the doll maker
   〜第四章 人形師



3、

 女は、生前サナエと呼ばれていた少女を小部屋に運び込んだ。疲労が全身を包んでいるような気がした。
 くずれるように床にしゃがみ込む。けして体力がある方ではない。看護婦という職業も、それが理由で続かなかったほどだ。患者を看ていて自分が倒れるようでは困ってしまう。それで、結婚を機に退職した。
 昔の話だ。
 鬼となった今の女に、生きていた頃の体力が関係あるのかどうかは分からない。いや、むしろ荷物を自分の手で運ぶ必要があるのかどうかすら怪しいものだ。
 苦しみたい、と思っているから苦しむ方法をとっているのだろう。女は漠然とそう考えていた。
(幸のために苦しみたいの)
 それでも幸を愛する自分を確認するために。
(人を犠牲にする分だけ、私も苦しみたいの)
 幸のことだけ考える『人形』になってしまわないために。
 女は部屋の隅に転がしてあった大きな出刃包丁を拾い上げた。それは、ずっと放置してあるのにいつも赤い血を滴らせ、乾くことがない。あの日腹を刺されたときの痛みと苦しみが、今も鮮やかな赤い血となって刃を濡らし続けている。
 だんだんと白くなっているサナエの体に這い寄り、女はやわな腕に包丁を突き刺す。ガキッと固く骨がかむ音がして、包丁は少女の二の腕から突き立つ棒になった。
 包丁から滴る血が、ぶすぶす、服と肉を溶かしていく。
 皮が溶け、脂肪が溶け、繊維が露わになり、やがて白い白い骨がそっくり取り出される。恵菜はそうして一本一本骨を集めていく。
 部屋の隅には、すでに半分ヒトの形をなした骨格標本のような物が横たわっていた。少しずつ集めては並べていったものだ。人を救うために学んだ医術の走りを、このように役立てる日が来るとは思ってもみなかった。
 緑色をした薬を骨中にべったりと塗り、骨と骨とは藤のツタをつかってからめてある。その秘術をなぜ自分が知っているのか、女には分からない。ただ、必要なものが当然のように分かっていた。
(産んであげる。『幸せ』になってね、幸……)
 血塗れになりながら、それをひたすら祈っていた。



 久保田の家は、かなり山に踏み込んだところにあった。
 村の中心に出るだけで相当の手間だろうと思われるほど山道を登り、麻衣たちは林の中にぽつんと立っていたその家を見つけた。
 事件があったこともあり村のものもほとんど近づかないというその家は、そもそもその家の主に用がなければ近づく必要もないような場所だった。
 半年間放置されているにしてはきれいだ、というのが麻衣の印象だった。
 その家は小さな一軒家で、庭にあたる場所には無防備に車が置かれていた。その車は久保田のものだったのだろうか、しばらく使われた様子もなく汚れている。村に買出しに出るにも、車がなければ不便だったのだろう。偏屈だったという久保田の隠棲生活を思わせた。
 だが家の前はきれいに掃き清められ、落ち葉が車の脇に寄せられている。誰か世話をしているものがいることを明らかに感じさせた。
 先頭に立って歩くナルの後をついていた麻衣は、ふと人の声のようなものを聞いてとなりの滝川の服を引っ張った。
「ねえ、何か聞こえない?」
 滝川は、辺りを見回す。
 かすかだが、うめき声のような、にごった歌声のようなものが聞こえてくる。家の中からのようだ。
「聞こえるなぁ」
「霊の声かな?」
「お前、なんかわからんかね」
「……役立たずですいません」
「化け物のひとつやふたついそうだな」
 ナルがちらりと視線を寄越した。
「恵菜は相当数殺してる。いても不思議はないな」
「うへぇ」
「入ってみよう」
「おう」
 玄関には、きちんと鍵がかけれていた。ドアベルを鳴らしても反応がない。
 庭の方に回った滝川は、玄関のすぐ横にある部屋のものらしいガラス戸の前で立ち止まった。そこにはカーテンがかけられていて、中の様子は見えない。
「麻衣、声の主はここみたいだぜ」
 麻衣がガラス戸の方へ行くと、ナルもそちらを見に来る。声は、確かにその中から聞こえてくるようだった。
「ここから入ろう」
「危なくないか」
「下手なところから入って後ろを取られるよりマシだ」
「りょーかい」
 滝川は近くの石でガラスを壊し、そこから躊躇なく手を入れて鍵をはずした。
「ほい。開いたぜ」
 ナルもあっさりうなずくと、ガラス戸を開けてカーテンを横に寄せた。
 麻衣は息を飲んだ。
「……なんだぁ、こりゃ」
 滝川がうめくように言う。
 部屋の中には、大小の人形やぬいぐるみに囲まれて、小さな子供が二人、手足を投げ出して座っていた。奇妙な声はその口から発されているのだった。
 ナルはずかずか中に入っていく。
「おい、ナル」
 ナルは手近にいた子供の手を取り、その手首に指を当てた。そして、滝川をちらりと見た。
「生きてる。……少なくとも、脈はある」
「人間か、それとも失敗作、かね」
 麻衣は滝川とナルを見比べ、そして表情のない顔でただの音を発しつづける子供を見た。
「人造人間……?」
「古い文献では、魂を宿し損ねた人形は声とも音ともつかない鳴き声を発する、とある。抱きしめてみればわかるぜ」
 ナルはその子供の手を引いて立たせた。子供はぐにゃりと体をゆがませ、容易に自力で立とうとはしない。
 まるで糸の切れた操り人形のようだ。麻衣がそう思ったとき、ナルは迷わずその子供を両手で抱きしめた。
 麻衣の目には、ナルの腕で子供が抱きつぶされたように見えた。
 一瞬の後、それは見間違いだと言うことがわかった。ナルの全身をぬらし、子供は水になって弾けていた。ナルは水の滴る前髪をかきあげる。
「人形のようだな」
 となりの子供に歩みより、その腕を取って今度はかなり乱暴に引き寄せる。
 人形だとわかっていても、麻衣は目をそむけずにいられなかった。
「なぜ恵菜は壊さなかったんだろう」
 ぐっしょり濡れた姿で頭を振って水を払いながら、ナルが呟くように言う。
「人造人間が壊れるのは、人間との接触によって、だ。恵菜は鬼だ。人間じゃねぇ」
「なるほど……」
 麻衣は部屋に入り、そこに並べられた人形たちを見た。
 誰が、どうして並べたのだろう。久保田のものだろうか、それとも恵菜が集めたのだろうか、あるいはユキが。
 うめき続けるなりそこなった子供を家において、人形たちと一緒において、恵菜はこの家で何を考えて過ごしていたのだろう。
「おい、行くぞ」
 滝川に声をかけられて、麻衣はうなずいた。
 部屋を出る前に一度だけそこを振り向いた。
 人形たちは同胞を殺されても悲しむ風もなく、いつもの笑顔を浮かべていた。



 麻衣たちが入ってきた部屋は、玄関のすぐ脇にある四畳半のようだった。ドアを開けて廊下に出ると、右脇が玄関になっていて、左手に廊下が続いていた。おそらく、その先に見えるガラス戸がリビングだろう。
 人の声がしない、そう思いながら麻衣はそろそろと歩いた。物陰から誰かが飛び出してきそうな気がして、体が強張っていた。ナルや滝川が前を見据えてさっさと歩いて行かなければ、立ち止まってしまっていたかもしれない。
「やけに静かだねぇ」
 滝川が言った時、ナルがリビングのドアを開けた。
 内開きのドアを全開にして慎重な様子で中に入り、すばやく左右を見回してナルは目を細めた。滝川と麻衣もその後に続く。
 ドアから入ると、リビングは左右に長く見える。右にはダイニングキッチンが、左には庭に続くガラス戸があり、食事用のスペースとくつろぐスペースに分けられているようだった。
 その左手を大きくふさぐガラス戸の前、長い黒髪をしとやかにとかした女性が、震える手で包丁を構えて立っていた。彼女の後ろ、小さな椅子に腰かけた長身の男は、静かに一行を見ている。
 ユキの姿がない。そのことでナルと滝川の間に緊張した雰囲気が走った。
「帰ってください」
 意外なほど荒ぶらない声で、恵菜は言った。
「私たちを放っておいて」
 大事なものを守ろうとする、そのごくまっとうな姿に麻衣は胸を衝かれた。けれど、彼女は死んでいるのだ。眠らせてあげた方がいいに決まっているのだ。
「……リンさんを、返してください」
 恵菜ははっとしたような顔をした。何に驚いたのか、それはわからない。彼女はゆっくりと首を横に振った。
「……放っておいて」
「お願いします、返して」
「近づかないで!」
 一歩踏み出した麻衣に、恵菜は包丁を突き出して牽制しようとした。いつのまにか震えが止まり、恵菜は岩のように揺るがない目をしていた。
 麻衣を守ろうと独鈷杵を構えた滝川を、ナルが腕を伸ばす動作で押しとどめた。やらせておけ、とその口が動いた。
「人形になるのは嫌だって思ったのに、どうしてリンさんを捕まえておくんですか? 大事な人を、大事な場所を取られる悲しみは、あなたが一番知ってるはずです。あたしたちもリンさんが大好きなんです。取らないで……?」
 恵菜は目を伏せ、もう一度ゆっくり首を振った。
「譲れないものを知っていますか。人と争っても守りたいものを知っていますか。あなたがたがユキでなく私でなくリンを選んだように、私は他の何より家族を選んだんです。わがままだと知っています。許されないと知っています。でも、私は引けない。聞いてもらえないと知っていても言います。帰ってください」
「それなら、私も言います。辛い思い出はもう終わったんです。あなたは死んでいるんです。早く、光の中へ行ってください。もうこれ以上苦しむ必要はないんです」
「必要は……あるわ」
 恵菜は包丁をしっかりと握りなおした。
「私は人形にはならない。苦しみは捨てない。悔しさを捨てない。夢は忘れない。最後まで、自分の意思は貫いてみせる。今度こそ、今度こそ自分の意思で戦って死ぬのよ。死ぬ理由を選ぶのよ。今度こそ」
 恵菜の長い髪がふいに宙に踊った。
 もとから白い顔が蝋のように色をなくし、犬歯が異常に鋭くなる。髪の間から小さな骨のようなものがのぞいた。角だ、と麻衣たちが気付くまで少しかかった。
「鬼になっても私の場所を守ってみせる」
 滝川が麻衣の腕を引いて自分の後ろにかばう。
 麻衣は自分のキュロットをぎゅっとつかんだ。
 そのとき、今まで人形のように座っているだけだった男が口を開いた。
「恵菜たちをこのまま行かせてください」
 滝川とナルがリンを見た。
 リンは首の方向を変えることもできず、先ほどまで恵菜がいた辺りを見ながら淡々と話していた。
 ああ、と麻衣は嘆息した。
(誰も悪くない)
(誰も悪くないのに)
「あなたがたでは恵菜にかないません」
「そう言われて、はいそうですかとあきらめるにゃ、俺はね、情に厚すぎるのよ」
 恵菜が髪を振り乱して包丁ごと滝川に突っ込む。滝川は恵菜の振るう包丁の一撃を避けて、胸の前に独鈷杵を構えた。その手に、血が飛ぶ。
 滝川にかわされソファにささった恵菜の手の刃物が、なぜか血を滴らせていた。滝川の血ではない。それにしてはあまりに量が多すぎた。包丁は、絶えることなくおのずから血を滴らせているのだ。
 音を立てて何かが破裂し、ソファの綿がポップコーンのように弾け飛ぶ。
「冗談にならないようだな」
 ナルが呟き、突き飛ばすようにして麻衣を壁際にやった。
 恵菜は、一歩飛んで下がった滝川から標的をナルに変え、すでに鬼と化した形相で勢いよく迫った。
 恵菜が振りかぶる包丁を、ナルは何かの拳法の動きで流してかわす。たたらを踏んだ恵菜は、やけにすばやく態勢を立て直すと包丁から滴る血を手のひらに受けてナルに投げつけた。
 それを見た麻衣が、口の中で小さく早く真言を唱える。
「バザラヤキシャウン・バザラヤキシャウン・バザラヤキシャウン」
 顔から血をかばったナルの腕が、その赤い液体を受けてじゅっと嫌な音を立てる。
 ただの血ではない。酸性の猛毒なのだ。
 ナルが舌打ちして顔をしかめ、べっとり赤く染まったシャツの腕を引き千切ろうとした。ナルの腕がすごい力で布をつかんだ時、急に水が蒸発するような音がして、血は跡形もなく消え去っていた。
「よっしゃ、効いたっ」
 麻衣がぐっとこぶしを握る。
 ナルはわずかに眉を上げ、すぐ後ろにいる麻衣にちらりと視線をやった。
「いつの間にか進歩のかけらくらいはしているようだな」
「おかげさまで!」
 麻衣は小さく舌を出して見せる。
 恵菜が悔しげに唸って、態勢を低く構えた。それは少しずつ獣じみた動きになっていく。
 恵菜の動きを見た滝川が、叫ぶように麻衣を呼んだ。
「ここは食いとめる! ユキを探して来い!」
 麻衣ははっとして、唇をかんだ。
「麻衣!」
「……はい!」
 麻衣はきびすを返し、その場に背を向けた。
「ナウマクサンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
 指先に独鈷所をはさみ、奇妙な形の印を組んだ滝川が口早に真言を唱える。ぐっとうめいて恵菜の動きが止まる。霊縛法だ。
 印を解き、滝川は気合と共に独鈷杵を振り下ろし……がくん、と揺れるほどの勢いで止まった。
「ぼーさん?」
 鋭くナルの声がかかる。
「式……!」
 滝川の体に、青い手をした魍魎のようなものがしがみついてその動きを止めていた。それは、リンが使役霊として扱う式霊だ。
「恵菜をかばうつもりか、リン!」
 滝川が吠えた。
「幸を連れて逃げなさい、恵菜」
 恵菜はその声にいやいやをするように首を振る。
 『あきらめない』、牙をむいた口がそんな言葉の形に動いた。
「ナル、恵菜はもう人を殺さない。見逃してください」
「彼女はお前を殺すだろう」
「私の命と、幸の命。はかりにかけるなら、同じです」
「違う」
 その場で交わされる悲しい会話に麻衣がぎゅっと目をつぶったときだった。
「ウワアアアアアア!!」
 鬼が、吠えた。
 居間を飛び出そうとしていた麻衣の体が、急に止まった。
「麻衣、何をしてる!」
 ナルの声が飛ぶ。
 だが、麻衣の意志ではなく体が動かないのだ。何、と思った途端、まるで大きな手に襟首をつかまれたように麻衣の小柄な体が宙に浮く。
「いやっ!」
 悲鳴を上げるのと同時に滝川の体とナルの体とをすり抜け、麻衣は恵菜の目前に引き出されていた。間近に感じる獣のような息づかいに、ひっとのどが鳴る。
 しかし、逃げ出すことも振り向くこともかなわなかった。
(体が動かない……!)
 恐怖する意識と裏腹に、麻衣の思いと関わりなく腕が上がり、床に突き立っていたあの包丁が飛んできて手のひらにぴたりと収まる。
(あの術!!)
 今術をかけられた覚えはない。
 あの時だ。恵菜たちに捕まって術をかけられたあの時だ。
 術のかかりが浅かったからすぐに動けるようになったのではなかった、と麻衣は悟っていた。恵菜が麻衣を拘束することを意図していなかったから今まで動けていただけなのだ。
 術は、継続していた……。
 そして、それは体の自由を奪うだけのものではなかった。
『殺せますか?』
 鬼の唸りとともに、そんな静かな言葉が恵菜の声で紡がれた。頭の中に直接響いてくる、電波のような声なき声だった。
『それとも、見捨てられませんか?』
 麻衣は自分がナルと滝川に対する人質になってしまったことを知った。
「……くそ……」
 滝川がうめく。
 ナルたちに向かって血の滴る包丁を構えながら、麻衣はしんとした目でこちらを見るナルと見つめ合っていた。
『彼女を見捨てればそちらの戦力は半減。彼女の攻撃を無視して私と戦おうとするなら、そちらの危険は数倍。どちらを選びます?』
 それは、究極の選択だった。だが、彼ら二人の命か麻衣の命か、不釣り合いな取引でもある。
『私たちを逃がしてくれるなら、彼女は返します。オリヴァーさん、とおっしゃいましたか。私にとって幸がすべての意味であるように、あなたにとっては<理屈>こそが意味なのではないの?』
 麻衣は胸が震えるのを感じた。
 それは恵菜の能力が知らせたことなのだろうか、リンがしゃべったことなのだろうか。恵菜はナルの生き方を知っていた。
『意味は違ったとしても、人形になれないのはあなたも同じ。分かるんじゃありませんか? 何もかも切り捨ててひとつのものを選ぶ気持ちが。実の兄を捨てて、部下の気持ちを捨てて、あなたも人の悲しみを背負い操り生きている<人形師>に属するものなのではないの』
 ナルは静かに恵菜を見ている。それは肯定か、無視か。表情のないその顔からはうかがい知れない。
 麻衣を見捨てるか、ここから逃げ出すかするのが一番効率のいい戦い方なのは確かだった。
 ナルは切り捨てる。
 ナルはもっとも有効な手段を判断する。
 自分で決めた道をあきらめない。
(必ずリンさんを救うだろう。必ず恵菜さんを消すだろう)
 麻衣は顔をゆがめた。
「……ナルはやらない。あたしを殺さない」
 ふっと、ナルは皮肉な笑みを浮かべた。
「期待してもらって悪いが、裏切らせてもらう」
 そして滝川に視線をやって冷酷な声で言う。
「力を分散する。恵菜を頼む」
「あ……ああ」
「今さら迷うなよ」
 滝川は独鈷杵を構え、気合いを入れて彼の体にからみつく式を振り払った。体を拘束されたままのリンと滝川では、滝川が有利だ。
「わかった。お前さんを信じる」
 ひどくシニカルな笑み。
 麻衣は恵菜の力によって包丁を振り上げながら唇をかむ。
 ナルのかすかな手の動きが合図になり、二人が同時に攻撃を仕掛ける。
 チャンスは一度。
 ナルが麻衣を押さえている間に恵菜へ攻撃する。ナルと麻衣はどちらかに動けないほどのダメージを与えて一瞬で決するだろう。
(『殺し合いなら、ナルが圧勝』……)
 いつかのリンの言葉を思い出し、麻衣は強く強く唇をかみしめた。
「アキラメナイ」
 走る影。
 ナルの右腕にともる力のこごった灯り。
 振り上げられた刃。
 叫び。悲鳴。

「ジーン!! ナルを助けて!!」

 空気がひずんだ。
 重くなり、軽くなり、ねじれ、麻衣の体中を吹き荒れた。
 振り上げた刃が頂上で止まっていた。
 ナルの拳から体の中に突き入れられた力の固まりが、果てしなく大きな鼓動のように心臓を揺らし、言葉を痺れさせ、ちかちか瞬く光になって胴から足へ腕へ頭へ、駆け抜けてもう一度胴へ――
 そして、再びナルの体の中へ吸い込まれていった。
「ぼーさん!」
 恵菜に向かって独鈷杵を振り上げていた滝川が、後ろも見ずに横へスライドする。
 生まれた隙間へナルが体を割り込ませ、大きな光球が爆発した。
 ――それは、唐突に静まった。
 恵菜は立ちすくんでいた。
 その髪が、ぱさりと一房床に落ちた。
 恵菜は不思議そうにちりぢり落ちていく髪を手のひらで受け止めた。さらさらと小川の流れのように、彼女は朽ちていこうとしていた。
 鬼の角が、白い粉のようになって崩れた。
 ぼんやりとしたまなざしが後ろを振り向き、リンの無表情を捉える。
「ごめんなさい……」
 静かな瞳と瞳が交錯する。
「自由に、なってください」
 ああ、と恵菜は悲しいため息を吐いた。
「……き……ゆき……幸……幸、幸……幸」
 溶け出すように、涙が流れた。
 青い青い涙だった。
「恵菜さん……」
 麻衣は手を伸ばす。
「愛してるわ」
 恵菜はふわりと笑った。その姿は、いつか白い白い粉になって崩れ落ち、そしていつのまにか消えた。
 あとに、静けさだけ残った。



 空気が戻ったのは、緊縛されていた麻衣の体が急に放されてふらりとよろめいたせいだった。
 近くにいたナルの腕が麻衣の体を支え、きちんと立たせてくれた。
「助けてくれて、ありがとう」
「助けたのはジーンだろう」
 あの時ナルがたたき込んだPKは、麻衣の体を媒体にしてジーンに渡り、ジーンによって増幅されてナルの元に返ったのだ。確かにそれを行ったのはジーンだった。しかし、
「そうなるって知ってたんでしょ」
「おや、どうしてかな」
「だってナルがあたしを見捨てるわけないもん」
 ナルは肩をすくめた。どうかな、などと言って。
 滝川がリンに歩み寄って肩を貸す。
「すまなかったな」
 低い声の謝罪に、リンは眉をひそめた。
「私は……」
「覚えてないのか?」
 ナルと麻衣も二人の側に足を向けた。リンの表情にショックは見受けられず、ただ納得のいかないような色があるだけだ。
「覚えています。しかし……そうか」
「操られてたの? 心まで?」
「どうやら」
 うなずく代わりのように、リンは目を伏せた。考え深げな面差しになる。
 麻衣は複雑な気分で微笑んだ。リンが恵菜の味方でなかったなら、リンのためによかったと思う。しかし恵菜には気の毒なことだった。
 ふと、ナルが呟く。
「……ユキは、どこに行ったんだろう」
 麻衣はなんとなく後ろを振り向いた。ユキの居場所なら、知っている気がした。恵菜の最後の意識が、伸ばした手から伝わってきた、そんな感触がしたのだ。
『そっちだよ』
 鏡の中からジーンの声が聞こえて、麻衣はうなずいていた。
「ユキちゃんが消えちゃう……」
『ひどく希薄な気配だ。術者が消えたから、人造人間も魂を保てないんだろう』
「そんなのひどいよ」
『外法をもって宿された魂は、輪廻からはずされて往生できなくなる。今のうちに生まれ変われるなら、その方がいい。魔性として生きるより、幸せなことだと思うよ』
「……ユキちゃんは、人間だと思う」
 麻衣は廊下へ向かって歩き出した。
「ジーン?」
 存在しないものと言葉を交わしている麻衣に、ナルが問いかける。麻衣はうなずいて、廊下の先を示した。
「ユキちゃんは、向こうにいるよ」
 滝川とナルは顔を見合わせ、神懸りしたように廊下へと歩き出す麻衣の後を追った。
 麻衣は臆することなく廊下を進み、彼らが侵入した部屋の中へと足を踏み入れた。
 その中は水浸しになっていて、人形たちが彼らを見返していた。その人形に埋もれて、うさぎを抱えたユキが姿を現すところだった。
 ユキは人形の積まれた棚の中に隠された、大きな櫃の中に身を潜めていたのだ。
「あたしに同情することないのよ」
 ユキは麻衣と目が合うと、いつものようにつんとすまして見せた。
「ユキちゃん」
「お母さんは、あたしがうさぎにしてあげたみたいに愛してくれなかった。あたしはうさぎを抱きしめることを知ってたのに。うさぎはそれだけであたしが何しても許してくれたのよ。でもお母さんは知らなかった。あたしを抱きしめてくれないで消えてしまおうとしてた」
 ユキは首を振る。
「何が幸せなの? 人を殺してはいけないと教えられながら、人を殺しても生きのびることなの? 泣きながら人を殺しても、大事な人間を生かすことなの? 大好きな人をなくしても生きることなの?」
 麻衣はユキの前にひざをついて視線を合わせた。
「ねえ、ユキちゃんがもう誰かを傷つけないなら、あたしが面倒見てあげるよ? ちょっとくらい血を抜いても死にゃあしないし?」
 にこっと笑う麻衣に、ユキはあっけにとられたように目の前で手を振った。
「マイ、頭大丈夫?」
「あ、ひどい」
「あたしは魔物よ? 何でそんなことが言えるの?」
 麻衣は笑い、一言一言かみしめるように言う。
「ユキちゃんは、あたしにとって十分人間だよ。かわいい女の子だよ?」
「お母さんのことお人好しだお人好しだと思ってたけど、上を行くのがいるとは思わなかったわ」
「お人好しなんじゃないよ、あたしはユキちゃんが好きなんだよ」
 ユキは怒ったようにうつむいた。
「ママにそう言われたかった」
 そして、うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「マイの名前を、もらってもいい?」
「え?」
「もらうわよ」
 そしてユキは恵菜のように優しく、はにかむように笑う。
「うさぎ、名前を付けてあげる。この人からもらって、あんたの名前は『タニヤマ』よ。間抜けでかわいいでしょ?」
 ユキがそう言ったその刹那だった。
 今までユキの道具として以外けして動くことのなかったうさぎが、まるで本物の生き物のように躍動した。体の感触を確かめるように身じろぎしたうさぎが、ぴょこん、と耳を立てる。
「ありがとう」
「『タニヤマ』……?」
 ユキは驚いたように肩を揺らした。
「ありがとう、ユキ。僕を見てくれたね」
 いつもはユキが指で動かしていたうさぎの口が、ひとりでに動いて言葉を紡いでいた。ユキの手を借りない、名前を持った個体として。
 『タニヤマ』は麻衣にもまたぴょこん、と頭を下げる。
「ありがとう、マイ。ユキを助けてくれて」
「助けてない。まだ、助けてないよ……」
 『タニヤマ』のぴんと立ったファンキーな耳が左右に揺れる。
「命を救うことは、何かを食うことだ。何かを犠牲にすることだ。そうして生き物は生きていく。誰かを救うことは、代わりに誰かを食うことだ。それと不可分だ。だから……」
 人々が見つめる前で、表情のない『タニヤマ』は麻衣の顔をじっと見ていた。笑っているのか、複雑に思っているのか、そもそも心があるのか、人間には分からない。
 だが、彼はまったく普通に言葉を語った。
「だから、僕は心を救える人を尊く思う」
 そして、呆然としているユキを振り返る。
「ユキ、僕と一緒にこの世を出よう。向こうへ行こう」
「『タニヤマ』……?」
「これ以上、人の血を吸って生き延びるつもりかい?」
「だって、このまま行ったらもうすぐ普通の人になれるんでしょう?」
「造成は外法だ。悪魔の術だ。どうして生まれて数ヶ月もたってない君がそんなにかしこいと思う? 鬼が宿した魂が、本物の魂だと思う? 本当に命を扱う力を持つのは、神だけだ。そして鬼は律から外れながら律に縛られるもの。君は決して仏の世界に入っては行けない」
 麻衣は『タニヤマ』の言葉を聞くユキの幼い顔に浮かんだ、けして幼くはない、魔の領域の賢さを見る。
「君を作った鬼が消え、君は今ならこの体を離れ、輪廻転生の輪に戻ることができる。新しい血を吸って魔の世界に本当に踏み込む前に、ここから逃げよう。僕も一緒に、行くから」
「『タニヤマ』……」
「言ってる意味は、わかるよね?」
「うん、わかるわ、そうじゃないの。いいの? 一緒に来てくれるの?」
 ユキが心細そうに見つめた先で、『タニヤマ』の裂けた口がみるみる元に戻り、きゅっと持ち上がって笑う。
「僕は幸せだった。僕は君に愛された、幸せなぬいぐるみだった。最後まで君についていくことが僕の望みだよ? ユキ」
 ユキは『タニヤマ』と麻衣を見比べる。そして、ふっと笑った。
「マイなら、お母さんの身代わり程度にはしてやってもいいか」
「え?」
 ユキは『タニヤマ』にキスをしいっぱいに抱きしめ、人形の山の中に置く。
 『タニヤマ』を手放した細い左腕は、麻衣に向かって伸ばされた。
「抱きしめてよ」
 麻衣はじっとユキを見つめた。
 人造人間は、百日たつ前に人間の腕に抱かれると溶けて消えてしまう。ユキが、それを知らないはずはなかった。だからこそ恵菜もユキにふれようとしなかった。抱きしめそうな人間には近づくなと、ユキに教えた。
「本当にいいの?」
「『タニヤマ』があたしの生きる意味。あたしは前に、そう言わなかった?」
 麻衣はそっと立ちあがった。
 麻衣の腕が人形の山にうずもれるユキの体に回されたとき、ユキの顔が満足げに笑ったのを後ろにいた滝川たちは見た。その山に隠れていた右手が刃物を持って麻衣の背に持ち上げられるのも。
「麻衣!」
 足を踏み出しかけた滝川の声を聞かない、というように、麻衣はユキを抱く腕に力をこめた。
 ユキが笑う。
「バカ。マイもママも、バカよ」
 ユキの小さな手に握られた刃物がすとんと人形たちの中に落とされた。
 水が、麻衣の腕を滝のように流れた。



 きぃ、と林の中にきしんだ音が響いた。
 すでに結界はない。九具津村に入ってくるものを拒む力は何もない。そこに、足を踏み入れる影があった。
 すぐ間近の一軒家では今しも恵菜と霊能者たちの戦いが始まろうとしている頃合だった。
 静まって見える林の中、細い指があちらこちらを指さす。
「そこにいはるんですね」
 指の持ち主を振り返ったのは、柔らかな金髪をもつ神父服の男だ。
「はい」
 か細い声で答えたのは、車椅子に乗った着物姿の女性だ。車椅子には、『松崎総合病院』と名前が入っていた。松崎綾子という仲間の実家から借り受けてきたものだ。
 眼鏡をかけた青年が、その様子を少し離れてながめていた。
 二人の会話にうなずいた巫女姿の女性が、その場に膝をつく。
 ナルたちに取り残された霊能者たちは、かなり遅れて九具津村に到着していた。そして、合流した安原の案内でここまでたどりついていたのである。
 りぃぃぃん、と綾子の振る榊の鈴が鳴る。
 林のそこここから小さな子供たちが浮かび上がるように現れた。
「……殺された子供たち、ですか」
「そうみたいですね」
 小声で安原とジョンが言葉を交わす。
「天にまします父なる神よ……」
 ジョンがロザリオを握り、胸の前で十字を切った。
「このものたちの魂を救い給え。光の中へ導き給え」
 見よう見まねで安原と真砂子も胸の前で手を組み、神に祈った。
 この人たちが、悲しみから救われますように、と――。



 静まった居間に戻ってきた麻衣たちは、窓の外で流れる祈りの声に気がついた。
 知らないうちに、みんな家のまわりに集まっていたのだ。いったいいつからいたのだろう? 居間のガラス戸から庭の方を見ながら、誰からともなく神妙な顔になっていた。
「……外に、まだ霊がいたのか」
 ナルが呟いた。
「いるの?」
 麻衣はジーンに聞く。
『うん……いるみたいな感じ……。ごめん、もう眠くてよくわからない……』
「そっか。おやすみ」
『うん、ナルによろしく』
「わかった。ごめんね、会わせてあげられなくて」
 いいんだよ、と答えが返ってきたような気がした。
 麻衣は窓の外を見る。綾子の祝詞が聞こえる。ほどなく、みんな光の中に行くことができるだろう。
 ふと、ナルが部屋の中を見まわして歩き出した。
「どうしたの?」
 ナルは答えない。
「人形の部屋にハンディカメラがあったはずですよ」
 言ったのはリンだった。椅子に座ったままだが、ナルたちの方を向いていた。
 ナルはうなずき、廊下を玄関の方へ行ってしまった。
 まだまだ、仕事をする気は満々らしい。こんな時に、と麻衣は口をあんぐり開けてしまう。はてさて、とあきれたように呟きながら滝川もナルの後を追いかける。仕事をするなら手伝うつもりなのだろう。
 麻衣は窓辺のリンの側に行った。
「大丈夫?」
「体が固まっていますね」
「そうだよね……」
 リンはすっと目をそらし、ダイニングの方を見た。
「あちらに私の荷物があります。パソコンとMOが入っていますので、ナルを手伝ってください」
「つ、使えません」
「プログラムが入っています。起動の方法は?」
 麻衣はぶんぶんと首を振った。リンは嘆息し、短い言葉で簡単に使い方を説明した。
 麻衣は思わず言っていた。
「……ナルは、リンさんいなくて困ってたよ。やっぱりあたしじゃあちょっとね。お荷物だから。少し、くやしい」
 リンは麻衣を見る。
「ナルが、好きですか?」
 麻衣は驚いて目を見開いた。考えてもみなかった。
 だが、馬鹿にされてもコケにされても、こっちを見て欲しいと思いつづけたのは、そういうことなのかもしれないと思う。
「……どうなのかな。そう、かも、ね」
「好きな相手に認められたいと思うのは当然のことです。友人であれ、上司であれ」
 さらに麻衣はきょとんとした。
(それもそうだ)
「そうだね」
「手伝って差し上げてください」
 うん、と麻衣はすっきりして笑い、リンの荷物を取って廊下を駆け出した。
 途中で居間に戻ってくる滝川とすれ違った。
 滝川はナルに邪魔だと追い出され、リンのところへ戻ってきたのだ。大きな荷物を持ってすれ違った麻衣に少し目をやると、肩をすくめて窓辺へ行った。
 リンの大きな体が立ちあがるのに手を貸してやり、ソファの上になんとか横にならせる。リンは疲れたように息を吐いた。
「落ち着いたか?」
 リンは答えなかった。もとより落ち着いている、と目が語っていた。
「奇妙な感じでした。目の前のことに何も感情が動かない。ずっと意識はありましたが、苦痛も嫌悪もない」
「なるほど」
「あれが恵菜の言う人形だったわけですね」
 滝川は何と返していいのか困り、麻衣の行った方を視線で示した。
「何を言ったんだ?」
 リンは口元で苦笑した。
「そうですね。ちょっとした……意趣返しですよ」
「そうか……」
 滝川は眉を上げたが、それ以上は聞かなかった。
 近くにあった膝かけをリンの体にかけてやり、大きく息を吐く。
「少し寝ろ。いい夢でも見るといい」
 リンは目を閉じた。
「……夢は、いいですよ。覚めた時が辛いですからね……」
 そうか、ともう一度言って滝川はリンに背を向けた。
 外では綾子の祝詞の声が続いていた。そろそろナルたちが外へ出て行くころだろう。安原にでもあいさつに行くか、と思った。
「……言ってやればよかった」
 ふいに低い声がそう呟き、滝川は後ろを振り向いた。
 リンは目を閉じ、何かを思い巡らしていた。
 恵菜たちとすごした何日かのことだろうか。先ほどの戦いの様子だろうか。
 滝川は黙ってもう一度背を向ける。
 言葉の続きが、聞こえたような気がしたのは気のせいだったか。
(救いたかった、と)








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