She loves stuffed baby
   〜第二章 ぬいぐるみ



1、

 夏休みの渋谷は、人であふれかえっている。
 一体どこからわいて出てきたのだろうと不思議に思うくらいの、人の洪水。遠い街からわざわざ出てきているものもいるのだろう。たくさんの人々が毎日集い、毎日家に帰ってはまた顔ぶれを変えて集まる。
 そんな中を原真砂子はため息をつきながら歩いていた。
 人混みはけして好きではない。小柄だから歩きにくいし、芸能人という職業柄むやみに注目を受けあちらこちらでうわさされる。霊能力と、着物におかっぱの時代錯誤なスタイルがマッチしてよく覚えられてしまうのだろう。
 どうしてこんな場所に彼らはオフィスを構えるのか。
 面倒に思うが、それでも会いに行こうと思ってしまうのだから仕方ない。渋谷サイキックリサーチには彼女以外の霊能者がいる。特別扱いされず、奇妙にも思われない。それがとても心地よかった。
 東京の暑さの中着物姿は苦しかったが、今更楽な格好をしようとも思えない。しかし、人目を気にする癖がついておおっぴらに汗を拭いながら歩くこともできない。夕暮れを迎えて気温が下がりつつあるのが唯一の救いだ。真砂子は表面上平気な顔をしながら人並みの道玄坂を上っていた。
 もう少しでクーラーのきいたオフィスに逃げ込むことができる。
「渋谷サイキックリサーチっていう事務所を知らない?」
 そんな声が耳に飛び込んできたのは、長い坂を半分ほど上ったところだった。
 真砂子は、なんとなくその声がした方を振り向く。
「道玄坂の上の方だって聞いたのよ。でもここってお店が多すぎるわ」
 サラリーマンらしき男を捕まえてつけつけと言っているのは、まだ小学校も低学年くらいの少女だった。白いワンピースが、夕焼けに赤く染まっている。普通ならこんな時間に一人で渋谷を歩くような年齢ではない。
 少し迷ったものの、結局彼らの話に口を出すことにする。普通の社会人だったら放っておいたのだが、子供を無視していくのは気が引けた。
「渋谷サイキックリサーチでしたら、存じてますわよ」
 男と少女が同時に真砂子を振り返る。
「これからうかがうところですから、ついでにご案内してさしあげますけど?」
「本当?」
 少女がいらだったような顔をぱっと明るくした。
 近くで見ると、かなり整った顔をした少女だった。きつそうな顔立ちではあるが、それもはきはきした物言いによく合っている。芸能界できれいな顔を見慣れている真砂子の審美眼は確かだった。
「それならもういいわ、おじさん。じゃあね」
 今まで困らせていた男をあっさり放し、礼も言わずに少女は真砂子に向き直る。分からない質問を浴びせられた男も災難だ。
「おばさんも渋谷サイキックリサーチの客?」
「あら、おばさんと言うのはどなたかしら?」
「あなたよ、おばさん」
「どなた?」
 真砂子はつんと目をそらして歩き始める。見捨てておけばよかったかもしれないと思ったが、もう仕方ない。
 少女はちょこちょこと後をついてきた。
「いやね、おばさんは自分がおばさんだってことを認めたがらなくて。ねー、うさぎ」
 誰か他の人間に話しかけたような口振りだったので、真砂子はちらりと少女を振り向く。彼女は白いうさぎのぬいぐるみをしっかりと抱えていた。
 その黒いまんまるな瞳を見た時、真砂子は思わず足を止めた。
「あたっ。何んすんのよ、いきなり止まんないで」
 真砂子の帯に激突した少女が文句をつける。
「あなた、そのぬいぐるみは?」
 真砂子はかまわずにぬいぐるみを見つめた。
「え?」
「そのぬいぐるみは、どうしましたの?」
「どうって……何よ、それがおばさんに何の関係があるの」
「ゆがんだ気を、感じますわ。それ、あなたのですの?」
 少女の大きな目が一瞬表情をなくした。驚いたようにも見えたし、真砂子を気味悪がっているようにも見えた。
 真砂子が言葉を続けようとしたとき、彼女は大げさに悲鳴を上げてぬいぐるみを放り出した。
「ええっ!? うそぉ!?」
 白いぬいぐるみは人の間を縫ってころころと転がり、歩道に寝ころんで空を仰ぐ。
「うわ、やだやだ。気持ち悪ーい」
 真砂子は黙って彼女から離れる。かがみ込み、ぬいぐるみを腕に拾い上げた。
「……何してんの!?」
「持って参りますわ。オフィスに行けばなんとかできるかもしれませんし。あなたのものではないんですの?」
 少女はゆっくり首を振る。
「さっき駅で拾ったのよ」
「どこで?」
「……電車の中」
 そう、と真砂子はうなずいた。オフィスに持っていってナルに見てもらえばいいだろう。滝川かジョンがいれば祓ってもらうこともできる。異常だと分かっているものを人混みに置き去りにしていくわけにはいかなかった。
「じゃあ行きましょうか」
 真砂子はぬいぐるみを抱えて歩き出す。
「……おばさん、霊能者?」
 少女がそっと聞くのに、真砂子は答えなかった。黙秘であったが、それは同時に肯定をも含んでいた。


 真砂子がSPRへ涼みに向かっている頃、オフィスの中では綾子とジョンが大変涼しい思いをしていた。
「アルバイトの谷山さん。お茶を、大至急」
「いれてますよッ」
 ナルがお茶を所望しに所長室から出てきて、ソファに座ってしまったのだ。
 彼が出てきた時点で麻衣はさっさとお茶を入れに立っていたのだが(所長室から出てきた彼が「お茶」と麻衣に命令するのはあまりにもいつものことだった)、ナルの機嫌は相当悪いらしく、冷え冷えとした空気がただよっている。
 紅茶には抽出時間というものがあるのだ。茶葉からいれろと注文をつけるならそのくらい考慮してやればいいのにと誰もが思うが、機嫌が悪いナルに何を言っても無駄である。
「今日のお茶はセイロンティーですー。セイロンは茶葉が大きいので、抽出時間は四分程度ー。お湯を沸かすにも時間がかかるんですよ、所長」
 給湯室から顔だけ出した麻衣が、嫌味たっぷりに解説する。
「それが? 紅茶のいれ方に、僕がなにか関係でも?」
「あんたがあたしに『お茶』って言ったのは何秒前よ!? そんなすぐに入らないの!」
「ああ、そう。なら時計をよく見ていてください」
(何様だッ! ナル様かあ!? くそう、そうだよどうせあたしはあんたの部下だよッ)
 足音も高く給湯室へ戻りかけ、麻衣はふと立ち止まった。
「そういえばリンさんはどうしたの?」
 ナルはぺらりと手にした本をめくって答えない。
 代わりに口をはさんだのは綾子だった。
「何、リンがどうかしたの?」
「それがさ、今日来てないんだよ」
「旅行だって聞いたけど?」
「うん。でも、遅くても昨日には帰ってくるはずだったの」
 綾子とジョンは一様に眉をひそめる。
 リンは上司に似て律儀な人間だ。一度口にした約束を連絡もなくたがえるとは思えない。その上仕事を無断欠勤するなど、考えられないことだった。
「それは、心配でおますね……」
「ナル、となりの部屋なんだから見てきてって言ったじゃない」
 全員の注視を受けて、ナルはやっと重い口を開く。
「部下の事情が僕に関係あるのか?」
「あるだろーが!」
「ないね。何かあったのならそう言ってくるだろう」
「だから、言えない状態かもしれないって心配してんでしょ。いいよ、あたしが行く」
「初めからそうしろ。僕の手をわずらわせるな」
 いくらなんでも怒鳴ってやると麻衣が息を吸い込んだ時、オフィスのドアベルが涼やかに鳴った。
「はぁい、いらっしゃいませ!」
 怒鳴るようにして客を迎える。
「こんにちは」
 つんと高い声だった。
 麻衣はきょとんとなる。
 普段オフィスに出入りする客は中年以上の人間が多い。中には中高生もいるが、その声はどう考えても十代前半かそれ以下の女の子の声だったのである。
 麻衣はお茶を放って客の応対に向かう。オフィスの入り口に立っていたのは、やはり小学校低学年くらいの少女だった。短めの髪は色が薄く、真っ白のワンピースがよく似合う。利発そうで愛らしい子だった。
「ご依頼ですか?」
 なぜか、少女は大きくため息をついた。
「バカじゃない? こんな子供がなんで仕事頼んだりすると思うのよ?」
 ぐっと麻衣はつまる。
「その言い方はございませんでしょ」
 ぽこり、と後ろから誰かが少女の頭を軽く叩いた。
「痛いわね!」
「連れてきてさしあげたんですから、おとなしくなさいな」
 澄ましかえった声と共に、夏物の着物を着た女性が姿をあらわす。
 麻衣は瞬いた。
「真砂子。いらっしゃい」
「お邪魔いたします」
 少女は、真砂子にはたかれた頭を大げさにさすりながら舌を出した。
「気取っちゃって、嫌なババア」
「あら、生意気で嫌なガキですこと」
「なによ」
「なんですの?」
「あー、はいはい」
 麻衣は手を叩いて二人の口ゲンカをやめさせた。
「なに? その子、真砂子の知り合い?」
 ソファから上半身だけ振り向いた綾子が首をひねる。
「まさか。こんなこうるさい子供に知り合いはいませんわ」
「あたしだってこんな不親切なババアと知り合いじゃないもんね」
「わかったわかった。それで、どうしたの?」
 麻衣がいさめるように口を出すと、真砂子と少女はお互いにぷいと横を向いた。
「真―砂子。あんた、それじゃ同レベルだよ」
「失礼よっ」
 かみついたのは、少女の方だ。
 真砂子はえもいわれぬ微笑を浮かべる。
「あら、そうですわね。大人として恥ずかしかったですわ。このお嬢さんは、こちらの事務所にご用事のようですので、親切でお連れしましたのよ。それはもう丁重に」
「ウソつきなさいよ、すたすた歩いてたくせにっ。まったく、子供と大人の体のでかさのことも考えられないなんて、……もごっ」
「はーい、黙って」
 麻衣は少女の口をふさいだ。
「もごもごっ、もぐもっ、もごごっ」
「で、この子うちに何の用事なの?」
「さあ。ここを探してたとしか聞きませんでしたわ」
 麻衣は手を離して、少女の顔をのぞき込む。
「どうしたの、お名前は?」
「ぶはっ。だぁからっ! あたしはユキよっ!」
 ユキと名乗った少女は目をつり上げる。
「ユキちゃん?」
「そぉよ。何さ、話も聞かないで。これだからばあさんって嫌なのよ」
 麻衣は大きくため息をついた。
「あのね、ばあさんっていうけど、ユキちゃんもあと十五年もしたら私たちと同い年だよ? おばあさんになっちゃうよ?」
「大丈夫よ、その頃にはばあさんたちは化石になってるから」
「…………か、化石」
「な、なんですって……!?」
「マサコは怒ってばっかり。変な顔」
 真砂子は凍ったが、麻衣は思わず吹き出していた。
 よく口の回る子だ。小生意気だが、微笑ましい。
 ユキは柔らかく笑った麻衣を振り向いた。
「何にやけてんの? ブキミ」
 麻衣も凍った。


 全員にお茶を出し終わって一息つくと、ちゃっかりナルのとなりの席を取った真砂子が、腕に抱えたうさぎのぬいぐるみを机の上に置いた。
 麻衣は首を傾げる。
 真砂子が持つには不似合いな、デフォルメされたかわいらしいぬいぐるみだ。先ほどから気にはなっていた。妙に茶色っぽい染みがついているから古いものなのかもしれない。口元が変な風に裂けているのが目に留まる。まるで指を無理矢理突っ込んだ跡のようだ。
「これがどうしたの?」
「変な気配がするんですの」
 言って、真砂子は嫌そうにぬいぐるみから手を引いた。
「ユキちゃんが持っていたんですけど、なんだかおかしいのであたくしが持たせていただいてました」
「へぇ?」
 一同が首を傾げてその汚れたぬいぐるみをのぞきこんだ。どうやら元は白いうさぎを模したもののようであるが、一見おかしなところはない。ナル以外、ジョンに至るまで興味津々の風情だった。
「だぁめ、アタシが見ても普通のぬいぐるみにしか見えないわ」
 綾子が一番に飽きた。
「あたしもー」
「僕にも、何がなんだか」
 苦笑する面々に、真砂子は肩をすくめた。
「みなさまにはお分かりじゃありませんでしょうけど」
「そりゃアンタにはお分かりでしょうね」
 綾子が顔を引きつらせても真砂子は応えない。ジョンや綾子は能力の方向性が違うから『視る』ことはできない。しかし、綾子に限って言えば方向云々以前に滅多に力を発揮しないのだ。
「霊が憑いている、ということですか?」
 興味なさそうに口を挟んだのは、黙って紅茶をすすっていたナルだ。
 真砂子はいいえ、と少し困ったように首を振った。
「ゆがんでいる、というか……うまく言えないんですけど、そう、ナルがPKを使った時にも同じような感じがしましたわ」
「あ、それわかる。なんかそこだけ空気の流れが違うような感じがするの。こう、何かの力が固まってるような」
「そう、それですわ」
 他の人間は顔を見合わせる。気の流れなどというものを視ることができるのは、真砂子と麻衣だけだ。経験のないものには感覚そのものが分からない。
「あれほど強くはありませんけれど、似たような感じがします。中に力がためられているような感じが」
「ふぅん。わかんないや」
 麻衣はしげしげとうさぎを見る。麻衣の能力は不安定だから、視える時と視えない時がある。
「ねぇ、この子もらっちゃいけないの?」
 短い沈黙を破ってユキが口を出した。
「あら、さっきは気味悪がってましたのに」
「ふんだ、マサコが脅かすからよ。せっかく拾ったんだからやっぱり欲しいな」
 そう言って舌を出すと、ユキはなんとナルに対して甘えたようにねだった。
「ね、お兄さん。あたしがもらっちゃダメ?」
「お兄さんん??」
 あんまりな態度に顔をしかめたのは綾子だ。ナルは憮然とした。
「……このままじゃダメだね」
「じゃ、どうしたらいいの?」
「……ジョン」
 ナルは嫌そうにジョンを見る。
「ハイです」
「なんとかできるか」
「どうですやろ……。憑依霊やったら落とすことはできますけど、正体の分からない力、言いますと……」
「松崎さん」
 ナルは綾子を見る。綾子は顔をしかめた。
「やってもいいけど。はっきり言って自信ないわよ」
「何かの依り代になってるんやったら清めてやったらええかもしれません。どちらかと言うと滝川さんの専門のように思いますけど……」
「試してみるか」
「ハイです」
 ジョンは手を伸ばし、ぬいぐるみを自分の目の前に置いた。ユキが緊張したように見えた。
「天にまします父なる神よ――」
 ポケットから取り出したロザリオを持って、ジョンが胸の前で手を合わせる。メンバーにとっては聞き慣れたジョンの祈祷がとうとうと流れた。
 祈りが捧げられている間、麻衣はじっとぬいぐるみを見ていた。何か変わったところがあるようには見えない。麻衣は害意のあるものに敏感だ、と言ったのはナルだ。ただそこにあるだけの力は、おそらく麻衣には視えにくいのだろう。
 ジョンがぬいぐるみの前で十字を切り、手をかざした。
「イン・プリンシピオ」
 それで祈祷は終わりだった。
「……消えたみたいですわ」
 真砂子が人形のようなおかっぱ頭をかしげるようにして言った。
「なんや、全然手応えがなかったですけど……」
「霊じゃないから、ではありませんの?」
 言いながら、真砂子もどこか釈然としない様子だ。
 麻衣はやりとりを横目で見ながらぬいぐるみを抱き上げた。
「ナル、これユキちゃんにあげても大丈夫?」
「どうだろう。ユキ……ちゃん?」
 ナルはなんとか優しげな声を作ってユキを見た。
「はい」
 ユキはやけに素直に返事をする。どうもナルが気に入っているようだ。
「これはどこで手に入れたのかな?」
「ええとね……電車の中。置いてあったの」
「それで、自分のものにしようと思って持ってきた?」
「ごめんなさい、でも欲しかったんだもの」
「……持ち主不明か。ぼーさんかリンに護符でも書かせたいところだな」
 顔をしかめたナルを見て、麻衣は差し出しかけていたぬいぐるみを抱きなおした。
「ごめんね、ユキちゃん。まだダメみたい」
「えー? おばさんたち、プロじゃないの? 頼りないなぁ」
「ううう、頼りなくてごめんねー」
「すみませんです」
 ちょこんと頭を下げるジョンにも、ユキの冷たい視線が刺さる。
「全然ダメね」
「生意気な子」
 綾子がぽかりとユキの頭をたたいた。
「麻衣。そのぬいぐるみは後でどこかにしまっておけ」
「はい、所長」
 事務的に麻衣は答えた。
「それで、あなた一体ここに何の用でしたの?」
 聞いたのは真砂子だ。
 それを聞くのをすっかり忘れていた一同は、ああ、と誰からともなくユキを見る。ユキはつんと横を向いた。
「知らなーい。お父さんに、ここで待ってろって言われたの。でもここの人たち頼りないからなぁ」
「専門家の判断にケチつけるんじゃないわよ、素人なんだから」
 毒づいたのはもちろん綾子だった。
「何、お父さんがここに依頼にでもくるの? なんで子供一人先に来させたりしたのかしら?」
「ここもうすぐ閉めちゃうけど、ユキちゃんどうする?」
「知らなぁーい」
 すっかりすねている様子のユキに、一同は顔を見合わせた。
 どうも、埒が開かないようであった。


 一日の仕事を終えて自宅に帰ってきた麻衣は、荷物を置いてふうと息を吐いた。
 なんだか途方もなく疲れた。
 結局ユキの父親は現れず、麻衣はオフィスを閉めた後も彼女の相手をしていたのである。ユキは麻衣たちに対して終始つんけんしているし、ナルに対してもまだもやもやするしで、大変気疲れのする一日であった。
 だいたいユキが、親切にしている他の人間より、あのナルになついているのにイライラした。ユキが悪いのではない。子供好きな麻衣は、ナルに妬いているのである。
(なんであんな奴が子供に好かれるかなぁ)
 ケンカしている相手になつく人間がいると、自分が負けたようで悔しくなる。
「これじゃ嫌な奴だな、あたし」
 ひとり言を言って、よいしょと麻衣は立ちあがる。
 いいかげん仲直りしようか。そろそろ意地を張るのにも疲れてきた。いらついて嫌なことを考えるのも、自分が嫌になる。
 それでも、ナルが実の兄を簡単に切り捨てるようなことを言ったのが許せなかった。麻衣がジーンを好きだから、というのもあるし、麻衣自身が切り捨てられたような気がしたせいでもある。
 麻衣は明日の支度をしながら頭の中でぼんやりと考えをめぐらす。
 たとえばジーンを始めとして麻衣やリン、そんなナルにとって何らかの役に立っているはずの、少しは近くにいるはずの相手ですらナルにとっては『役に立つ』以上の何物でもないのかと思ったら、ひどく悲しかった。
 彼は、必要さえあれば麻衣もリンも切り捨てて仕方ないと済ませてしまうだろう。
 それが、悲しかった。
 麻衣はナルに少なからず好意を抱いているのに。
 そこまで考えて、はたと麻衣は手を止める。
(そうか、あたしナルが好きだからこんなに怒ってんだ)
 ぱん、と止めていた手をたたいた。
 気づいてみれば簡単なことだ。好きだから好きになってほしくて期待するし、裏切られて悲しい。不愛想で嫌なところも多い奴だが、それでも嫌いではない。
 同じように好きでいてほしいと期待しているのだ。
 時間が経って少し冷静になったのかもしれない。自分の気持ちも見えてきた。
(だったらいつまでも一人で怒ってんのやめよう)
 好意を返してもらえないからと怒るのは馬鹿らしい。ナルが麻衣の期待通り動かないのも仕方ない。それこそ『仕方ない』ことだった。
「でもリンさんのことはなぁ」
 呟きかけて、ふと麻衣はそのことに思い至った。
「……ああっ! リンさんのこと忘れてた!」
 あああどさくさにまぎれて! と歯がみする。
 結局リンは今日も来なかった。
 ユキやナルのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れてしまっていたのだ。家に訪ねていこうかと思っていたのに!
 麻衣はあわてて時計を振り仰ぐ。
 十時過ぎだ。今から出かけるには遅すぎるが……。
「電話、してもいいかな?」
 他人の家にかけるにはぎりぎりの時間というところだ。まあ、リンが早寝だという話は聞いたことがないし、家族もいないのだから、いいだろう。
 麻衣はゴメンナサイと手を合わせながら受話器を取った。
 電話の脇においてある手書きの電話番号帳を開き、ナンバーをプッシュする。ナルの番号と似ていて間違えやすい。となりの部屋に住んでいるのだから仕方ないだろう。こんな時間に間違い電話をしたらいくらなんでも迷惑だ。しっかりと確かめながら打った。
(まったく、家にいるかどうかナルがちょっと確かめてくれたらいいのに)
 トゥルルルル……。
 トゥルルルル……。
 トゥルルルル……。
「出ないかな?」
 静かな呼び出し音が、受話器から聞こえてくる。
 この時間だ。出なかったとしても仕方ないだろう。あと二コールして出なかったら切ろうと思いながら、麻衣は受話器の向こうに耳をすました。
 トゥルルルル……。
(一回目)
 トゥル……。
(二回……)
 かちゃり。
 小さな音がした。そして、小さな雑音。
「あ、リンさん?」
 麻衣はほっと息を吐いた。
「ごめんね、こんな時間に。リンさんがずっと休んでるから心配になっちゃって。大丈夫? どっか、具合でも悪いの?」
 受話器の向こうは沈黙している。
 麻衣は努めて言葉を続けた。リンは筋金入りの無口なのだ。電話でまで無口だとすると困ったことだが、彼のことだからありえないことではない。
「あの、リンさんだよね? ……あ、もしかして風邪で声が出ないとか? それでオフィスに連絡入れられなかった? もーナルがちゃんと確認すればいいんだけど。ねえ、大丈夫?」
「……」
「え、なに?」
「ごめんなさい……」
 受話器につけた耳元から、ささやきが流れ込んできた。
 これは、女の、声だ。
 麻衣は眉をしかめた。
「あの、そちらはリンさんのお宅じゃないでしょうか?」
 受話器越しに、震えるような息の音が伝わってくる。まるで、泣いているような……
「ごめんなさい……っ」
「あの、どなたですか?」
「でも、足りないの」
「はい?」
 いつのまにか麻衣は震えていた。
 怖い……いや、寒い!
 心霊現象の起きている場所では気温が下がる、というナルの教えが頭をぐるぐる回り出す。
 どうして夏のさなかに、こんなに寒い?
「ごめんなさい、あなたを傷つけるわ、ごめんなさい」
「だれ!?」
 言葉は悲鳴のようになった。
「心が、足りないの。だから」
 麻衣は叩きつけるように受話器を置いた。
 ガチャン、と電話は壊れそうな音を立てた。
 麻衣は、受話器を両手で押さえたまましばらくそこに固まっていた。ノースリーブのブラウスから出た腕がひどい鳥肌を立てている。それを見ながら、震える息を一心に吐き出し、ただ必死に呼吸を整えた。
 寒い。息が白い。
 眼が熱くなって涙が出てくる。
 呼吸を整えるには、数十秒かかった。
「は……っ」
 おなかに力を入れて、ゆっくりと大きく息をする。
 それで、やっと人心地ついた。
 その時、誰かが麻衣の肩を叩いた。小さな手だ。やけに、柔らかい手だ。やけに……体温のない手だ。
 ドアにはカギをかけた。誰もいるはずがない。合鍵を持っているような人間はいない。
 それに、この手の持ち主は、人間とは思えない。
 固まりそうになる首をぎしぎしと動かし、麻衣は背後をうかがおうとした。
 頬が、柔らかい感触にふれた。鳥肌が立つほど柔らかいモノに。
「いやっ!」
 ソレを振り払う勢いで麻衣はうしろを振り返った。
 毛皮のような柔らかい感触は頬から離れる。しかし麻衣が振り返ったそこには、何もいなかった。麻衣の頬にふれるような位置に生き物の姿はない。
「虫……なわけ……ないか」
 少し肝がすわってきた。
 まがりなりにも、麻衣はプロだ。あせるな、自分に言い聞かせる。
 用心深く両手で退魔の印を組み、部屋の中を見回す。
 そこにはやはり誰の姿もなく、六畳の部屋に窮屈に置かれた家具があるだけだ。その場で見回すだけで部屋中が見られるような狭い家だ。やはり、誰の姿も、ない。
 だが……。
「……うさぎ」
 背の低い食卓の上に、ソレはちょこんと乗っていた。
 人ではない。麻衣の肩を叩くことができるモノではない。
 だが、そのうさぎの半分裂けた口元に、麻衣の目は吸い寄せられた。
 昼間、あのぬいぐるみはオフィスの金庫に入れてきたはずだ。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン……」
 すばやく剣印を結ぶ。
「臨兵闘者」
 右へ、左へ、宙に格子縞。
「皆陣烈在前!」
 描きなれた格子が、麻衣の目には見えていた。気合と共に、真ん中を剣印で払う。
 うさぎが食卓から吹っ飛び、真後ろのたんすに叩き付けられた。
 勢いのまま床を転がっていく。
 ころころ……。
「……うまくいった?」
 ごろり。
 ありえない方向にうさぎは転げた。
 ソレは、体をひねり、床の上に起き上がっていた。
「……ナウマク」
「足りないのよ」
 ふいに甲高い声が言った。
 さっきの女の声ではない。もっと幼く、もっと愉快そうで、もっと意地悪かった。
「足りないのよ、足りないの。あたしにはねぇ……マイ?」
 歌うような声は、半分裂けたうさぎの口からこぼれだしていた。
 ぱくぱくと動くその口のためにバランスを崩して倒れそうになりながら、うさぎはそれでも笑いを含んで語る。
「ナウマクサンマンダ」
 吐く息が白さを増し、麻衣の声は震え出す。
「欲しいなぁ。あたし、人間に……ねぇ、人間になりたいわ。足りないのよ、まだ足りないの!」
「バザラダンカン」
「知ってるでしょ? 心が、足りないの。だから、マイ」
「臨兵闘者皆陣烈……」
「あたしに、あなたの血を、ちょうだい?」
「在前!」
 血が、しぶいた。
 ぶしゅり、と気色の悪い音がした。
「あ……」
 うさぎの口から、血がだらだらと流れ落ちる。まるで喀血でもしたかのように。
 ごぼりごぼり、血の泡を吹いてうさぎは笑う。
「じょおおおだんよおおお!」
 初めに吹き飛んだ血にべっとりと手を塗らされ、麻衣は指を剣印の形に組んだまま硬直した。
 意識が黒く重いもので塗り込められていく。そんな感じがした。ここから逃げ出したい、その願いが叶うような感覚だった。目の前が真っ暗になり、足下がおぼつかなくなり、麻衣はいつかそのまま床に倒れていた。


 ……気がつくと目の前に自室の畳があった。
 頬に触れる固い布の感触は、少し目を動かすと自分の鞄だとわかった。荷物にもたれかかったまま倒れていたのだ。
 ゆっくりと体を起こしても、うさぎはいない。畳が血で汚れていることもない。
 外で静かに車が走っている音がし、時計は十一時ちょうどを刻んでいた。
「……夢?」
 麻衣は慎重に辺りを見回す。なにも変わったところはないようだった。
(どこからが、夢?)
 そっと立ちあがり、おそるおそる電話を見た。
 電話帳は、リンのナンバーが書かれたページを開かれていた。
 麻衣は大きく一回震えた。
(電話は、かけたの?)
 涙がにじんでくる。
 あわてて受話器を取り、目に飛び込んできたナンバーをプッシュした。開かれているリンのナンバーの隣、ナルのマンションの電話番号だった。
 ナルはツーコールで出た。
「はい?」
 そのいつもどおり面倒そうな、きれいな声を聞いて、麻衣は声をつまらせる。やっと、普通の相手と話せた。
「ナル? ナルだよね?」
「麻衣?」
 意外そうなナルの声。
「なんなんだ、こんな時間に」
「ごめん、ごめんなさい。あのね……」
 こぼれでるように口から言葉が出てくる。ともすれば恐怖に走りそうになる言葉を押し殺して、麻衣は今の出来事をできる限り丁寧に語った。
 信頼している。ナルの仕事の腕だけは、本当に信頼している。
(助けてくれる)
 だが、ナルの返事は一言だった。
「寝とぼけたのか?」








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