〜第二章 ぬいぐるみ |
2、 ――出会ってしまったことがいけないのかしら? と、彼女は呟いた。 目の前には、今命を奪ったばかりの少女が血みどろの屍となって横たわっている。 サナエという名前の少女だった。彼女にはその名を一生懸命考えだした両親がいるはずだ。愛情を持って名を呼び、彼女を愛した人々がいるはずだった。 女は嗚咽をもらす。手で口を押さえようとして、あわててやめた。女の手は赤黒いぬめったものでどろどろに汚れていたのだ。 背中までおおう長い黒髪も、藤色のスカートも、べったりと血が濡らしていた。 虫も殺せない、と言われた自分はどこに行ったのだろう? ――知ってしまったことがいけないのかしら? ――愛してしまったことがいけないのかしら? たった一つの出会いが、彼女の生き方を決めてしまった。 女は生来引っ込み思案で内気な性格だった。学生時代は友達の後をついて歩いていたし、仕事に就いてからも先輩たちに頼ってばかりいた。一人で決め、一人で行動することは何より苦手だった。 それが、どうだろう。今では、誰にも打ち明けられない罪を犯す覚悟すらできている。自らの決断でその手を血に染めている。 腰から下が鉄の塊になってしまったかのように重かった。一つの生命がのしかかる重みだ。その重みに引きずられるように、目の端からはとめどもなく涙が落ちていった。 それなのに、もうやめてしまおうとは思えない。他の方法がないかどうかなど、頭が腐るほど考えた。そして唯一の手段をとったのだ。後戻りする道などない。 まだあたたかい少女の手には、白いうさぎのぬいぐるみがひっかかっていた。 少女は生前このぬいぐるみを愛したのだろう。その思いは、彼女が死んだ今どこへ消えていったのだろうか。 女はそれを思って泣いた。 しかし、彼女の足はその場から一歩も逃げ出しはしなかった。 (心を捨ててしまえば楽なのでしょう) (考えることをやめてしまえば幸せなのでしょう) (でも私はお人形になどならない) (絶対に) 細胞のひとつひとつに色を刻み込んで、何かが自分を染め変えてしまった。そう思う。 そんな自分のために、この少女は死んだのだ。それを思うと涙が止まらない。彼女は林の中にしゃがみこんでわあわあと泣いた。 ――出会ってしまったことがいけないのかしら? 夜が更けて涙が乾く頃、彼女は細い体に重すぎる少女の死体を引きずって彼女の場所へ戻る。 たくさんの死を抱えて、彼女がその思いをはぐくむ場所へ――。 真砂子は、翌日も仕事を終えてから渋谷へと足を向けた。 前日の少女、ユキが結局どうしたのか気になったことが一番の理由だ。自分が案内してきたこともあり、ことの顛末が気になって仕方なかった。 どんな用事であそこにいたのかもわからない。父親が何を思って彼女を迎えに来ず、連絡さえしなかったのかもわからない。ユキが自分の家の電話番号なり覚えていれば連絡の取りようもあったのだが、彼女は自分の家のことに無知な子だった。 一日経ってオフィスに謝罪の電話なりが行っているかもしれないし、父親本人が顔を出しているかもしれない。どっちにしろ何かしらのアクションはあるだろうと思い、散歩がてらオフィスに寄ってみることにしたのだ。 相変わらずひどい混雑の中をすり抜けながら、道玄坂を登る。夕闇の道玄坂は人があふれかえっている。 坂の頂上近く、瀟洒なビルの二階に渋谷サイキックリサーチはある。一階のにぎわった喫茶店を通り抜けて階段を上ると、二階は静まり返ったオフィススペースになっている。 広場風になった休憩スペースを囲む形でいくつかのオフィスが軒を連ねる中、SPRのオフィスはもっとも奥まった場所にひっそりと開いていた。 通いなれたブルーグレーのドアを目指して、真砂子は広場を通り抜ける。 ふと、その足が止まった。 「……ユキちゃん?」 広場の中央に据えられた白いオブジェの辺りで、何かが動いた。 薄い黄色のワンピースを着た小柄な人影。ユキだ。 ユキは真砂子を見つけて、ほっとしたように一瞬顔を和ませた。意外に思う間もなく、すぐにつんと澄ました表情に戻る。よくよく意地っ張りな子供である。 「マサコ。遅いわよ」 「何がですの。あたくしは今日来るなんて約束してませんわよ」 真砂子はあきれてため息をつきながらユキに近寄った。気になっていたのは確かだが、会いたかったわけでもない。うんざりとした気分が湧いてくる。どうして自分が生意気な子供の相手をしなくてはならないのか。こういうことに適任なのは麻衣だろうに。 それでもユキを見捨ててオフィスに行くほど薄情にはなれず、真砂子はオブジェに腰かけるユキの前に立った。そこまできて、彼女が昨日の白いうさぎのぬいぐるみを抱いていることに気づく。 「あら、どうしたんですの、そのぬいぐるみ」 「お兄さんにもらった」 「そう。きちんと清められたんですわね」 「今日、お坊さんが来てね」 滝川のことだろう。真砂子が納得していると、突然ユキがうつむいた。 「昨日はね、私ほんとはお願いにきたの」 「お願い?」 「うん」 妙に殊勝にユキはうなずく。 素直にされると邪険にはできないのが人情だ。 真砂子はすぐそばのオフィスにおわすナルほど人の道について疎くはない。やけに頼りなげな様子のユキの前に、着物の膝をついてまで聞く態勢を示してやった。 ユキは、心細そうに手を伸ばしかけて、やめる。 「うちにね、幽霊が出るの。髪の長い、女の人よ。首が真っ赤にはれてるの」 「……そう」 幽霊談はまず疑うのが、本物の霊能者のやり方である。少なくとも真砂子やSPRの面々はそうだ。 だが、小生意気なユキの頼りない様に、真砂子は真面目にうなずいた。 「何か、お願いしてるみたいなのよ。あたしに。でも、姿は見えるんだけど何を言ってるのかわからないの」 「ええ……それで、依頼に?」 「うん。お父さんが、後で行くからお前から説明しておきなさい、って言ってたんだけど、あたし……」 「言えなかったんですのね?」 「マサコがちゃんと相手してくれないからよ」 「おっしゃってなさい」 ユキはうつむいた顔を上げないまま、呟くように言った。 「……あたし、ほんとはここの人たち信用できない……」 真砂子は苦笑した。 「そんなことありませんわよ」 これはプライドの高い真砂子にしてみればかなり譲歩した言葉だ。 「昨日はダメって言われたのに、お坊さんがちょっと呪文唱えただけで持ってっていいなんて、てきとーじゃない?」 「あら、でも現にもう変な気配はしませんわ」 「それも、わかるのはマサコだけなんだよね? ちゃんと霊能力があるの、マサコだけなんじゃないの?」 それはまったくの誤解なのだが、かなり真砂子の自尊心をくすぐる言葉でもあった。 「今日も来てみたけど、やっぱり言えなかった。これからまた行ったら、怒られそうで嫌。怒られるの嫌いよ。ねえ、マサコ、マサコだけ霊がわかるんでしょ? マサコだけ霊の声が聞けるんだよね?」 「ええ、そうですわね」 正確には麻衣も人外のものを感知する能力がある。だが、これはひどく不安定な能力だ。真砂子だけ、と言っても間違いではないだろう。 「マサコだけ、来てくれない? あたし、またあそこに入るの、怖いよ」 かなり、気持ちは傾いていた。 真砂子はためらうようにオフィスを振り返る。全員と協力した方が安全なのは確かだ。もともと彼女はSPRに依頼をするつもりであったのだし、向こうに話を回すのが筋というものであろう。 だが、真砂子一人でもできる。自分はプロだ。それも、一流と呼ばれるプロなのだ。そんな自信があった。 結局、真砂子はユキに向かってうなずいていた。 「わかりましたわ」 「ほんと?」 「ええ」 なお深くうつむいたユキに、真砂子は手を引いてやろうと手のひらを差し出した。だが、気付かないのか安堵に泣いてでもいるのかユキが手を取ろうとしないので、仕方なく肩をすくめて勝手に階段の方に足を向ける。 泣いているのだとしたら、ユキの性格からして悟られたくないだろう。 「ほら、行きますわよ」 「うん」 うつむいたままユキはうなずいた。 しかし真砂子は気付かなかった。その隠れた顔は、こらえられないようにひどくにっこりと笑っていたのだ。 「ばぁか」 ユキは呟く。 「……うーさーぎー追―いし かーのー山――」 そしてユキは抱えたぬいぐるみに口づけをし、まるで生きたうさぎを放すように、床に向かってそっと放る。うさぎは、ぴょん、と飛び跳ねて、すでに遠く離れた真砂子の背中へ向かって走っていった。 「さあ、狩りの始まりよ。追われるのはうさぎじゃないけどね?」 その頃、オフィスのドアの中ではいつもどおりの光景が繰り広げられていた。 「だぁから、謝ってんじゃないっ。いつまでも根に持って!」 「いつまでも? 時間にして十二時間ばかりは、あなたにとって『いつまでも』なんでしょうか、谷山さん? 日本語を勉強しなおしてきた方がよくはありませんか?」 「『言葉の綾』っていう日本語は知ってるかな、ナル?」 「『言い逃れ』という日本語についてはどうですか、谷山さん?」 バンっ! と麻衣が机を叩いた。机の上に乗った陶器のカップがかちゃかちゃと音を立てて揺れる。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。気が済んだ?」 「ついでに今の乱暴に対する謝罪も付け足していただきたいね」 「ご、め、ん、な、さ、いッ! あんたこそたまにはその言葉の暴力に対する謝罪をしろッ!」 ナルは白い指でカップを取り上げ、秀麗な眉をそびやかしながら笑った。 「申し訳ありません」 「〜〜〜ッッ!!」 あまりのくやしさに麻衣は顔を熱くした。 麻衣は昨夜の電話を律儀に謝っていたのだ。職場の上司に、夜中の電話。ほめられたことでないのは確かだ。 だが、麻衣としても追いつめられてやったことであり、彼を頼って電話をかけたのである。助けもせずに突っぱねた上、ねちねち嫌味を言うことはなかろう、と思う。 ナルに呆れられて、怖さが遠く彼方に吹っ飛んだのも確かなのだが。 「僕に乱暴だと言われてそんなに傷ついていたのか?」 突然人間らしい言葉を聞いた気がして、麻衣はきょとんとした。 「へっ?」 「まあ、麻衣に限ってありえないか。鉄でできた心臓を持ってるんだろうから」 しみじみとした風情で言うナルに、こうなったら殴ってやろうかと麻衣がこぶしを振り上げたときだ。 何の前触れもなくナルがカップを片手に席を立った。 「元気が有り余ってるようだから、所長室の書棚の本を全部リストアップしておいてくれ」 「なんで!? リスト、あるよ?」 「分類を変える。今晩までだ」 「こっ今晩ん?」 麻衣は思わずぽかんと口を開いた。 書棚、と簡単に言うが所長室の壁には大規模な書棚群が布陣しているのだ。納まっている本の数も、半端ではない。間違っても一日でやるような仕事ではないのだ。 「嘘ぉ!」 「文句か? いい身分だな、アルバイトの谷山さん?」 「うううう。やるよ、やりますよ。でも明日までってのはない。もう夕方だよ? 安原さんは旅行だし、お客さんでも来たらどうすんの」 「オフィスは閉めていい。僕はこれから出かけるが、帰るまでにやっておけ」 「朝のうちに言っとけ!!」 「急に必要になったんだ。お前に文句を言われる筋合いはない」 あるだろぉ、という文句はあまりにも頭が沸騰して言葉にならなかった。どうせこの所長は傍若無人で人を人とも思っていないのだ。人の情けを期待しても無駄というものだ。 だが、そう言ってあきらめられるほど麻衣は心が広くなかった。それができるのは菩薩の化身くらいだろう。 「オフィスから出ないこと。客も入れるな。わかったな?」 「こんな仕事があったら言われなくてもさぼらないよっ」 「それは結構。そういえば、昨日のぬいぐるみはどこへやった?」 「金庫の中!」 ナルは返事を聞くと貴重品を入れている金庫に近づき、自分の鍵でそれを開ける。鍵は正式な所員であるナルとリン、麻衣の三人だけが持っていた。 中をのぞき込むナルに、麻衣は少し気味悪い気分になる。ナルが一笑に付したんだから昨日のことも夢だったのだろうとは思う。あのぬいぐるみが不気味で印象に残っていたから夢に見たんだと思う。だが、いい気持ちはしなかった。 中を確認すると、ナルは元通り金庫を閉めた。 「麻衣、お前の鍵も僕が持つ。いいな」 「そりゃご命令とあれば。なんで?」 「説明する必要はない」 まただ。 (この秘密主義者っ!) それきり口喧嘩に関わろうとせず所長室に足を向けるナルの背中に向かって、麻衣は思いきりこぶしを当てる振りをした。 麻衣の険悪な視線に見送られてオフィスを出たナルは、道玄坂をほとんど下ることなく喫茶店に入った。手には薄いファイルと筆記用具の入った鞄をひとつ、遠出をするつもりは端からない。 紅茶専門のその喫茶店には、お茶を飲みに来た客がちらほらと目に付いた。夕食には少し早い時間だ。早いところはもう仕事を終えているだろうから、軽く休みに入ったのかもしれない。 お一人ですかと微笑むウェイトレスに待ち合わせを告げ、まっすぐ一つのテーブルに向かった。 そのテーブルではまだ若い男が一人、眼鏡を曇らせながら紅茶をすすっていた。 「安原さん」 声をかけると、男は、あ、と言ってナルを見た。 「所長。早かったですね」 「時間のかかる場所ではありません」 安原は暇つぶしに読んでいたのだろう本を閉じて自分の鞄にしまい、向かいの席に腰かけるナルに笑いかけた。 「谷山さん、置いてきて恨まれませんでした?」 「仕事を言いつけたので、恨まれましたね」 「谷山さんならいざ知らず、僕と二人でお茶なんて、めずらしいですねー。期待しますよ?」 「冗談なら他でやってください」 ナルは近寄ってきたウェイトレスにアールグレイを注文すると、安原に向き直った。 「それで、どうでした」 「はい」 安原は表情を正し、鞄からレポート用紙を取り出した。 「まず、S県のリンさんのお知り合いですが。電話をかけて確認を取ったところ、リンさんはそちらにはいらっしゃっていないそうです」 「そうですか……」 リンがS県に行くと言って出かけたのはもう一週間近く前になる。遅くとも三日後には出勤する予定が、無断欠勤はもう今日で三日にもなった。 もとより生真面目なところのあるリンだ。いくら大人だとはいえ放置しておくにも限度がある。S県に行ってすらいないというのでは、なおさらである。 「五日前、リンさんが出かけた日ですね、この日の夕方、先方に電話があったそうです。内容は、到着が少し遅れて夜遅くになりそうだ、という連絡でした。理由までは言っていなかったようですが、この日最後に会ったはずの滝川さんにうかがったら、リンさんはオフィスを出た後滝川さんと話し込んでしまって出発が遅れたようなんですね。滝川さんはリンさんが電話をかけるところも見ていますから、この理由には疑う余地がありません」 ナルは黙ってうなずいた。 その日オフィスではひと騒ぎあり、ナルが機材の設置にリンを駆り出した。ぎりぎりの時間に出て行ったはずだから、その後お茶の一杯でも飲めば充分遅刻だろう。 安原はレポートをめくって続けた。 「それで、まず僕はリンさんの家を訪ねてみたんですが……」 「リンの家には入らないよう、言っておいたと思いますが?」 安原はそつのない笑顔を見せた。 「はい。そう言われてましたので、近くまで訪ねていっただけです。とりあえず近くのスーパーマーケットを片っ端からあたってみました。家にいるんだとしたら、必ず食事の買出しに行ってるはずですからね。結果は……」 「結果は?」 なんとも言いがたい表情で、安原は唇を曲げた。 「家にいる形跡がないと?」 「いえ、目撃はされてました」 「……? なら、どうしてオフィスに出てこないんだ」 「言いにくいんですが……リンさんはどうも、女性と、その、暮らしてらっしゃるなんです」 「……は?」 ナルは思わずまじまじと安原を見た。安原は困ったような顔でナルを見ている。彼は至って本気だ。 「まず、リンさんが消息不明になってからすぐですね、近所のスーパーで女性と二人買い物をしているところを目撃されてます。あの身長にあの容姿ですからね、リンさんはひそかに近所のおばさんたちの注目を集めてたみたいなんですよ。買い物に来てた主婦の方が、よく覚えてらっしゃいました。きれいな女性に手を引かれて日用品を買いこんでいたようです。簡単な食器とか、そういうものですね。まるで一人二人家族が増えたみたいだったってその方はおっしゃってました」 何ともコメントのしようがなかったので、ナルは給仕された紅茶に口をつけた。 「えー、勇気を出してその女性にアタックをかけたお強い方がいらっしゃったんですが。なんでも最近になって同棲を始めたので、近々引っ越しも考えていて忙しいとか……」 安原もどういう態度をとるか決めかねたように軽く咳払いした。 「そ、それでですね、今日はほとんどリンさんのマンションの前にいて張り込みをしていたんですが、昼頃、リンさんの部屋から確かに若い女性が買い物に行く雰囲気で出てきました。あの……髪の長い、きれいな方でしたね」 「……」 ナルは飲みかけの紅茶を残して席を立った。 「あ、所長!」 「時間の無駄でした。僕はリンを買いかぶっていたようだ」 「ちょっと待ってください。もうちょっと続きがあるんです!」 ナルは顔をしかめた。これまでの報告で充分だと思える。女にうつつを抜かして勤務を怠っている。そういう風にしか聞こえなかった。 だが結局再び腰を下ろしたのは、安原への信用のために他ならなかった。彼が報告すべきだと判断したなら聞く価値はあるだろうと判断した。 「ええとですね、簡単なことなんですけど。車が見あたらなかったんです」 「車?」 「はい。リンさんはS県に向かう手段として車を使ってたんですね。これは滝川さんの証言ですけど。だから五日前、リンさんは車に乗って出かけたはずなんです」 普段リンが車で出勤することはめずらしいが、遠出をするのに車を使うのは不思議ではない。 「ところが、車庫に車が見あたらないんです。リンさんが乗ってどこかにいったのかもしれませんが、オフィスに来ないのに一人で車を使って出かけるというのも妙な話だなと思って」 同居しているらしいという女は買い物に出るところを見ているのだから、リンと一緒に車で出かけていることはない。 「で、旅行の途中で事故でも起こして、修理に出したのかもしれないと思ったんです。どこの修理屋を使っているのか分かりませんでしたので、とりあえずリンさんが通ったと思われるルートをたどりながら、その近辺の警察に一軒ずつ電話をかけてみたんです」 「それで、どうでした」 「はい。リンさんの乗っていた車種と同じ車が警察で発見されていました」 「持ち主の確認は?」 「それが、車自体は無事なのにナンバープレートだけがぐちゃぐちゃにつぶされていて、連絡の取りようがなかったそうなんです」 「ナンバープレートだけ、ですか?」 確認するように言うと、安原ははいとうなずいた。 「ナンバープレートだけ、です。ライトもエンジンもつけっぱなしの状態で国道に乗り捨てられていたとか。ただたぶんリンさんの車に間違いないと思います」 「なぜですか?」 安原は少し笑った。 「ご存じありませんでしたか? リンさんの車って、マニアの間ではプレミアがついてる、めずらしい、古い型のスポーツカーなんですよ」 これに関しては発見者だという警官がはっきりと教えてくれた。あんな車、普通乗り捨てたりはしないと。 「ところがですね、その付近で他にも何件かあったそうなんですよ。持ち主不明の車が乗り捨てられてるということが」 「それは、どこですか」 安原はS県の地名を言った。 「聞いて驚いてください。連続猟奇殺人の舞台になっている、九具津村の近くです」 ナルは顔をしかめて黙った。 安原は今までめくっていたレポートをナルのほうに差し出した。 「これが調査結果です。時間がなかったのできちんとまとまってはいませんが」 「けっこうです。ありがとうございました」 「どういう意味があるのか、僕にはよくわかりません。でも、何かあるんじゃないですか」 「奇妙であることは、確かですね」 ナルははっきりした意見を避け、安原の報告書を受け取った。 昨夜、唐突に助けを求めてきた麻衣には、落ち着かせるためことさらいつも通りに振る舞っておいた。電話を切った後、すぐに安原に連絡を取った。そしてこの調査を依頼したのだ。 麻衣のたわごとだと思わなかったわけではない。だが、万が一を考えて行方不明後のリンの動向について調べるよう頼んだ。麻衣の動物的とも言える勘は案外確かで、危険でもないものにあれほどおびえて電話をかけてくるとは考えにくかった。 リンの家への電話はつながらず、ナルの家にはつながった。それが麻衣の夢でなかったとしたら、リンの近辺が怪しい。リンとの直接の接触は避けるよう安原に言い置いたのも、そのためだ。 それでも、ここまでの事実が出そろってくるとは思っていなかった。 ナルは考えながら紅茶を飲んだ。味はわからなくなっていた。 「……安原さん、ぼーさんの連絡先はわかりますか。できれば、携帯か何かの」 「あ、はい。これ、短縮に入ってます。どうぞ」 安原は鞄から携帯電話を取りだし、滝川の番号を表示させてナルに差し出した。礼を言ってそれを受け取り、ナルは少し眉を動かす。ディスプレイには『滝川さん』と表示されていた。 とにかく、通話ボタンを押して滝川に電話をかける。 「ぼーさん? 僕だが」 おお、驚いた、とかなんとか電話越しに滝川の声がする。安原の携帯からかけたせいだろう。 「ぼーさんに頼みたいことがある。至急だ。仕事を抜けても手伝ってくれ」 大量の本と共に取り残された麻衣は、何年もかけて少しずつ作ってきた本のリストとにらめっこをしながら新しいリストを作っていった。明日ナルにどんな分類法を示されても対応できるような、書き出しをしていく。 古いリストが目の前にあるから、なんともうんざりしてくる作業だ。そのリストを一括してまとめられたら早いのだ。 少しずつ書き足していったから、古いリストは確かに見にくい。分類しなおすというのはわからないでもない。だが、一度やった作業をやり直すだけなのだ。もっと楽な方法はないものか。 言われたとおりの仕事をこなしながら、麻衣は新旧のリストをにらんで頭を働かせていた。 一括して再編集する……これが、デジタルデータだったら、簡単なことなのだ。 そう考えて、はっと麻衣はひらめいた。 (スキャナー! 資料室にスキャナー、あるんじゃない!?) 思いついたが吉日、麻衣はリストをひっつかんで資料室に駆け込んだ。 資料室は普段リンの根城として使われている。資料室、などという名前からするとついファイルや本がひしめいている様を想像してしまうのだが、SPRの資料室は違う。名前を言いかえるとすれば、『コンピュータールーム』だ。 大きなデスクトップのパソコンを中心に、さまざまな拡張機が所狭しと据えられている。 その脇には、FDやらMOやら、CD−ROMやら。この中に打ち込まれた資料が詰められているのだから、資料室の名に偽りはない。 麻衣は仕事で専門機器を扱うが、けして機械全般が得意なわけではない。パソコン、などという高級な代物にはとんと面識がない。 それでも昨今の学校教育というものは立派で、一応の操作くらいは教えてくれるのだ。麻衣も大学でパソコン教育を受けており、簡単な理屈は理解している。 最近、スキャナーを使って紙面の文章をデータ化するやり方を習った。それを使えば、リストの製作も非常に平易に進む! 「見てろよー、ナル」 麻衣はリストを片手にしたまま椅子に座り、パソコンのスイッチを入れた。 聞いたこともないようなソフトのショートカットが並ぶデスクトップが表示される。その中からスキャナーを探し出し、紙面を写し取っていった。 スキャンにかかる時間の間は手持ち無沙汰だ。麻衣はインターネットを開いた。 真っ先に英語のサイトが開き、あわててページを変える。大手の汎用検索サイトを呼び出して、とりあえずニュースなど開いてみた。 麻衣は新聞を取っていないが、毎日仕事で忙しいからなかなかゆっくりテレビを見る暇もない。たいがいオフィスに来ている新聞を見ているのだ。今日はまだ未チェックだった。 ニュースページのトップに踊る言葉は、麻衣の眉をひそめさせた。 「九具津村の連続殺人……また犠牲者が出たんだ」 正確には、新たな遺体が発見されたというニュースだった。 被害者は、鈴木早苗、十歳。折から消息を案じられていた少女だった。 早苗は半月ほど前に九具津村の付近で行方不明になった。それまでの連続殺人を受けて、ニュースはしきりに情報提供を呼びかけていた。 彼女は家族で親戚の家に出かける途中だったらしい。鈴木一家は車で移動しており、休憩中ほんのわずか目を放した隙の出来事だったと目されている。 麻衣は数日前依頼に来た男を思い出した。田中といったか、九具津村の代表として来た男だ。もう五人も死んでいる、と怯えていた。彼は今頃顔色をなくしていることだろう。 (うちに来た時……もうこの子は手遅れだったんだ) 警察は早苗の死亡日を失踪の日と発表している。田中が依頼に来たのはそれより一週間以上後になる。被害者は、すでに六人にのぼっていたわけだ。 苦しくなる。だが、気に病んだところで麻衣にできることはない。心霊調査員は探偵でも救世主でもない。 ため息をつきながら何度か紙を入れ替え、スキャンを終える。 少々予定より時間はかかったが、数時間後見事リストが完成した。 きゅんきゅんと鳴きながら紙を吐き出すプリンターをぼけっと見ていた麻衣は、オフィスのドアベルが鳴る音に椅子を立った。 資料室のドアを開けて、事務室をのぞきこむ。ちょうど、帰ってきたナルと目が合った。 「そんなところで何をしてる」 「ふっふっふ。甘く見たね。あたしだってパソコンの一つや二つ使えるんだい」 大学で習った以上のことをしろと言われても無理だが。 「へぇ。それはお見それしました」 気のない様子で肩をすくめ、ナルはソファに座って脇に荷物を置いた。 「待ってね、もうすぐリスト、プリントアウトできるから」 「麻衣。そんなことより、お茶」 ナルには聞く気がない。 (そんなことだとぉ……!?) 今の今まで得意な気分だった麻衣の笑みは、ナルの一言によって見事突き崩された。 「あんたがやれって言ったんじゃん!」 「お前が仕事をするのは当たり前だろう。いちいち自慢するほど子供か、お前は」 「それはたいっへん失礼をば」 「麻衣。お茶」 「はあああい、ボス!」 乱暴に資料室のドアを閉め、麻衣は給湯室に向かった。 なめていた。 ナルが感心してくれるわけも、ほめてくれるわけもなかったではないか。自慢をしてみたところで、今のように馬鹿にされなかったことが、過去一度でもあるのか? 麻衣は憤然とした頭で考える。 はっきり言って、ない。 それでも期待してしまう自分は、やはり馬鹿なのではなかろうか。 ポットからかぽかぽとお茶をカップに注ぎながら、麻衣はため息をついた。 (もうちょっと……信頼されたいなぁ) これでは、『役に立たなくなったら切り捨てられる』と悲しむことすらできない。『端から役に立ってない』状態だ。 トレイでカップを運び事務室に出た麻衣は、ナルの前に湯気の立つカップを置いた。 ナルは本ではなく何かのレポートを読んでいるようだった。 「ナル、お茶入ったよ」 「ああ」 ありがとうとも言わず、ナルはレポートを置いてカップを手に取った。 麻衣は再びため息をつき、ナルの向かいの席に座って休憩を決めこんだ。 「麻衣」 ふいに呼ばれて、麻衣は顔を上げる。 「はい?」 「リストができたなら、これを読んでおけ」 そう言ってナルが鞄から取り出したのは、辞書ほどもあろうかという分厚い本だった。 分厚いだけならいい。その本のタイトルを見た麻衣は、めまいを起こしそうになった。日本語なのがまだしもだが、超心理学の専門書である。 「こ、これ? あたしが、読むの?」 「確認するほど難しいことは言ってない。ぐだぐだ言ってないで、読め」 「ちょっと待ってよ! どうして? 理由は?」 「理由を説明する必要はない。読み終わったら内容を確認するからな。少なくとも二、三日中には読み終えるように」 あまりに勝手な言いぐさに、麻衣はかっとなった。 「ふざけんなっ! そんな無茶な話がある?」 「本を読めと言ってるだけだろう。無茶もなにもあるか」 「なんでそんなこと強制されなきゃいけないわけ? 理由を説明してよ。納得したらあたしだって文句言わない」 「必要を感じない」 それでこの話は終わりだといわんばかりに、ナルは本を麻衣の前に押しやった。 「明日もオフィスは閉めていい。明日僕は休む。ジョンが来ることになってるから、お前はここにいろ」 「ナル」 麻衣は無表情に近いくらいの怒りをたたえ、ナルをまっすぐにらみつけた。ナルの静かな表情は変わらない。 「あたしは、あんたの人形じゃないよ」 「知ってるけど?」 「知らないんでしょ。じゃあどうして人を駒扱いするの? あたしだってリンさんだって、命令すれば何でも言うこときくと思ってるの? なんでリンさんがあんなに怒ったか、全然分かってないじゃない。ナルはまわりの誰も、人間扱いしてないんだ。そうやってればそりゃあ兄弟が死んだって仕方ないなんて言えるよね。そういうことをしてるんだよ」 ナルは毛筋ほども表情を動かさない。 感情の読めない目で、平静に口を開いた。 「お前が駒にできるほど使える人間か? これがゲームなら、お前はこの試合に課せられたハンデだ」 麻衣は、表情を変えないというわけにはいかなかった。 膝の上にそろえられた麻衣の指先が小さく震えた。 その言葉の衝撃にむしろ呆然とした風情の麻衣を、ナルはしばらく黙って見つめ、そしてカップを置いたまま席を立った。 「……だが、これはたぶんゲームじゃないんだ」 ナルは脇においていた荷物を手に取る。 その場を去ろうときびすを返し、ふと麻衣を振り向いた。 「リンのことは僕が聞いておく。それを逃げ口上にしようなどと考えずに、その本を読み終えておくように」 「……しないわよ……」 麻衣はうつむいてうめくように言った。 「そんなこと悔しいから絶対しない! あんたなんかいつか見返してやるんだから!」 「それは楽しみだな。一度そういう目に会ってみたい」 言い捨てたナルは、もう麻衣を振り向かなかった。 ソファに麻衣を残し、一人資料室に入る。 資料室の中では、麻衣がプリントアウトしていたリストがプリンターから吐き出されて山になっている。 それを一瞥したナルは、脇の棚から目的のMOを抜き取り、そこを出る。 麻衣に声をかけることもなく事務室を通り抜け、オフィスをも出ていく。 ブルーグレーのドアを閉めると、鞄を開けて小さな紙片を取り出した。それを、気付きにくい桟の裏にひっそりと貼り付ける。大した力はないが、ないよりはましだ。 (これが九具津村の連続殺人に関係あるとすれば、事件の間隔が少し空きすぎている) 安原から受け取ったレポートの中には、九具津村の事件に関するスクラップもあった。それによると、遺体の発見時期はまちまちだが、死亡推定時期は大体一週間ずつ空いている。同一犯による連続殺人は、ある程度規則性があるものだ。 六人目の死亡時期が二週間前。以後、同地域での行方不明者は出ていない。仮に一週間ごとの規則性が存在するとすれば、次の犠牲者が出ていてもおかしくないのだ。 (七人目はリン、そして八人目が麻衣) 飛躍しすぎだとは思うが、その可能性もないわけではない。 リンがすでに死んでいるかもしれないという考えは、ナルの思考を現実感のないものにした。リンは旅行に行ってそのままだ。時間が経てば普段通り帰ってくるような気がする。ジーンの時のように、死の瞬間を見たわけでもない。 だが、事実を楽観視できる性格ではない。可能性は考慮しておかねばならないのだ。 リンが七人目になったと仮定する。それから一週間近く過ぎており、次の犠牲者が出る頃となっている。そして、子供が電車で拾ったという妙なぬいぐるみが麻衣に怪異を見せる。 それはまったくばらばらのピースなのかもしれないし、一つの結論を導き出すことができるのかもしれない。とにかく、分かっていることは一つだ。 (今、もっとも守らねばならないのは麻衣に他ならない) 現時点ではっきりと相手の干渉を受けているのは麻衣だけなのだ。 何をほどこす間もなくジーンは死んだ。意味のない仮定ではあるが、もしその場に彼がいれば、周囲に注意を促して事故を避けることができたかもしれない。実際にはそうはならず、ナルにできることは何もなかった。仕方のないことだ。 だが麻衣は違う。まだ守ることができる場所にいる。 ドアの向こうにわずかに視線を向け、ナルは軽くため息をついてオフィスを後にした。 ナルから連絡を受けた翌日、綾子は急ぎの用事以外をすべて断って目的の場所へ向かった。 住所は知っていても、実際には一度も言ったことのない場所だった。地図と住所を見比べ、綾子がやっとそこにたどり着いたときには予定を一時間以上オーバーしていた。 閑静な高級住宅街のど真ん中、その家は古風な和式のたたずまいを見せていた。 綾子は表札を確認する。表札には、筆文字で『原』と書かれている。 チャイムを鳴らして中の人間を呼び出し、綾子はしばらく待った。 「はい」 インターホンから女性の声が聞こえた。 「突然うかがいまして申し訳ありません。わたくし、松崎と申します。真砂子さんにお会いしたいのですが」 「松崎さん? 真砂子とはどういった……」 「わたくし霊能者をしておりまして、真砂子さんには常々お世話になっております。お聞き及びではありませんか?」 綾子は正直に本当のことを話す。 真砂子は芸能人だ。学校の先輩、局の人間、などとありがちな嘘をついても追い返されるのが落ちだ。それならば霊能者、と怪しげなことを大上段にかました方が効果もあるだろうと踏んだのだ。 「霊能者の方でいらっしゃいますか。申し訳ありませんが、真砂子はまだ寝ていますのよ」 「寝てる?」 思わず綾子は素っ頓狂な声をあげた。もう昼はとっくに過ぎている。たとえ真砂子が相当な寝過ごし魔だとしても、少々遅すぎるのではないか? 「大変失礼とは存じますが、急ぎの用件で参りました。起こしますので、入れていただけませんか?」 真砂子の母親らしき人物は渋ったが、霊能者という連中に深く関わりたくはないのか、折れて綾子を招き入れてくれた。 綾子は門を抜け、案内されるまま家の奥にある一室に連れられていった。 インターホンに出た母親らしき女が、少々乱暴にふすまを叩く。 「真砂子。お客様ですよ」 返答がないことにだろう、女はため息をついて綾子を置いたままその場を去った。入ってみようとは考えないらしい。 「真砂子、アタシ。いいわね? 入るわよ」 綾子は一応声をかけてから、慎重にふすまを開いた。 真砂子は、確かに眠っているようだった。 六畳ほどの部屋の中央には布団が敷かれており、そこには寝巻きを着た真砂子の姿があった。恐れていたような異常は一見して見当たらず、綾子はひそかに息を吐いた。 「真砂子。アンタ、いつまで寝てる気よ? ちょっと」 少し大胆になり、綾子は布団の脇に膝をつく。 「聞こえないの? 真砂子!」 言って綾子が真砂子の肩に手をかけた瞬間だった。 真砂子の黒い瞳がぱちりと開いた。 ふいのことに綾子は驚いて、今しも真砂子にふれようとしていた手を引く。 「なんだ、起きてんじゃない。なんで返事しないのよ」 「……」 真砂子の口が滑らかに動く。まるで綾子の言葉に答えているような動きだ。だが、その口から声は出なかった。 「……真砂子?」 声が出ない、その精神的苦痛からだろうか、真砂子の目元がゆがんだ。綾子はおそるおそる引っ込ませかけた手を伸ばして、布団の上から真砂子の体にふれた。 「真砂子、アンタ、声……」 言ってみても、真砂子の返事はなく、綾子の方を向こうともしない。 綾子は気付いた。 声が出ないのではない。それなら、綾子を見るなり起きあがるなりしていいはずである。 表情以外の何も、自力で動かすことができないのだ。 まるで、美しい人形のように。 |