最強の男 1 - 過去

 昔、伝説の光の剣をたずさえた勇者は、死闘の末、サイラーグの町を壊滅させた魔獣ザナッファーを倒したという。
 現代、彼の英雄譚は老人から子供に至るまであますことなく知られている。
 ただし人々は知らない。
 光の剣の英雄も、同じ人であったことを。
 英雄は妻を持ち、子供をもうけた。子供は長じて家庭を作り、さらに血をつなげた。
 人は、どんなに優れた人間の血を引こうとも、どんなに厳しい教育を受けようとも、必ずその始祖と同じように優れているわけではない。
 人々は英雄の末裔がどのようなものであるか知らなかった。
 だが末裔たちは、自分たちが英雄でないことを知っていた。
 そして、英雄でないそのことを悔しく思っていた。



「ガウリイーっ!」
 まだ幼い声が、怒ったようなやけっぱちのような声音で彼の名を呼ばわった。
 ばたばたとした足音が、足の下から頭の方へ向かって駆け抜けていく。
 屋上で日向ぼっこをしていたガウリイは、小さな体をすくめた。声の主は、仰向けに寝転がった彼のちょうど真下を走り抜けていったらしい。
 彼はひさしぎりぎりのところに体を横たえていた。少し家から距離を取ってみれば、屋根の上に登ってのんびり昼寝している彼がよく見えることだろう。
 そろそろと視線を動かす。
 ここに登ることを禁じられているのは、ガウリイにもよく分かっている。できればもっと奥の方へ逃げ込みたい。しかし、下手に動けば物音を立てる。
「ガウリイ! ガウリイ! さっさと出てこい!」
 声の主は相当いらだっているらしい。
 探し人がなかなか見つからないせいなのか、もともと何かに怒って彼を探していたのか、それは重要な問題だ。彼を発見できなくていらついているだけならよいが、そうでないなら今見つかるのは怖い。怒られるべき心当たりを数多く持つガウリイにとって、その賭けは分がよろしくなかった。
 あれだけ頭に血が上っていれば、わずかな音など気にすまい。ガウリイは決心してそっと体を起こした。
「そんなところに! またお前は!」
 今度の声は、よりはっきりと聞こえた。
 そろりと首を回す。
 庭先で、彼によく似た兄が眉を吊り上げていた。
 起き上がったのは大失敗だった。ガウリイは観念した。
 兄のぴりりとした緊張をやわらげるように、努めていつもどおり笑って見せる。
「あはは、見つかった。今降りるよ、兄ちゃん」
 しかし、兄の表情はちっとも優しくならなかった。
「見つかった、じゃないぞガウリイ。危ないから屋上に上がっちゃいけないって、母さんからも父さんからも使用人たちからも、何度も何度も言われてるだろ!?」
「えっと、そうだっけ? 忘れちゃった」
 もちろん彼は張り手を食らってまで言われた命令をちゃんと覚えていたが、そうでも言わないことには収まりがつかない。もしかしたらもっといい言い訳があるのかもしれないけれども、彼の小さな頭にはそれ以上のうまい言い逃れが思いつかなかった。
「まったく、お前ときたら」
 だが、母や父はともかく、兄に対してこの言い訳は効き目があった。
 いつもどおりため息をつき、兄は怒るのをやめた。
「早く降りてこいよ。こら、飛び降りるんじゃない!」
 言われた時にはもう、ガウリイの体は宙に舞っていた。
 まだ幼いガウリイにとって、2階のひさしは高い。体が落下する強い浮遊感があり、かなりの勢いで着地した。
 兄は顔をしかめる。しかし、ガウリイにとってはこのダイビングもそう難しいことではなかった。庭の砂を軽く舞い上げ、タイミングよく膝を曲げて大した痛みもなく地上に降り立つ。こういった軽業が、彼は何より得意だ。
「そういうことをするから怒られるんだ、お前は!」
「いやー気持ちいいんだよ?」
「そんなことを言ってるんじゃない」
「あれ、そうなの? 兄ちゃんもやってみればいいのに」
「だから……」
 言いかけた言葉を、兄は飲み込んだ。
「お前に怒るだけ馬鹿馬鹿しい」
 えへへ、と彼は笑った。
 彼らの家は広く、町の一区画を占領している。土壁が張り巡らされた土地はおおむね平らに見えた。平べったい家は大きすぎ、それを乗っけている庭はさらにずっと広い。確実にあるはずの凹凸は、土地の広さに散らばってないもののようにすら思えた。
 庭が殺風景であることも理由の1つかもしれない。彼らの父は華美を好まないし、そもそもこの国にはあまりごてごてと物を置く習慣がない。庭には一面の砂地が広がっていた。それが美しく見えるのは、そこが毎日使用人たちによって綺麗にならされているからだろう。
 同じ砂地であっても、町の中はこうではない。むきだしの道路は行き交う行商人たちのロバででこぼこになり、道端には他人の軒先を借りる浮浪者たちがたむろしている。照りつける太陽が厳しいために、外へ物を出す習慣もない。
 土の色一色に染まった町は、遠くから見れば美しいものかもしれない。しかし、そこには生活の苦吟が充満していた。
 たとえば、彼らの住むガブリエフ家のような場所を除いて。
「母さんが呼んでる」
 兄は、やっと用件だったらしいことを告げた。
「ふーん」
 玄関に向かい、兄はガウリイに背を向ける。
「先生から手紙が届いたんだ。きっとこの間の試合のことだぞ」
 ガウリイは頭をかいた。
 先生とは、彼らの家庭教師のことである。勉強も見るが、どちらかといえば彼らのお目付け役のようなものだ。
 数日前、ガウリイたちは彼に連れられて町の催しに参加した。その時の報告書が母の手に渡ったということだろう。
「それともお前、何か先生に告げ口されるような悪さをしたのか?」
「してないよ」
 わずかにむっとして、ガウリイは言い返した。
 兄は何かというとガウリイが問題を起こすと決め付ける。確かに、ガウリイが兄ほど品行方正でないことは事実だ。だが、問題児というほどのものではないと、自分では思っている。
「どうだか。怒られるなら、1人で怒られろよ。お兄ちゃんの責任でしょ、ってのはもうごめんだからな」
「オレ、兄ちゃんのせいにしたりしないよ」
「だって、いっつも俺のせいってことになるだろ!」
「そんなの母さんが勝手に言うんじゃないか!」
 そう言った途端、兄の顔がひときわ険しくなった。
「弟のくせに口答えするなよ!」
 ガウリイは口をつぐんだ。
 2人はその後ずっと口をきかず、むっつりとして家族の居間に向かった。
 母はたいていそこで本を読んでいる。
 彼らが居間の入り口をくぐった時にも、彼女はそうしていた。
 長い金髪を一筋の乱れもなく結い上げ、細い足を両方ともほとんど同じ角度で曲げて、ゆったりとソファに腰かけている。
 本人はくつろいでいるつもりらしいが、ガウリイはいつも彼女の姿に息苦しさのようなものを感じる。ガウリイにしてみれば、休むというのは禁じられた屋上で誰にも邪魔されず昼寝をするようなことだ。暑苦しい風に焼かれながら雲を目で追うようなことだ。
 いつでも整えられた姿を崩さない母は、彼にとって立派すぎるものだった。
「遅かったわね」
 責めるでもなく微笑むでもなくそう言うと、母はしおりを挟んで本を閉じた。本の頭から飛び出しているしおりの長さは、いつも同じだ。
「ガウリイが、また屋上にいたんだ」
 ガウリイは兄の背中をにらんだ。
 兄の背中は弟の視線などものともせず、告げ口の罪悪感もなく言い募った。
「あれだけ怒られたんだから、もうあそこにはいないと思ったんだよ。他の場所を探してたら、なかなか見つけられなかった」
「言い訳はいいわ」
 母はぴしゃりと言った。
 それからガウリイの方を向き、無表情だった顔に困ったような色を浮かべた。
「ガウリイ、勇敢なのはいいことだけど、お父さんの言いつけは守らなくてはダメよ。あそこは危ないの。もしものことがあったら大変でしょう」
 幼いガウリイには『もしものこと』が具体的にどういうものかは分からなかったが、何となく自分が危ない目に会うことを指しているのは知っていた。
 こういう時にどう答えればいいかも知っている。
「はい、母さん」
 兄は険しい顔で振り向いた。
「返事だけはいいんだ。ガウリイは馬鹿だから、どうせすぐ忘れるよ」
「お兄ちゃん。弟に何てことを言うの」
 母の顔もまた険しくなる。
「だって本当のことじゃないか! 母さんはいっつもガウリイをひいきするんだ」
「何ですって。そんなわけないでしょう」
「本当、だもん……」
「もしもそうだとしたら、あなたがお兄ちゃんのくせにそんなことを言うからよ」
 ガウリイは、こういう時に取る態度も知っていた。
「ひいきって何だ?」
 あっけらかんと言うと、母の顔はやわらぐ。
 兄がガウリイをにらむのもおしまいになる。
「ったくお前は、そんなことも知らないのかよ」
「オレ馬鹿だからなぁ」
「自分のことを馬鹿なんて言うのはおよしなさい」
 母は一応たしなめるが、その調子はけして強くない。
「さあ、怒るのはこのくらいにしておきましょうか。今日はあなたたちを褒めるために呼んだんだからね」
 兄弟は顔を見合わせた。
 どうやら、やはり試合のことらしい。その件に関してなら、兄弟には母から褒め言葉をもらう理由があった。
「先生から試合のことを聞いたわ。お兄ちゃんは年少の部で優勝したそうね」
 兄はわずかに背中を伸ばした。胸を張ったらしい。
「お父さんもあなたくらいの年には毎年優勝していたわ」
「何度も聞いたよ。上の組に移る12歳まで、3回も続けて優勝したんでしょう」
「ええ。ガブリエフ家は光の剣の勇者の子孫なんですからね、やってできないはずはないのよ。あなたも去年は惜しいことをしたけれど、今年はよくやったわね。お父さんも喜ぶわ」
「喜んでくれるかな?」
「もちろんよ。来年もがんばってちょうだい。光の剣の勇者も大したことないなんて、お母さんは聞きたくありませんからね」
「はい、がんばります」
「それから、ガウリイ」
 母が向き直ったので、ガウリイは居心地の悪い思いをした。
 母の顔は兄に向けたものよりずっと輝いていたからである。
「あなたは本当に立派だったわ。お兄ちゃんより4歳も下なのに、決勝戦までいったんですって?」
「勝ったのは俺だけどね」
 兄が口を挟んだが、母は肩をすくめただけだった。
「それは当然でしょう。お兄ちゃんなんだから」
 ガウリイはますます居心地が悪くなった。
 せっかく止まった兄のにらみが、また彼の上に注がれていた。
「ガウリイ、史上最年少のファイナリストなんじゃないかって、先生がとっても喜んでらしたわ。早くお父さんに教えなきゃね。光の剣の継承者はお前だって、きっとまた大騒ぎよ」
「ふぅん、そうなの?」
 いつも居間の奥にかざってある古びた剣のことなど、彼はどうでもよかった。
 問題は兄の視線だ。
「やはり勇者の子孫の才能なのかしらね。あなたの剣術の伸びは目覚しいものがあるわ。みんな期待しているわよ」
 言いながら、いつの間にか母の視線はガウリイではなく剣に注がれていた。
 ガウリイは立ち尽くしていた。
「あなたもいずれ勇者様のようになって、お母さんを喜ばせてちょうだいね」
「うん、オレいつか勇者様になるよ」
「そう」
 母は幸福そうに微笑んだ。
 ガウリイは困り果てて頭をかいた。
「ところで、光の剣の勇者様って、どんなことをするんだっけ?」
「あら、もうこの子は!」
 母はやっと振り向いて、呆れたように笑う。
「お前、そんなことで勇者様になれるのかよ」
 兄も呆れた顔になった。
「うーん、ダメかな?」
「ダメだよ、全然ダメだ。剣ばっかりできても勇者様にはなれないんだ」
「ふーん、そういうもんか」
 母は微笑んだまま、兄の頭をなでた。
「お兄ちゃん、困った弟を助けてあげなきゃね」
 兄は大きくうなずいた。
「もちろん! こいつは1人じゃ何にもできないんだから」
「兄ちゃん、ひどいなあ」
 家族は笑いあった。
 ガウリイの小さな胸に、安心がやってきた。

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