リナにとって有利な点など1つもなかった。
ゼロスは圧倒的に強い。リナとてけして弱くはないが、人間である以上詠唱時間というものが必要である。ゼロスに生半可な術は効かないが、強い術はそれだけ詠唱時間を食う。体術ではまったく敵わないと分かりきっていたため、とにかく距離と時間を稼いで強力な魔法を叩き込む以外に勝機はない。
ガウリイがいれば、決死の接近戦で足を止めてもらうこともできただろう。しかし、リナ1人ではわずかな距離を保つことも難しい。空間を渡るゼロスに対し、走って距離を取るのにも限界がある。ショートソード1本で必死に錫杖をあしらったところで、本当に申し訳程度の時間しか手にすることができない。詠唱を続けるうちにすぐ目の前に出現され、あわててそれを避ける。その繰り返しだった。
戦いが長引いているのは、ただゼロスが手加減をしているためだけだった。
その気になれば、彼は遠くから何のモーションもなしに攻撃を撃ち込むことができる。軌道も、タイミングも読めない黒い錐の攻撃。それを心臓に埋め込まれればあっという間に勝負がついていただろう。
しかし、魔族が人間に対して本気を出してくることはまずない。それは言葉の攻撃と同じ、相手を対等と認めることが存在に関わるからである。
魔族の戦い方は1つだ。嬲り殺し。それ以外になかった。
思い出したように仕掛けられる遠距離攻撃に、リナの体は浅い傷で覆われていた。
黒い錐を目にした途端何とか体をひねることで、それはどれもかすり傷程度のものだった。しかし傷は痛みを伴い、痛みは集中を奪う。集中が切れれば魔法を制御できなくなり、攻撃をかわすことも困難になってくる。
何度目かに打ち込まれた黒い錐を避けて、右腕に浅く裂傷が走る。嫌な予感に押されて抜き放ったショートソードが、空間を渡ってきたゼロスの錫杖を受け止める。傷を負った右腕に過負荷がかかって、リナは呻いた。
「おやおや、もうギブアップですか?」
接近戦でも魔力戦でも劣っているのでは、どうしようもない。
せめて斬妖剣を失敬してくればよかった、と思いながらリナは笑った。
「あたしの辞書にギブアップの文字はないのよ、残念ね」
「ちっとも残念じゃありません」
ゼロスが微笑んだ時、リナの軸足に激痛が走った。
思わず声を上げ、錫杖に押されるようにして地面に膝をついてしまう。力で自由を奪っておきながら黒い錐で足を貫いたらしい。目を逸らしている場合ではないが、おそらくもう右足は使い物にならないだろうと思った。
芯から痺れるような疼痛に顔をゆがめるリナを見て、ゼロスは声を上げて笑った。そして、ふわりとその場を離れる。
「そうですね、ギブアップと言って下さったらひとおもいに楽にして差し上げますよ」
「あらご親切に。あんたやっぱりあたしに惚れてるでしょ?」
「人間に? まさか」
「そーね、人間に惚れてるなんて白状したら、あんた自分の存在が危なくなっちゃうもんね。お気の毒さま」
「本当に、憎まれ口の宝庫ですね、あなたの口は」
ゼロスはリナから離れたところにいる。土に爪を立てて文字通り足掻いているリナを見て楽しんでいるようで、攻撃を仕掛けてくる様子もない。
立って、隙を作るなら今なのに、とリナは自分を罵る。立ち上がろうにも骨を砕いて貫通された右脚は痛みだけを訴えてきて、もう役に立ちそうにない。左脚1本と腕を使って体を起こそうとするが、右にまったく体重をかけないのは無理というものだ。重みがかかるたび激痛が力を奪って、その場から動くこともできない。根元を縛ってしまえば何とかなるのだろうが、そこまでの時間を与えてくれるとは思えない。
意を決し、苦痛の叫びをあげながら、大地を踏みしめた。
ゼロスはにこにこと笑って、嬉しそうに拍手した。
「さすがです、リナさん。そうでなくては」
「まだ勝つ気満々なもんでね」
「そうですか、僕もそうです」
その瞬間、リナは立ち上がる方法を封じられた。
残る左脚を先ほどと同じ攻撃が襲ったのである。思わず目を向け、視界の端でリナは見てしまった。闇のように黒い三角錐が自分の足を裂いて風穴を開け、そのまま虚空に消えるその光景を。
今度こそ、リナの体は無防備に仰向けに倒れた。
まだゼロスは元の場所から動いていない。
「ほ……本気出してきたわね」
「そういうわけでもないんですが。やはりこのくらいが限界ですか。ガウリイさんがいればもうちょっと違ったんでしょうけどねぇ……」
「あら、油断しない方がいいわよ……」
倒れ伏したまま口の中で早口の呪文を唱える。勝ったと思った時が1番危ないものだ。
しかし、その呪文は完成することがなかった。
ぞむっと、音さえ聞こえたような気がした。
一瞬、リナは腹部に風が通ったような感覚を覚えたが、それは錯覚だったかもしれない。限界を超えた痛みと負荷にふと意識がなくなり、もう1度目を開いた時数歩の距離にゼロスがいた。
ざあざあとまるで雨が落ちるように体から血が抜けていく感覚。現実感がうつろになり、ほとんど飽和状態に達した痛みは体の一部のような気がした。ただ、近づいてくるゼロスを見ていることしかできない。
舌がわずかに動いてひと綴りの言葉を唱えていたのは、執念のなせる業だった。
空を仰いでぴくりとも動けないリナの傍らに立ったゼロスは、むしろ優しくすら見える表情で微笑んだ。
「させませんよ」
無雑作に錫杖が振り下ろされる。右脚に空いた孔を貫き、大地に太腿を縫いとめる。
「!!!!!!」
声を上げずに済んだのは、耐えたというよりも声すら出せなかったという方が正しい。唱えかけた呪文は1度凍りついたが、幸か不幸か出なかった悲鳴のために途切れなかった。
「まったく、しぶとい人ですね」
リナの意識は、すでに半分霞がかっていた。霧に包まれたまま、ただ信念に支えられて言葉を紡ぐ。限界を超えた精神が、不可能とも思える集中を可能にした。痛みと出血のあまり上手くものを考えられない、それが逆に1つのことだけ考えるのを助けた。
余裕たっぷりに膝をつきリナの体を抱き上げたゼロスは、無防備にそこにいた。
「神滅……」
――もう1歩のところで。
重ねられた唇が力ある言葉をさえぎった。
けして乱暴ではなく、強引でもなく、力の抜けたリナの体を抱いて優しく深い口づけを落とすゼロスは、満足そうに微笑んでいた。
口腔をまさぐる舌がリナの舌を絡めとり、呪文の力は完全に霧消する。最後の戦意も、それと共に溶けて消えた。
「う……」
内腑から逆流してくるものが、口をふさぐ。吐き出された血のほとんどをゆっくりと飲み干して、ゼロスは静かに唇を離した。
真っ赤に濡れた唇から、飲み切れなかった鮮血がしたたり落ちる。その唇は、確かに微笑み続けていた。
「――もう、おしまいのようですね」
「そう……みたい、ね」
1度途切れてしまった限界状態での集中は、もう取り戻そうとしても戻らない。
後は死を待つばかりだと、リナはどこか冷静に判断した。ゼロスが気まぐれを起こして傷を癒してくれたりすればまだ立ち直れるかもしれないが、普通に考えてありえないことだし、それで助かるかどうかも怪しい。
それほどにはっきりと、リナは死の匂いを嗅いでいた。
「では、そろそろ死なせて差しあげますね」
「待、って」
かざした手を止めたリナに、ゼロスは不審そうな顔をした。
「まさか、ここまできて、まだ最期まで生き続けなきゃいけないとおっしゃるんですか? ほんの数分も保たないと思いますが」
「違う……話を、させて」
「それは構いませんけども。ああ、気が変わりました? 僕らの側にいらっしゃるんでしたら、何とか助かるように手を尽くしてみますが」
リナは唇をほころばせた。
「いいえ……あたしは、人間として、死ぬの」
「そうですか……。まぁ、そうおっしゃるとは思いましたが」
そう言いながらも、普段表情を出さないゼロスの顔にはわずかな落胆がちらついた。
リナは強張る唇をさらにゆるめ、力を込めて腕を持ち上げた。それは震え、頼りない動作だったが、ゼロスの目に留まったらしい。彼はリナの手を取ってゆるやかに包み込んでくれる。
そのやわらかな動作に、リナはため息をつく。ため息というよりは、あえぐような声になった。
「――かわいそうな、ゼロス。死なせたくないって、言えればいいのに、ね」
ゼロスは眉をひそめる。
「かわいそう? 僕がですか?」
「あんたは、言えない。あたしは……死んでもいいと、言えない」
「言えないのではなく、そもそも言うつもりがないのですが」
「自分を、ごまかして、あんたはかなえようと、してる。魔族の、味方に」
「不思議なことを言う人ですね」
「あんたも、あたしも、かわいそう……」
リナは微笑を崩さなかった。ゼロスは彼女の手を握り、困ったようにその表情を見ている。
「でも、あたしは、混沌に、還る」
ゼロスの紫の瞳がわずかに揺れる。それは、彼の望みなのだ。
「魔族も、人間も、ない。混沌に」
「そうですね……」
「だから、やっと、言えるのよ」
「死にたいと?」
「いいえ。あたし――少し、あんたが好きだったかもしれない」
今度こそ、ゼロスの瞳がはっきりした驚きに見開かれた。
「ううん、もしかしたら……」
言い淀むようにリナの紅の瞳が伏せられる。
「……もしかしたら?」
うながす言葉にリナの唇が震え、そしてまた言葉をつぐんで閉じられる。
「もしかしたら何なんです?」
ゼロスは唇に耳を寄せる。もう、限界なのかもしれない。
「リナさん?」
小さな体をしっかりと抱えなおす。ふと気付いて、リナの手を離し、自由になった手を体に沿わせる。いまだ血を流し続ける腹部の大きな傷を癒す。べたりと血が張り付くような傷は見る間に隙間を埋め、白い肌があらわになった。
「リナさん、もしかしたら何なんですか?」
続けて両脚の傷をふさぎ、体を愛撫するようになでて細かな傷を埋めていく。
ちりちりとした焦りが、彼の滑らかだった心を毛羽立たせた。
「……リナさん?」
返答は、ない。
言葉どころか、よく見れば先ほどまで確かにあったわずかな胸の上下さえ、ない。
戸惑う視線を小さな女に向け、彼はため息をついた。
「死んでますよね――これは」
その小さな女は、もう昂然とした瞳で彼をにらまない。その赤い唇はもう勢いのよい憎まれ口を叩かない。彼は取り残されたような、物寂しい気分になる。
「もっと早くに、言ってくださればよかったのに」
名残惜しく彼女の唇に唇を押し当てようとして、彼は初めて惑った。
「彼女は……ただの人間」
興味があるだけだと言い、殺して愉しみたいと言った。しかし、彼女はすでに死んでいる。
死体にすら執着を抱くほどの想いは、彼の言葉ですらただの興味とは言えない。
恋着か、愛情か、愛執か。
そうとしか言い表すことができない。
だとすれば、その行為はけしてできない。
魔族が、ただの人間に、そこまで執着するのか。
できるわけがない。
もう少し生きていてくれればよかったと願うのか。
できるわけがない。
もっと早く告白されていたら、何かを変えられたのか。
できるわけがない。
――魔族として、生きる限り。
早朝、小さな村のとある宿に、魔族の青年が降り立った。
その腕に小柄な人間の女性を抱え、彼は氷のような微笑を浮かべていた。
彼の抱く女性を目にして、宿に滞在していた剣士はしばし呆然とした。そして、突然絶叫を上げると彼からその女性を奪い取った。辺りをはばからず泣き叫び、剣士は彼女をかき抱いた。その、傷ひとつなくゆるやかに微笑んだ体を。
青年は彼らを見下ろし、冷たい笑いを浮かべながら告げた。
「彼女は、最期まで戦い、人として生き抜こうとしましたよ」
死を迎えるその時まで、人を裏切ろうとはしなかった。
あくまで、彼の側にあった。
純粋な悲しみと絶望に満たされる剣士を、彼は冷たく見下ろす。
「これは親切で言うんですが、もしよければ、あなたも殺してあげましょうか?」
剣士は虚を突かれたように青年を見上げた。
「オレは……」
「――なんてね。嘘ですよ。あなたも最期まで戦ってください。たとえリナさんが死んでも」
青年は体を翻して闇に消えた。
剣士は問答の意味を理解しなかったようだが、魔族が人に親切に教えてやる道理はない。
「どうして、そこまでして生きなきゃいけないんでしょう?」
「それは、生まれてきてしまったからよ」
――混沌への回帰。
それは終末であると同時に、解放でもある。
そして、絶望と希望の狭間。
END.
ゼロスによるリナ殺害のシーンは、とにかくめちゃくちゃにエグく書きたかったんですが、どうやら私にはこれが限界のようです…。これでもかなり自分を叱咤してがんばったんですけど、真性サドの魔族としてはまだまだヌルいですね…はい。いやこれ以上やったら倫理問題で年齢制限つけなきゃいけなくなる気がしますが(汗)。
私なりに、魔族と人間って組み合わせを一生懸命考えてみたお話です。楽しんでいただければよいのですが…って、楽しくないですね、この話、全然(><;)。
あああごめんなさい…今度ゼロリナを書く時は、なんとかダークじゃない話をひねり出すようにします……。
(09.07.03追記)
その後何度かゼロリナを書こうと試みているのですが、どう捻ってもこのお話にたどりついてしまいます。上手く描き切れたとは思えないんですけど。私の考えるゼロリナにとって、この話がある意味ハッピーエンドっていうか、トゥルーエンド?
ハッピーエンドは、相討ちになってどっちも死ぬことかもしれないな。今度それ書いてみるか? はっはっは(爆)。