県の九具津村ですか?」
「そ、そうです!」
「ニュースで拝見しました。ご愁傷様です。でも、それなら警察が捜査していますよね?」
「うちの村でこんなことが起こるなんて、呪われているに違いないんだ!」
 所長は少し考えるそぶりを見せ、事務所の奥のほうから麻衣のいるあたりまで近づいてきた。先ほど何か書きこんだノートとペンを麻衣に差し出す。
「これから質問をするから、返答を書きこんでくれ」
「はい……?」
 わかりましたけど、と釈然としない様子でペンを構えた麻衣に、所長はうなずいた。
「き、聞いてくださるんですね!」
「リン、レコーダーと解析機、パソコンの準備」
「解析機! さ、さすが東京の方は違う!」
「で、どうして調査中でもないのに出てこれたんだ?」
「は?」
 麻衣と滝川が額に手を当てた。
 田中は知らなかった。ここの所長が、呪われたのたたりだのという話が大嫌いだということを。断る手間さえかけられない、完全無視を食らったのだということも。
「リン、機材の準備だ」
 ハンディカメラを下ろして動こうとしないリンに、所長が焦れたような声を投げる。
 リンの返答もまた、所長並みに冷たかった。
「私は三時前にはオフィスを出たい、と昨日のうちに申し上げておいたはずですが?」
「そうだったか」
「思いのほか記憶力に問題がありますね」
「……」
 オフィスの空気は、その時間違いなく凍っていた。
 その空気を壊すように滝川が声を張り上げる。
「リン、どっかでかけんのかー?」
「ええ、一ヶ月も前からの予定で、S県へ」
「そ、そうか。じゃあその辺まで送るぜ」
「それはどうも」
 リンは飛びぬけた長身の上から見下ろすように、所長を見た。
「いいですね」
「好きにしろ」
「昨日もそうおっしゃってましたが、どうせすぐお忘れでしょう」
「これからすぐ出て行くのに、この問答を記憶している必要があるのか?」
「必要云々の問題ではありません」
 滝川があわてて冷えた言い合いをさえぎる。
「ま、まあいいじゃないか。行こうぜ、リン」
「ええ」
 リンは足もとの荷物を手に取った。いつの間にか用意してあったらしい。もうすぐにでも出かけようという態勢のところをこの騒ぎで呼び出されてきたのだろう。
 滝川もすばやく自分の荷物を取ると、さっとその場を抜け出した。
「じゃ、またなー」
「早く荷物取りに来てよね」
 じっとりした目で麻衣が二人を送り出す。
 扉が閉まると、彼女はくるりと田中を振り返った。
「申し訳ありません。今大変取りこんでおりまして、お話をお聞きできません。職員も混乱しておりますので、大変失礼をいたしました」
「た、た、た、た、た、た、助けてくれないのか……」
「麻衣」
 所長が冷えた声を投げる。
「は、はい」
「レコーダーと解析機と、パソコン」
「う……あ、はい……」
「扱えるんだろうな?」
「……たぶん」
「……」
 室内の温度がさらに下がった。
 突然、麻衣が視線を上げて首をかしげた。
「え、そうなの?」
 またである。麻衣は先ほどと同じ、電話でもしているかのような調子で誰かこの場にない人間と話し始める。
「そっか、ちょっと残念だったね」
「麻衣?」
 鋭い所長の声に、麻衣はぺこりと頭を下げた。
「所長、ジーンはもう寝るって言ってますので、心置きなくお客さまのお話を聞いてさしあげてください」
「なんだと?」
「おやすみ、ジーン」
 そのジーンなる人物と麻衣がどうやって話をしているのかは分からない。しかし、とにかく会話は打ち切られるようだった。
 ぱたぱたと手を振る麻衣を、所長が小突く。
「おやすみじゃない、引き止めろ」
「もお消えちゃいましたよ?」
「なんだと?」
「あたしに怒っても、お門違いですからね!」
「……そうか」
 冷え冷えとした所長の眼差しが、田中に向けられた。
 田中はぴしりと姿勢を正す。
「……お話だけ、うかがいましょうか?」
 その言葉を聞いて、麻衣と安原が成仏を祈るように手を合わせた。


 冷たい嵐の過ぎ去ったオフィスで、麻衣はこぽこぽとお茶をいれていた。
 結局、先ほどの依頼人にはお茶すら出さなかった。諸々の騒ぎで忘れてしまったのである。
 容易に予測できたことだが、ナルの機嫌はすこぶる悪い。ただでさえ、何でもかんでも心霊現象のせいにする依頼人が嫌いなナルだ。国道の幽霊談と殺人事件を結びつけて依頼に来るような客、麻衣が判断を任されても断っただろう。
 その上、ナルは論文の執筆中だった。大事なお仕事を中断してまでオフィスに出てきたのは、ジーンが現れたと聞いたからだ。そのジーンのデータは、結局騒いでいる間に何も取れずじまい。不機嫌にもなる。
 麻衣とて、もっとジーンと話したかった。それを邪魔された形になったのは確かだ。
 ジーン――ユージン・デイビスは、ナルの双子の兄であり、麻衣にとっては初恋の少年だった。
 そして、もう何年も前にこの世を去っている人物でもある。
「ナル、お茶入ったけど、飲むー?」
 反応がない。
 しばらく待って、麻衣は声を張り上げた。
「お茶持ってきたよー! 入るからねー! 断ったよー?」
 さらに待ってみたがやはり返事がなかったので、麻衣はそっと扉を開いた。
 所長サマは仕事に打ち込むとノックの音も聞こえていて聞こえていない。応えようという気がない、と言ってもいい。
 予想通りナルは眠っているわけでもなく、仕事に熱中していた。
 所長室の中は、書斎と言い換えても問題ないような状態だ。
 特に今ナルが向かっている机は、体のいい本棚と化している。ナルの動作は、その中の一冊を抜き出しては別の山に積み直しているだけのように見えた。しかしおそらくはきちんと中身を見ているのであろう。
 こういう時、特に取り柄があるわけでもないただの大学生である麻衣は、気後れを感じる。ナルを、違う世界の人だな、と感じる。
 このオフィスの所長であるナルは、本名をオリヴァー・デイビスという。イギリス国籍を持つ日系二世で、日本では渋谷一也などと名乗っているが、偽名である。
 デイビス氏は知る人ぞ知る超心理学界の若手カリスマ研究者で、齢二十一にして数本の画期的な論文を発表して学会の注目を浴びている、心霊研究のスペシャリストだった。
「……ナル?」
 開けたドアを押さえたまま呼びかけると、ナルはやっと麻衣に一瞥をくれた。資料の山を一覧するまなざしと、その視線は変わらない。
「なんだ?」
 また資料の山を積みかえる作業に戻りながら、ぞんざいな一言が投げられる。それでもとりあえず存在を認められたので、麻衣はドアを押さえた手を離した。
「お茶、持ってきたよ」
「……置いておいて」
 りょーかい、と言って麻衣は机に近づき、トレイからカップを取り上げた。資料に占領された机のどこに置こうか迷っているとナルが山を動かしてスペースを空ける。
 かちゃん、と陶器の音を立てて紅茶を満たしたカップはナルの机に居場所を得た。
「ちゃんと寝てる?」
 麻衣が聞くと、気のなさそうな返事が返ってきた。うん、ともいや、ともつかない。
「顔色悪いよ?」
 また生返事。
 それでもうるさいと追い返されないのが珍しい。
 麻衣は眉をひそめた。論文に打ちこんでいるときのナルはたいていかなりぴりぴりしていて、いつも以上に怒りっぽいのだが。
 怒られなくて心配になるというのも、妙な話だ。
「寝てないでしょ」
「あまり」
 麻衣はため息をついた。
「論文、急ぎなの? 〆切は?」
「今月末かな」
「今月末……ってまだ半月あるじゃない。そんな難しい論文なの?」
「難しい?」
 意外なことを言われた、という風にナルは目を上げた。
「それは、他の人間には不可能だろうが……」
「あんたには朝飯前ってか。そりゃあそうですね、だったらあんまり無理しないのっ」
「麻衣には関係ない」
「関係ない? じゃあ、自分でちゃんと健康管理してね。リンさんも怒らせないように、お願いね」
「お前に強制されることか」
「じゃあ誰が言うのよ? ナルが倒れたら誰がオフィス管理したりナルの面倒見たり、お客さんに謝ったりしなきゃいけないと思ってるの? リンさんとあたし、でしょ? リンさんが怒るのも当たり前だよ?」
 ナルは憮然として口をつぐんだ。こういうところが専門バカの困ったところであり、子供っぽいところだ。
 だが、なんにしろ多少調子が戻ってきたようである。
「最低六時間は寝てね。それから、昼と夜だけでもいいからご飯はきちんと食べて。作る手間が惜しいなら手伝いに行くけど」
「構うな」
「言うと思った。じゃあ、自分でちゃんとしてね」
「……」
 ナルは苦虫を噛み潰したような顔になる。子供扱いされて腹を立てているのだろうが、下手な反論は逆手に取られるだけだと分かっているのだろう。
「今日、夕ご飯は」
 わずかに間があった。もうすぐ夕飯時だと考えていなかったのだろう。
「……食べに行く」
「……一緒に行こう」
 有無を言わせず麻衣は言った。このままでは何を言ってもムダだ。絶対に食べないし、寝ない。
「食べに行く、と言ってるだろう」
「ここで引き下がったら、あんたは忘れてたとか言って夕飯を抜く。目に見えてる」
「食べる。……たぶんな」
「一時間たったら忘れてる。違う?」
 ナルは目をそらす。
「仕事道具持ってきていいから。食べさえすれば邪魔しない。それでどう?」
 沈黙の後、ナルはあきらめたように深いため息をついた。


 一方、滝川はリンと共に近くの時間貸し駐車場に向かっていた。
 滝川にしろリンにしろ、運転免許を持っている。SPRでどこかに遠出するときには二人のうちどちらか、あるいは両方が運転手を勤めるのが慣例となっている。二人が運転にかなり慣れているからだ。
 だがオフィスは渋谷のど真ん中、渋谷というのは車を止めるスペースに欠ける場所である。そこにあるオフィスも、駐車場完備とはいかない。昼間ふらっと遊びに来るだけの滝川は有料駐車場に停めておくからともかく、一日中そこにいるリンが車で出勤していることは珍しかった。遠出の準備なのだろう。
「用事ってのは仕事なのか?」
「いえ、知り合いの法事です」
「ああ、盆だからな」
「法事自体は明日ですから、少しくらい遅れても構わなかったのですが」
「ナル坊にゃいい薬だ」
「ええ」
 先の喧嘩のことがあってわざわざ時間通りに出てきたというわけだろう。いつもなら遅らせられる用事は遅らせて仕事をする男だ。
 リンは軽く袖をまくり、腕時計を見た。
「滝川さんは、車は」
「いや、今日は電車。悪いね、送るって言って出てきたのにアシもなくって」
「なら、私が近くまで送りましょう」
 言って、リンは軽く笑った。
 滝川はおどけて眉をあげて見せる。
「そういうセリフは女に言わないと意味がないぜ」
「覚えておきましょう」
 オフィスにいるときとはまた違い、大人の顔をしたリンがそこにいる。滝川もしかり、だ。平均年齢の低いあのオフィスでは出せない顔がお互いに二人の間では出せる。
「甲斐性ナシはもてないからなー」
「女性に言われましたね」
 リンの断定口調に、滝川は唇と眉を器用に歪めて見せた。
「それはもう」
「送るという気持ちだけではいけないものですか」
「いかんでしょ」
 二人は駐車場の近くの角を曲がる。
「『送る』、って言うのは善良な男。『送るよ』と言ってBMWなぞ見せびらかすのはボンボン。『送る』って言っておきながら、NSXでさりげなくバーあたりに連れて行くのは臆面のない男。どれがもてる」
「うがったところで、金のある人間、ですね」
「そうくるか。事実かもしれんが」
 オープンになっている駐車場に彼らは入っていった。入り口近くに停めてあるシルバーのバンがリンの車だ。
 運転席のドアを開けたリンが、内側のボタンを操作してキーロックを外す。滝川は慣れた様子で助手席に乗り込んだ。
「いつもながらこの車渋いな」
 けして車が嫌いではない滝川は、レトロな雰囲気を漂わせる車内を満足げに見回した。三十年ほど前にデザインされたスポーツカー、スカイラインGTXハコスカ。プレミアのついた車だ。
「それでも、声をかけないよりはましでしょう」
 シートベルトをしながら、リンは途切れた話題を続ける。多少意外に思いながら、滝川もシートベルトをつけ、話に応じた。
「そうでもないぜ。もてるもてないを言うなら、『いい人』よりひどい男が選ばれるもんだ」
「そうですか?」
「ナルを見ろ。声をかけないどころか、嫌味しか言わん。普通の女の子がこういうのをなんて言うと思う」
「さあ」
「クールだとさ」
 実際ナルが女性の目をひきつけるのは確かなので、リンは苦笑した。滝川はそんなリンの様子を横目でうかがって口元で笑う。
「世知辛い世の中だ」
「さぐりですか」
 滝川は肩をすくめた。
「性分でね」
 わざとナルの事を持ち出したのだと、リンは気付いているようだった。意図を汲み取ってもらえれば、それはそれで話が早い。
 滝川は表情を気取らせないリンの横顔を見た。
「愚痴の相手くらいにはなるかもしれんぞ」
 キーを入れてエンジンをかけながら、リンはため息をついた。
「それでは、バーとは行きませんがゆっくりできる場所に連れて行きましょうか。NSXではありませんが、ハコスカでは役不足ですか?」
「充分だ」
 リンは滝川との会話に目元をなごませ、車を発進させた。








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