罪を犯すもの 第四章 1
麻衣の呼び声に始めに気がついたのは、眠りの浅いリンだった。
リンはしんとした闇の中で目を開け、しばし瞬いた。
「誰か!」
次の叫びは彼の耳にはっきりと聞こえた。
リンは一挙動で起き上がると、となりに寝ているはずのナルがいないことに気付く。舌打ちし、隣室の扉を激しく叩く。
「起きて下さい。谷山さんはいますか?」
女性陣が起き出す物音が続き、扉を開けてきたのは綾子だった。
「いないわ! どうしたの?」
「外へ出たのかもしません。行って下さい」
「リンは?」
答えず、リンはさらにとなりの部屋の扉をノックなしに開けた。後ろで綾子が玄関へ駆け出すのが分かる。
滝川はすでに半分体を起こしていた。
「どうしたっ!」
「谷山さんの声が」
それだけで滝川は跳ね起きる。安原とジョンを蹴り飛ばす勢いで起こし、枕元の独鈷杵をつかんで出入り口のリンとともに駆け出す。
「ナル坊は?」
「いません。谷山さんと一緒ではないかと」
「ナル、ちゃんと守れよー」
顔をしかめるようにしてそう言うと、滝川は玄関を回りかけてたたらを踏んだ。どうしました、とリンが声をかけるより早く、彼らの目の前に真砂子の体が転げてきた。
「真砂子ちゃん!」
そばにいた綾子が駆け寄ってその小さな体を抱き起こす。
「真砂子!」
「だいじょうぶ…ですわ」
首の後ろを押さえながらも、真砂子は自力で体を立たせた。
滝川が扉をにらむ。
「例の、静電気の化け物か」
「どーすんのよ、これ」
「破るしかないだろ。呪文でなんとかなんのかね」
「アースは? いつも持ってるでしょ?」
「ベースですね」
リンが答えると、綾子は顔を歪ませた。
「誰が試してみる?」
「あたくしが!」
鋭い声を上げたのは、真砂子だった。いっせいに滝川も綾子も目をむく。痛みを耐えるように体を丸めるようにして、真砂子は立ち上がろうとしていた。
「真砂子ちゃんは寝てろ」
「そーよ、アンタまた弾き飛ばされたいわけ?」
「いいえ、あたくしが」
真砂子は頑強に言い張る。
「あたくしには退魔法は使えません。外へ出ても役に立ちませんもの、あたくしがやります。みなさまは余計な力をお使いにならないで」
「それなら、僕が行きます」
退魔法どころか霊能力そのものがない安原が進み出る。
しかし、真砂子はやんわりと首を振った。
「やらせて下さい」
「やらせてって、アンタ……」
そっと微笑みさえ浮かべて見せ、真砂子は真っ直ぐに扉を見据えた。有無を言わせない覚悟に、誰もが言葉を飲んだ。
「あたくしにもできますわよね。ただの静電気でしょう?」
滝川が言葉に迷い、渋い顔をする。
「ただの、じゃねぇよ。特級の、だ」
それに小さく微笑みかけて、真砂子はあっさりとした歩調で扉の前に立った。何でもないような様子に、メンバーが手も貸しかねてただただ見守る。
こういう場合にナルがやるように、真砂子は着物の裾を手に巻き付けて、ためらうことなく取っ手をつかんだ。
布を通しても激しい放電が白い手の回りに飛ぶ。
弾き飛ばされそうな抵抗を強く取っ手を握ることでごまかし、真砂子は不快な痛みを耐えた。
手の先から、蛇のようにぐねるものが体の中をかきまわそうとねじ入ってくる気がする。吐き気がしそうな圧力が、真砂子のからだを責めてくる。
意識が遠のきそうな気がした。
(扉を、開けなくては)
かちゃり、と小さな音がして扉が開いたのに真砂子が気付くことはなかった。扉が開く反動で今度こそ跳ね飛ばされ、真砂子は上がり口に体をしたたか打ちつけた。その体が、動くものだという気がしなかった。
メンバーが声を上げて外へ駆け出していく。
「原サン!」
間近で声がして、真砂子はうっすら目を開けた。
金髪の男がこちらをのぞきこんでいる。視界に金色が揺れる。誰か別の人間が彼女の体を抱き起こしてきちんと座らせてくれていた。
「行って下さい、早く」
金色がひとつ揺れた。彼がうなずいたのかもしれなかった。
彼が駆け去ってもなお貸され続ける手に、真砂子は視線だけをうつろに上げた。そこには、ひどく長身で無口な仲間がいた。
真砂子は微笑おうとする。
「あたくし、少しはナルの役に立てましたかしら?」
答えはなかった。
彼は強ばって持ち上げられた格好のままになっていた真砂子の腕を体の前でそろえさせ、立ち上がった。
気のせいだったかもしれないが、ひょっとすると彼は微笑っていたかもしれない。
消耗戦だ、と口に出すのも億劫なほど、それは消耗戦でしかなかった。
麻衣の力では、女を退かせても消滅させることはできない。ナルは明らかにPKを使っていたが、これも力をセーブしているようで消滅にはいたらない。もっともセーブしなければ、彼はとっくに力のオーバーヒートで倒れていただろう。
あまりに長引けば、ナルの命まで危ないことを麻衣はよく承知していた。
「死にましょう?」
笑顔で女たちは問いかけてくる。麻衣はただ首を振ることしかできない。反抗の証に九字を切って彼女たちを防ぐことしかできない。
YESを言えば少なくともナルの命は助かる。だが、たとえナルを死の危険にさらしても、その言葉を言うわけにいかない。
いつもの無関心で麻衣を見捨ててしまえば、あるいはいつもの冷血すぎる合理的計算で自分の命だけでも確保してしまえばいいものを、そうしない黒衣の背中を見れば。麻衣には死にますなどとは言えない。
無表情に小刀を構えて迫ってくるだけの女たちに、麻衣は泣きそうになりながら力をふるった。
一体何人の女がいるのだろう、麻衣の気力が萎えかけた時、突然玄関の扉が開いた。
ナルが振り返る。
「ナル、麻衣、無事かっ!」
「ここには主格がいない。結界を!」
「おーらいっ!」
滝川とナルが言葉を交わす。それはすばやい会話だった。それまでなら、何の問題もなかった。
女にも、多少の意思というものがあったのかもしれない。援軍の到着に業を煮やしたのかもしれない。突如、一人の女が刀を持ち替え、それを麻衣に向かって投げた。
ナルの後ろに隠れるように立っていた麻衣へ。
「ナルっ!」
軌道上に明らかに立っていたのはナルの方だった。
その鋭い声に、初めてナルも、滝川もそちらを見た。飛び出してきた他のメンバーも、見た。
麻衣は止める間も迷うような間もなく、腕を伸ばしてナルの体を突き飛ばした。ナルのいたその場所に、腕だけが取り残される。鈍い音がし、一瞬の後に麻衣の口から声にならない悲鳴が上がる。血しぶきが飛ぶ。
「麻衣っ!」
真っ先に飛び出してきたのは綾子だった。
膝をつく麻衣の体をナルが抱きとめる。
「ナウマクサンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン」
滝川が手に握っていた独鈷杵をベランダに突き刺す。
「オン、マイタラシテイ、ソワカ!!」
女たちの悲鳴が辺りに満ちた。
見えない壁が、そこに現われていた。
誰もが三々五々に逃げていく。ベランダの柵を乗り越え、林の中に逃げ込み、あるいは家の影になった方へ、女たちはめいめいに慌てて逃げ去った。
勢いよく、辺りが血の色になっていく。
「綾子! 電話だ、救急車呼べ!」
「アタシ、だってアタシ麻衣が」
「お前止血ができるのか!?」
「できないわよ、悪かったわね!」
涙目で怒鳴り捨て、綾子が家内へ駆け去る。
滝川はナルのとなりに膝をついた。ナルは腕に刺さった小刀を抜き、手で直接圧迫して止血している。その手の隙間から、あふれるように血が滴り落ちる。
「動脈にいったか?」
「かもな」
安原が家から走り出てくる。手に大きな布を抱えていた。
「リンさん、ブラウンさん、手伝って下さい。包帯を作ります」
安原らの作った即席の包帯を、滝川はすばやく巻いていく。止血帯を圧迫して巻き、傷口も抑えるように巻く。そうしているうちにも血は白い布を赤く染めて、腕をつたって落ちていく。ざっくりと切れた傷口は右腕肘関節の内側近く、縦に割れた傷のどこかが動脈にかすったのだろう。
腕の内側には切れば死ねる動脈が走っている。
「くそーっ」
腕を切られたくらいで死ぬことはないだろう。そう思いはしても、出血がひどい。失血、あるいは出血性ショックが生命を脅かすことはままあるのだ。
滝川はうなった。
出血に意識が遠のいたのだろう、麻衣はいつのまにか目を閉じている。それがなおさら滝川を焦らせた。
焦れる滝川に、麻衣の体が押し付けられた。見上げれば、ナルが立ち上がるところだった。
「どこ行くんだよ」
「僕がいる必要はない」
「はあ?」
「後は任せる」
「……勝手にしろ」
静かに滝川を見下ろして、ナルは家の方へ歩きだした。
安原の物言いたげな視線も無視し、リンとジョンに介抱されている真砂子の脇も通りすぎる。目をくれただけのナルに、リンがわずかに眉を寄せた。
「ナル、どこへ行くのですか」
ナルの答えはない。ベランダへ出ようとする綾子とすれ違い、ナルは呟くように問いかけた。
「電話は」
「したに決まってるでしょ! すぐ来るわよ! ……どいて」
かみつく綾子を見送るような静かなまなざしに、リンは立ち上がった。
「ナル」
「救急車の先導にいく。懐中電灯は?」
「……居間です」
答えたのはジョンだった。リンはため息をつく。
「原さん、救急車が来たら一緒に乗って下さい」
はい、と真砂子が答えるのも待たず、ナルは居間へと歩き去った。奥まった場所に別荘があるのだから、先導が出るにこしたことはない。しかし、誰もそんなことに気を回す余裕はないというのに。
誰もいない居間へ入り、辺りを見渡して懐中電灯を見つけると、ナルは無造作にそれを手に取った。その手が、血に濡れて鮮やかに赤い。
しんとした目で、ナルはしばらくそれを見つめていた。
ふぅ、と玲は息をついた。
目の前のキャンバスは黒い色に染まりつつあるが、そこに描かれている人物にはまだ顔がない。下書きすら入っていないのだ。こんなことは普段あることではなかった。
描くべき顔が思い浮かばない。
もうしばらくそんなことはなかった。何を描いたらいいのか茫洋としていることは多かったが、絵に手をつけてなお肝心の表情が見えないことなどありえない。
ありえないことが起こっている。ただ、その理由は分からないでもない。
筆を横に置いて大きく伸びをすると、玲は椅子を立って窓へと歩み寄った。
窓の外には、国道の灯りでおぼろに照らされた暗いテニスコートがかろうじて確認できる。描くべきモチーフを手に入れ、意気揚々徹夜の構えをして学校に残ったが、このままでは完成するかどうかおぼつかないところだ。顔のない肖像画になってしまうかもしれない。意識して描いたのならそれはそれでいいのだが、描かなかったのと描けなかったのとでは意味がまったく違う。
「迷ってるじゃん、麻衣さん」
一人呟いてのどの奥で笑った。
迷っているのは、玲にモチーフを提供した相手だ。好きな人の話を聞かせて、という玲の言葉に彼女が迷っていたから、対象の顔をはっきりと思い描くことができない。
玲の人物画は、思いを語る人物に同調することで正確なイメージを得ている。本当のところどういう仕組みになっているのかは玲にも分からないが、話を聞き、それをイメージして筆をとっている間に半ば話し手の気持ちになっている気がするのだ。一種のテレパシーのようなものなのかもしれない。
麻衣の迷いは、今はそのままその気持ちに同化しかけている玲の迷いでもあった。
一つ色を置くたびに、胸の奥底が痛む。もう感じることもないかと思っていた、久しぶりの胸の痛みというやつだ。
「だって、おねーさんの気持ちが分かるからさ……」
分かってしまうのは、迷いだけではない。
麻衣の心にしっかりと根を張っている優しさもまた、玲には正確に思い描くことができてしまった。
この絵は、彼女の死と引き換えにする価値があるのだろうか。
そんなことまで思ってしまうのは、麻衣の優しさに影響されているせいなのだろうか。玲は不思議に思う。
手術中のランプが赤く灯っていた。
病院の椅子に腰掛けながら、ナルはまたもファイルをめくっている。心配で死にそうな男を目の前にして、と滝川はため息をつきたくなる。救急隊員は大丈夫だろうと言ってはいたが、滝川としては落ち着かない。いまだに目をうるませている綾子よりは冷静なつもりだが。
滝川がとなりに座ると、ナルは少しだけ目を上げた。
「何をそんなに気にしてんだ?」
麻衣の容態よりも、と心で付け足す。
ナルは、別にと言いたげに目を伏せる。
「神経に近かったからなぁ。ひょっとすると少し切れてたのかもな」
「麻衣の話か?」
「手術、長いなと思ってな」
救急車で運び込まれた麻衣が入っていってから、ランプはもうずっと灯りっぱなしだ。
「ま、そう簡単にくたばる嬢ちゃんじゃあるまいが」
「その割には動揺してたようだけど?」
「……お前さんは冷静だね」
ナルは黙ってファイルに目を落とした。
彼なりの動揺はあるのかもしれない、だがないのかもしれない。
滝川は天井を仰いだ。
「なんで嬢ちゃんかねぇ」
「何?」
「ここまできてふと考えると、不思議なんだよな。……真砂子ちゃんのこと」
離れて座っている他の人間が聞いてる様子はない。滝川はそれを確認しながらも声を落とした。真砂子本人は病室で寝かされている。
ナルは何か考えるような様子だった。
「……本当に失恋なんだろうか」
「違うかもな」
失恋であってほしいとかほしくないとか、彼は考えているのだろうか。滝川は少し顔を和ませた。
「失恋の種類にもいろいろあるよな。特定のなんかなんじゃないのか?」
「失恋の定義をどこに置くか、だな」
「一番広い解釈は、『思いが通じないことを確認した』か」
「それなら、麻衣だけでなくていい」
真砂子もまた、告白して振られている。麻衣も、まったく同じである。
「学校内の被害者だけ見てると、男と別れた、っていうのばっかりなんだけどな。これにすると、麻衣が当てはまらない。当てはまらないよな?」
「そうなる」
ジーンが麻衣と付き合っていたなどという話は、滝川もナルも聞いていない。もしもそういうことがあれば、麻衣が狙われて事情を聞いた時に彼女が言っていただろう。
「条件が失恋であると判断した根拠は? そもそも何だったんだ?」
「木内朝美が前日に彼氏と別れただろー。ゴールデンウィーク中か直前に柳沢礼が彼氏と別れて、休み明けに死んだ。清野夕希も春休みに彼氏と別れ、休み明けに、死んだ」
「現実的に彼女たちに起こったことは?」
「はい?」
「ひょっとすると、『会えなくなった』んじゃないか?」
木内朝美の友人は彼女の彼に会ったことがないと言っていた。柳沢礼の場合も同様である。では、少なくともその二人の彼は鳴山高校の生徒ではないと考えられる。
「そうか……別れたら会えなくなる相手、真砂子ちゃんはそうじゃなかった」
友人でいることはかまわないとナルは真砂子に言っている。それはこれから先会えるということだ。
「むしろ失恋の必要はなかったのかもしれない。社の女たちは夫と死に別れた。それは失恋よりは、別離に近いんじゃないか」
「なるほどなぁーっ」
滝川は壁にもたれかかる。
「失恋は問題ではなかったんだ。問題は、失恋によって引き起こされる別離だった。……麻衣が該当するわけだ」
「……ユージンに、もう会えんの」
「わがままなんだ、あいつは」
先ほど、ベランダでナルはジーンとコンタクトをしていた。そうでなければあれほどPKを使ってナルが無事ではいられるはずがない。ジーンはPKを使うことによるナルの負荷を相当に軽減することができるのだ。
その時ジーンは、振った覚えはない、とはっきり言った。ただ幽霊に未練を残しているのは悲しいから、もう会わない方がいい、と言っただけだと。
(告白された覚えすらないよ。ずっと好きでいてくれたって聞いただけだ。過去形だったよ。それなら早く思い切った方がいいって思ったんだ、僕は)
麻衣は失恋したと思ってるようだが、と言ってやりたかったがナルにはそのひまがなかった。
「……ま、よかったじゃん」
「何が」
滝川が笑う。
リンに似てきた、と思ってナルは苛立つが、爆撃してやる気になれないのだから仕方ない。誤解させて面倒をかけた部下にしても、同様だ。
手術中のランプが消えた。滝川が立ち上がった。

