the Story of Her(後編)

 その日、ガブリエフ家の人々はどこぞの国が攻めてきたかと思ったらしい。
「な、なんだぁっ!?」
 下男があわてふためいて叫べば、
「ご主人様はっ! ご主人様はご無事ですかっ!」
 忠義なメイドが主人の安否を確認に走る。
 そのご主人様はといえば、
「恐れを知らぬ愚か者め……我が剣の錆にしてくれるわ!」
 妙に盛り上がっていたり。
 コックは食糧を確保して地下の保存庫に駆け込む準備をし、執事は静かにお祈りを始めた。
 その原因は、屋敷間近で荒れ狂った爆音と炎である。
 住人たちが右往左往の大騒ぎ、それぞれに反応している間も、大小の爆発音は断続的に響いていた。
 多少落ち着いていた人々が音の出所を突き止めるまで、ほんの数分である。しかし、その数分間、屋敷は確実にパニックに陥っていた。
「賊はここかぁっ!」
 ガブリエフ子爵が勢いよく開けたのは、稽古場に続く小さな扉だった。
 彼の後ろには、勇気ある下男たちやらメイド頭やらが、手に手に槍だの包丁だのを持って駆けつけている。
 そうして一斉に扉の向こうをのぞきこんだ彼らが見たものは……きょとんとしているガブリエフ家次男と、その専属メイドだった。
 すごい剣幕で扉を開けたまま固まっている子爵一行。
 その剣幕に驚いて、剣を合わせたまま固まっている子爵第二子たち。
 しばし、白い空気が流れた。
 口を開いたのは、物事に動じるということを知らないのではないかと思われるガウリイだった。
「あ、稽古中なんだ。うるさかったか?」
 うるさいなどという生易しいレベルの話ではない。
「こ、この……」
 子爵が肩を震わせた。
「この、恥さらしの息子めぇーっ!」
「うわあああごめんなさいごめんなさい」
 使用人たちが必死でなだめなければ、子爵は息子を殴っていたかもしれない。
 彼が何とか落ち着いたのは、ひとえにメイド頭以下忠義者たちの努力と、ガウリイたち当事者2人の誠意ある謝罪によるものだったと思われる。決して、リナが事情説明と称して放った火炎球のせいではないはずだ。
「ガウリイ……ずいぶんと楽しそうだが、1週間後の宴のことは覚えているんだろうな?」
 額に青筋を立てながらも、ひとまず普段の威厳を取り戻した子爵が言う。
 ガウリイはちらりとリナを見た。彼女の視線から何か感じるものがあったらしく、子爵に目を戻すと何やら真剣にうなずく。
「それはもう。身体で覚えさせられましたから」
「……お前が調教されてどうする……?」
 じと汗を流すガブリエフ。
「私は、そのメイドに破壊活動を行わせるなと言ったはずだが?」
「破壊活動じゃありません。オレの稽古に付き合ってもらってだけです」
「稽古、だと?」
「ええ」
 メイド姿のまま剣を持ったリナが、横目でガウリイをうかがってから口を出す。
「実戦を想定した模擬戦です。ガウリイには……ガウリイ様には怪我させてませんし、建物にも傷はついていないはずです」
 確かに、煤けてはいるもののガウリイに怪我はない。屋敷の外壁にも被害はなかった。
 地面はかなり大きく抉れていたが、もともと芝生を植えていない砂地である。ならすのはそう難しいことでもあるまい。
「メイド風情が口を挟むな」
 難しい顔で言ったものの、ガブリエフの口調には初対面の頃ほどの覇気がなかった。
「とにかく、たとえ稽古でも、悪い風聞を呼ぶようなことはさせるな。いいな」
 ガウリイは頭をかいた。
「別にオレが命令してさせたわけじゃないですけど」
「するなと命令しろと言ってるんだ! そんなことで、1週間後までにその女を調教できるんだろうな!?」
「はぁ」
「はぁ、じゃない! 我が家の名誉がかかってるんだぞ! この出来損ないがっ」
「努力します」
 ガブリエフは苛立ったようにシャツの胸元辺りを探った。
「このまま任せてはおけん。そのメイドはやはり私が教育するべきのようだな」
 その言葉を耳にし、初めて、ガウリイの目に反抗の意思が宿った。
「子爵、まだ1週間あります」
 子爵に任せた後リナがどんな目に合うかは、ほんのかけらでも想像力を持ち合わせていれば分かる。それが故に、ガウリイはメイドを調教しろなどという、意に反する命令を請けたのだ。
「リナはオレのメイドです。オレの自由にしていいはずだ」
「そうだ、お前にはそいつを自由に権利がある。お前が間違いなくそのメイドの主人であるならな」
「オレは主人じゃないんですか」
「主人というのは、使用人を従わせる存在のことを言うのだ。お前は、そのメイドを従えることができるんだろうな?」
 不本意な要求に、ガウリイの口が答えかねて動く。
 沈黙の後、彼は小さくうなずいた。イエスと答える以外にないと、彼の鈍い思考回路でも分かったのだ。
「……ええ」
 ガブリエフはその答えにせせら笑った。
「なるほど、ではお前の調教の結果を見せてもらおうか」
「……何をすればいいんですか」
「お前のメイドの忠誠の証を見せてもらおうじゃないか。おい、お前。お前の主人にひざまずけ」
 視線を向けられたリナは動かない。
 彼女の目が、燃えるような紅に輝いている。
「冗談じゃないわ」
「リナ」
 意を決したように、ガウリイが振り向いた。
 リナと目を合わせ、しばらく黙って見ている。ふと、視線を伏せたのはリナの方だった。
「こっちへ来いよ」
 リナは静かに歩を進め、ガウリイの目の前で止まる。
 息を詰めて見守っていた視線が、リナの背中に集中した。
 ガウリイは、小さな頭にそっと手を載せる。
「ひざまずくんだ」
 少しの間沈黙があった。
 大きな手のひらに押されるように、ゆらりと彼女は膝をついた。
 ほぅ、と周囲からため息が漏れる。
 しかし、ガブリエフはまだ固い顔を崩さなかった。
「その程度、保身のためなら誰でもするだろう。忠誠の証とは言えんな」
「これ以上、何をさせろと?」
「そうだな……ご主人様の靴を舐めてみろ」
 ガウリイとリナのみならず、控えた使用人の中にも困惑の空気が流れた。
 いくら忠誠を誓った使用人たちでも、そこまですることはない。それを、公衆の面前で16歳の少女にやれと言っているのだ。つい何週間か前までは平気で主人を吹っ飛ばしていた少女に。
「あんまりだ」
 ガウリイは小さな声で言った。
「あんまりだ? 私はお前にそいつを調教しろと言ったんだぞ。お前は教育もせず遊び相手にしていただけか? 稽古と称して騒ぎを起こして、主人に乱暴な口を利かせ、愛玩していただけか?」
「リナは……仕事も熱心にしてるし、魔法で屋敷を壊したりもしてない」
「だから、何だ。仕事をするのは当たり前だ! 屋敷を壊さないのも人間として当然のことだろう! 私がお前に要求したのは、そいつに、自分は主人の持ち物なのだと教えることだ。分かるか? 能無しの奴隷にも劣る馬鹿めが!」
 ガウリイは、それに反論しなかった。できなかったと言うのが正しい。
 彼のゼリーのような脳でも、ガブリエフの要求を呑まなければリナを連れていかれると、分かったのである。
「……リナ」
「……はい」
 リナは顔を上げなかった。
「してくれ」
「何をですか、ご主人様」
「だから、その……靴を舐めるんだ」
 彼女は微笑んだようだった。
「ふ」
 会衆注視の中、リナはすっくと立ち上がった。
「ふざけんなぁぁぁぁぁっ! できるかこのクソオヤジぃぃぃっ!」
 と、リナが回し蹴りをかましたのはガブリエフに対してだった。
 そこに多少の忠義心が働いていたのだろうかと使用人連は思ったりしたのだが。遠慮なく足蹴にしてげしげし踏みまくった後、しっかり振り返ってガウリイにもジャブをかましていた。
 せっかく我慢したのも、台無しであった。


---------


「……ほんのちょっと、あたしも悪かったかもしれないわ」
 なんぞと、ふんぞり返ったリナから大変に殊勝な言葉が出たのは、すっかり騒ぎも収まった後だった。
「今さら言ったって遅いだろーが……」
「ま、いいじゃない。ちゃぁんと事を収めたのもあたしなんだから」
 リナ得意の口先三寸で周囲をなだめること数十分、ガブリエフはかんかんになりながらも部屋へ帰っていった。
 とにかく命令どおりひざまずいては見せたわけだし、期限までは待ってやろうかという話になったのである。もちろん、たっぷりの嫌味は頂戴したが。
「こりゃ、当日何要求されるか分からんぞ」
「ま、その時はその時よ。いざとなったら屋敷ごと吹っ飛ばしてもいいし」
「いいわけあるかっ!」
「やーね。言ってみただけよ。もしかしたら協力してくれるんじゃないかと思って」
「協力したらやるのか、おい」
「そこは、それ……」
 ガウリイは自室でリナの手当てを受けているところである。
 他の使用人はいない。もともとほったらかしにされていたようなガウリイだが、リナを専属につけてからは彼女ばかり呼びつけることもあり、すっかり一対一の主従関係となっていた。
 自然、気安くなる。もはや言葉遣いも完璧に崩れていた。
 愛玩しているというガブリエフの言葉は誤解だが、遊びに相手にしていただけという点に関してはあながち間違っていない。
「にしても、腹立つわねあの偏見オヤジ。あんたの頭は寒天みたいにやわらかすぎるけど、あいつの頭は固まりきってるわね、完全に」
 ガウリイは苦笑している。
「あんた腹立たないわけ? はい、終わり」
 治療をかけ終えると、リナはベッドに腰かけるガウリイのとなりに座った。
「もし、自由にしていいって言われたらな」
「ええ」
「修行の旅に出るつもりだよ」
 リナは首をかしげる。
「家出しちゃえば?」
「それでもいいんだが、追っ手をかけられても面倒だし」
「まーね、家の恥とか言ってそういうことしそうよね、あのオヤジ」
「最終手段として家出も考えないではないが……できれば、穏便に、な」
「ふぅん」
 リナは足を揺らした。
 いとけない仕草だが、裏腹に瞳は重い色を映す。
「邪魔するみたいで、悪かったわね」
 ガウリイは笑い、リナの頭をかきまぜる。
「ま、考えようによってはいいチャンスだろ」
「馬鹿ね、怒ればいいのに」
 口では呆れたように言いながらも、リナの表情はやわらかくなった。
「せめて愚痴の相手にでもすれば?」
 ガウリイは少し目をすがめ、まぶしそうに笑う。
「城に、変わった傭兵がいてな」
「へ? うん」
「戦の時とか、稽古の時とか、たまに顔を合わせるんだ。オレがガブリエフだって知ってるのに、お前さんみたいなやつでな、平気でどついてくる」
「はは……そお」
「その男からオレはいろんなことを教わったんだが……印象に残ってるのは、アレだな」
「印象に残ってるって……覚えてるの!? ガウリイが、人に言われたことを!?」
「おい……」
 リナはぱたぱたと手を振った。
「あーいいのよ。続けて。で、何を言われたの?」
「いや、だから。『惚れた相手の前でだけは、悩んだ姿なんてみせるんじゃねえぞ』ってな」
「へ?」
 一瞬話の流れについていけず、リナは瞬いた。
 さっき彼女が言ったのは、自分に愚痴をこぼしたらどうだという話だ。その返答が、これ。
「それって……」
 考えが至ると、顔が熱くなってくる。
「あーいや、まぁだから……」
 お互いに照れた顔を見合わせて、しばし見つめ合うと笑い出してしまった。
「つまり、そーゆーことだ」
「そう」
 笑いやむと、お互いの目に呪縛されて動けなくなった。
 どちらからともなく、唇を合わせる。
 言葉を交わすようにキスをして、笑いかけるように互いの頬をなぞる。
 意識するととてつもなく難しい行為だが、やってみれば案外簡単なことだった。
 抱き合う行為は、体の境界線を薄く感じさせる。体と心はとても近くて、体が近づけば心も近づいたような気になる。突然距離がゼロになったような気がして、リナは優しい腕に安心して身体を預けた。
「……いいか?」
「特別手当もらうわよ」
 ガウリイががくりと首を垂れて、リナは笑った。
「あのなぁ」
「ありがたく思いなさいよ。あたしにさわって呪文食らわなかった主人は、あんただけなんだから」
「はいはい」
 言って、ガウリイはふと体を離した。
 リナの顔を覗き込んで、少し真剣な目で微笑む。
「なら、主人として命令だ。自分で服を脱いで、キスするんだ」
 リナは眉を上げ、挑戦的に首をかしげる。
「あたしを調教するの? 手ごわいわよ」
「だろうなぁ」
「で、ご褒美は?」
「ちゃんとできたら、優しくしてやるよ。初心者仕様で」
「あら。じゃ、やらなかったら乱暴にするの? できるわけ、あんたに」
「オレはお人よしで乱暴は苦手だが、お前さんに惚れてる男でもあるんだぜ。任せられたらどんなに急ぐか分からんぞ」
 リナは笑いながらベッドを降りた。
 長い髪をかきあげるようにして背中に流し、エプロンの紐に手をかけた。
「仰せのままに、ご主人様」
 するりと、紐が解けた。


--------- (Petit Adult)


 朝から屋敷は大騒ぎだった。
 栄誉ある貴族の一員とはいえ、一子爵の家に多くの殿上人が集まるのである。みっともない迎え方はできないし、逆に完璧な対応をすれば主人の格が上がる。ガブリエフは張り切っていたし、使用人たちの盛り上がりもそれ相応のものだった。
 この宴に心血を注いでいたのは、ガブリエフ家長男もである。
 長男は次男と違って貴族らしい振る舞いを身につけた男だったが、代わりにガウリイほど傑出した剣の使い手ではない。この家の当主は、家宝である光の剣の継承者と決まっている。ガウリイは当主にふさわしい教養の持ち主とは言えないのだが、光の剣の持ち主としてはもっともふさわしい。
 そんな背景を持ちながら、長男が当主に選ばれる近道は1つ。他の貴族たちに跡取りとして才覚を認められることである。そうすれば、ガブリエフ子爵も彼をむげにはできなくなる。
 そもそも、父親に好かれているのは長男の方だった。あとは、決め手がありさえすればいいのだ。
 そんな住人たちの思惑と盛り上がりを背負って、責任者であるメイド頭は早朝から奔走していた。
「ガウリイ様! ガウリイ様っ!」
 彼女がガウリイの私室の扉を叩いたのは、まだ日が昇って間もない頃だった。
「起きてくださいまし、ガウリイ様っ!」
 中でうめくような声が聞こえ、メイド頭は彼が扉を開けるのを待った。
 ガウリイが出てきたのは、たっぷり数分は待たされた後である。
「おはよう。どうした?」
 眠そうな顔で頭をかく。せっかくの美男子が台無しになるほど頭はぐしゃぐしゃ、目も半分閉じている。寝不足なのかもしれない。
 彼もこの宴を前にして緊張したのだろうか、そう思いつつメイド頭は厳しい顔を作って口を開く。
「大事なお話があります、ガウリイ様」
「ん?」
「あのメイドがおりません」
 ガウリイはきょとんとした。あまりのことに、頭がついていかないのかもしれない。
 これだけ主人の信頼を受けながら、とメイド頭は歯噛みする。
「リナとかいうあのメイドです。本日は大役をおおせつかっているのですから、朝一番で詰め所に来るよう申しましたのに。部屋に参りましたら、まったく痕跡がなく……家中どこを探してもおりません。申し上げにくいことですが、逃げられました」
 ガウリイにも分かるように、事実をはっきりと述べる。
 彼はしばらく首をかしげていたが、突然理解の色を顔に浮かべた。
「ああ、なるほど! リナを見つけられなくて困ってるんだな?」
 困っているなどという平和なものではない。
「ごめんな。もう少し寝かしておいてやってくれるか?」
「は?」
 今度は、彼女がきょとんとする番だった。
「いえ、ですから部屋にいないのですよ、ガウリイ様。寝ているわけではないんです」
「いやぁ……ええと、リナならここにいるから」
 沈黙の後、彼女は目を剥いた。
 この家では、メイドがご主人様のお相手をするのも珍しいことではない。そのまま朝まで部屋に滞在するのは多少珍しいと言えるが、それでも驚くほどのことではない。
 が、彼女はリナ=インバースが夜伽を拒んで遠慮会釈もなく主人を吹っ飛ばした事件を、ひとときも忘れたことはなかった。
 それでもって、貴族らしさのかけらもないガウリイが部屋にメイドを連れ込んだことがないのも、よおく知っていた。
 ガウリイはリナをかばっているのではないか。それが、彼女の頭に最初に浮かんだことだった。
「失礼いたしますッ!」
 彼女は暴挙に出た。老いさらばえて痩せているのをいいことに、扉の隙間から体をねじ込んで部屋に侵入したのである。
 今ならば、宴まで間がある。探しにいくこともできる。しかし、後になってからやっぱりいませんでしたと言われても、取り返しがつかないのである。
「ふわぁぁ……ガウリイ、何の騒ぎ?」
 果たして、リナは部屋にいた。
 半裸でしどけなくシーツから顔をのぞかせたリナと、メイド頭はばっちり目を合わせた。
「……」
「……」
「な、いるだろ?」
 からりと笑ったガウリイに、リナが無言で枕を投げた。




「いらっしゃいませ。コートをお預かりいたします」
「辺境警備軍軍隊長アサルト准将。お席はこちらになっております。食前酒をお持ちいたしますが?」
「遠いところをお越しいただきまして、主人も心から感謝しております。どうぞおかけになってお待ちください」
 日が落ちた頃から、ガブリエフ邸にはいくつもの馬車が現れては金銀刺繍の衣装をまとう人々を吐き出して行った。
 屋敷中に惜しげもなくたかれた篝火と、訪れる人々の笑いさざめく様子に、ガブリエフ邸は闇を払って光り輝く。今宵ばかりはこの家が都の主役である。
 その玄関に立った選りすぐりのメイドたちは、自らの役目に対する誇りで自然に顔をほころばせ、宴のスタートを担った。洗練された対応で客の荷物を預かり、希望を聞き、定められた場所に導く。
 それを迎えるのは応接間に控えたメイドたちだ。
 食事の支度が整うまでの間そこで客をもてなすのが、彼女たちの仕事だった。
 応接間には肩書きだけを並べた方が名前を並べるよりも多くなるような人々が集まり、供された酒を手に宮廷のできごとなどを噂して楽しんでいる。ガブリエフの姿もそこにあったが、文官であるより武人であり、造作も整った彼は、ただ姿だけで言うならひときわ目を引いた。
 長男であるガブリエフ中尉も、そこに足を並べていた。しかし、ガウリイはいない。
 やがて1人のメイドが食事の用意ができたことを告げに現れ、彼らはぞろぞろと食堂へ移った。彼らが動く時、そこにはまるで光のかけらが通り過ぎるような感覚がある。
 応接間の片付けを担ったメイドたちは、名残惜しくその光を見送った。彼女たちの戦場は終わったのである。
 さて、次はコックたちの腕の見せ所である。
 おおわらわの厨房では、1品目の仕上げが今しも終わろうとしているところだった。
 3人のメイドが給仕に当たり、できあがったものから順に食卓へと運んでいく。その中に、リナも混じっていた。
 食卓にはさりげなくガウリイもついている。末席ではあるが、彼の群を抜いた美貌は列席の人々の目に止まり、誰しもあの見慣れない青年は誰だろうと彼をうかがった。食事の席が始まり、ガブリエフが2人目の息子だと紹介した時には、なるほどという感嘆の息が流れたものである。
 そうして1品目が無事に下げられ、2品目が食卓に並んだ時だった。
 突如、席半ばの太った男が声を上げた。
「牡蠣ですか!?」
 ガブリエフは快活に笑って見せる。
「ええ、これはバイゼル湾から今朝早くに取り寄せたもので……」
 言った言葉が途中で固まった。
 その男が有名な貝嫌いだと思い出したのである。
「おや、私の皿だけ違う料理のようですな。取り違えられましたかな」
 離れたところに座っていた文官が穏やかに言った。
「それはそれは。お取替えになったらいかがです?」
 食堂の席に静かな笑いが浮かぶ。それは表面上友好的なものだったが、その実彼らの内心でガブリエフへの評価が下がったことはいなめない。
 ガブリエフは青くなった。給仕したメイドはそれ以上である。端に控えた彼女は、顔色をなくした。
 何とか弁解しようとガブリエフが口を開いた刹那である。
 鈴を鳴らすような笑い声が響き、メイドの1人が進み出た。
「あら、ご心配をおかけして申し訳ありません。これはデモンストレーションなんです」
 太った男は、服に陥没しそうな首をかしげて、彼女を振り返った。
 そこでにこやかに微笑んでいたのは、聡明そうな目をしたメイドだった。
「デモンストレーションとはなんだ? 私を笑いものにしようとでもいうイベントかね?」
「とんでもありません。少々俗な見世物ですが、ご覧くださいませ」
 彼女は口早に何かを呟き始めた。
 軍に関わる人間はそれが呪文だと気付いたが、アレンジが加えられていたため、正確に理解することはかなわなかった。浮遊を軽くアレンジしたもののようである。
 突如、テーブル端の皿が浮いた。それが宙にある間に、となりの皿が。それらは複雑な軌道を描き、交じり合い、やがて片方が元の位置に下りる。すると、次はさらにとなりの皿が浮く。
 そうして料理をいささかも崩さないままに皿同士の(時には燭台との)ダンスが続いた。
 最後に燭台がいっせいに高く火を噴き、一同が驚きの声を上げる。
 それが収まった時、肥満男の目の前にはフォアグラのステーキが初めからそこにあったかのように鎮座していた。
 苦笑と拍手が贈られ、額に汗を浮かべたメイドは優雅に頭を下げた。
「なるほど、確かに俗な見世物ですが、楽しませていただきました」
「ガブリエフ子爵は趣向がお好きですな」
「変わったメイドを使われているようだし」
 少し複雑な色の視線をメイドに向けたのは、1人の文官だった。
「リナ……と申しましたか、以前我が家にも勤めてくれましてね」
 誰あろう、彼こそリナの前の主人であった。
 その名を聞いて、一堂にざわめきが走る。リナの噂は彼らの中で有名だったのである。ガブリエフ家が雇ったらしいとは知っていたのだが、使いこなせているとは夢にも思われていなかった。
「とても私の手には負えませんでしたが、さすがガブリエフ子爵。このように使う手があったとは思いもしませんでした」
「あ……ははは、いえなに、これでも我が家は軍を束ねる立場ですからな。メイドの1人に負けてはいられませんよ」
「いやはや、ガブリエフ子爵は野心家だ」
 文官は笑ったが、彼の目には悔しさがにじんでいた。
「かくも有名になったメイドがどれほど教育されたものか、子爵のお手並みを拝見したいものですな」
「いやまったく」
 この言葉には、数人が同意を示して声を上げた。
 今日のホストを手放しに賞賛するには、意地が勝つのである。
「な、なるほどその通りですな」
 ガブリエフ子爵はさりげなく汗を拭った。来るべき時が来たのである。
「えー、お前。皆様の前で恭順の礼を示しなさい」
 と、ガブリエフ子爵は右手の甲を差し出す。
 リナは、美しく微笑んだ。
「できません」
「な……っ」
 ガブリエフ子爵は目を見開き、次いで末席のガウリイをにらんだ。
 ガウリイの向かいに腰かけた彼の兄は、得たりとばかり口を歪めた。
 リナは涼しい顔で続ける。
「私のご主人様はガウリイ様です。私の恭順は、ガウリイ様に捧げられていますから」
 一同の注目は、ガウリイに集まった。
 視線を受けたガウリイは、にこりと笑った。すべて、打ち合わせどおりであった。
「リナ、子爵は私の尊敬申し上げる父上だ。申し上げるとおりに」
「そうおっしゃるなら」
 わざとらしいほどの丁寧さで答え、リナは子爵の前に進み出た。
 意思を込めてその目を見つめ、ふと伏せ。
 リナはひざまずいて子爵の手の甲に恭しく唇を寄せた。


*  *  *



 ガブリエフ家に引き取られたメイドさんは、持ち前の気丈さと機転を活かしてすっかり社交界の噂の的になりました。
 もともと、素晴らしい素質を持ったメイドさんです。暴力を振るったりお屋敷を壊したりする話を聞かなくなれば、これほどいいメイドさんはいません。今までの噂が噂だっただけに、彼女のよい噂もまた瞬く間に広がりました。
 それと共に有名になったのは、唯一彼女に言うことを聞かせることのできる立派なご主人様のことです。
 このご主人様は、やがてガブリエフ家の当主の証である光の剣を受け継ぐことになりました。有名になってしまったのですもの、当然ですよね。
 ところが、このご主人様はやがて家督を兄弟に譲りました。彼にはやってみたいことがたくさんあって、お屋敷が狭く思えたのです。
 ご主人様が社交界から姿を消すと同時に、メイドさんの噂も下火になっていきました。
 なぜなら、メイドさんはいつだってご主人様のとなりにいたからです。
 これが、史実のお話。
 2人の間にどんなことがあったのか、それまで社交の場に顔を見せなかったご主人様が突然才能を発揮するようになったのはどうしてだったのか、いろんな謎は、きっと本人たちだけが知っているのです。



END.



<BACK







▲ page top