the doll maker
   〜第四章 人形師



2、

 外に出ると、麻衣はまず公衆電話からナルの家に電話をかけた。呼び出し音が鳴るばかりで、一向に出る様子がない。恵菜たちのとなりの部屋へ帰るほど、ナルは無防備ではないということだろう。
 次はオフィスの電話にかけた。これにも応答するものはいない。
 深呼吸をし、意を決して、リンの家のナンバーを押した。
 トゥルルルル……。
 いつかの夜のように、呼び出し音が鳴り続ける。麻衣は緊張してその音を聞いていたが、十回コールがなっても出るものはいない。
 麻衣は勢いよく電話を切ると、通りを見回してタクシーを止めた。
 リンの家には、恵菜とユキがいるはず。家にいるならばどちらかが出ていいはずなのだ。それが誰も出ないということは、出られない状況なのだと、考えてもいいのではないだろうか。
 タクシーが夜の街を走る。
 ナルに除霊能力はない。PKが唯一の対抗手段だが、鍵をはずす程度のことならともかく、霊に対するのにこれを使えばナルの命が危うい。恵菜たちに抵抗されれば、ナルになすすべがあるのかどうか、かなり怪しいところなのだ。
 ジーンがいればともかく。
 『手伝ってもらおうとは思わない』?
 ……馬鹿な。
 ナルはみんなの助力を心底必要としていたのだ。
 つのっていくあせりでいらいらとしながら、麻衣はリンの家に近づいていく外の光景をにらむように見つづけていた。
「え……?」
 視界に、見慣れた黒い姿が映った。
「すいません、ここでいいです、止めてください!」
 あわててタクシーを降り、麻衣は通りすぎて行くタクシーの車体越しに向かいの通りを見た。背筋を伸ばし、感情をうかがわせない無表情でどこかへ向かって足を進める人影がある。だが、その足の向かう方向は、リンの家ではない。
「ナル!」
 声は、夜の通りを往来していく車の排気音にかき消されそうになった。
 だが、ナルは大通りを挟んだ向こう側で、不思議そうに辺りを見回した。麻衣を見つけられないのだ。そのまま肩をすくめて歩き出そうとした姿に、麻衣はガードレールから身を乗り出して大声を上げた。
「ナル、こっち!」
 ナルの瞳が、麻衣をとらえる。遠目にも驚いたように目を見開いた彼に、麻衣は少し笑って手を振って見せた。ナルの顔が、驚きから変わってしかめられる。
「待ってて、そこにいてね!」
「何をしにきた」
 よく通る声が、横断歩道を探して走り出そうとした麻衣の動きを止める。麻衣は振りかえり、怒鳴り返した。
「ナル一人じゃ、危なくてほっとけないからだよ!」
「自分の実力をよく考えてから言うんだな」
「ナルよりマシだもーん。退魔法も使えないのに、普通鬼にかかっていこうとするー?」
 車の流れで向こう岸の様子は見えたり隠れたり、ナルの表情はよく見えない。人通りが少ないのをいいことに、麻衣は大通りを挟んで怒鳴り合うように声を交わす。
「僕にはお前にない頭脳があるんでね」
「あたしにはナルにない体力があるやい」
「言ってろ」
「頭でっかち」
「馬鹿よりマシ」
「意地っ張り」
「能天気よりマシ」
 車の流れが止まった。信号が赤に変わったのだ。
 麻衣は左右を見回して、ガードレールを乗り越えた。広い通りを思いきり走って横切る。レールをもう一度越えると、ナルの目の前に立ってその静かな表情を見上げた。
「来ちゃった」
「見ればわかる」
「ごめんなさい」
「……」
「駒くらいの役には立つと思うよ?」
「……どうだか」
 ナルはふいと目をそらして歩き出す。麻衣はそのあとをちょこちょことついて歩いた。
「どこ行くの?」
「どこへ行こうか考えてたところ」
「リンさんちに行くのかと思った」
「行った」
 麻衣は少し驚いて彼を見上げた。
「早いね」
「誰もいなかったからな。すぐ済んだ」
「そうなの?」
 それで、誰も電話に出なかったのだ。いったい彼らはどこへ行ったのだろう。
 ナルは肩をすくめる。
「いつ戻ってくるかわからないから僕の部屋は危険だ。オフィスも知られてる。どこへ行くべきかな」
 どこへ行ってもある程度の危険はともなう。だが、ユキやリンが直接行ったことのない場所なら、多少危険度は下がるだろう。
 ふと麻衣は鞄を探った。
「あのね、ぼーさんから護符預かってきたよ」
「へぇ?」
 ナルは少し眉を上げたが、それだけだった。
「これで多少安全なんじゃない?」
「多少はな」
 二人は何となくあてもなしに歩き始めた。夜の道は暗く、道を示す街灯も暗くて、あてどもないこの先を思わせた。
「リンさんたち、どこに行ったんだろう……」
 ナルはズボンのポケットから一本のペンを取り出した。そして、ため息をつく。
「こんなものでなんとかなるのか怪しいが……」
「サイコメトリ?」
 ナルにはサイコメトリという超能力がある。物を通してその持ち主の過去や現在を知ることができるという能力で、彼は昔この能力で失踪した人間を探し出した実績があった。
 だが、PKと同様、彼の能力には制限がある。制限というよりは、無制限なあまりの弊害だろうか。持ち主とあまりに深い同調をしてしまうため、特に相手が死んでいたりする場合、精神に受ける傷から同調相手と同じような傷を肉体にも浮かび上がらせてしまったりするのである。
「それ、リンさんのペンなの?」
「そう。リンの家から持ち出してきた」
「不法侵入じゃん」
「言ってられるか」
 麻衣は首をかしげた。サイコメトリは、相手の持ち物、特に普段使いにしていて思念の焼き付いているものを使えれば都合がいいと聞いた。リンのふだんよく使うものといったら仕事道具、ペンなど充分ではないのだろうか。
「リンさんの今いる場所を見ればいいんでしょ? ペンじゃいけないの?」
 ナルはうっとおしそうな顔をした。
「居場所はわかる。だが、何のために移動した? 僕らの動向に気付いたからか? 逃げたのか? 策があるのか?」
「あたしに聞かれても」
「そういうことを知るには、奴らの手先になっているリンを視るだけでは心もとないということだ。恵菜の持ち物があればよかったんだが、何も残ってなかったからな」
「恵菜さんのもの、かぁ」
 恵菜はあそこにどれほど私物を置いていたのだろうか。思い出せないかと考えてみて、ふと麻衣は簡単なことに気がついた。
「あるよ、恵菜さんのもの」
「何?」
「あたしが今着てる服。恵菜さんが貸してくれたの。これでできない?」
 ナルはうなずいた。
「充分だ」
 辺りを見回し、手近な店の軒先にナルは歩いていく。喫茶店だろう、軒先に張り出すように板が張ってあって、椅子が積み上げられていた。ナルはその板の上に腰を下ろす。
「となりに座って」
「え、あ、はい」
 麻衣はくるりと回って向きを変え、ナルととなり合わせになる位置に座った。
(ナルのサイコメトリ、ほんとに見るのは初めてだ)
 いつもは誰も気付かない内にやってしまって、やったことすら言わないこともしばしばなのだ。麻衣は不謹慎にもどきどきした。
「少々不安だが、サポートを頼む」
「へ?」
 あさってなことを考えていた麻衣は、仕事の話を続けるナルに間抜けな返事をしてしまう。
 しらじらとした目で見られて、わたわたと手を振って見せた。
「だ、だいじょぶだいじょぶ、ごめんなさい」
 おそるおそるナルの目をのぞき込む。
「で、サポートって……?」
 任せたくない、という言葉がナルの顔に表れたが、他にどうしようもないと覚悟を決めたのだろう、口を開く。
「恵菜の何を見るかわからない。あるいは、死の瞬間かも。状況を見て、場合によっては起こせ」
「ケガをする前に、ってことだね?」
 そう、とナルはうなずいて麻衣のワンピースのすそを手に取る。
 いつもはリンがやっていることだったのだろう。サイコメトリしている間、無防備な姿をさらして身を守ってもらわねばならないのだ。それをいつも任せているということだけ見ても、ナルがどれほどリンを信頼しているのか麻衣にはよくわかった。
(温かい血が通ってんじゃん)
「ねえ、ナル」
 話しかけたが、返事がない。ナルの顔をうかがい、いつのまにか目を閉じていることに気が付いた。あっさりトランス状態に入ったらしい。
(プロだ)
 時間をかけてもなかなかうまくトランス状態になれない半人前の麻衣とは違うらしい。
 信頼してもらえないのも無理はない。意識的に使える能力の少ない麻衣は、計算に入れるには不確定な要素が多すぎる。それが身に迫った。
 ナルの、とりあえずは穏やかな横顔を見ながら麻衣は考える。
(できることは、なんだろう)
 麻衣にできることはいくつもない。
(リンさんのために、無能なあたしができることはなんだろう)
(恵菜さんのために、ユキちゃんのために)
 ナル以上の知恵が働くわけもない。
 奇跡を起こす力もない。
 このままただ見ていれば、ユキは恵菜の愛情を疑ったまま人を食いつづけ、恵菜は消え、リンが連れて行かれ、誰も幸せになんかなれない。
 方法があるはずだ、と思う。なくちゃいけない、と祈る。
 無念の中で殺された恵菜の祈りが、そんな悲しい結末で終わってはいけない、と思う。
 ――終わったことだ。
 この前ナルが言った言葉が麻衣の脳裏に思い出される。
 ナルなら、少なくとも生きている人間だけでも救うことができる。それは、彼が彼の中に持っている冷厳とした物差しのせいなのかもしれない。麻衣には、命を救うためのすべが何一つない。
 なら、自分は。自分には何が。
 麻衣は綾子の家のバスルームで一人泣きながら、ただそれだけ考えた。
 すべて仕方ないことだとナルは言う。
 それで済まされていいはずがないと麻衣は言う。
 流れの中で、理屈の中で、仕方のないことというのがこの世にたくさんあるのだとしたら、麻衣はそうやって終わっていかねばならないものの悲しみを忘れたくないと思う。
 悲しかったね、辛かったね、と言ってあげることしかできなくても、泣いてあげることしかできなくても、少なくともそれはナルにはできないことなのだ。
 その言葉を言うために、麻衣はこの仕事を続けている。
 どうしていいのかも理解できず人を殺してきたユキに。
 奪われた幸せをあきらめられなかった恵菜に。
 彼女たちの痛みを目の当たりにし続けたリンに。
(ナルはできるだけのことをしようとしてる)
(ナルはできるだけの命を助けようとしてる)
(ナルは自分の痛みを捨てようとしてる)
 仲間に人殺しと責められても人を救おうとしているナルに。
 辛いね、と。悲しいね、と。
 仕方ない、としか言えないナルの心の中に本当は作られている他人のためのスペースに。自分さえも駒にしてしまおうとしている理論家のお馬鹿さんに。
(一人で戦わせないよ)
 ふいにナルが身じろぎ、その動きでバランスを崩して床に倒れそうになった。
 麻衣はあわてて彼の体を自分のほうに引き寄せる。地面に寝転がるよりはいいだろう、と膝を貸した。しんとした、強い気持ちが胸を満たしているのを感じる。
 昔、ナルに恋していると勘違いしていたときだったら、無邪気にどきどきして舞い上がっただろう。その時とはまったく違う穏やかな、そして揺るがない気持ちに麻衣は心の奥の方で気付いていた。
 その気持ちの名前は知らない。
 『愛情』という言葉でくくれることは分かっても、それ以上のことは、知らない。
 少しだけ苦い顔をしているナルに、起こすべきなのかどうか迷ったとき、ナルはその切れ長の目を開いた。だが、声をかける間もなく痛みに耐えるようにナルはまた目を閉じてしまう。
「ナル? どっかケガした?」
 せきこむようにたずねるが、返事はない。
「ナル、ちょっとっ」
「……うるさい」
 かすれた声がようやくそれだけ呟いた。
「……どうしたの?」
「起こしてくれないか」
 苦々しく言われた言葉に、麻衣は少し慌てる。
「しょ、しょうがないでしょ、枕にできるものもないし……」
「……」
 それ以上は何も言わず、ナルは目を閉じた。
「だいじょうぶなの? 真っ青だよ?」
「ケガに至るようなら起こせと言っておいたはずだが。お前は言われたこともできないのか?」
「心配してる人間に、なに皮肉言ってるだ、あんたは」
 ナルはしかめた眉をさらに険しくした。
「……ただの副作用だ」
「そう……よかった。……や、よくないか」
 麻衣はナルの顔からそっと目をそらして夜の町を見る。
「しばらく、休んでて」
 それきり麻衣は口をつぐみ、ナルも疲労を押してまで説明しようとは思わなかった。
 疲れているときには人の体温が一番心地よい、と言っていたのはジーンだっただろうか。半分混濁する意識の中何ということもなくナルはそんな言葉を思い出していた。
 似つかわしくない物思いは、事件のせいだろうか。久しく押しつけられることもなかった親切のせいだろうか。
 言われるまま麻衣を大きな枕扱いしてサイコメトリによる体の動揺を落ち着けていたナルは、麻衣の控えめな問いで目を開けた。
「……何か、わかった?」
 ナルが疲れていると思って聞くのを控えていたのだろう。
 ナルは簡単に答えた。
「大したことはない」
「でも、知りたいことはわかったんでしょ?」
「恵菜に、子供はいなかった」
 麻衣は驚いてナルを見る。
 ナルは重い体を起こし、板床の欄干にもたれかかった。
「正確にはまだ生まれていなかった。彼女は殺害されたとき妊娠五ヶ月だったんだ」
 麻衣は口を覆った。妊娠五ヶ月の妊婦が誘拐され、監禁されて殺される。それは想像を絶する悲惨な事件だ。
 ナルは事務的に続ける。
「加害者は、九具村に住んでいた、久保田という男。森野恵菜は一年前に結婚して当時妊娠中だったが、久保田は以前から恵菜に執着していたらしい。彼はひどく偏屈な性格だったらしく、彼女に言ってみることもしなかった」
「アタックもしないでいきなり無理心中? 頭おかしいんじゃない」
 おかしかったんだろう、とナルは肩をすくめる。
 正常な人間なら、恋愛感情の末に人を監禁して殺したりはしない。
「今年の二月六日、恵菜は久保田の家に拉致監禁された。殺したのは監禁してから一週間後。久保田は椅子に縛り付けていた彼女を包丁で刺し殺し、その後すぐ同じ包丁でのどを切って自殺した」
 椅子に縛られて一週間をすごし、なすすべもなく殺された恵菜の心中がいかなるものであったか、誰も知るものはいない。
「久保田はまず恵菜の腹部を刺し、問答の末頸動脈を切断して殺害した。恵菜の遺言は、『自分はモノじゃない』、と」
 麻衣は抱えた膝に顔を押しつけた。
 産めなかった子供。奪われた家庭。人形のように扱われて殺された彼女。
「恵菜は夫と話し合って子供の名前を決めていた。『幸せ』という意味の名前を付けようと。『ユキ』は生まれなかった彼女の子供だな。彼女にとって何より大事なものなんだろう」
 麻衣はうつむいたまま何も言わない。
 麻衣がそういうことを割り切れない人間だと、ナルは長いつきあいで承知している。リンや麻衣のような人間が恵菜に同情するという状況も、分かる。理解はできる。
「……助けられないのかなぁ」
 しつこくそんなことをうめいている麻衣に、ナルは嘆息した。
「お前はまだそんなことを言ってるのか」
「浄霊できないかな? ほんとにできないかな?」
「足を引っ張りに来たのか?」
「そういうんじゃない。でも、あんまり恵菜さんがかわいそうだ。このまま消えちゃうんじゃ、それでユキちゃんも助からないんじゃ、かわいそすぎるよ」
 あるいはジーンならできたかもしれない、世界有数の霊媒だった彼なら。意識の裏側でナルはそう思う。
 だが、いなくなってしまったものをいつまでもぐだぐだ言っていても何も進展しないのだ。
「試してみれば。邪魔にならない程度なら」
「無理だって言うの?」
「無理だろうな。恵菜はもう死んでる。あきらめろ」
「あきらめるなんてできないよ!」
 ナルはもう答えなかった。いくら麻衣がこだわったところでどうにもできなものはできない。それをナルは理解していた。
 重い沈黙が訪れた。
 恵菜を除霊したなら、リンも悲しむのだろうか。ナルは疑問に思う。綾子や麻衣の言葉が事実ならばそうなるのだろう、とも思う。だからといってどうすればいいのかはわからなかった。
 仕方がないのだ。
「まだもめてるの?」
 ふいに誰かが口を挟んだ。
 ナルは少し目を瞬く。
「え?」
 麻衣もまたあわてたようにし、すぐにはっとしてポケットを探った。そこから取り出されたものは……手鏡、だ。
「――ジーン」
 麻衣がその名をささやく。
 ナルも麻衣も、その手鏡の中に映った暗闇に見入っていた。それは、辺り一帯を包む夜の闇ではない。一筋の光もない、果てなき闇だった。
「いいんだよ」
 どこから聞こえてくるのか分からない声が、静かに穏やかにそんな言葉を紡いだ。
「いいんだよ、向こうの世界に送ってあげて。恵菜はもう死んでるんだ。それにつきあってリンが死ぬ必要はないし、そんなに罪悪感を感じる必要もないんだ。言っただろう? 麻衣。麻衣みたいに思ってくれる人がいればそれで十分だよ」
 ふ、とすぐ横で声がもれたのが分かってナルは麻衣を見た。
 麻衣はぽろぽろと涙を流していた。
「……ごめんね、リンさん。ごめんね、恵菜さん。ごめんね、ユキちゃん……」
(ああ、泣けばいいのか……)
 驚いたように自分が思っていることを、ナルはひどく客観的に見つめていた。
(僕がなぐさめを言う必要はない。僕が泣いてやる必要はない)
 その代わりに感情を露わにし、心から泣いてやる人間がいる。
 となりで泣いている麻衣は、彼の理性の世界にすら一種の懐かしさを喚起した。昔それらのことはすべて、ジーンに任せていればよかった。彼はいなくなった。いないものを惜しんでも仕方がない。
 しかし今は、麻衣に任せていていい。
「……除霊しないで済むならそれに越したことはないんだ」
 言ったナルを、なぜか意外な言葉を聞いたように麻衣が見る。
「だが、するべきことはそうじゃないだろう」
「うん……そうだね。そうだよね。リンさんを助けなきゃね」
 麻衣はうなずき、涙を拭った。
 ふと見ると、鏡はすでに当たり前に夜の町を映していた。彼は一体どこからなんのために現れ、なぜ消えていくのだろうとナルは考える。その答えは出ない。
 もしかすると、言葉にしないだけで彼を必要としているのは自分かもしれないとひそかに思う。仕事をしているとき、人との関係に行き詰まったとき、心のどこかで彼の助力を求めているのは認めざるを得ない。
「これから、どうしようか?」
 無理にも明るく、麻衣が笑った。
 ナルは答えなかった。沈黙のうちにいくつかの方策を検討し、口に出そうとした時だ。
「こんなところにいたのか!」
 再びどこかからかけられた声に二人は思わずもう一度鏡を見るが、何の異常もない。
「探したぜ」
 声は明らかに近づいていた。二人は、今度はそろって道の方を見る。
 そこには茶色の髪をした長身の男がいて、二人を見て陽気に笑っていた。
「行くとこがないんだろ? うちにこいや。事情があって潔斎済みの部屋だ。夜の町をふらふらしてるよりは安全だぜ」
「ぼーさん……」
 呆然としたように、半ば嬉しさをたたえて麻衣がその呼び名を呟いた。滝川もまた、ナルに手を貸すために追いかけてきたのだ。
 ナルはため息をついた。
「どうしてこう決断の遅い人間が多いんだ」
「その言い方はありか?」
 滝川は怒ったように顔をしかめて見せたが、それがただのポーズであることをナルは知っていた。


 クーラーが効いている上に個人が住宅にするには破格に広い(もともと住宅用の部屋ではないのだと滝川は言う)滝川の部屋で予定外にゆっくり休んだ面々は、翌日の朝早く彼の車でS県九具村へ向かった。
 ろくに説明もなく『九具村へ行ってくれ』の一言で車に乗せられた麻衣と滝川は、しつこく事情説明をせまった結果、ナルの重い口を開かせることに成功した。
 社長よろしく一人後部座席でファイルをめくりながら、ナルは粗雑な説明をする。朝もやけの中を車で駆け抜けながら、麻衣たちはまだ眠い頭でナルの話を聞いた。
「僕は昨日恵菜をサイコメトリして、現在のほかに恵菜が久保田にとらわれていた間を見た。恵菜はずっと、『私は人形じゃない』と唱え続けていた。その結果が、これだ」
「先生、よくわかりません」
「久保田は恵菜を自分の思い通りにしたがっていた。拉致し、自宅に拘束したのは第一段階に過ぎない。監禁が目的ではなかった。恵菜に自分の理論を強要するための手段だ」
「理論?」
「彼は、幸せとは何も考えず、何も感じないことだと恵菜に説いていた。久保田は学のない人間ではなかった。むしろ、考えすぎる性質だったようだ」
「考えすぎたからって、それのどこが幸せかなぁ」
「理解できなくはないが、負け犬の意見だな」
 切って捨てるようなナルの言葉に、麻衣と滝川は顔を見合わせる。
「彼は思い通りにならない現実に苛立ち、思考と感情を放棄することを望んだ。そして、それを幸せだと感じて恵菜にも強要しようとした。恵菜はそれを『人形』と表現したんだな。だが、恵菜は久保田への反感から『人形』になることを拒んだ」
「普通嫌なんじゃないか?」
 ナルは肩をすくめる。
「『奴隷状態における幸福』という概念を知っているか? 生きることを保証された上で、やるべきことを与えられている状態は楽だということだ。モーセに荒野に連れ出されたエジプトの奴隷たちは、自力で生きることの困難さに、自分たちを助け出したはずのモーセを恨んだ。奴隷でいれば盲目的に主に従っているだけで済んだからだ」
「因果な話だな」
「恵菜にとっては子供がいることが支えになった。その子供を育てて自分の家庭を作るのだということを考えると、『人形』になることを拒みつづける意思が持てた。恵菜は、久保田へのあてつけのようにその夢を語っていた」
「火に油を注いでんじゃねぇの」
 だが、恵菜が悪いわけではない。恵菜の態度が挑発的であろうと、悪いのが久保田であることに変わりはないのだ。
「結局恵菜は久保田の意思ひとつで殺されてしまったわけだが、これを終わりだと考えることは恵菜にはできなかった。久保田を憎む気持ちと自分の子供をあきらめられない気持ちが、彼女に、死してなお意志を貫く力を与えた」
 鬼。そう言うにはあまりに優しかった恵菜を、麻衣は思い出す。
 だが、彼女は意思が強すぎた。
 あきらめて天に召されてしまえば楽だったのに……それも、彼女にとっては『人形』のようだと思えたのかもしれない。
 そして彼女は、人形を使う立場になった。
 そこに、久保田の言葉にある程度の理を認めていただろう恵菜の苦悩が映る。おとなしく『人形』になってしまえば楽だと、知っていたのだろう。
「彼女は、彼女が囚われていた久保田の家にこだわっている。その家で家庭を作る、ということにこだわっている、と言えばいいかな。久保田を見返したいという気持ちからだろう」
「つまり、恵菜たちは九具津村にある久保田の家にいるってことか」
「麻衣に逃げられたことで人間狩りはあきらめたんだな。どうせリンがいればことは済む」
「なんで始めからリン一人にしなかったんだ?」
「さあ」
 それは、リンをユキの父親にしたかったからだろう、と麻衣は思う。父親の血を吸って生きる子供に、ユキをしたくなかったのだろう。
 そのために自分がさらに人を傷つけることになっても。
 だからただ一人霊視の能力を持つ真砂子の口を封じ、当たりやすそうな麻衣から犠牲にしていった。渋谷サイキックリサーチ関係者全員を狙っていた。そういうことなのだと思う。
 普通の人間の振りをして、罠にかけていくつもりだったのだ。
 切ない思いで窓の外を見ていると、だんだんビルが消えていき、住宅の屋根も消えていって林と山ばかりになった。
 東京から二時間以上走っただろうか。車は国道をそれて県道へと入っていった。下りの道は時間帯のせいか空いており、スムーズに進んでいった。
「もうすぐ?」
 滝川を見ると、
「この先」
 側道の方を指差された。
 側道の先のほうにぽつぽつと家の数が増えてきているのが見えた。その辺りが、九具津村と呼ばれる場所なのだった。


 九具津村は、いわゆる田舎町だった。
 県の中でもはずれの方に位置しており、主な産業は農林業。地図上ではかなり広いのだが、その土地の多くは山に飲み込まれている。
 連続する小さな山に半分埋もれたようなその村ではたくさんの畑が山を削って段になっており、麻衣はものめずらしくそれをながめた。
 だが、本当に中心部近くなってから、突然車が停まった。それは本当に唐突で、慣性の法則に従って減速期間があることもない。
 停まった、という感じだった。
「なんだ?」
 滝川がアクセルを踏み込む。しかし道の真ん中で停車したまま、車はびくともしない。
「いよいよ本拠地に近いということだろう」
 ふと気がついて辺りを見回してみると、他の車がない。いつからいなくなってしまったのだろう。麻衣は気づいていなかった。
 ナルが当たり前のように滝川を見る。
「ぼーさん」
「結界か。これから鬼と戦うって時に俺に気力を削れとおっしゃる?」
「麻衣では結界を壊すことはできないだろう。このままでは入れない」
 結界、という言葉に麻衣ははたと思い至って二人を見比べた。少しは拝み屋としての力がある麻衣でも、結界を解くなどということはできない。霊能力など持っていない安原は、この中にいるはずじゃないのか?
「待って、じゃあ安原さんは?」
「閉じこめられているんだろうな」
 それで電話が急に通じなくなったわけだ。ひとつの町という巨大な場所に結界を張る恵菜の力を考え、麻衣は身震いした。
「仕方ない、破ってみる」


 滝川の呪文が唱え終わるのと、彼のポケットで携帯が鳴り出したのはほとんど同時だった。
 滝川はあわてて電話をとる。
「少年か!?」
 麻衣はほっと息を吐いた。安原は無事だったのだ。
 おそらく滝川につながらない電話をかけ続けていたのだろう。
「今? ああ、九具津村にいる。……驚いたか?」
 ナルが滝川のとなりに歩み寄った。
「久保田の家を聞いてくれ」
「了解」








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