managed dolls
   〜第三章 人形たち



2、

「……いない? 麻衣がか!?」
「なんだと」
 ナルがめずらしく吐き捨てるように言った。
「それで、どこへ。……書き置き? じゃあ、自分の意志で出ていったんだな?」
 安原とナルが厳しい目で滝川を見る。
「本は。分厚い本がそこに置いてないか? ない? ……分かった。ナル」
 滝川はナルに携帯を差し出す。それを受け取り、ナルはゆっくりと耳に当てた。
「……僕だが」
 滝川たちの耳には、ジョンが電話の向こうで何かを話しているらしい声がわずかに届く。事情を説明しているのだろう。
 ナルは不穏な空気をまとって、何も言わずそれを聞いていた。
「……ジョン、麻衣の家に行ってみてくれ。返事がないようならドアを壊してもいい。僕が責任をとる」
 おいおい、と滝川があわてるのにもナルは耳を貸さない。
「探せる場所は探すように。それでいないようなら……原さんの家に行って、松崎さんたちと合流してください」
 言いたいことだけ言うと、ナルは勝手に通話を切って携帯を滝川に返した。
「ぼーさん、東京に帰る」
 ナルは言い捨てると、返事も待たず車の方へ歩いていく。滝川たちは急いでその後を追った。
「東京って、ここはもういいのか?」
「……危険なのは、もしかすると東京だったのかもしれない」
 低い声がそう言う。
「安原さん、ここに一人で残って調査を続ける気はありますか」
「は、はい」
 安原は姿勢を正した。
「やばいんじゃないか」
「ぼーさん、護符を安原さんに」
 ナルはとりつく島もない。安原に向き直って早口に仕事を告げた。
「村長から直接資料を預かって、報告してください。特に被害者の家族の様子を。以前にここで何か事件がなかったかも調べてください。よろしくお願いします」
 メモを取るでもなく指示を受け、安原は明瞭にうなずいた。
「わかりました。何か分かったら、すぐ連絡します」
「ええ。……ぼーさん、行くぞ」
 話し始めながら、ナルは安原を置いてさっさと車に乗り込む。もちろん滝川もすぐに運転席に滑り込み、ナルの話に耳を澄ましながらそこらのもので急いで護符を作り始めた。
「ぼーさんは知らないだろうが、一昨日オフィスに奇妙なぬいぐるみを持ってきた子がいた」
「ぬいぐるみ?」
「白い、兎型のぬいぐるみだ。その子は電車の中で拾ったと言っていたが、真偽は確かじゃない。原さんによれば、そのぬいぐるみは何かの力の依り代になっているようだということだった。それで、ジョンに清めてもらった」
 本当は滝川がいればいいのだが、と言いながらジョンはぬいぐるみに清めの呪文をかけた。真砂子が力を感じなくなったと言ったので話はそれまでになっていた。
「ぬいぐるみは一応オフィスの金庫に保管したんだが、今朝見たときには見あたらなかった」
「おいおい、やばいんじゃないの」
「麻衣が遭遇したという怪現象に出てきたのはそのぬいぐるみだ」
 なるほど、と滝川は呟いた。麻衣がぬいぐるみを見たらしい、とは聞いていた。
 滝川は開けっぱなしにしていた運転席のドアから安原を呼ぶ。できあがった護符を渡すと、ナルが急かすような雰囲気で目線を先に動かした。
 あいさつもそこそこに、滝川は車を発進させる。
「その、ぬいぐるみを持ってきた子供というのは?」
「八歳か九歳くらいの子だ。名前は森野ユキ」
「小さいな。その年の子が一人で来たのか?」
「追って父親が来るはずだからとしばらく待っていたが、遅い時間だったのでそのまま帰った。何か依頼があって来た様子だったな」
「んな小さい子を先に行かせるかい。どんな親だ」
「子供に特別おかしい様子は感じられなかった。麻衣になついているということもなかったし。だからぬいぐるみ自体に問題があるんだろうと思った。ここは『九具津村』だろう」
「九具津村? それがどうかしたのか?」
「くぐつ、だ」
「……傀儡、か」
 簡単な書き換えだ。見回してみればこの村には人形を置いたみやげ物屋が多い。傀儡(くぐつ)とは現代で言う操り人形の一種である。かつてこの辺りでは人形作りが盛んであり、それを受けて村の名前に『くぐつ』の音を入れたと考えるのが自然であろう。
「ぬいぐるみと傀儡の村……ここの事件が東京にまで飛び火してるってことか?」
「そう思ったんだがな。麻衣は、森野ユキと出かけたそうだ」
 滝川はあいづちの言葉を見つけられなかった。車の中がしんとなる。
 短い沈黙を破ったのは、再び鳴った滝川の携帯だった。
「もてもてじゃん、俺」
 うそぶいた滝川は、ハンドルを片手で固定して電話をとる。
「もしもし。……綾子か」
 先ほどから十分張りつめていた車内の空気がさらに緊張をはらむ。
「……真砂子ちゃんが、動かない? そりゃどういうことだ」



 九畳ほどの和室には、落ち着いたしつらえの箪笥と座卓が一つずつ、さらに小さな本棚と小棚があった。家具はそれですべてである。広々とした部屋の中央部に一組の布団が敷かれ、小柄な少女が体を横たえている。
 枕元に座った綾子は、焦燥に身を焼かれながら辛抱強く彼女を見守っていた。
 先ほど、慌てた様子のジョンが到着した。ナルと滝川はいまだ東京への道中である。
 家人の姿はない。本来ならせめて母親に伝えるべき事態だが、人を呼ぼうと腰を浮かした綾子を止めたのは、年若い友人のすがるような眼差しだった。他人の家には、それぞれ計り知れない事情がある。常識の範囲に収まらないほどの事情を、おいそれと話せない家もあるだろう。
 結局、綾子は知らせなかった。ただ、『具合が悪いようだ』と告げたのみである。
「まったく、ナルったら遅いわね!」
 辛抱強くとは言っても、怒鳴り散らしてはいる。
 布団に横たわった真砂子は、目元をなごませた。
「何笑ってんのよ。ナル? が来るのが嬉しい? ……ハイハイ」
 真砂子のナルに対する思慕は、綾子たち仕事仲間全員の知るところである。気付いていない可能性があるとすれば、それは当の本人だけであろう。
 そのナルは、静岡県から車を飛ばして(滝川に飛ばさせて、というのが正しいが)この場所へ急いでいるはずだった。連絡を取ってから数時間が経過しようとしており、日もすっかり落ちた。
「確かにそろそろ渋谷さんたちも……」
 ジョンが言いかけた時だった。
 玄関の方から、チャイムの音がした。
「噂をすれば、ってヤツね。迎えに行ってくるわ」
「僕が」
 二人が競うように立ち上がった時、驚くほどの速さで足音が近づいてきた。ナルは遠慮会釈なしに上がりこんだらしい。
 ジョンが襖を開けるのと、ナルがその目の前に立ったのは、ほとんど同時の出来事だった。
「ジョン」
 ナルの漆黒の瞳がジョンを射抜く。
「麻衣は」
 ジョンはその瞳をしっかりと見返した。
「家にはおいやしませんでした。オフィスにはメモを残してありますけど、連絡もありません」
 ナルはうなずく。この件に関するコメントはなかった。仕事上のごく事務的な報告を受けたように、すたすたと真砂子の枕元に行く。
 ナルの後から入ってきた滝川が、控えめに手を上げて中の人間にあいさつした。
「原さんは」
「これでも昼間よりは多少回復したのよ」
 回復したと言っても全力を込めて指先がぴくりと動くくらいなのだが、このままずっと動かないのではないかと衝撃を受けていた綾子には、ひどくほっとした事実だった。
 厳しい顔でうなずいたナルは、あいさつもそこそこに腰を下ろした。
「原さん。聞こえてるんですね。口が動くなら、はいかいいえで答えて下さい。無理に声を出す必要はありません」
 はい、と真砂子は口を動かした。
 メンバーが真砂子の布団を囲むようにして座った。メンバーと言っても、リンと麻衣、安原はいない。八人中三人が抜けたメンバーは、やけに少なく感じられる、とみんなが思った。
 ナルの静かな声が質問を紡ぐ。
「体がほとんど動かないと聞きましたが、事実ですか」
『はい』
「以前にこういった症状を起こしたことがありますか」
『いいえ』
「原因の予想はつきますか」
 真砂子はきっぱりと意思を込めた目でナルを見た。
『はい』
 ナルは無感動にうなずいて、言葉を続ける。
「それは超自然的な原因ですか」
『はい』
「誰か、ないし何かが故意に行ったことですか」
『はい』
「その相手が分かりますか」
 この答えもイエスだった。
 一同が身を乗り出す。今一番重要なのはそこだった。
「それは、ユキという少女ですか」
『いいえ』
「その父親ですか」
 真砂子はもどかしそうにしたが、結局何か伝えるべきことをあきらめたようだった。
『いいえ』
 答えは、それだけである。
「ではその母親ですか」
『はい』
 ナルはなるほど、とうなずいた。
 顔をしかめたのは滝川だった。
「母親ぁ? 唐突な話が出てきたなぁ」
 ユキの父はユキをSPRにやっておきながら現れなかったという前歴がある。怪しいとにらまれていたのは彼だ。だが、母親の話は出ていなかった。
 滝川のひとり言には構わず、ナルは続ける。
「彼らはリンの家にいましたか」
 視線がナルに注目した。
『はい』
「リンの家?」
 ナルはそっけなくうなずく。
「リンの行方が知れなくなった後、安原さんに調査を頼んだ。リンの家には女性が住んでいるということだった。二十代の女性だ」
「同棲かぁ? 初耳だな」
「僕もだ」
「で、リンはどこに行ったんだ?」
「さぁ、一緒に住んでいるかもしれないという話だったが」
 ナルの視線が再び真砂子に戻る。
「家の中に、リンはいましたか」
『……はい』
 真砂子はまた何か言いたそうにした。
「生きていましたか」
『はい』
 一同からため息がもれた。
 ナルは少し考え、次の質問をした。
「では、ユキという少女は、生きている人間ですか」
 真砂子は軽く眉をひそめた。
『……いいえ。はい。……いいえ』
「分からないなら構いません」
『はい』
「父親は生きている人間ですか」
『……はい』
「その母親は、どうですか」
 真砂子は息を吸い込んだ。
『 いいえ 』
 ナルはまたうなずいて、滝川を振り返った。
「ぼーさん、安原さんに電話を」
「どうすんだ」
「ユキの母親を捜す。九具津村の関係者のはずだ。事件が起こり始めた今年始めには死んでいる。これではあまりに情報が少ないが、やらないよりましだ」
「了解」
 滝川はすぐさま携帯をとりだし、安原に電話をかけはじめた。
 ナルは立ちあがり、彼を見上げる面々を見渡した。
「ぼーさん、原さんを連れてここから移動してくれ。松崎さんとジョンには僕と一緒にリンの家に行ってもらう。麻衣はたぶんそこにいる。文句はありませんね」
「どうすんのよ」
「時間がない。道々説明する」



 ああ、本当、と、麻衣を見た恵菜の第一声はそんなものだった。
 ユキはうさぎを抱いて床に座る。恵菜からもリンからも離れた位置に。
「役に立つ?」
「ええ。お疲れさま、ユキ」
 恵菜は鷹揚に微笑んだ。おざなりな笑いかただわ、と感じてユキは肩をすくめた。
「顔を思いきり柱にぶつけてまで連れ出してきたんだから、役に立たなきゃ困るわよ」
「大丈夫?」
 恵菜は心配そうに言うが、ユキの傷にふれてくれようとはしない。わかっていたことだったが、ユキはいらついた。
「リンもありがとう、この子なら本当に役に立つわ」
 リンは答えない。彼にかかっている術のせいなのか生来の性格のなのかユキにはわからないが、彼はいつも黙ってソファに腰かけていた。もっとも腰かけさせているのは恵菜であって、彼の意思によるものではない。
 ユキは頬の傷を自分でなぜた。
「……ごめんなさいね」
 恵菜は言う。
 麻衣に向かって、だ。だが結局恵菜は麻衣を利用するのだ。そのために連れてきたのだ。
 麻衣はぐったりとして目を閉じ、床に横たわっている。血を抜いたりしたらそのまま死んじゃいそうだわ、とおぼろげにユキは思った。麻衣の体はひどく細く、こうしてリンや恵菜の間にいると大人としてはかなり小柄な方なのだとわかる。
 この体で強い人間ぶってくるくる立ちまわるんだからお笑いだわ、とユキは心の中で独白した。危険だと本能的に察知していたようなのに、怪我をして子供ぶってみせただけでのこのこついてきた。母親以上にお人好しだ。
 そのお人好しなはずの恵菜は、用意していた注射器とガラスのボウルを持ってきて、不器用な手つきで麻衣の細い腕を探った。
 真っ白な腕の腹にガーゼを押し当てると、そこに注射器の針を刺した。血を抜くための、ひどく太い針の注射器だ。
 恵菜は以前に看護婦の勉強をしたことがあると、ユキは聞いていた。恵菜は不器用だからいい看護婦だったとは思えないが、一通りの知識はあるらしい。
 大きな注射器のピストンを恵菜がゆっくりと上げていくと、それにつられるように赤い液体が筒にたまっていく。筒が赤で一杯になる頃、麻衣が身じろいだ。
「ん……」
 うっすらと目を開けた麻衣の額に、静かな動作で恵菜が人差し指を押し当てた。跡がつきそうなほど強く。
 麻衣が痛みにか恐怖にか、声をあげようと口を開く。
 だが、その口からは息のようなかすれた声しかもれなかった。わずかに体が上下する。簡単ではあるが、恵菜の術がかかったのだ。
 恵菜は無駄にもがく麻衣を変わらない静かな目で見下ろすと、注射器にたまった血をボウルに全部開けた。
「う……っく」
 苦しげなうめきだけが麻衣の口からこぼれる。身動きをほとんど封じられたことが、苦痛なのだろう。
 恵菜は唇をかみしめながら冷静にもう一度麻衣の腕を探った。先ほどとわずかにずれた場所に、また太い針を刺しこむ。病院の検査とは違うのだ、献体の健康に与える影響など、考えてはいられない。
 ただ、殺さぬよう。返せば、殺しさえしなければ。
 今度は明らかに痛苦のためだろう、麻衣の目からぼろぼろと涙がこぼれた。息が荒くなり、腕が小さく痙攣しているのが分かる。
 恵菜は、料理に使う中くらいのボールに鮮やかな抜きたての血をたっぷりためるまで、麻衣の体から血を抜きつづけた。
 ほう、と恵菜のついた重いため息が作業の終わったことを辺りに告げた。
「ユキ」
 恵菜は赤い血の満たされたボウルを両手で持ち、ユキに差し出した。心得ているユキは、それを黙って受け取り、バスルームへと足を向けた。
 ユキの姿を見送った恵菜は、数秒間固く目を閉じると、麻衣の体を抱き起こした。小柄な麻衣だが、恵菜もけして大柄な方ではない。筋力があるわけでもない。相当な努力をして麻衣の体を持ち上げ、なんとかかんとか寝室へと運び込んだ。
 誰の助力も借りることはできない。
 恵菜には、頼るべき人物はいない。ユキを育てることを決めたときから、恵菜は一人で世界を裏切らねばならなくなったのだ。
 細い麻衣の体を背負うと涙が出てきた。
 泣きながら麻衣を運んで寝室のベッドに横たえ、布団をかけた。麻衣は、まだ涙にぬれた目で問うように恵菜を見つめていた。
「あ……の」
 かすれた声がそれだけ言葉をつむぐ。
 恵菜は首を振った。
「貧血を起こすと思います。お休みになってください。なんとか……帰して差し上げますから」
 麻衣は丸い目を少し見開いた。
「服は、汚れていたので洗濯しています。勝手に脱がしてごめんなさい。でも、その……私がやりましたので」
 麻衣は、確認するように目線だけ自分の体にやった。恵菜の服は少しだけ大きいが、恵菜より年若い女性が着てみっともないものではない。
 恵菜はそれ以上話をすることを避け、ベッドの脇から立ちあがった。居間に戻ろうと足を向け、あまりの足の重さに少しだけ立ち止まった。
「これを言っては卑怯だと思いますけど……ごめんなさい。あなたにしたことも、リンを連れて行くことも。許されないということは、知っています」
 恵菜は気力を振り絞って寝室を出た。
 かわいらしい女性だ、と思う。恵菜より六、七才年下だろうか。こんな状況でなければ、抱きしめたくなるほどかわいらしい子だった。細い手足も、愛嬌のある顔立ちも、漏れ聞いた声も。
 そんな娘を泣かせた己が手の罪深さに、恵菜は少女のように膝を抱えて泣いた。
 幸を生かすためには、幸を本物の人間にするためには、人の血が必要だ。人の骨が必要だった。たくさんの人間を殺した。廃人にした。
 恵菜の手は赤く汚れている。
 ならば、幸を見捨てるか? 幸を殺して、それでお終いにするか?
(それだけは、できない)
(命を選択しなければならないなら、私は幸の命を選ぶ)
 たとえ幸が、抱きしめてやることもできない偽ものの人間であっても。それが何だと言うのだろう? 偽ものか、本物か、それがそれほど大事か?
(私が大事だと思う人が、私の大事な人よ。簡単なことだわ)
 簡単であると言うことは、平易であることと同一ではない。
 恵菜は泣く。
 その涙を止めたのは、今まで黙って一部始終を見ていたリンだった。
「……痛覚が麻痺してきたようです」
 その言葉に驚いて、恵菜は泣くのをやめてしまったのだった。
「どうして? 痛覚なんて、とっくに」
 なくなっているはずだった。
 恵菜の術は、対象を人形にする。何度も繰り返し術をかければ、少しずつすべての感覚や神経が麻痺していく。痛覚、筋肉、そんなものはかなり初期に麻痺するはずだった。
「ええ、痛みはありませんよ。もうずいぶん早くから」
 リンは、低いあまりにほとんど感情を感じさせない声で言った。
「体の痛みに関しては、ですが」
 では、彼が麻痺してきたと言っているのは、心の痛みのことなのだ。彼に残されたわずかな理性が、恵菜が麻衣にしたことを皮肉っているのだろう。恵菜は唇をかんでリンの目を見た。
 非難は甘んじて受ける。そのために恵菜の心だけは死なずにある。人形にならずに、ある。
「……その方が、楽でしょう?」
「ええ。それは、そうです。心を持ったまま見ているよりは」
「そうね……」
「あなたは、なぜ心を捨てないのですか?」
 単調に問いかけられた質問に、恵菜は微笑した。それは、感情をともなわない単なる疑問のようだった。
「私は人形にはならない。母親が人でなくなってしまったら、幸はけして本当の人間になれなくなってしまうわ。あの子を産みだしたときから私の生きる道は決まったの」
 リンは目でうなずいた。首をうなずかせることができないからだ。表情の乏しいリンだから、そうしていると本物の人形のようだった。
「早く、幸が人間になってくれたら……私は安らかな眠りにつける。その時は、リン、一緒に来てくれる?」
「選択権はないでしょう」
「ごめんなさい……」
 それきり、リンは何も言わない。
 そういう風にしたのは、他でもない恵菜である。彼にかけられた術はすでに体の機能を支配し、心の深いところまで侵そうとしている。同僚への暴力を黙ってみていられるほどに、彼の心の痛覚は麻痺している。もうほとんど、リンという人間個人ではなくなっていると言ってもいい。
 そうしたのは恵菜なのだ。もう一粒だけ涙をこぼし、恵菜はうつむいた。


 ピンポーン――ピンポーン。
 突然チャイムが鳴り、恵菜は顔を上げた。
 二回連続のチャイムということは、オートロックの内側、部屋のドアの目前で鳴らされたチャイムだと知っていた。音につられるように時計を見る。夜の八時を指している。まだそれほど遅い時間ではない。近所の人間だろうか。
 リンに出てもらうか、と恵菜は少し彼の顔を見た。人形師である恵菜には、自分の人形に簡単な動きを命じることくらいはできる。だが、危険な賭けだ。遠隔操作はできないからすぐ側にいなくてはならないし、それは来客に対してあまりにも自分の存在を印象付けてしまうだろう。
 近々ここを逃げ出すことを考えて、恵菜は当初辺りを一緒に歩いて見せたりした。突如姿が見えなくなるよりは効果的だろうと考えたのだ。結婚して引っ越したとでも噂が立ってくれれば万歳だ。
 だが、リンの直接の知り合いに恵菜の顔が売れてしまうことは得策ではない。リンが、助けを求めてしまう可能性もある。
 自分が出るか、と恵菜は立ちあがった。
 インターホンの通信ボタンを押して、答える。
「はい」
『リンを出してよっ!』
 スピーカーから飛び出した女の声に、恵菜は面食らった。
「どちらさまでしょう?」
『アヤよっ! リンを出して!』
「アヤさまとおっしゃいますと……」
『あんた、誰よ? アタシを知らないなんてどこの馬の骨? ぐだぐだ言ってないでリンを出しなさいよっ!』
「……少々お待ちください」
 インターホンを切ると、恵菜はリンを振り向いた。
 リンは恵菜に背を向ける形でソファに座ったまま動かない。そこから少し離れて本を読んでいたユキが、顔を上げた。
「知り合い……ですか」
「ええ」
 リンの返答は短い一言だった。少し迷った後、恵菜は言った。
「一緒に、出ていただけますか」
「拒む自由はないでしょう」
「……そうですね」
 恵菜はリンに近づき、その額に人差し指の先を当てた。指の先から力が抜けていく感覚がして、リンの体が立ちあがった。恵菜は彼の腕に遠慮がちに手をかけ、玄関へと導く。不器用な歩き方ながら、リンは恵菜の歩調について歩き出した。
 チェーンをはずし、玄関のドアを開けた。
 そこには流行の服装で固めたかなり美人の女が立っていて、きれいに化粧した鋭い目でリンと恵菜を見比べた。
 かと思うと、とたんに相好を崩して泣き出しそうな顔になる。
「どうして……どうしてそんな女と……リン……」
「あの、私」
「あんたは黙っててよっ!」
 鬼のごとき形相で怒鳴りつけられる。
「はあ」
「ねぇ、どうして何も言ってくれなかったの? アタシ鬱陶しかった? わがままだった? そりゃアタシはこんなだし、アンタはいつだってそうだし、アタシ自分勝手にやってばっかりだったけど……でも、だからって嫌味みたいにこんなぼーっとした女選ぶことないじゃない!!」
 そう言って女は、ビシッと恵菜を指差す。
 恵菜は思わず自分を指して首を傾げてしまった。
「ぼーっと……してますか?」
「この受け答え! アンタ、今どういう状況だかわかってんのッ!?」
 女は頭を抱えてうめいた。
「どういうって……修羅場、ですね……」
「ああああっ!! そんな天然ぼけぼけ能天気なこと言ってたら、アタシがリンを取っちゃうわよッ!! しっかりしなさいよ! アタシが言うのも変だけど!」
「えっ、でもっ、これだけはっきり宣戦布告をしていただけると、私としても敵愾心がわきにくくて!」
「普通逆でしょ!」
「見えないところで執念を燃やしていただくよりは……いいです」
 変な女、とアヤはげんなりしたように呟いた。
「でもっ! そんな風に余裕をこいていられるのも今のうちよ。こっちにはなんと言っても切り札があるんだからね」
 なぜか、どちらかというと楽しそうに、アヤは腰に手を当てて胸を張って宣言した。そして、両手をお祈りポーズにして、リンに迫る。
「リンッ! まさか忘れてないわよね、あなたには子供がいるのよ」
「ええっ!?」
 恵菜は思わずリンの腕を放して顔を覆った。
 リンはいつもどおりの無表情ながら、どこか困っているようだった。
「……それは、まさかナ……その……一也のことですか」
「ほ、本当なんですかっ!?」
 恵菜はショックのあまりよろめき、うつむいてしまう。
「……そこ、簡単に泣かないの! 大人でしょ!」
「は、はい、ごめんなさ……」
「なんなのもう、うっとおしいわね!」
「……アヤ」
 迷うようにして彼女の名前を呼んだのは、リンだった。
「私たちを放っておいてください」
 アヤは呆然としたようだった。
 恵菜は、リンを見上げる。リンはいつもの静かな無表情だった。それが恵菜の術のせいなのか、彼自身の感情を表したものなのかは分からない。すでに心の感覚も麻痺しかけているはずだから、どちらかといえば前者であろうと思われた。
「これはそちらに不利な駆け引きなんです。私のことは忘れてくださって結構。放っておいてください」
 アヤに目を移す。リンとどういう関係だったのかは推測するしかないが、浅からぬ関係であったことは確かだろう。このような言葉を聞いて、どれほどのショックを受けただろう。
 胸を締め付ける痛みと息苦しさとを感じて、恵菜は唇を噛んだ。それでも、胸の内に後悔だけは見つからなかった。



 麻衣は、誰かの話す声に目を覚ました。
 休んでくれと女に寝かされてから、本当に体力を消耗していたのかすぐにうとうととしてしまった。眠りに落ちた時、扉の外では静かな話し声がしているだけだった。今聞こえてくる声は、それよりずいぶんと激しい調子のような気がする。状況が動いたのだろうか。
 体を動かそうとすると、術のかかりが浅かったのだろうか簡単に動いた。腕にしびれたような感じが残り動悸が早い気がしたが、苦しいほどではない。
 目線だけを動かして、辺りの様子を確認する。クローゼットとベッドだけが置いてある簡素な部屋。寝室だ。その間取りや壁紙などのインテリアに麻衣は見覚えがあった。リンの家だ。
 これはどういうことなんだろう、と麻衣は自問した。
 半分夢うつつの中、麻衣はリンと女の話を聞いていた。リンがいた。女やユキと一緒に行動しているようだった。
 ここに麻衣を連れてきたのはユキで、首謀者は女のようだった。ユキの母親だろうか。
 目的がはっきりとわからない。
 女は――リンが恵菜と呼ぶのが聞こえた気がする――血を採って、何にするつもりだったんだろう。
 順番に考えていくうち二人の会話をを思い出して、麻衣は重い両手で顔をおおった。
(『あなたは、なぜ心を捨てないのですか?』)
 その言葉に込められた、リンの無感情さが胸に痛かった。いくら彼が感情に乏しいとは言っても、本来なら敵愾心を剥き出しにしていてしかるべき状況であろう。彼の言葉はひどく静かだった。麻衣やナルと話す時と変わりない、平静な調子だ。リンにとって、彼女は支配者でなく、加害者でなく、ただの一人の人間なのだ、としか思えなかった。
 そう思えた理由は、麻衣自身の胸にもあった。麻衣にも、今や彼女を憎む気持ちは薄かったのである。真摯な表情と言葉にふれて、よほどの事情があるんだろうな、と思えてしまうからだ。
 麻衣はため息をついた。
 その時、ふと玄関の方から聞こえる声に聞き覚えがある気がした。麻衣は思わず物思いも忘れて瞬いた。
(綾子……?)
 だるい体を起こして、ベッドを抜け出そうと試みる。
 その時、背後でカチリ、と異音がした。
(だれ……!?)
 声がうまく出ず、麻衣は息を飲んでベランダへ続く大窓を振り向いた。外も中も暗く、目覚めたばかりの目では何もまともに確認できない。
 カーテンは夕方から開きっぱなしになっていた。下半分すりガラスの入った窓からは、ベッドに半分体を起こしただけの姿勢のせいもあり、外の様子がよく見えない。
 真っ暗で、何もいない、ように見える。
 ただ、いつのまにか窓の鍵が外れている気がして、麻衣は冷や汗が吹き出るのを感じた。逃げようにも、体が言うことを聞かない。
 カタカタカタ――。
 窓が静かな音を立てるのが、静寂の中にはっきりと聞こえた。
 すべるように窓が開いて、闇が部屋の中にもぐりこんできた。
 麻衣は息を詰めた。
「……静かにしてろ」
 影が聞きなれた声でささやいた。
 麻衣は目を見開いた。
「ナ……」
 思わず声をあげそうになって、一挙動で近づいてきた影に口をふさがれる。
「黙ってろと言っているのが」
 みなまで言わせずに麻衣はこくこくとうなずいた。
(助けに来てくれたんだぁ。じゃあ、外のはやっぱり綾子……)
「逃げるぞ。立てるか」
「ん……」
 笑ってベッドを降りようとしたが、その途端頭が真っ白になって床に倒れこみそうになる。ナルの腕がすっと差され、麻衣の肩を支えた。貧血状態になっているのだ。
「……立てません」
 ナルはいらだったようにため息をついた。ごめん、と続けるより先にふわりと体が浮いて、麻衣はまた声をあげそうになるのをすんでのところでこらえた。横抱きに抱き上げられたのだ。
「……ありがと」
 どちらかというと細いナルの首に腕を回してしがみつきながら、麻衣は小さくささやいた。
 ナルの返事はなく、そのままベランダに連れ出された。
 夏の夜風が、貧血でぐらぐらする麻衣の頭に吹いていく。ナルは隣室のベランダとの境に歩いて行った。
「ジョン、受け取ってくれ」
「ハイです」
 隣室のベランダにはジョンがいて、彼らを待っていた。リンの部屋のとなりといえば、ナルの家ではないか。
 麻衣は彼らがあっさり潜入できた理由を知った。
 ジョンはいつもの優しい笑みを浮かべ、麻衣を見る。
「怖かったら、目を閉じておいてください。ちゃんと受け取りますのんで」
 ベランダとベランダの間には三〇cm以上ある。二人にうまく渡してもらえなければ、麻衣が地上まで五階分の距離を落下するには充分な隙間があるのだ。
 そのことを思いだし、ぎゅっと目をつぶった。
「かなり重いから頼む」
 ナルが冷たい言葉を言うのが聞こえたが、なぐったりしてバランスを崩されでもしたらたまらない。黙って聞いていた。
 高く持ち上げられ、麻衣は体を縮めた。
「ハイ、もう大丈夫ですよって」
 ジョンのやわらかなささやき声に目を開けると、麻衣の体はナルの家のベランダ側にあった。麻衣をジョンに渡したナルは、なぜかもう一度リンの家の方へ戻っている。
「……ナル?」
「鍵を閉めてくるんでしょう」
 カン、と小さな音がしてナルはすぐに戻ってきた。
 ナルはベランダ同士の境をひらりと飛び越え、自分の家の中に入る。麻衣はジョンに降ろしてもらい、少しふらつきながらナルを追いかけた。
「ナル、PK……」
「仕方ないだろう」
 彼の使うPK、いわゆる超能力には、ひどいリスクがともなう。あまりに大きな力のため、今は亡きジーンの助けなしに使うと場合によっては彼の心臓を停止させてしまうのだ。ジーンさえいれば彼を増幅装置に使うことによって消耗しないで済む。しかし、ジーンはもういないのだ。
 それゆえ普段ナルはその力を使わない。ナルのPKは本当の緊急手段だった。
 ふらふらしている麻衣を黙って支えたナルは、彼女を居間のソファまで連れて行って座らせるとジョンをちらりと見た。
「ジョン」
「ハイ」
 ジョンはわかっていますというようにうなずくと、玄関から外へ出ていった。
 麻衣はソファに沈み込むように体を預けた。目の前が白と黒でぐるぐる回っていて、今にも倒れそうだった。
 最後にナルと会ったときのことを思い出す。ひどい言葉を浴びせられて、怒りに燃えていたはず。けれど、彼が持っていろと押しつけた本はなぜか護符としての機能を持たされていた。
 何を信じたらいいのか。彼を信じていいのか。
 目の前が回った。
「休んでるひまはないからな。すぐにここを出る。歩けるな」
「……努力する」
 ナルは腕時計をちらりと見ると冷たく、行くぞ、と言って玄関の方へ行ってしまった。麻衣は腕に力をこめ、なんとか立ちあがる。
 玄関まで行くと、先に行っていたナルが壁にもたれている。麻衣はあわててしまった。
「ナル! 具合悪いんじゃ……」
「別に」
「強がり」
 ナルはゆっくりとドアを開け、隙間から外を確かめてすばやくそこを出た。麻衣もその後に続く。
 逃げ出してきた場所のとなりにいることが危険なことは、麻衣にもわかった。麻衣が出ると、ナルは家の鍵をしっかり閉める。今にもとなりのドアが開きそうな気がして、麻衣はだるい体を叱咤して小走りにマンションを出た。
 誰も追いかけては来なかった。マンションの外の空気を吸うと、逃げてきた、という気がした。
 ナルは一歩分先にさっさと歩いて行ってしまう。麻衣はぼーっとそのあとをついて歩いた。
 そうしていたら、なんだかふつふつと腹が立ってきた。
 あの本はなんだったのか。護符を組み込んであったということは、初めから危険が想定されていたということである。それならば、危ないんだと、一言言っておいてくれればよかったではないか。散々馬鹿にして役立たずだと決めつけて訳のわからない仕事を押しつけて、話をちゃんと聞いてもくれなかった。こちらの思う通りになればそれでいいとばかりに、操られた。
 なんだか胸が痛くなった。
 なのに、PKを使ってまであそこから出してくれた。
 考えの読めない背中を麻衣はにらみつける。
(ずるいよ)
「どうして」
 麻衣の言葉に、ナルは振り向かなかった。
「何が」
 その声の切って落とすような調子に、ナルが怒っていることを麻衣は知った。
(怒るくらいなら、どうして)
「なんで助けに来てくれたんだよ。死んだって仕方ないんじゃなかったの」
「いい加減にしろ」
 ほとんど吐き捨てるように言われた言葉に、麻衣は足を止めた。
「助けて欲しくないなら、もう一度戻してやるが」
 棘のある言葉が体に突き刺さって、麻衣はうつむいて泣き出していた。
 何を信じればいいのか。
「……ごめん」
 麻衣はその場に立ちすくんでしまう。
 その麻衣の手を、ふと、一回り大きな手が包んで前に引いた。
 麻衣は驚いて上げた視線は、黒衣の背中にぶつかった。麻衣の手を引いて歩いてくれる人の。大きな。
「――お前はまだ生きてる」
 苦々しく呟いた低い声に、麻衣はしゃくりあげながらうなずいた。
「……ごめん、信じる。信じてるよ……!」









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