アリスのお茶会

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罪を犯すもの 第二章 2

 滝川たちが貸し別荘でビリヤードに興じている頃、麻衣はふと闇の中で目を開いた。
 それは夢で、麻衣にとっては見慣れた風景だったから、驚くこともなかった。物陰の作る闇とはまったく違う、光源もそれをさえぎって闇を作り出すものもない、ただ純然たる闇だった。この闇がどんな場所なのか、麻衣は知っていた。
 闇夜の月のようにその中に浮かび上がる自分を自覚しながら、麻衣は辺りを見回した。
「――ジーン?」
 出口は見えているのにどうしてもそちらへ近づけない、とジーンは言った。彼はこの場所にとらわれているのだ。この闇の中で、麻衣はずっと彼に会ってきた。夢の中で、闇の中で、麻衣はジーンをナルだと思い続けていた。夢の中でだけ会える綺麗な微笑みに恋して、それがナルのものだと勘違いし続けていた。
 呼べば彼はどこからかその姿を現す。ナルと同じ顔で、しかし少し幼い。毎朝麻衣が引き出しから取り出して見ていた、その姿がそのまま彼女を見つめていた。
「久しぶり、だね」
「――うん」
 うなずく彼はおだやかで、闇の中に溶けていってしまいそうに何か儚い。
「良かった、会いたかったの」
 その言葉には少し微笑っただけで、ジーンは闇の中のどこかに腰掛けた。それにならい、麻衣も一歩分空けて腰を下ろす。
「やっぱり、会えるの調査の時なんだね」
「そうみたいだね。僕も不思議だ」
「なんかすごいナルっぽいよね。普段何にもしゃべらないくせして、調査の時だけべらべらと途方もなくしゃべるの」
 同なじ顔をして、ジーンはナルにはありえないくらい好意的にくすくす笑う。
「今でもそう?」
「全ッ然変わらんないよ」
「ふうん、麻衣にも、何も話さない?」
「話さないよぉ。命令と、皮肉だけっ」
「そんなことじゃいつか嫌われるよね」
「今さら、これ以上どうにもなりようがないと思うけど」
「うん、そうだけど」
 また笑って、ジーンは麻衣の顔をのぞきこんだ。
「でも、もし付き合ったりすることになったら。いつか愛想つきるだろう?」
「つきあ……あたしとぉ!?」
「もちろん」
 抗議しかけ、麻衣は口をつぐんだ。優しく笑って見つめられてしまうと、もう麻衣は何も言えない。
「……どうしてそういうことを言うかなぁ」
 結局呟いた言葉は、独り言めいていた。
 ジーンが困ったように首をかしげる。
「ダメかな? 考えてみてくれないかな。面倒な弟で悪いけど」
「考え……考えたくないわけじゃないよ? でも……」
「麻衣?」
 顔をうかがわれ、麻衣は少しためらって、首を振って微笑んで見せた。もう、いつが最後になるか分からないから、できるだけ笑っていたかった。
「今調査してる事件のこと、何か分かる?」
 曖昧に微笑み返して、ジーンは少し顔を引き締めた。
「ここからは遠くてまだよく分からないけど……何かすごく悲しいものがある気がするんだ。悲しい、気持ちの集合体って言うのかな。引力のある、悲しみ」
「悲しみ?」
「そう。だから気をつけて。悲しみに引きずられちゃダメだよ」
「悲しみか……」
 麻衣は瞬いた。
 心の奥に悲しみがある。それは、いつでもある。ジーンのことを知ったあの夏の日から、心のどこかを食いつぶして、確実にある。
 辺りの闇を吸い込むように麻衣は深呼吸した。
「ジーン、あのね。ナルが、イギリスに帰るかもって」
「そうなの? 現実のことはよく分からないんだ」
「前もナルが帰ったことがあって、そしたらその間ジーンには会わなかった」
「そうだね」
「ナルが帰っちゃったら……もう会えない。ナルには会えるかもしれないけど、ジーンには……会えないよ」
「うん……そうだね」
「会えないよ――」
 吸い込む息が、涙を刺すように誘った。麻衣は唇をかみしめて、体の中からあふれだそうとする「悲しみ」を抑えこんだ。
 ジーンの瞳が深くなる。
「もう、会わない方がいいかもしれない。ねえ、麻衣。僕はもう死んでるんだ。本当は、会わない方がよかったんだ。これで最後にしよう。そんな風に悲しんでくれるなら、なおさら」
 こらえきれずにもれた息が悲鳴のように響いて、麻衣は体を縮めた。
 最後だ。
 麻衣はなんとか口の端を持ち上げようとした。これが最後なら、笑っていたい。
「ありがとう」
 今度こそ言わなくてはいけないと、別れを考えるたびに麻衣は思っていた。何も伝え残すことなく、せめて後悔はしないように。
 何年も想いをかたむけた人だから、その微笑みに恋焦がれてきたから。
「ありがとう、今まで助けてくれたこと全部。ごめんなさい。ずっとナルと間違えてたこと、ごめんなさい。……でもずっと好きだった」
 言えないで別れて泣いた日の胸苦しさを麻衣は今も覚えている。
 これほど鮮明思い出せるのに、今でもそうなのに、困った顔でさようならを言われるのか?
「本当に好きだった」
 笑えない。
「さよなら、麻衣」
 ふいに、ジーンと麻衣との間が空いた。目の錯覚のように、あるいは何より強い引力のように、麻衣は闇から引き剥がされた。それは、ジーンの心に似ていたかもしれない。
 麻衣は子供のように首を振った。
「嫌! 起きたくない!」
 すがめた目の向こうに、見る間にジーンの姿が遠くなる。大好きだった微笑みが見分けられなくなって、麻衣は自分の服をにぎりしめた。
「まださよならしたくない!」
 光が、麻衣を包み込んだ。
 まぶしく、柔らかく、それでいて清冽に、光は心の闇を払拭して麻衣を包み込む。死者にとらわれる麻衣をいましめるように。
 現実を思い出させるように。
 麻衣は、光から顔を覆った。

『あの人に、もう会えない――』

 玲はそっと鉛筆を置き、おさげの先を指でいじった。
 キャンバスはそのまま売れそうなほど白い。ここのところ、思うように絵が描けなかった。描くものが思い浮かばないのだ。
「駄目だな」
 玲はよく朝方学校が始まる前に美術室に来ている。開門は七時だが、開門の時間には特別こだわっていない。鳴山高校のフェンスは山側には張られていないから、入ろうと思えばいつでも入れるのだ。
 そうして授業の時間まで絵を描いているのは昔からの習慣だが、最近は来てもキャンバスを前にうなってばかりいる。
 窓の外へ目をやれば、テニスコートの向こうの国道には、もうずいぶん車が通っていた。夏が来ている。避暑地の町も、にぎわうシーズンだった。
 白い画面をにらみつけていても不毛だ。玲は立ち上がり、窓の外を見た。
 車が二台、ちょうど敷地内へ入って来るところだった。これから学校の駐車場に停めるのだろう。中に乗っている人間は窓ガラスが光って玲には見えない。二台連れだって乗り入れてくるような教師は今まで見たことがないから、昨日来た霊能者の連中かもしれない。
「かわいそうに」
 玲は後ろを振り向いた。
 鈴姫だ、とすぐに分かった。
「かわいそうに……」
 玲は目を伏せ、そっとキャンバスの前に戻った。
 鈴姫のたもとで震える悲しい鈴の音が、玲の心をもゆさぶる。校舎中に響き渡る。そうして心と心を渡って、その悲しみが眠れるものたちをゆさぶり起こすことを、玲は知っていた。

 しゃらん――……

 前日と同じ場所に車を停めた滝川は、ベースに向かおうとして立ち止まった。
 真砂子がとまどったように辺りを見回している。周囲では早い生徒たちが登校し始めているが、真砂子の視線は彼らを追ってはいない。何かを探しているがそれがどこにあるのか分からない、といった風情だ。
「真砂子ちゃん、どうした」
 真砂子は呼ばれて我に返ったように滝川を振り返った。
「鈴の音が、聞こえませんでした?」
「鈴? いんや」
「何をしているんですか」
 油を売っている時の常で、ナルが冷たい声を投げてくる。
 ナルの命令にはいつも忠実な真砂子だが、めずらしく叱責されてもまだ辺りを気にしている。
 真砂子の様子をただごとならぬと判断して、滝川は先に行こうとするナルを呼び止めた。
「ナル、今鈴の音が聞こえたか?」
「……いや」
 ナルも足を止めて真砂子を見る。真砂子は自然のなりゆきで彼と目を合わせ、すぐに瞬いて滝川へと視線を移した。
「確かに聞こえました。辺り中に響くような、とても悲しい鈴の音が。聞こえませんでしたの?」
 責めるように言われるが、登校していく生徒たちも気付いた様子はなかったから、彼らが悪いわけではないだろう。もし鈴が霊の力によるものなら、真砂子以外に聞き取ることができなくても仕方ない話だ。滝川にもナルやリンにも、もちろん一般人の安原にも霊を感じ取る力はない。
 辺り中に響くようなものだったと言うのなら、霊現象である可能性は高かった。
「霊の仕業ですか」
「……はっきりとは分かりませんけれど、たぶん。今、一瞬娘さんの霊がいたような気がしたんですけれど。また隠れてしまいましたわ」
 滝川と安原は顔を見合わせた。朝も早くから動き回る霊とはまた、厄介な話である。そしてやはり真砂子にはこの学校の霊が感じられるのだ。
 ナルは無表情のままで校舎に向き直った。
「ひとまず、ベースに向かおう」

 ベースは一見、昨夜彼らが出ていった時と変わりないようであった。
 部屋の端に組み立てられたラックには学校の廊下を映し出したモニターが並んでいる。登校してきた生徒がもの珍しげにのぞきこんでゆく様子が時折映る。設置したマイクの音を拾う機材が扱う人間もなくさみしげに稼動していて、机の上には滝川が忘れていったノートが出ていった時のまま置き去りにされていた。
「お、あったあった」
 ナルの怒りを怖れていた滝川は嬉々としてそれを取り上げた。
 とにかくも真っ先に昨夜のデータチェックを始めるのは、リン。何も言わずに椅子を確保して資料をにらみ始めるのはナルで、真砂子と安原は指示が出るまで特にやることもなく手持ちぶさたそうにしている。
 ノートを手に取るとつい中身を確認したくなるのが人情というものではないだろうか。ごく人間的神経を持ち合わせている滝川は、取り上げたノートをぱらぱらと開いていた。
 ノートには前日の聞き込みのメモと、機材設置の様子が滝川の字で書き込まれている。それは大した枚数もなく終わり、後はずっと空白が続いている、はずだった。
「なんだこりゃ」
 滝川は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 自分のメモが途切れた空白の先に、女の字で文章が一文だけ、書いてあった。 それも、
「『好きな人はいますか?』」
 まったく突飛な一文が。
 特別、不思議なところはない書き込みではあった。ノートのそばに転がしてあった鉛筆で書いた感じであったし、ごく冷静な筆跡で書かれている。ただ、唐突なだけだ。
「どうしました?」
 安原が寄ってくるのを微妙に避け、まずは真砂子に確認する。
「真砂子ちゃん、このノート触ってないよな?」
「どうしてあたくしが?」
 メンバーの中で女性は今のところ真砂子一人だったからである。男が女っぽい字を書くこともあるだろうが、目の前の男たちがそういう字を書くところを滝川は見たことがなかった。
 ノートは帰り際までひたすら滝川が所有していた。だから昨日真砂子はうっかり英文ノートに手を出してしまったのである。そうだよな、と真砂子の否定にうなずいて滝川はその文を安原に見せた。
「リン、昨夜戸締まりは?」
「しました」
 機材の前から半身だけ振り返ってリンが言う。
「見てましたわ」
「どうした?」
 一日の予定を立てていた御大までも話に加わってくる。滝川は机を越えてくるナルにノートの字を示した。安原辺りが「僕ですよ」と笑い飛ばす展開もありえたが、いかんせん安原は昨日学校に来ていない。駅から直接図書館へ行って、滝川が帰りに迎えに行くまでそこにいたのだ。
 全員がノートを囲む形で頭を寄せた。
「ポルターガイストなんじゃないですか?」
 誰もが思っていた疑念を口に出したのは、安原だった。自動筆記という現象が、あるにはある。
 ナルは肩をすくめた。
「可能性としては、ありますね」
 鍵をかけていったとは言っても合鍵を誰かが持っていない保証はない。誰かが夜のうちに忍び込んでいたずらで書いていったのかもしれないのだ。一概に異状現象だとはいえなかった。
「好きな人はいますか? ……いたら、なんなんでしょうね」
 呟く安原の声に答えるものはいなかった。
 沈黙の末、ナルがため息をついた。
「仕方ない。かなり不確実な方法だが、ここを今日一日封鎖してみよう」
「ポルターガイスト実験か? まさか、学校関係者全員に暗示かけんのか?」
「まさか。いくらなんでもやってられない」
 ポルターガイストには二種類ある。
 一般にポルターガイストというと霊の引き起こすものという印象があるが、実際には人間が起こしている場合が多い。抑圧された人間の欲求が、無意識の領域で潜在的な超能力を使ってしまう、というのが超心理学での考え方である。これは本人も無自覚なことだから、霊現象と間違って騒ぐケースが多い。
 ナルのようなゴーストハンターは、これらふたつのポルターガイストを区別するために、暗示実験を行う。ポルターガイストの犯人である可能性を持つ人間に、何か特定のものが動く、という暗示をかける。実際にはこの物、たとえば椅子やら人形やら何でも良いのだが、これを誰にも動かすことができない場所に置いておく。もしも犯人が人間であった場合、その人物は無意識に暗示を実行する。ポルターガイストを起こしてその物を動かすのだ。
 この実験の際、重要なのは対象物を隔離することである。絶対に人が触れることがあってはならない。そこで、監視はカメラに任せ、扉を封印して部屋を無人にするのだ。
「生身の人間がやったことなのか、そうでないのかだけでも分かればいい」
「なるほど、侵入者を防ぐわけだ」
 滝川は息をついた。確かに不確実な話だ。
「そう。それで動いたらポルターガイスト」
「アバウトだねえ。ほとんど賭けだな」
「動いたらもうけもの、ということだな。期待はしていない」
「やらないよりはマシ、と」
「そういうことだ。……リン、カメラを用意する」
 ナルの言葉にうなずいて、リンは追尾カメラを持ち出した。これはサーモグラフィーと連結される。
 サーモグラフィーは温度を感知する機械である。追尾カメラと連動させ、今回はもっとも温度の高いところをカメラが写すように設定する。
 ナルによれば、ポルターガイストによって動いた物体は暖かい。もしもポルターガイストが何かも分からない、動くかどうかもわからない物を動かしたとしたらそれは暖かい。追尾カメラが追いかけて撮影してくれる、はずであった。
実際問題としてベースにはモニターが積んであって、思い切り作動している。当然ながら熱を持っている。ポルターガイストがどの程度の熱を生み出すか分からない以上、確実にそちらを向いてくれるとは限らない辺りが、さらにアバウトな話であった。
 ベースにさらにものものしい機材がセットされていく。それをながめながら、真砂子はそっとノートの字をうかがった。
『好きな人はいますか?』
 いたら、なんなんでしょうね? 

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