アリスのお茶会

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罪を犯すもの 第四章 2

 麻衣が目覚めたのは、朝焼けの頃だった。
 目を開けると部屋の中が妙な具合に明るくて、麻衣はとまどった。電気の色ではない。昼にしては暗すぎる。ゆっくり窓に目を向けて、やっと明け方なのかと合点がいった。
 そのまま目を動かし、麻衣は肌寒かったわけを知った。点滴のために腕がむきだしで布団の外に投げ出されている。右腕には真っ白な包帯が巻かれている。それで、腕を怪我し意識のないまま病院に担ぎ込まれたのだと悟った。
 凍り付いたようだった体が、思考とともに徐々に動き出す。
 麻衣は身じろいだ。特別腕が痛むということもない。薬が効いているのだろう。どの程度の傷だったのか記憶が曖昧だったが、思い出して楽しいことでもないので考えるのはやめておいた。
 不思議に気分がすっきりとしていた。
 ベッドサイドのテーブル、ナースコールのためのパネル、麻衣は置かれた状況を確認するような気持ちで病室を見まわし、カーテンの向こうの閉じられた扉を見、そして動きを止めた。
 白い部屋にまだ残る夜の闇の続きのように、そこに黒衣の青年がいた。
 開かれたファイルに目を落とす彼を、麻衣は不思議な気持ちで見つめた。まさか、いるとは思わなかった。よりによって、彼が。
 彼は一体、ここで何をしているのだろう? 
 素直に付き添いをしてると考えにくいのが彼である。
「……ナル?」
 ナルは目を上げる。
「気付いたか」
 しかしその黒い瞳はオフィスにいる時と変わらず平静に麻衣を見つめてくるばかりで、心配しているようにも見えない。
 それならば彼は本当に何のためにいるのだろう? 
 麻衣は夢に話しかけるような気持ちで口を開いた。
「守ってくれて、ありがとう。さっき。言えなかったから」
 ナルはこれに対してウンでもスンでもない。
 けれど、言われなくて良かったのかもしれない。静かに見つめ合いながら麻衣は思う。話をしたら憎まれ口か喧嘩にしかならないのだと、いいかげん麻衣も分かっていた。こうして静かに向き合える時間を知らず、それでかまわないと思ってきたのは幼さゆえか、あるいは強がりか。
 それでも、今は沈黙が心地よい。
「……気分は」
 ぱたりと、ナルはファイルを閉じた。
 少し離れて椅子に腰掛けている彼を、枕に埋もれながら麻衣は見上げる。このまま話し続けられますようにとどこか祈る。
「ちょっとぼうっとしてる。けど平気」
「医師の話だが」
「はい」
「深く刺さったが、神経系の切断は回避されたらしい。かすったみたいだが、問題なくつながってる。後遺症の心配はないということだ」
「うん」
 聞いてる方が痛い、とは思うが、ヤメロとも言えない。麻衣はおとなしくあいずちをうつ。
「ひょとすると今は出血のショックで感覚がおかしいかもしれないが」
「あのさー、縫ったのかな、これ、やっぱり」
「手術したんだ、当然だろうな」
「……あと残るかな」
「かもな」
 そっけなくナルは言う。自分の容貌にだって頓着しないこの男に、乙女の情緒を解せという方が無理な話だろう。無理というより、無駄だ。
「ナルは手、平気?」
「何でもない」
 静電気に弾かれて火傷していたはずの手には、包帯がしっかり巻かれていた。これでは相当不自由であろう。腕に巻いてるだけの麻衣と違い、手が封じられていては家事もままならない。ナルは一人暮らしだというのに。
 麻衣とて、しばらくは三角巾で吊ってなければならないのだろうが。
 そんなことをつらつら考えていると、ふいにナルが声を一段落とした。
「今回の件は、僕の責任だ。悪かった」
「え? なんで?」
「危険の予測」
「そんなの、あたしが不用心だったんだし、勝手に飛び出して怪我したんだし」
「麻衣の暴走は、予想してしかるべきだろう」
「なんだとう?」
「それが責任者だ」
 麻衣はまじまじとナルを見つめる。
 そんなことを考えながら、彼は麻衣が目覚めるのを待っていたのだろうか?
(どうしてこんなに不器用なんだろう)
 責任や、義務や、最善の道というものに縛られて、楽ができない。なまじ意思が強いものだから、逃げることなんか思いもよらない。いつか本当に壊れかけるまで、いや何もかも崩れてしまっても、彼はそのままなのだろう。
 もう慣れたはずのナルのまなざしに、麻衣は奇妙なほど震えた。
(そうだ、こういう人だった)
 まるで出会い直したように、そう思う。
 麻衣はおそるおそる手を伸ばした。点滴の管が引っ張られてビンと支台とが当たってカラカラという。
 麻衣の左手は、かろうじてナルの白い包帯に届いた。
「自分の責任だと思ったから?」
「何が」
「悪いと思ったから、怪我してまで守ってくれたの?」
 目に見える怪我だけではない。ナルはPKを使っていた。当然セーブしていたのだろうが、下手をしたら命に関わるかもしれない行為だ。
「それは責任があるかどうかに関係ないだろう。目の前で人が襲われていたら、誰でも助けるくらいすると思うけど?」
「……そうでもないと思うけど」
 少なくとも、ナルは口で何と言おうが助ける人間だ。
 自然に、そう動ける人間なのだ。
「じゃあさ、怪我させた責任取って今度あたしが料理作りに行くよ。その手じゃ、家事できないでしょ」
 ナルは静かに麻衣を見返す。
 その深い瞳の色に、麻衣ははたと気付く。
「あ……今度があったら、か」
 死の誘惑が、迫っている。今だって本当は、いつ来るか分からないのだ。死にましょう、と女の声が麻衣の耳によみがえる。
 麻衣は体を強張らせた。
(どうして、死ななくちゃいけないの?)
「――死にたくない」
 口にした途端、魔法が解けたようにどっと狼狽が襲ってきた。
 今、渇くほどにはっきりと、心がナルに向かって持っていかれようとしている。この心は死なねばならないものか? そんな馬鹿な!
 この思いは誰のものでもないのに。
「死にたくないよ!」
 音を立てて、痛むくらいに。
 愛しさが動き出しているのに。
(ナルを置いて死ぬことができるほどに、あたしのジーンへの思いは恋だろうか?)
「本当は、違うの。ジーンのことが好きだった。だけど本当は、今はもう、違うの」
 濁っていた気持ちが、浄化されるように澄んでいく。涙が出てくる。
「知ってる」
 低いナルの声に、麻衣はびくりと顔を上げる。
「知ってるって? 何を?」
「ジーンに対する想いが終わってること」
「知ってんだ……」
 言葉にならない想いを、重ねた手にこめる。
「もしもあたしが殺されても」
 重なり合った手が押し戻された。
 その上から覆いかぶさるように抱きしめられる。
 気付いた時には、キスされていた。
 言葉を途中のまま浮かせてしまおうとするように。
 髪をなでるようにして押さえられ、唇が唇になぞられていく。
「殺されても」
 キスの途中に麻衣は言葉をはさみこむ。
「うるさい」
 低くささやいても、
(どうしてこんなに優しいんだろう)
 まぶたを閉じたら際限なく涙がこぼれそうで、麻衣は何度も瞬いていた。泣けるようなキス。優しい肌が頬にかすっていく。
「信じてね……」
 唇だけに乗せた言葉は、唇を伝わって、聞こえたのだろうか。
 それでも不自由な腕は今度こそ届いたから、それでいい。

 彼女の姿を一番に認めたのは、真砂子だった。
 本来なら夜間の付き添いは認められないところを、麻衣の意識が戻るまでという条件でその時まだ何人もが病院に残っていた。本人の側についているのはナルの希望により彼一人になったが、仕事のため別荘に帰ったリンと安原をのぞく他の面々も、意識が回復するのを待って灯りの落ちたロビーで固まっていたのである。
 待合室は、病院の中心にある。いくつかある入り口がすべてそこに集まるように配置されているのだ。正面玄関にはロープと『診療時間外』の立て札が置かれていたが、急患用の裏口はいつでも開いている。彼女は、そちらから歩いてきた。ごく普通に。
「あ」
 足音を耳にした真砂子は、すぐに顔を上げた。期待していたのはナルが麻衣の意識回復を告げに来ることだったのだが、そこにいたのは見慣れた黒衣ではなかった。
 ただ、はっきりと見覚えのあるセーラー服を着たその少女は、暗闇の中でもひどく目を引いた。
「あなたは……」
「麻衣さんの同僚、かな?」
 眼鏡の奥の目が年に似合わぬ色気をまとわせて笑う。
「あんた、今朝の!」
 警戒するように綾子が立ち上がる。早足で近づいてきたセーラー服の少女は、腕に抱えた大きな板を重そうに揺すりあげた。
「プレゼント持ってきたんだ。麻衣さんの病室は?」
「教えると思うかね」
 緊張した面もちで滝川も立ち上がった。さりげなく綾子をかばうように自分の後ろへ押す。
「お前さんが小西玲だろう」
「うん。初めまして。麻衣さんにはお世話になってます」
「ふざけやがって」
「えーふざけてないよ!」
 そう言いながらも、玲は彼らの緊張を前にして場違いに屈託なく笑った。
 真砂子はそっと立って滝川に耳打ちする。
「憑かれてますわ。白い服の女がそばに立っています」
 そうか、と滝川はうなずいた。こそこそと話し合う彼らを見ても、玲の余裕は変わらない。落ち着いているというよりは、危機感そのものが抜け落ちているかのようであった。
「麻衣さんに悪いことするつもりないよ? あ、危害を加える気もないし」
「信用できるかっての」
「やぁね、おじさんは頭固くって。そこのあなた、ね、教えてよ」
 玲の視線がまっすぐに真砂子を見た。
「……あたくしなら扱いやすいと思いまして?」
「鈴姫の声が、聞こえるでしょう?」
「ええ。あたくしは霊能者ですわ」
「違う違う! 鈴姫の声はね、仲間にだけ聞こえるの。同じ悲しみを持った人。あたしにも聞こえる。あなたにも聞こえるはず。麻衣さんにも、もちろん聞こえてる」
「麻衣だって霊能力があります」
「みそっかすなんだってね。麻衣さんが言ってた」
 くすくすと玲は笑った。
「その麻衣さんが、どうして一番はっきり聞こえるんだと思う? 変に思わなかった? どうして麻衣さんなのか」
「それは、麻衣が条件に合ってしまったからでしょう」
「条件って何だか知ってる?」
「別離、でしょう?」
「うわ、気付いたんだ。さすがじゃん」
 玲は抱えていた板を床に置いた。
「やっぱし、これは麻衣さんたちに渡すのがよさそうだね」
 それの板は一辺が一mほどもある大きなもので、全面が白い布で覆われていた。キャンバスか、とそこにいた全員が推測することができた。玲が美術部だということは全員の頭にインプットされていたのである。
「あたしさ、特技があるの。人の好きな人を描く」
「それのどこが特技なんだ?」
「最後まで聞きなって、おじさん。これは特別なのよ。だってあたし相手の顔を見なくても聞くだけで描けるんだもん」
「正確に、か?」
「正確に。話を聞いてると、相手の思いや情景が頭に浮かんでくるの。正確に、もしかしたら本人が思ってる以上に強く」
「それが確かだって証拠はあるのかい」
「証拠はないけどー。自信はある。そうしてあたしが描いてると、話してる人はとっても悲しくなっちゃうみたい。あたしが悲しかったときみたいに。あたしが絵を描くのは、あたしと同じ思いをした人とだけだしね」
「そして、自殺する……?」
「あたしがそうしたみたいに、ね」
「精神感応の一種かね」
「おお、やっぱり専門家だ」
 死にたかった、と告白しながらそんな重大事だとは露ほども思っていないように玲は笑う。そのアンバランスさに滝川は顔をしかめた。
「そいつぁ、いつからできるんだ?」
「いつから? えっと……そうだね、最近だ。鈴姫に会ったから? ひょっとしてそうなのかな?」
「鈴姫ってのは何者だ?」
「知らないよ。あたしをなぐさめてくれた」
「なるほど」
 玲は一定の距離を保ったまま、それ以上近づこうとはしなかった。それでも、消灯を過ぎた静かな病院では充分すぎるほど声が通る。
「そうやって、鈴姫とやらと共謀して自殺に追いやってきたわけだな」
「共謀って大げさだなぁ。でもま、そういうことかな」
「そこまで聞いて、アタシたちがアンタを麻衣に近づけると思う?」
「誠意を見せてるつもりなんだけどなぁ」
 玲は首をかしげた。
「あのね、あたし麻衣さんの絵が描けないの」
「描けないって……」
「あたしは思い出させるだけだった。それで相手の気持ちはあたしと、あたしの気持ちは相手と、いつもつながってた。でも今回は途中までしかできない。麻衣さんは、もしかしたらあたしとは違うのかもしれないなーと思って」
 茶目っ気すら感じる笑顔で、玲は一度置いたキャンバスを持ち上げて滝川に向かって差し出した。
「だから、これ。病室を教えてくれないなら、あなたが持ってって。こんなものが役に立つのかどうか分からないけど。贖罪でもないし、賭け? かな。もしかしたら麻衣さんは助かるかもしれない。そんなものじゃ何にもならないかもしれない。でもなんかあたし、何もせずに死なせるの、嫌みたい」
 滝川は辺りをうかがい、用心深く数歩の距離をつめて玲に近づいた。
「これが、麻衣の話で描いた絵か?」
「違うよ。未完成の絵なんか人にあげられるわけないでしょ」
「じゃあ何だ」
「鈴姫の、想い人だよ。あたしが描いた」
「え」
「調べてるんでしょ? 鈴姫のこと」
 滝川はそっとキャンバスに手を伸ばした。
「……持ってくぞ? 罠じゃないだろうな」
「持ってってよ。あたしの賭けなんだから」
 押しつけるようにさらに持ち上げられた絵を滝川は受け取る。それを見て満足そうにきびすを返した玲に、滝川は思わず手を伸ばした。
「おい、待てよ」
 筆しか持ったことがないんじゃないかというほど細い腕を、逃げられないようにしっかり掴む。途端、滝川が予想しなかったほどの勢いで玲は振り向いた。
彼女の整った顔立ちに、初めて負の感情が浮かんでいた。
 それは、嫌悪と恐怖。
「……放して」
「おいおい、すんなり帰してもらえると思ったのか?」
「放してよ」
「まだこっちの用事は終わってない」
「放して!」
 駄々っ子のように盲目的に体をよじって、玲は滝川の腕を逃れようとした。この抵抗には、滝川の方が驚く。すんなり掴まってくれるとは思っていなかったが、今までの余裕からここまで過敏な反応は考えてもみなかったのだ。
「おい、別にひどいことしようってわけじゃないんだからさ」
「やだ! やめて! 放してったら!!」
 半分途方にくれる滝川に、駆け寄ったのは綾子だった。
「坊主、放してあげなさいよ」
「なんで俺が責められるかね」
「鈍感! 早く放して」
「いていててて!」
 綾子が無理矢理に滝川の肘をひねりあげ、その拍子に解放された玲はセーラー服のスカートを翻してその場を駆け去る。肘を押さえながら滝川はなおも追いかけようとした。綾子にシャツを引っ張られなければすぐ追いついていただろう。
「あ、おい!」
「いいわよ、行かせときなさい」
「お前なぁ」
 すでに玲の姿は廊下の彼方へ消えてしまっている。
「これだからデリカシーのない男って嫌ね」
「デリカシー?」
「彼女……男に暴行されたことがあるんじゃない」
 滝川も、その言葉を聞くとさすがに顔をしかめた。
「……レイプか?」
 玲の自殺動機だけは、まだ誰も知らないままだ。他の自殺者たちは霊に憑かれていたのだとしても、その被害者たちを自殺に導いていたのが玲なのだから、彼女自身の自殺にはまっとうな動機があったはずなのである。
 滝川は布にくるまれたまま片腕に抱えたキャンバスに目をやった。

 ナルは、落ち着いた麻衣に今の状態などを細かく質問してきた。霊を感じるか、今自殺したい気持ちはあるか、それは事件の最初に彼が聞いたこととほとんど同じ質問だったが、麻衣の答えられることはかなり詳しくなっていた。
 ファイルに情報を書き込みながら黙ってしまった彼を見ていると、突然騒がしい足音がして病室の扉が開いた。
「ナル、いる!? 」
「綾子?」
 飛び込んできた綾子は、手にキャンバスを抱えていた。
「何それ」
「小西玲から預かってきたの」
 綾子が差し出すキャンバスをナルが受け取る。それを一瞥して、ナルは息を整える綾子を振り向いた。
「これは?」
「鈴姫の想い人だってことよ」
「麻衣」
 キャンバスは麻衣に差し出された。麻衣はきょとんとして瞬く。
「何?」
「彼に会ってみてくれ」
「あたしがっ?」
「そう聞こえなかったか」
「だって、ナルじゃダメなの?」
「これは小西玲の描いたものだろう。僕では鈴にはたどりつかない」
 こわごわ麻衣はキャンバスを受け取った。そこには、まだ若い一人の青年が描かれていた。
 農民のような粗末な着物に似合わぬひょろりとした面には、知性の色とでもいうべきものが物静かにたゆたっている。本を追い疲れたようなわずかにやつれた面持ちまで、玲の線は生き生きと描き出していた。
 麻衣は玲の持つ力を知っていたから、それが本当に鈴の想い人なのだろうとすぐに納得することができた。
 玲は、誰かの会いたい人を描き出す。その絵にいるのは、女性を取り殺していった鈴姫が、死にたいほど焦がれた人。
「……やってみる」
 その人に会いたいと、思いながら麻衣は目を閉じる。ゆっくりと息をし、その息に気持ちを集中し、力を抜いていく。
 時をさかのぼった思い出の中に行く。

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