〜第一章 人間たち |
2、 一時間ほどのち、麻衣はナルを食事に連れ出すことに成功した。 ナルは道玄坂の人ごみを歩く間も本から目を離さなかった。彼の美貌に道ゆく人々が振り向いて行くのも、風がないでいくくらいにしか感じていないらしい。手に持った本と、前を歩く麻衣の足取りだけを追って人ごみをすり抜けているようだった。 (危ないなぁ) 麻衣は仕事魔のナルをちらちらと振りかえる。 特にあぶなかしい足取りではないが……。 食事さえすれば仕事をしていてもいいと言った手前、とがめだてするわけにもいかない。ただ少し彼に注意を払いながら歩いた。 世間話に付き合ってくれることは始めから期待していない。 美青年と連れ立って歩いている麻衣の上にも、人々の好奇と羨望の視線が振りかかる。その気分のよさに、麻衣はこっそり笑った。 役得だ。 「そのしまりのない口はどうにかならないのか」 麻衣はびくっとした。嫌なところだけ見ている。 「ちょっと笑っただけだもん」 「馬鹿に見えるから、やめておけ」 「いっやみーっ!」 「もちろん、嫌味ですよ。馬鹿をつれて歩いてるなんて、僕が恥ずかしい」 「連れて? 今の状態を見ると、連れられて、の方が正しいんじゃない?」 皮肉った途端、ナルはすさまじい目つきで麻衣をにらんだ。 怒るくらいなら人に迷惑をかけずに歩け、とはもちろん口に出さない。 「なーんちゃって。人を馬鹿扱いした仕返しだよっ」 ごまかすと、さすがにナルも大人げなく突っ込んできたりはしなかった。 少し歩いて適当な店を選ぶ。ナルは特に反対も賛成もせず入っていった。どんな店だろうと興味はないのだろう。 付き合いが長くなれば、上司と部下であれそれなりの行き来ができてくる。最近では夕食を共にすることも珍しくない。理由の九割は、ナルを放っておくとまともな食事をしないからだ。 麻衣が選んだ店は、道玄坂の途中にある落ちついた雰囲気の洋食屋だった。ナルはやかましいのが嫌いだし、菜食主義というやっかいな好みの持ち主なので、下手なところは選べない。幸い、その店は看板から判断した通りのシックな空気を持っていた。 黒に近い茶色の色調でまとめられた店内には、黄土色のクロスがかかったテーブルが両手の数ほど。まだ本格的な夕食時には少し早いのか、空いているとは言わずともけして混んではいなかった。 テーブルに案内され、注文を済ませる。その間もナルは本を読みふけっていて、オーダーも任せたと一言言っておしまいだった。 テーブルについてしまうと、麻衣は時間を持て余してしまった。自分も何かひまをつぶせるものを持って来るべきだったと思ったが、あとのまつりだ。 じりじりしていると料理が来て、やっと間が持つ。 宣言どおり本をめくっているナルをぼーっと見ながら料理を口に運び、麻衣はふと思いついて彼に声をかけた。 「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」 「なに」 露骨にうっとおしそうだが、一応返答があった。 「今日、なんでジーンは出て来れたんだろう」 ナルは少し目を上げた。 「呼び出したんじゃないのか?」 「あ、聞こえてた?」 「ぼーさんの読経が聞こえた」 読経をあげた滝川は、軟派な外見に似合わず高野山出の坊主である。それでオフィスでは彼をぼーさんと呼称していた。 「うん。でも、ぼーさんもほんとに呼べるとは思ってなかったみたいだった」 「ふうん」 「特にジーンを呼んだってわけでもないし。お盆だからそれっぽくしてみただけ、っていう風に見えたよ」 「誰もジーンを呼ぼうとは思ってなかったのか?」 「うーん、そりゃああたしはちょっと来てくれたらいいなぁと思ってたけど。でもさ、いつも調査のときにしか出て来れないって言ってるじゃない。あたしがいくら会いたいなって思っても、今まで会えたことなんかないんだよね」 ナルは少し冷めた目をして何かを言いかけたが、結局やめて少し考える素振りを見せた。 ユージン・デイビスは数年前にこの世を去った。しかし、あの世には行っていない。この世とあの世の間、中有という場所にとどまっているのだ。そして、調査中になると麻衣の前に現れ、いろいろと助言をしてくれる。 彼に恋していたこともある麻衣としては、できれば調査中以外も会いたいと思う。調査中はいつも周り中危険だらけな上、上司がうるさくてのんびりもできない。だが、その願いがかなったことは一度もない。 ナルは読んでいた本にしおりを挟んでパタンと閉じてしまった。どうも麻衣の話が多少の興味をひいたらしい。 「どうやって呼んだ」 「知らない。いろんな呪文言って」 「儀式の内容を、具体的に」 「えーっとね……」 麻衣は、考え考え昼間見た儀式の動作をナルに伝えた。あくまで素人の麻衣が見たものだから、砂のようなものを入れた鉢が、とか鐘みたいなものを叩いて、とかどうしても要領が悪い。 だが、ナルはそういうことに文句は言わなかった。黙って最後まで聞き、首をかしげる。 「本式だが、特に変わったことはしていないようだな」 「本式なの?」 「迎え火だね」 「お盆にご先祖様の霊を呼ぶってやつ? でもジーンは誰のご先祖様でもないよ?」 「……お盆の風習というのは、子孫が先祖供養をしようという気持ちから来るものだから。ジーンは誰の先祖というわけでもないが、中には家族くらいに思いやっている人間もいるんじゃないか」 妙に含みのある言葉に、麻衣は首をかしげた。麻衣に言われているように思うが、やけに冷たい口調だ。 ナルは麻衣がナルの言葉を理解しなかったと思ったのか、そのまま話を続けた。 「霊能力があるわけでもない一般人が先祖を呼べるのは、お盆でたまたまさまよい出した霊を、火をたいて場所を示し、家に呼びこんでやるからだ。始めからさまよっているジーンを誰かがあそこに呼びこんだんだろう」 「ねえ、それって、ほんとにできるの?」 「何が」 「迎え火。お盆にご先祖様を呼べるって、ほんとなのかな」 ナルは肩をすくめた。 「さあ。その手の儀式は民間信仰として山とあるからな。根拠はないけど」 「そういう信仰って、嘘なの?」 「嘘とは言わない。だが、根拠もない。宗教はある程度どれもそうだが」 「キリスト教とかも?」 「普及してればいいというものじゃない」 麻衣は少し考えてナルに目をやった。 「でも、たとえばぼーさんやジョンはキリスト教や仏教の方法で除霊してるんだよね。それはうまくいくじゃない。それって、ぼーさんたちの信じてるものがほんとのこと言ってるってことじゃないの?」 ナルは澄んだ目で麻衣を見返す。 「なら、麻衣は?」 「は?」 「麻衣は、浄霊や除霊にぼーさんのスタイルとジーンのスタイルを合わせて使ってるな。ぼーさんは仏教徒で、ジーンは自己流だ。お前は仏教の教義を知っているか?」 「いや、全然」 「それで形だけ真似て、どうして効果があると思う?」 「えーっ?」 麻衣は顔をしかめる。 麻衣はもともとまったくの素人である。それが、渋谷サイキックリサーチに勤めるようになってから潜在的サイキックであると判明した。現在では、戦力とまではいかずとも霊能者の一人として扱われている。 麻衣にできるのは、霊の姿を見、声を聞くこと。そしてごく簡単な除霊だ。このうち、霊とのコンタクトを指導してくれたのは優秀な霊媒であったジーンである。そして除霊は滝川から教わった密教式だ。 仏教のスタイルを使っているからには、何かしらの神に何かを祈って効果が現れているのだろうと思う。だが、麻衣は自分の言っている言葉が何を祈るものなのか知らない。誰に向かって祈っているのかも知らない。 ナルは少し首をかしげた。 「そうだな……麻衣は、なぜその方法を使う?」 「え、どうしてって、そう教えてもらったから。ちゃんと根拠だってあるんでしょ?」 「それはどういう根拠だ?」 う、と麻衣はつまった。説明しろと言われると怖い。ナルは専門家なのだ。 「その……トランス状態に入る方法はジーンがいつもやってたやり方だから。ジーンは有能な霊媒だったんだよね。実際、いつもこれでうまくできるし」 「それのどこが根拠なんだ? ジーンがその方法でやって成功していたのは伝聞だろう。裏づけはあるのか?」 「えー、でもナルが言ったんだよ。夢で霊視をするのには根拠があるとも言ってたしー」 「僕の説は正しいか? お前は睡眠下で発生するASCという状態が本当にあると思っているのか? ASCはトランス状態の脳波状態に似ていると言うが、トランス状態において霊視が可能になるというのを、なぜ信じる?」 「えっ? ええっ? だって実績が……。ナルはデータに基いたことしか言わないし……」 「僕が初めから嘘をついていたとしたら? あるいは僕のデータ解析能力が、お前が思うよりずっと低かったとしたら?」 「……頭混乱してきた」 ナルは肩をすくめた。 「お前は人から聞いた方法で霊視ができることを信じている。お前が夢でしか霊視できないと、誰が証明した? なぜそれを信じるんだ?」 「ナルとか、ぼーさんとか、ジーンを信じてるから……?」 「論理的分析、実績、世界的機関での研究。僕らの言うことにはこれらの裏づけがあると判断しているんだろう。信頼といってもいい。大げさに言えば、一種の信仰かな。神が力を貸してくれると言われるより、実績があると言われた方が納得できるんじゃないか? 麻衣には僕たちが保証した以上の力があり、トランス状態に入らなくてもそれを使えるかもしれないが、疑ってもいない」 「だって、あたしはみんなの言うことが本当だって判断したんだし」 「うん。そして、ぼーさんたちも自分の宗教を信頼に足ると判断した」 「あ……! そっかあ」 「わかったか?」 「うん、要するに、『こうすればできる』って信じるからうまく力が出せるんだ? やみくもに力があるだけじゃ、どうしていいかわかんなくて何もできないもんね」 「まあ、そう思っておけばいい」 ナルはフォークを置き、食後の紅茶に手を伸ばした。 「今回の迎え火にしても、方法自体に特別なものがあったわけじゃないんだろう。火をたくことに意味があるのではなく、手続きを踏むことに意味がある。『これは霊を呼ぶ行為』という共通の認識が、術者傍観者、聞こえているとしたら霊の方にもなされる」 「じゃあ今回は、あたしたち三人の誰かにジーンを呼び出す力があったんだ?」 「ぼーさんの読経は事務所以外にも聞こえていた。僕と、リンと、それから事務所の外を通った不特定の誰か。多少範囲は広いな。あるいはジーンが勝手に聞きつけたか」 「ふうん……」 麻衣もナイフとフォークを置いた。 長話をしているうちに、料理を食べ終わってしまった。ナルもいつの間にか自分の皿を食べ終えている。 麻衣は特に何かを飲む気もなかったので、話の続きで身を乗り出した。 「ねえ、じゃあまた同じメンバーで同じ事をやったら、これからは調査中じゃなくてもジーンに会えたりするのかな?」 思わず勢い込んでしまった。 ジーンは、麻衣の初恋の人だ。 彼が浮遊霊となってさまよっていることを知らず、自分に霊視の能力があることも知らず、霊体のジーンに出会って恋をした。生きている彼に会ったことは一度もない。 会いたいと思ったときに会えず、手を伸ばすこともできない行き先不明の恋だった。 三年という年月が流れ、今はジーンへの気持ちは恋でないにしろ、好きであることに変わりはない。できるものなら会って話をしたいと思う、それは普通のことだろう。 それなのにジーンはSPRのメンバーが調査をしているときにふらりと予告もなく麻衣の夢に現れるだけで、その他のときには影すら見せないのが普通だった。 またこんな風に会いたい、会って他愛もない話をしたい、と麻衣は意気込んだ。 しかしナルは、先ほどと同じ、ひどく冷たい目をした。 「死んだ人間を叩き起こして、また会えるかとはずいぶんな話だな」 麻衣はナルの冷たい目の意味を悟った。 確かに、不謹慎だ。冥福を祈ってあげるべきなのだと思う。 それで先ほどからナルは麻衣を軽蔑したような顔をしていたのだ。 『お前が呼び出したんだろう』と、そう思っていたのだ。 「……確かにそうだけど。でも、ジーンはまだ確かにいるんだよ。好きな人がそこにいるなら会いたいって思うよ」 「エゴイストの言い分だな」 「ナルみたいに理屈だけで割り切られちゃうより、亡くなった人だって気分がいいんじゃないの?」 「そういう勝手な意見は死んでみてから言え」 「勝手かもしれないけど、」 「かも?」 「勝手だけど! だけどあたしが死んだとき、『まあ仕方ないな』ってあきらめられちゃうより、会いたいって言ってほしいよ。死んじゃったんだからもういいや、って済ませられちゃうのやだよ。好きなら会いたくなると思う。それを会えなくていいって言うのって、好きじゃないみたいで、嫌だよ」 「好きな気持ちのためなら何をしてもいい? どうして女性はそう考えるのかな」 「関係ないでしょ!」 麻衣は思わず声を荒げた。 ナルの言うことも正しいとは思う。だが、麻衣はむかむかと腹が立ってくるのを感じた。ジーンはナルの双子の兄だ。ナルが率先してその死を悔やみ、会いたいといってあげてもいいはずなのだ。 (今日だって、せっかく会えたのにいきなり機材なんか持ち出すから話もできなかったじゃない!) 相変わらずだね、と苦笑したジーンがかわいそうだ。 「……今日、命日だって覚えてる?」 「ジーンが死んだのは冬だ」 正確にはそうだった。はっきりした日付が分からないため、遺体が発見された日を命日としているのだ。 「そうやって、全部終わったことにしちゃうわけ?」 「終わったことだ。……こう言ってやろうか? 仕方ないことだ」 麻衣は瞬間言葉を失った。 冷たいやつだと知っていた。 だが、ただ一人の兄弟に対してくらい人間らしい情の一つも持っているだろうと思っていたのだ。いや、期待していた、のかもしれない。 「死んだ人間にいつまでこだわっている。生きてればよかったと言い続けるつもりか」 ナルはなんでもないことのように伝票を持って立ち上がった。 「気が済んだか? 出るぞ」 大声を上げた麻衣に、店内の人間が好奇の視線を投げてきていた。 そんなことは気にならないほどくやしくて、麻衣は唇をかみしめた。 ある程度の仕事をこなした後、渋谷駅から電車に乗ってナルはマンションへの帰路についた。 当初、客死したジーンの死体を捜しに来日したときは一年半もの間ホテルに滞在していた。だが、ナルは日本での仕事が気に入り、本国のSPR本部に許可を得て、本格的に腰をすえ本業である論文執筆に励むことになった。 今度こそ長期の滞在になることを考え、マンションを借りることを提案したのはイギリスでも同僚であるリンだ。リンは、ナルのとなりの部屋に落ちつき、何かとナルの生活を助けている。 駅から十分程度の道のりを歩き、こぎれいなマンションのオートロックを開けて自室にたどり着く。 左隣の扉がリンの部屋だが、今はリンが出かけているため誰もいないはずだ。二、三日後には出勤すると言っていた。 リンのことを考えると、自然にため息がもれる。彼の心配は鬱陶しいばかりだが、リンがいないと自分の生活に響くのも事実である。ちょっとした雑用にも自らの手をわずらわせねばならない。 それは麻衣も同じだ。 彼らの好意とやらは押し付けがましく迷惑だが、それがなくなると無償で行われていた諸々の手伝いを失うことになる。彼らをつなぎとめるための努力など、不本意極まりない。いずれ彼らは愛想を尽かし、有能な部下と便利な下働きを失うことになるのだろう。 それら何もかもが億劫で仕方ない。 こういった面倒は、本来ジーンがすべて担っていたことだ。彼はこの手の手間を手間と思わない人間だった。重宝していた。 鍵を開けて部屋に入ると、ナルはリビングの電気をつけてすぐにバスルームに向かった。 イギリス育ちのナルにとって日本の夏は厳しい。 イギリスでの最高気温が日本の平均気温程度なのだから、やっていられない。汗をかきにくい体質のため周囲の人間には暑くないのかなどと言われるが、実際には汗で熱を発散させられない分余計に応えるのだ。帰ってきてシャワーを浴びるのは日課になっていた。 このマンションのバスルームはユニットバスになっている。日本式のバスルームには慣れないので、わざわざユニットバスの部屋を選んだ。 軽くシャワーを浴び、洗面台の前に出る。 バスタブと続きになっているので、洗面台の鏡面は水滴で真っ白に曇り、ナルの姿を映してはいなかった。 持ちこんでおいた寝巻きに着替え、軽く髪をぬぐう。 細かい水滴で霧を吹いたようになった鏡に、ナルは何気なく手を伸ばす。そこを指先でぬぐおうとして……動きを止めた。 磁石に砂が吸い寄せられるように、鏡をまんべんなく覆った水滴が指先へ集まっていく。 ナルは注意深く指を鏡に近づけた。 距離が縮まるごとに、少し、また少しと水滴は集まって、そしてどこぞへ消えていく。鏡の下に滴ることもなく霧が晴れ、鏡面がクリアになる。 鏡を鋭く見つめるナルの姿もまた、それにともなってあらわになっていった。 ――…ポタリ。 最後の曇りが消えたとき、ごくわずかな水滴がナルの指先にふれて洗面台に落ちた。思わず、そちらに目が向く。 後一mmもなかった指と鏡との距離が消えた。 予想された固い感触は、なかった。 ナルは呼吸を整え、目を細めた。 指が、あらぬ方向に曲がっている。 いや……鏡の中の手が鏡面を飛び越えてこちらに突き出し、鏡に差し伸べたナルの手と交差しているのだ。 ありえないもうひとつの手が、ナルのほうへ――すでにナルの意思と関わりなく伸びてくる。 鏡の中に差し入れた形のナルの手は、中指の第一関節分中に吸い込まれたところから動いていない。ただうつつに進入してきたもうひとつの手だけが、ゆっくりとゆっくりと、ナルのほうに伸びてくる。 その鈍い動きを、ナルはただ呼吸を数えて見ていた。 手を引けばいいのかもしれない。だが、興味が先立った。 爪の形まで見えるほどに近づいた手は、吸い付くようにナルの首に絡んだ。 まるで片手で首をしめるように。 「僕が死んだのは仕方ないことだって?」 まるで自らの口が勝手にしゃべりだしたような、声。 ナルが目をやった鏡の中で、自分の顔としか見えないモノがナルをじっと見つめていた。 その瞳は暗く深く、ナル自身の瞳に似てひどく表情を隠す。 「――ジーン」 早世した双子の兄の名を呼ぶ。 ソレは、今にも力を入れて殺すことができそうな形に指をからみつかせたまま、やんわりと笑った。 「君は、自分が死んでも仕方ないって言えるかな……?」 ナルは静かな脅迫を呟く鏡の中の兄を見た。 「……つくづく、麻衣とお前は似ているな。お前も、相変わらず成長しない馬鹿だ」 「この状況で憎まれ口をきく君も、相変わらずで嬉しいよ」 長い指が蛇のようにナルの首をしめた。 ぐっと息が詰まる。 「――なんちゃって」 あっさり、指から力が抜けた。苦しい、と思うより早かった。 「ジーン?」 「嘘、嘘。怒らないでよ、ちょっと言ってみたかっただけなんだから」 ナルは深いため息を吐く。安心したわけではない。呆れたのだ。 「……馬鹿」 「だってナルがひどい言い方してるからさ、つい。ナル、あの言い方はない。麻衣に明日謝りなよ」 死んでまで説教をする兄に、ナルは心底うんざりした。 「断る」 「あっ、この頑固者。ちょっとは言い過ぎたと思ってるだろ?」 「なぜ? 馬鹿に、自分が馬鹿だと自覚を促してやったんだ。感謝してほしいくらいだね」 「ダメ。間違ったこと言ってなくても、人を傷つけるような言い方はよくない」 ナルは二度目のため息をつく。 「そんなくだらないことを気にしているひまがあったら、さっさと成仏する方法でも考えろ」 「はーいはい。わかったわかった」 ちっとも分かっていない風でジーンは受け流す。 「一体、なぜ出てこれた?」 この疑問にジーンは答えない。 「あーあ、僕また眠くなっちゃった。じゃあね、ナル、おやすみ」 ナルは苦笑した。変わりもせず、脳天気な幽霊だ。 「……ああ」 ジーンは微笑む。瞬きする間があり、そして鏡は元に戻っていた。 ナルは自分の映る鏡をしげしげと見つめる。 曇りが晴れているのは先ほどの怪異の証拠か、あるいは単に時間の経過のためか。どっちにしろデータが残っていないのだから探るだけ無駄だ。 今のが幻覚なのか、それともジーンが起こした空間の歪みだったのか、確かめるすべはない。データの残らない怪異に、しかも再発がのぞめないものに執着しても仕方ない。ナルは肩をすくめ、バスルームを出た。 (お前が生きていれば) 彼と二人、それなりのバランスで生きていた世界はもうこの世にない。 ナルを取り巻くのは、億劫なばかりの現実だった。 明かりが消えたバスルームは、光の入る窓もなく闇に満ちている。 見えない暗闇の中でバスタブを濡らした水がゆっくりと排水溝に流れていくだけだ。 ふいに、ドアが開くように暗闇の中に光が差した。 ナルが戻ってきたわけではない。閉まったドアは動く気配もなかった。 鏡の中に弱い光が生じ、それが光源となってぼんやりと周囲を照らしていた。 そのゆるい発光の中、誰の耳にも届かないほど小さな声が独り呟く。 「君の抱える孤独をね……分かりにくいかもしれないけど、僕は分かるつもりだよ。麻衣にも、きっと分かると思うんだけどね……」 ただ一面の暗闇と、わずかな光。 そこに言葉を発する誰の姿もない。 (話し込んでしまった) リンは珍しい自分の失態にあきれながら、車を飛ばしていた。 滝川は人なれしていて、話を引き出すのがうまい。言葉の通じないナルとの言い合いに疲れ気味だったリンは、常になく饒舌になって話を長引かせてしまった。 滝川と店を出た時点で当初の予定通り現地に到着するのは不可能になっていた。先方には電話を入れて遅くなる旨を伝えてある。向こうは知り合いの遺族の家なので、六時到着が九時や十時になったところで大して困らない。ただ、途中の山道を通るのに辺りが暗くなってしまうのは少々困りものだった。 リンは右目が不自由だ。 不自由と言ってもまったく見えないわけではなく、可視光線以外のものを見てしまう青眼といわれる特殊な目なのだ。普通の目である左目と合わせて見ていると逆に視界が一致しなくて混乱を招いてしまう。それで、右目は前髪を長くして視界を塞いでいた。 電灯の少ない(場所によってはまったく明かりがない)山道を走っていくには少々不自由だった。 少しずつ暗くなっていく空に、リンはハンドルを握りながらため息をついてアクセルを踏み込んだ。 道が有料道路に入り、車の数がぐっと少なくなる。 周りは土壁か林という細い道が、山の周囲をまわってぐるぐるとしつこく回転する。普通なら低速を強いられる場所だが、早いうちにそこを抜けるため、リンは遅くもないスピードを出して道を駆け抜けた。 有料道路をも抜け、国道に入る。 山道に入って一時間ほども経っただろうか。 (案外長いな) そろそろ平地に出てもいい時間になっていた。 リンは横目でスピードメーターを確認する。 特別出し過ぎでもないが、けして遅くはないスピードが出ている。予定通りのスピードだ。もう山を抜けてもいいはずだった。 フロントガラスの向こうには、山と、山間を掠める夕闇だけが見えている。視界には常に数台の車が見えていたが、リンが他の車よりスピードを上げているため、矢継ぎ早に追い越してきてしまって今はちょうど誰もいない。 夕日の残滓だけがかすかに赤かった。 (逢魔が刻、だ) 夜は魔物の世界、それで人は昔から夕暮れ時を逢魔が刻と呼んだ。魔の者と出会う時間だ。 リンは少し目を細めた。休日とはいえ、都会から帰ってくる車はもっと多くてもいいはずだった。 (やけに車が少ない) この先のどこかで本線が通行止めにでもなっているのだろうか、それで地元の人間はこの道を避けて通っているのではないか、そんな考えが浮かんでリンは顔をしかめた。今のリンには魔物よりそれがよっぽど怖い。 本当に他の車はいないのか。 にわかに不安にかられたリンは、ミラーと前方を確認した。 あまりに車の影がない。 後方にも、前方にも。ただ国道の広い道とそれを囲むような山が続いているだけだ。山を抜ける気配もなく、誰かが走ってくるライトも見えない。 (いくらなんでも、おかしい) ここは国道で、交通の便のよい場所なのだ。道を間違えたのだろうか? さらにリンは辺りを見まわした。 そうして、前方から目を離した瞬間だった。 白く小さいものが視界の端、ヘッドライトの明かりの中に飛び出してきた。 (――猫?) 余裕を持って避ける距離はない。 大きくハンドルを切る。対向車がいないのを幸い、反対車線に車ごと突っ込む勢いで態勢を変えた。 キィィィ……ッ! 軽くスピンして山側に鼻先を向ける車に体を振り回されながら、リンは唇をかんだ。 避けきれたか? 異物を巻き込んだ感触はない。だが、近すぎた。 気を抜いた己を罵倒しながらハンドルを操り、林に激突するのを防ごうとする。頭が目の前に集中し、エンジン音とブレーキ音が耳を支配した。 (停められる) ほっと息をつきかけた時。 車の頭を向けた林と道路の際、夕闇に静まり返ったそこに、横に滑っていった自らのヘッドライトが人影を映し出した。 驚きに瞬間冷静な判断力を奪われたリンの視界の中、先ほどの白い小動物を抱え上げるためにかがんだ人間が、突如自分に向けられた強い発光にはっと顔を上げる。 幼い少女だった。 (なぜ、こんなところに、こんな時間に、少女が) 目を見開いた少女が、白いものを抱いてさっと立ち上がる。 それを避けるためにもう一度リンはハンドルを切り――… そして、暗闇になった。 |