罪を犯すもの 第四章 4
いつのまにか夜が明けていた。
真白から青味を増していく空を見上げ、綾子は寝不足の目を瞬いた。
「玲サン、おいやしますでしょうか」
「どうかしらね」
いるといいわねぇ、と綾子は呟く。
滝川と安原だけを麻衣の護衛に残し、霊能者たちは鈴姫と玲の二人に会うため学校に向かっていた。もちろん、玲の方は明け方にいるかどうか怪しいところではある。それでも家に行って親の前で騒ぐのは嫌だったし、朝早くから登校するらしいことは聞いていた。
「玲に憑いてる霊っての、どうするのよ」
「落とさせてくれと頼んでみれば? 案外効くかも」
「まさかぁ」
「いえ、きっと話せば分かってくださると思いますです」
辺りを見渡し、真砂子が不安げな目をした。
「……泣いてますわ」
綾子の耳には、鈴も泣き声も届かない。
だが、どこかで彼女たちはずっと泣いているのだ。
鳴山高校の車庫は特別棟の真下にある。一階部分は壁を取っ払ってファミリーレストランのような体裁の駐車場にしてあるのだ。
特別棟の一番国道よりにある美術室でのんびりと時間をつぶしていた玲は、床下に響いた車の排気音に顔を上げた。学校で夜明かしをしてまで彼らを待っていた。
理由は抱えきれないほどたくさんあるが、うまく語れない。
何のためにいるのかも、うまく決められない。
ただ、もう逃げ場がないなら逃げたくないと思っていた。
同志である鈴姫を守る立場に立つか今までのことを清算するか、彼らの顔を見た時にその決心がつくような気がして、玲はそれすら決めずにいた。あがくことはもう充分試してみた、というあきらめに似た気持ちが彼女をそこにとどめさせた。
そして、彼らはちゃんとやって来た。
髪をほどこうかと思ってお下げに手をやったが、それを結んだときの気持ちを思い出すと簡単にはほどけなかった。玲はため息をつき、他にやることもないので描きかけていた絵に布をかけた。麻衣のための絵ではない。それはもう部屋の隅にある物置棚へ押しやってしまった。
何時間か前病院から帰ってきた後に描きはじめた絵だ。迷いながら描いているので大まかな線しか入っていない。ここ何ヶ月かは特殊な力ですらすらと描けていたから不思議な気がしたが、もともとはそういうものだったとも思い出していた。
ガラリ、と扉が開いた。
玲は飛び上がりそうになった。
「それだ!」
「は?」
先頭にいた美形の男があっけにとられたように立ち止まった。玲でも太刀打ちできない完璧な美青年だ。だが、玲が感動したのはそれではない。
「それだよ、やだなー麻衣さんったら。笑ってる笑ってるって言うから混乱したんじゃないか。それでいいんだよ! あーすっきりした」
「麻衣の絵の話ですの?」
苦笑しながら美少女が顔を出す。先ほども病院のロビーで会った女性だ。同志のよしみという気がしたので、玲はにこりと笑いかけた。
「そうそう、麻衣さんの好きな人って……でしょ?」
「どうでしょうね?」
含みたっぷりに言って、彼女、真砂子は美青年の顔をのぞき込んだ。彼はぷいと顔を背ける。
「いろいろ事情があるみたいですわよ?」
真砂子は玲に向き直って艶やかに笑う。
その鮮やかさに、玲は逆に笑顔を引っ込めた。少し、背筋を正すような気分になった。そこに込められたものを感じたのだ。
「……なるほどね、鈴姫が勝てないわけだ」
真砂子が首をかしげる。
「麻衣さんはいい人だよね。前向きで、すっごい優しくて。で、みんなに好かれるわけだ。愛の力、とか言ったら自虐的かな」
「自虐的?」
「そっ。ひとりぼっちの性格悪い女はね」
真砂子は儚く笑った。思い当たるところがあるのだろう。
けれどあたしもあなたも真剣だよ、と玲は声を大にして言いたい。うまくいかない恋を抱えても、一生懸命だった。
「……つまんないよね。こんなに美人なのに」
「……そうですわね」
「つまんないくじ引いちゃったよなぁ……」
敵愾心はわかなかった。最初に大声を出してしまったのがまずかったかもしれない、と玲は笑いたいような気分で反省する。
(鈴姫、あたしたちは間違ってたかもしれないよ)
「で? あなたたちはどーするの?」
金髪の神父が進み出てきた。
「あなたに憑いてはる霊を落とします。構いまへんか?」
玲は両手を下ろして彼に笑いかけた。霊などというものが憑いているとは知らなかった。
「どうぞ、お好きに」
「僕は、ジョン・ブラウンいいます。よろしう」
「小西玲です。よろしく」
まじめくさって頭を下げ、玲は声を上げて笑う。
どうして笑えるんだろう、と玲は自分でも時々不思議になる。笑えるような場面ではないはずだった。
あの時から感情のどこかが確実に壊れていた。乱れた服で恋人に泣きついて、他の男に体を許したのかと詰られた時。笑える場面ではなかったが、笑う以外にどうしようがあっただろう。自分は恋人を裏切ることになってしまったらしいから。
本当は、責めればよかったのかもしれない。けれど悔しくて泣けなかった。高校を卒業したら、家族を捨てて彼に付いて上京するつもりだったのに。描いていたすべての未来は、あの時砕けた。後に残ったのは、家族を裏切るつもりだった自分だけ。泣けず、打ち明けられず、自分が残り滓でしかないように思えて、死ぬ以外に考えられなかった。
「……玲サン、どうして死のうと思われはったんですか」
ジョンの声は柔らかくてとても静かだ。懐から水の入った小ビンを取り出しながら、彼は優しい笑みを浮かべて玲を見た。
「どうして? 死ななくちゃいけないから」
「そんなこと、誰も決められません」
「あたしが決める」
「ご両親が悲しまれてもですか」
「父と母をね、あたしは……」
玲の目から涙があふれだした。
そんなこと、当たり前なのに今まで誰も玲に言ってくれなかった。それほどに、玲は一人だった。孤独だった。好きになったその人と鈴姫以外、誰もいなかったのだ。
「父と母をね、大好きなの。悲しませたくなかったの。あたしそんなこと一生しないつもりでいたの。あたしが、あたしがまさか父さんを母さんを苦しめる日がくるなんて……罪でしかないわ。恋なんて」
ジョンが握った小ビンをそっと掲げた。
「……あたしは罪を犯す者」
憑依を解く、メンバーたちには耳慣れたジョンの詠唱の後、彼らが怖れていたような猛烈な抵抗など、何もなかった。ただ、玲がその長いまつげを伏せて瞬いただけだ。
玲は子供のようにあどけなく、前に立ったジョンを見上げた。それを受け止めて、ジョンが微笑む。
「……神サマ?」
呟かれたのはそんな言葉だった。
「神サマが見えましたか?」
ジョンは少し驚いたように笑い、玲は目を細めた。
誰も助けてくれないと知りながら祈り続けた。誰かが許して救ってくれることが玲の本当の望みだった。優しい言葉と微笑みと、ほんの少しの呪文とで玲に光を見せてくれたその金髪の神父こそ、玲には神サマに思えた。
「……アリガト」
神父は微笑んだ。その微笑みは、玲が今まで見たこともないほど深い、優しいものだった。
彼はポケットからひとつなぎのロザリオを取り出すと、まだ堅く強ばったままの玲の手を取った。
「失礼します」
玲の手は彼女の意思からどこかが途切れてしまったように動かない。その握りこまれた指を一本一本開かせ、ジョンは手のひらに銀色のロザリオを乗せた。両手で包むようにして、玲にぎゅっと握らせる。
「これ……?」
「お守りです。玲サンを守ってくれますよって、持っといて下さい」
「もらってもいいの?」
「ハイ」
ロザリオは本当ならひどく冷たいはずだった。
ジョンの体温を移してなめらかに暖かくなったそれを胸に当てて、玲はうつむいた。
「こんなことしかできへんで申し訳ないですけど、玲サン、死ぬなんて思わんといて下さい」
「神サマは自殺ダメって言ってるんだっけ」
「……ハイ。でも、そういうことだけではなくて。ボクは、この先もしも玲サンが亡くならはったと聞いたら、悲しい思いますです。それですから、玲サン辛い思いなさってはるの、わかるんのんですけど、生きておいやして下さい」
わがままのんですけど、と言ってジョンは悲しそうに笑った。
玲はそれを見て、何度も頭を振った。
「あたし、毎日お祈りするわ。父さんと母さんを悲しませたこと。あなたにそんな悲しい顔させたこと。許してもらえるように……」
「神サマは許してくれますです」
玲は目を伏せた。
「それから、悲しい夢を見させてしまったみんなにも……」
そうしてもう一度だけ涙を流した。
女性が寝ているのだから、と言って滝川と安原は部屋の外についていてくれた。ベンチにでも座っているのだろう。
彼らには申し訳ないが、やりたいことがあったので麻衣はありがたく厚意に甘えて一人にしてもらっていた。病室のベッドに体を起こし、彼女はかなりの間静かに目を閉じて呼びかけを続けていた。こういったことは、一人の方がずっとやりやすい。
「……ジーン」
呼んでみても応えはない。もう何十分経っただろう。それでも必ず届くはずだと信じていた。
ふいに、窓の外から木々のざわめきが消えた。
麻衣は目を開けて窓を見る。そこは明け始める夜ではなく、明けることのない闇を映して漆黒に塗りつぶされていた。
「ジーン」
それでも、彼からの返事はない。
「いるよね? いるならいいんだ。聞いてて」
何を言えばいいだろう?
麻衣は深呼吸する。それでも、言わないままにあの別れかたで終わりたくはなかった。
「前に、あたしとジーンは波長が合いやすいって言ってたよね? それって、あたしから同調することもできるってことかな。ジーンがあたしにしたみたいにビジョンを渡すことってできるのかな?」
「できる……と思う」
声だけが届いた。麻衣は辺りを見回すが、そこに彼の姿はない。
「本当はあたしが学校まで行きたいけど、まだ動けそうにないの。ビジョンを、あたしが知ってる全部のことを渡すから、ジーンが行ってくれる? ナルを、助けてくれる?」
そこまで言って、もう一度深呼吸。ジーンからの返事はないが、彼が耳を澄ましていることは確信していた。
「……あたし、この先ジーンに会えないと思ったら、やっぱりいつでも泣いちゃうと思うよ。あたしにとって、ジーンは、……特別な人だから」
素直に言えているだろうか? 後悔を残したくなくて、麻衣は自問する。
「たとえば、追いかけて同じ場所に行くことだってできないわけじゃないんだけど」
それが容易な方法だと知っている。女たちが誘惑してきたように、初恋の人を思い続けていたいという気持ちが麻衣の中にこれっぽっちもないというわけではない。
それでも。
「あなたを好きになったことを、そんな悲しいものにしたくない」
風が部屋の中を通り過ぎた。
振り向いて、麻衣は写真の中の少年がそのままにこちらを見ているのを見つける。玲の描いたように最高の微笑みをして。
「僕も会えなくなったらさみしい」
麻衣は笑う。
「嬉しい、って言ったら、ひどい?」
「ひどくない。ねえ、ナルに言ってやってよ。僕だって麻衣に会いたいんだ。勝手にイギリスに帰ったりするなって」
「言えたら言ってみる」
ジーンは笑った。
麻衣は遠いその笑顔に指を伸ばす。
ジーンがその指を取った瞬間、心底から心がふれあったような気がした。それが同調だったのだと気が付いたときには、彼の姿は消えていた。
鈴が鳴る。鈴姫が来る、と玲は美術室を見回した。
「……鈴姫を、助けられる?」
玲が問うと、霊能者たちはそれぞれに複雑な表情をした。
「できることはやります。僕たちはプロだ」
「あたしも、そこにいていい?」
入り口近くに固まった彼らの方を指すと、真砂子が真っ先に笑った。
「どうぞ」
連帯感だなぁ、と玲は胸のうちで呟く。鈴姫に言ってやりたい。こういう人間たちもいることを。
鈴の音が派手に鳴り響く。鈴姫が最後まで出ることができなかった家の、その跡地に建てられた学校中に鳴る。弔いの、哀れみの鈴が鳴る。
「どこから来る……?」
ナルは油断なく辺りを見回しながら呟いた。こちらは大所帯だ。戦力が高いとも言えるが、その分隙も多い。戦闘力のない人間を攻められては厳しいことになる。
向こうが鈴姫一人で来ればいいが、白い服の女たちを連れてきたら形勢は悪い。
『この部屋が、鈴姫の住処だよ』
突然答えた声は、頭の中に直接響いてきた。
ナルは半ば呆れ、声の主を探す。ドアにはめられた小さなガラスに、微笑む自分自身が映っていた。
『ジーン、お前そんなことが分かっていたならさっさと教えろ』
『今聞いてきたんだもん。麻衣からの伝言。鈴姫が殺された場所は、山と池の間隔からしてこの辺りで間違いないと思うよ。彼女はここから出られない』
『白い服の女たちは』
『いくらでも動いてくる。でも彼女たちは鈴姫に感応してるだけだ。鈴を抑えれば害はない』
『今は害があるだろう!』
『社にいるよ。まだ、社の中だ。今なら封じ込められる』
ナルは綾子と真砂子に視線を送った。
「松崎さん、原さんと一緒に社へ行ってください」
「今?」
「今です。可能な限り早く。早い段階なら霊を社に閉じこめられるはずです。万が一こぼれたようなら、原さん、すぐに知らせてください」
綾子と真砂子は、指示を聞くとそれ以上の質問をせず部屋を飛び出していった。
「ジョン、小西さんを」
ナルが振り向いた時、美術室の真ん中に、忽然とその姿は現われていた。
背中を半ば覆った緑なす黒髪。黒に映える赤い着物。たもとに入れた鈴を鳴らして歩く、哀れみの幽霊。
「あれが、鈴姫ですか?」
ナルの問いに、玲はうなずく。
「そう。あの人が、鈴姫」
鈴姫は玲の声に反応したように、振り向いた。その顔に純粋な疑問をたたえて、玲を見る。
「玲、死ぬのやめるの? どうして?」
「あたしは死にたくない。死んでしまいたくないよ、鈴姫」
「死にたくないの……?」
驚きで鈴姫は目を見張り、ややあって目元を歪めて笑いだした。
「玲、死にたくないの!」
「あたし、死ぬの怖かったよ。鈴姫も怖かったでしょ? だからあたしを助けてくれたんでしょ?」
玲の自殺の方法は、鈴姫の死の状況に酷似していた。何個所も刃物で傷つけて、鈴姫は死んだ。それを見ていられなかったから、霊を憑けて仲間にすることで自殺を止めた。
ナルは玲と鈴姫の間に割り込む。
「死ななくてはいけないと思っていたのに小西さんだけを助けたのは、彼女とあなたが似ていたからではありませんか。あなたは葬儀の時、自分が死ななくてはいけないと分かっていた。あなたの理屈で言うなら、あなた自身も小西さんも死ななくてはいけないはずです。なぜ助けたんです、自分が死にたくなかったからではありませんか」
鈴姫は首をかしげてそれを聞いている。
「かわいそうだと、あなたは言っていたそうですね」
真砂子が鈴姫を見つめる。
鈴姫は、笑うのをやめた。
「かわいそう……」
たもとの鈴がしゃらしゃらと鳴る。
「かわいそう……かわいそうな、……『あたし』」
とまどうように、鈴姫は美術室を見まわす。
「誰も来ない……あたし一人なの?」
「あなたの先人たちは、あなたを哀れんだ。あなたは彼女たちを哀れんだ。きりがありません。もう終わりにしてもいいんじゃないですか」
「来て、くれないの?」
「来ません」
「かわいそうな、あたし……」
鈴姫がうつむくと、綺麗な黒髪がさらさらと流れ落ちる。
「あたし、死んでるんだっけ……?」
「そうですね」
「なのに、どうして会えないの?」
動いてもいないのに、鈴は激しく鳴る。山中に響く祭りの鈴の音のように、大勢が鳴らしているように鈴が鳴る。
「死んだら来世で一緒になれるんじゃなかったの? どうして会えないの!? あたし会いたいよ、権ちゃんに会いたい。会いたかったよ、会いたかった、会いたい……会いたい。会いたい、会いたい会いたい!」
「会えます」
言ったのは、低い声だった。
霊能者たちも鈴もそちらを振り返る。
リンは手に持った人形を持ち上げる。
「大丈夫です」
それは、リンの扱う呪術だった。生没年などを知ることで作ることのできる、特別な人形だった。
人形が光を放つ。激しく燃えるような白光をまき散らし、人形が胎動する。光は震え、ふくらみ縮み、粘土のようにやがて人の形を作っていく。
玲が息を呑んだ。
あるべきところに顔が、手が足が生え、白光の中に一人の青年が浮かび上がる。彼は、玲が絵に描いたままの権七だった。
リンが人形を鈴姫の前に放る。
「権ちゃん……?」
惚けたように、鈴姫は青年を見上げた。
そこには、生前彼女を慈しんだ青年が物言わぬ幻となって立っていた。
「あたし……会いたかったんですのよ」
鈴姫はゆっくりと視線を落とした。彼女の手の中には、命奪う凶刃がある。しばらくそれをながめ――
鈴姫はおもむろに権七の胸に刃を突き出した。
「鈴姫……!」
玲が悲鳴をかみ殺す。
鈴姫は泣きながら何度も何度も刃をふるった。
「死にたくなかったわ、あたし死にたくなかったわ! 権ちゃんのために死にたくなかったんですよ、あたし怖かったんですよ。どうして死んだりしたんです。あなたのせいよ! どうして助けてくれなかったんです。あたし怖かったわ、とっても怖かったわ……」
少女のからだが、ほのかに光を帯びた。
願いを成就し、霊は浄化の光に包まれる。そして、ゆっくりと、消えていく。
言葉もないまま、誰もがその光景を見つめるしかできなかった。
「会いたかったわ。かわいそうな……」

